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第46話 花見坂上沙耶の理由~中編



 甘いココアと苦いコーヒー



 ◆ ◆ ◆



「正直に言うとね、私は、サヤちゃんには行って欲しくない……」

「……『行って欲しくない』って、何処に?」

「……ライトオレンジ」


 桃ちゃんの言いに、私は内側で湧き上がった動揺を上手に隠せなかった。

 目が一度二度と泳ぎ、指先が微かに震え、感じる筈の無い苦みで舌が『ピリッ』と痺れる。

 どう言葉を返せば良いのかが曖昧だった。

 放課後。

 一足先に帰る段取り。

 下駄箱で履き替えた上靴とローファー。

 そこで、桃ちゃんにブレザーの裾を引かれた。

 肌寒くなった十一月の風の筈なのに、緩く巻いたマフラーが熱くて暑くて煩わしい。平常を装いながらも呼吸は短いのが自分で分かっていて、それが桃ちゃんにも気付かれているのだとなんとなく悟る。

 この週末の太陽光は、私にとって眩しいが過ぎた……。


「……なんで、そう思うの?」


 バレているとかいないとか、知っているとかいないとか、きっとそういう事ではないと思った。桃ちゃんは私のお友達で、桃ちゃんはいつも元気で、誰にでも優しくて気も回せる子だから、きっと、私の事も気遣っている。詳しい事は知らないし、聞いていない。けれど、想像は出来たしきっとこういう事があったのだろうという予測は容易だった。私も春真ちゃんそれをも聞かないだけ。桃ちゃんも、それを言わないだけ……。

 この白海坂という場所で、私が最上級生になって半年。そして、桃ちゃんと三月場さんが二度目の第二学年を始めて、半年。

 黒宮桃。

 彼女の首元にはピンク色のリボンが結ばれている。


「……あの、上手く言えないんだけどね。なんとなく分かるんだ。……やっぱり。サヤちゃんともハルちゃんとも、もう五年も一緒に居るから」

「…………そっか」

「あんなところ行かなくても、サヤちゃんは大丈夫だよ……」


 桃ちゃんは少しだけ顔を俯けた。

 それは申し訳なさそうに、そして、私が心配だという様に。

 白海坂女学園中等部。

 不安でグラグラと足場の定まらない新しい生活の中で、声を掛けてくれたのは春真ちゃんと桃ちゃんだった。

 そうして今日までの大体五年間。

 私は高等部で桜子に出会った。春真ちゃんは殻梨さんに、桃ちゃんは三月場さんに。

 だけど、きっと一番手を取り合って、長い事一緒に遊んで、悩んで、歩いてきたのは、桃ちゃんであり春真ちゃんなんだ。


「心配してくれてるんだね?」

「……そうだよ、友達だもん」

「えへっ、嬉しい……」


 私達のよく知るライトオレンジ『ではない』あの場所。

『順序』と、そして『好感度』と。

 きっと桃ちゃんは、私達の『知らない』ライトオレンジに行っていて、だからこうして、私の事を心配してくれている。

 握った桃ちゃんの手の平は熱くて、私の手の平は冷たい。それが確かな事としての実感があるならば、まだ、私は大丈夫だから。


「桃ちゃんは、ライトオレンジで何をお願いしたの?」


 問うけれど、桃ちゃんは首を横へと振る。真一文字に引き結ばれた口元は彼女の意思表示であり、それが桃ちゃん自身によるものなのかライトオレンジでの『朧扉』による制約かを判ずる事は出来なかったけれど、それでも、私は自らの意思で笑顔を浮かべる事が出来た。


「桃ちゃん、あのね? 私は大丈夫だから。絶対」


 たったそれだけの言葉で、全部を納得してもらえるとは思っていない。桃ちゃんがライトオレンジで何を要求されたのか、何を差し出したのか、何を縛られたのか、私にはそれだってやはり検討も付かないのだから。それでも、私は自分で決めたし、そうする事を自身に課した。誰かに言われて止めるのなら、こんな考えにたどり着いていない。


「また来週、桃ちゃん」


 我が儘なのは分かってる。大切な友人が引き留めるのを私は振り払った事になるのだから。握った手を放し、そうやって言った別れ際。必死に笑顔を浮かべている桃ちゃんを、私は傷付けた事になるのだろうか……。



 ◆ ◆ ◆



「貴女の大切な桜子ちゃんは、貴女がここに来ている事を知っているのかしら?」

「いいえ。桜子は今頃、きっと図書館で勉強をしている筈です」

「『きっと』? 『筈』?」

「……そうですよ」


 含みのある朧さんの言い方。微かに歪む口元。瞳の奥にある色が何色なのか私には分からなかった。空や海の様に青いのか、宇宙みたいに深く黒いのか、霧の様に薄く白いのか、それともはたまた、虹色に揺らめくのか。


「『きっと』とか『筈』とか、貴女はそんな曖昧な人の為にここまで来たの?」

「そうですよ。何か問題がありますか?」


 私は怯まないし、彼女を恐れない。

 それでも、内臓を直に掻き回されるのにも似た感覚が気持ち悪かった。真っ直ぐな視線に射殺される様な恐怖と、獲物としてしか見られていない立ち位置。子供の頃、私はクモの巣に絡め捕られたモンシロチョウを助けてあげる事が出来なかった。もし仮に、あの時私があの蝶を助けてあげていたとしたら、こんななにもかも見透かされている現状に欠片程でも確かな心を保てたかも知れないというのに……。


「あら、随分と弱気なのね」

「……なにせ初めての経験なので」

「可哀そうに。こんなところに来なければ泣いて許しを請う様な経験もせずに済んだのにね」

「…………」


「脅しですか?」問うと、朧さんはさも当然の様に、そして簡単に「冗談よ」と綺麗な笑みで答えた。

 その微笑みは、一体誰に向けてのものだろうか……?

 射殺す様な瞳は、強者が放つ種の威圧は、一体何の為のものだろうか……?


「……朧さんは、私の望むその桜子との幸せに、一体何を課するのでしょうか?」


 噂に聞く都市伝説としてのライトオレンジという場所。

 いつ頃からか、誰が発端なのか。

 細かい名称なんかに差異はあるけれど、それでも、きっと何処の学校の女の子でもそれを知っている。

『喫茶店の魔女』

『喫茶店の悪魔』

『喫茶店の神様』

 呼び方なんてそれぞれだ。

 願いを叶えてくれるその対価として、彼女は法外な何かを取っていくらしい。彼女は予期すらしない枷を嵌めてくるらしい。


「なんにも取らないよ」

「へ?」


 崩した座り位置からカウンターに肘をついて手の甲で顎を受けた朧さんは、私の問いに予想もしていなかった答えを返した。拍子抜けというかなんというか、その答えは、聞いていたものと相違があったんだ。


「何で、なにも取らないんですか……?」

「それは貴女決める事じゃなくて私が決める事だからよ?」


 気味の悪い説得力が皮膚の上を這って歩いた。

 この場所での全てのルールが朧扉という人によって形作られ、朧扉という人を中心に回っているという事を改めて思い知らされる。

『なにも取らない』

 朧さんはそう言った。

 それをそのままの意味で受け取ろうなんておこがましい考えを私は持ち合わせていない。ぬか喜びは、きっとこの場で致命的になる。

 私が何も言わないでいると、朧さんは鼻から息を抜き、片眉をクッと上げて言いを吐いた。

 半分ほど残ったハーブティ。

 大分と冷たくなってしまい、唇に触れてももう些細な温もりも感じなかった。


「貴女の望む『桜子ちゃんとの幸せ』ってのは、如何いう事を指すのかしら?」

「……それは、答えなければならない事でしょうか?」

「答えても答えなくても良いわよ。だけど、貴女はもうこの場所が如何いう場所で、この場所では私が如何いう存在で、私がどれだけの力を持っているかを理解している筈よ。私は貴女達の知らない朧扉。ここはみんなの保健室ではないわ」

 私はジャバウォッキー。

 私はバンダースナッチ。

 私はチェシャキャットだと思う?

「貴女は桜子ちゃんにとってのジョバンニ? それともカムパネルラ?」


 私は……。


「……奧海桜子という人の前なら、私は、……我が儘になれます」

「貴女は我が儘が言いたいという事?」


 それには首を横へと振ってハッキリと否定の意を示した。

 朧さんは自身をジャバウォッキーでありバンダースナッチだと言うけれど、今は聞く側に徹してくれる様に思える。それは朧さんがただ私の答えだけを望んでいるからだとも見受けられるけれど、それでも今、私の言いを待ち言葉を聞いてくれる朧さんは、私の知っている白海坂の朧先生の様にみえた。


「桜子は、私の為に一生懸命で、私の為にいつも考えてくれているんです。私に優しくて、私の事を好いてくれているんです」

「それで?」

「夏休みが明けて、桜子は進学する大学を決めたと言いました。そこは白海坂じゃなくて、白海坂からとても遠い場所で、私は、その桜子の決断が嬉しかったけれど、本当は、『嫌だ』って、『行かないで』って、そうやって言いたかったんです」

「それで?」

「私は、桜子の足枷になりたくない。……だけど、桜子と離れたくないんです」

「つまり、貴女の桜子さんとの幸せは、『桜子さんを白海坂に引き留める』という事?」

「……違います」

「それじゃあ、貴女を『桜子さんと同じ大学に進学する』という事?」

「……それも、違います」


 首を横に振る。

 もう一度、首を横に振る。

 二度の否定。それでも、朧さんは私の続く言いを待ってくれた。

 カウンターにはいつの間にか温かいココアを差し出されていて、朧さんも自身にコーヒーを淹れている。

 頂いたココア。

 口を付けると、それはいつも通りに甘かった。

 装飾の綺麗なカップに小豆色のココア。その水面に映る自分の表情が、視線が、何処か現実を見ていない様に思えた。我が儘が言いたい訳じゃあない。だけど、私は今自身の我が儘を通す為にここに居る。


「……分からないんです」


 朧さんは笑わなかったし、視線をこちらに向けようともしなかった。朧さんの視線は、ただただ手にしたコーヒーに注がれている。きっとそこに映る朧さんの表情は、私の様な不安の色など微塵も浮かんでいないのだろう。

 私は言葉を続ける。

 自分自身の為に。


「……桜子と幸せになりたいって、そういう漠然とした望みはあるのに、具体的ななにかが、私には何も思い浮かばないんです……。エゴみたいな我が儘を押し付けるのが嫌な癖に……」


 幸せが如何いうものか分からないと、そういう訳じゃあない。発して言葉にした通り漠然としたヴィジョンはある。……けれど、そこへ行き付くまでに必要な何かが、明確な何かが、私には想像が出来なかった。

 白海坂にはもう六年も居る。そして、大学に進学すれはきっと十年にもなる。

 だけど、桜子に出会ったのは高等部の初め。

 桜子の居なかった初めの三年。桜子と共にした三年。そして、これから来る桜子の居ない四年。


「怖いのね?」

「……そうです」

「不安なのね?」

「…………そうです」


 きっと『失わない』や『依存』が『幸せ』と混同視されている。馬鹿馬鹿しいとは思うしそんなものは間違っていると思うんだ。それなのに、私はそれをやめる事が出来ないし手放す事も出来ないでいた。

 奧海桜子。

 彼女の事が好きなのに、縛り付けたくないのに、足枷になりたくないのに、そんな事で恐怖や不安を抱えて子供みたいに膝を抱えて一人寂しく泣こうとしている。そして、それを桜子に見付けてもらおうとしている。姑息で卑怯だ。私は最低だ。


「……私に、桜子との幸せを下さい。……なんでもします。……なんでも差し上げます。だから如何か、お願いします……」


「嫌よ」


「……へ」


「貴女の願いは叶えない。故に何も取らない。枷も嵌めない。文句は何も、言わせない」


 …………。

 朧さんは詰まらなそうに笑う。

『詰まらなそう』に『笑う』とはなんともおかしな表現だったけれど、私にはソレをそう表すしかなかった。

 汗ばむ手の平。

 震える声と身体。

 話が——。


「……話がちがう」

「違う事なんて無いわ。私にとってはね。百回説明が必要なら百回説明をするけれどここでは私がルールなの。私の気に食わない事私の面白くない事私の興味を引けない事私の利にならない事、その全てがこの場所では意味を成さないし必要とされないわ。貴女の望みは私にとって気に食わない、面白くない、興味を引かない、利にならない。故に貴女の望みを願いを私は叶えない。簡単な理屈でしょ」


 泣くの?

 問われるけれど、私は目元を拭った。

 涙を拭った。

 それは私の意思表示だったけれど、朧さんに、何を訴えれば良いのかが、やっぱり分からなかった……。


「……桜子の事が好きなんです」

「知ってるわ」

「……桜子も、私を好いてくれているんです」

「それも知ってる」

「……好きなだけじゃ、ダメなんでしょうか……?」

「良いと思うわ。私は」


 だけどね。

 朧さんは言う。

 追言する。

 口調は優しく、高も低もなく、ただただ私に言い聞かせる様に。ある種親身になのか、それとも機械的になのか、朧さんは時折体制を変えながら、視線を交え、逸らしながら、そうやって、朧さんは言う。


「好きとか嫌いとかね、私はどちらでも良いし、私の事じゃないから言ってしまえば如何でも良いの。それに、貴女の言う『漠然とした幸せ』っていう価値観や幸福感に共感する部分もあるし、具体的な何かが見付けられないという不安も分からないでもない。高々十代そこそこって年齢で本当の愛を見付けたって私は良いと思うし、それが幻想だったとしても信じて疑わなければ滑稽でも何でもないわ。目の前の快楽に溺れても、たとえそれが汚れた愛情だったとしても、きっとそれは『偽り』ではないわ。それでもね、今が幸せだったら尚更、高校は卒業するし、大学には進学するし、就職もするし、その先もあるの。ずっと相思で相愛ならそれが貴女と桜子さんの『幸せ』で良いじゃない。今の貴女の望みは『当てのない感情を何処かで確かにしたい』というもの。確かな事なんて少ないけど、それは貴女にとっての『奧海桜子』だけで良いじゃない。それでも信じられる事が欲しいなら、彼女と一緒に他人と違う事をして優越感に浸ってみるのも良いんじゃないの?」


 ……それが、何かの答えなんですか?

 問うと、朧さんは「こんなもん選択肢に過ぎないわ」と言い放ち、「答えが欲しかったら聖書でも読みなさい」と肩を竦めた。


「私のお願いは、叶えてくれないんですね」

「そうよ。叶えないし、何も取らない。枷も嵌めない。さっき言った通りにね」

「本当に、ですか……?」

「本当よ。何度聞かれても変わらない」


 …………。






「……気付いてたんですか?」






「当たり前でしょ。私は『朧扉』よ」






 …………あぁ。

 ……不安が解けたら、一瞬で身体の震えが大きくなった。

 ……恐怖が消えたら、流れる涙を抑えられなくなった。


「……ぅっ、あぁ……、っふぅぁあ……ぁああ…………」


 涙も、すする鼻も、しゃくる喉も、全部が止められなかった。

 怖かった。不安だった。お願いが叶えられてしまうという恐怖に耐えられなかった。

そして、安心したらもう全部が堰き止められなかった。


「こんな事しなくても、貴女が彼女を好いている気持ちはちゃんと本物だよ」

「……はい」

「心配ない心配ない。誰が特別でも良いの。誰を好いても良いの」

「……はい」

「だからさ、こんなとこで泣かないで、ちゃんと彼女に泣き付きなさいな」

「……ッ、はい……ッ!」


 コーヒー飲んでく?

 首肯すると、ハーブティーとココアのカップが下げられ、コーヒーの淹れられたカップを代わりに出された。

 その黒々とした水面に映る自身の顔は涙でくちゃくちゃになっていたけれど、さっきのココアに映ったものよりは幾倍もマシに思えた。


「……苦いですよコレ」

 言うと、朧さんは可笑しそうにクシャリと顔を破顔させ、「当たり前でしょ」と大きく笑って見せた。






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