第48話 奧海桜子の選択
あの頃のキミ 今の私
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世界が美しいモノばかりではないと気が付いたのはいつの頃だっただろうか。
それは小学生の時にクラスメイトの男の子から『名前が呼びづらい』と言われた時だったか、それとも、中学の時のクラスメイトの女の子に背が高くて疎ましいと嫌われていた時だったか。
それは別にどちらでも良かったし、もっと言えばそのどちらでなくても良かった事で、時期や理由、切っ掛けやタイミングなんてこの際関係の無い事なのだと、中学を卒業する時には如何でも良くなっていた。
別に悲観していた訳でもない。
ただただ単純に、世界は『そういうもの』なのだとなんとなく認識して、その中で如何にか美しいモノや綺麗なモノに触れていたくて、映画を観たり、演劇を観たり、小説を読んだり、音楽を聴いた。
その内の幾つが手を伸ばせば届くモノだっただろうか。
掴み取れるモノもあった気がするし、視界に入れるだけがやっとだったモノもあった気がするし、微かに指先で触れるだけで精一杯だったモノもあったかも知れない。
今朝、沙耶と一緒に少しだけ足を止めて、駅前の自販機で買ったココアを二人で分けあって飲んだ。マフラーと手袋、厚手のコートでモコモコに着膨れした沙耶が鼻の頭と頬を赤くして『温かいね』と言うので、私にはそれが愛おしくて愛おしくて堪らなかった。
会場に着いて、受験番号で割り当てられた部屋は別々で、別れ際に沙耶は胸の前で拳を二つ握り締め、『頑張ろうね!』と、そうやって破顔し、私を激高してくれる。
『頑張ってね』ではなく、『頑張ろうね』という言葉。
本当は知っているんだ。
沙耶はもう推薦で白海坂の大学へ進学が決まっている。
言ってしまえば沙耶は記念受験だ。
けれど、それが私の気に障る事は無かった。
私は沙耶がずっと頑張っていたのを知っているし、私は沙耶がずっと頑張っているのを知っているから。
ベルが鳴り、選択肢を埋め、ベルが鳴り、解答が回収され、少しの休憩の後、またベルが鳴る。
自信はある。
今日までの沙耶との過ごしてきたナニカが思い起こされ、それを発揮する場所が昨日今日とのこの場所であり、なにより、この場所には今沙耶が居る。
沙耶に教えてもらった文法。
沙耶と覚えた単語。
沙耶が苦戦していた数式。
沙耶の好きなケーキ。
沙耶は、コーヒーが苦手だった。
…………。
……例えば、私がここで我を通して、志望校を求める事に、重要な意味などあるのだろうか? ……勿論、白海坂は第二志望にしてある。第一志望に『運悪く』落ちれば、私は白海坂に残る事となって、また、四年間、今日までと同じ様に沙耶と共に過ごす毎日を手に入れる事が出来る。
花見坂上、沙耶……。
花見坂上さん。
沙耶さん。
沙耶ちゃん。
沙耶。
正直に話す事。隠す必要のない事。言うべきじゃない事。タイミングを選ぶ必要のある内容。傷付けない為の嘘。自分の為のエゴ。
全部を言う必要なんて無いし、なにもかもを受け入れてもらえるとも思っていない。
沙耶は、私がなんでも正直に、全部を晒して、包み隠さず、そういう風に。
何故だかこの、先を選択する為の緊張しかないこの場所で、そんな彼女との事ばかりが透き通っていた。秒針の刻む音や、マークを付けるペン先の音や、そういう微かな音が私の為にあるみたいで、静寂はクリアな思考に冷静な選択をさせていて、解答に悩む事もあまりなくて、その全ては沙耶のおかげで、そして、私は彼女との日々に嘘を吐く事が出来ないから、意図した誤答を選ぶなんて事が出来ない。
センター試験には確かな手応えがあった。
きっと私は、第一志望の大学に進学する。
会場の出口で待ってくれていた彼女は私に気が付くと大きく手を上げて応えてくれる。
肩口までの綺麗な黒髪に、小柄な体躯。
細い手足に、大きな瞳。
そして、病的な風に白い肌の中で、唇だけが、際立って紅い。
あの頃からあまり容姿の変わっていない彼女。
だけど、きっと、どうせ私は、中身があまり変わっていない。
言える事と言えない事。
嘘は無い。
それでも、隠している事は、ある。
世界が美しいモノばかりではないと気が付いたのは、いつ頃だったか覚えていない。
しかし、世界にも美しいモノがあると気付かされたのは、白海坂で彼女に出会ってからだ。
沙耶は可愛い。
沙耶の事が好きだ。
私は、沙耶に隠している事がある。
それをいつ彼女に伝えられるかは、まだわからない。




