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第45話 花見坂上沙耶の理由〜前編


 ここに居る訳



◆ ◆ ◆



「夏休みは楽しかった?」

 問われ、私は短く「はい」と答えた。


 新学期の初日は快晴から始まり、担任の先生は『受験も近いから気を引き締めて』とみんなもう分かり切っている事を再度念押しする様に発破を掛けてくる。授業はセンター試験を見据えたものになってきて、休み時間の間も参考書を開く子が増えてきて、お昼ご飯の時間も単語帳を手放さない子ですらチラリホラリと出てきた。春真ちゃんは時間さえあれば殻梨さんと美術室に籠り、桃ちゃんは三月場さんと一学年、二学年時の範囲を出来るだけ復習する様にしていると言う。

 そして、私もまた、空いた時間を桜子と共に過ごしていた。互いに文系の専攻でセンターを受けるので、英語と国語を中心に放課後の毎日を送っている。たまにみんなで集まってご飯を食べに行ったりするけれど、話す内容は七割方が勉強の話だ。それでも、みんなと話すのは楽しいし、躓いてる部分を共有出来るのは助かるし、桜子と一緒に居られるのは嬉しかった。

 だから、この十一月も中頃に差し掛かったこの日。『夏休みは楽しかったか?』と問われたのには、少しばかりの違和を感じたし、それなのにも関わらずすんなりと『はい』という返事が出てきたのもなんだか可笑しかった。

 日曜日。

 図書館で勉強しようと言う桜子の誘いを断り、私がここに居るのには、きっと理由がある。

 それは自分で分かっている。

 少しだけ十一月特有の雲が回遊する午後三時。

 完全に冷たくなった風は、もうすっかり秋が終わった事を私に知らしめた。


「今日のおススメはねぇ、柿のタルトとハーブティー」


「コーヒー以外も出すんですね?」


 カウンター席に着き、手袋、マフラー、コートの順に厚着を解いていくと、「たまにね」という薄笑みを孕んだ言葉が帰ってきた。

 調度品は、何一つ変わった様子が無い。

 アンティーク調の椅子にテーブル。淡いオレンジ色の光を放つランプ。四言語の新聞が差さっているかと思いきや絵本や雑誌も置いてあるマガジンラック。そして、ピカピカに磨き上げられたカップとソーサー。いつもと何か違う点を探すとすれば、まだお昼の三時という時間帯だというのに窓の外は暗く、店内には私の他に殆どお客さんが居ないという事。普段みんなと来る時は空いている時でもテーブル席が二つ三つ埋まっているのに、今は奥の方のテーブルでお爺さんお婆さんの老夫妻が一組居るだけ。

 そして、もう一つ。

 正面のカウンター内で、腰に手を置き立ち居を崩すこの人は、いつ来てもお店に居ないのに、こういう時には、ちゃんと居てくれる人。


「ま、こういう時にしか居ないんだけど」


 朧さんはそう言って、やはり薄く笑む。

 喫茶店『ライトオレンジ』

 冷蔵ショーケースから出された柿のタルト。それと、淹れ方を熟知しているのだろうハーブティー。両の手の平を合わせ、「いただきます」と一つ言いを発してから、私は銀のフォークでタルトを食んだ。


「どう? 美味しい?」


「えぇ、美味しいです。とても。……あと、ハーブティーなんですけど」


「ん?」


「私ハーブティーって飲んだ事なくて、如何すれば良いんですか?」


 言葉が足りなかったかも知れないけれど、朧さんはそれだけで私の胸中を汲んでくれた。あぁはいはいと言った様に綺麗に纏めた背中まである長いポニーテールを手の甲ですくい、前傾になってカウンターに両肘をつく。


「大丈夫よ。好きに飲みゃあ良いの。砂糖でもミルクでも、なにも入れないストレートでも。大統領がいる訳じゃなし、なんかの面接である訳じゃなし、貴族の会食でもないし。それが少し間違ってたところで貴女を嫌いになる人なんて居ないから大丈夫よ」


 今のところね。

 朧さんはそうやって付け加え、両の口端をこれでもかという程に釣り上げて口元に弧の字を描く。その様相は、子供の頃に読んだ『不思議の国のアリス』に出てくるチェシャキャットを私に思い出させた。


「っふふ、嬉しいわね。アリスだったら私大体ジャバウォッキーかバンダースナッチで例えられるのよ?」


「……すみません、私そのジャバウォッキーとバンダースナッチが分からないです」


「ありゃ、鏡の国もとても良いお話だから是非読んでみて。機会があれば」


「えぇ、受験が終わった後にでも」


 結局、ハーブティーはストレートで頂く事にした。いつも頂くコーヒーやココアとはまた違った温かさ。そう言えば、一年生の時までは私も桃ちゃんもコーヒーがあまり得意じゃあなかったけど、ライトオレンジのコーヒーはいつの間にか美味しく飲めるようになっている。年齢が上がるにつれて味覚は少しずつ変化しているのか、もしくは、ライトオレンジのコーヒーが特別なのか。判断は出来ないけれど、前者だったら少しだけ私は嬉しいと思う。

 柿のタルトは美味しかったし、ハーブティーも美味しかった。

 その間朧さんはカウンターの向こう側でニコニコと楽しそうに笑んでいて、少しだけ話をして、その中で夏休みの話なんかもした。勿論だけれど夏休み中は朧さんと会う機会なんて微塵も無かったし、二学期が始まっても保健室なんて行く機会はそうそう無かったから。普段の学校生活の話とか、これからの受験に向けての話とか、夏休みの話とか。他愛の無い様な、そんな話。


「それで、貴女はどうやってここを知ったの?」


 だから、タルトを食べ終え、ハーブティーの半分ほどを残したところで発された朧さんのその問いは、私にとって意外なモノではあった。


「誰からここの事を聞いたの? 何でここに来たの?」


「ここに来た経緯は如何でも良いと聞いてました」


「人によっては、だね」


 朧さんは自身の分のコーヒーを淹れ、一口分を飲み下す。そうしてカウンター内にあるであろう椅子へとラフに腰を下ろし、私と目線の高さを合わせてきた。

 朧さんは言いを続ける。


「人によって幸せなんてそれぞれだと思うわよ、確かに。私はそれを知っているし分かっているわ。何が欲しいとか、願いを叶えたいとか、何かを成し遂げたいとか、根底にあるその人にとっての大切なモノはそれぞれで良いと思ってる。だからこそ私は見返りがあれば何でも与えるし、なんでも叶えるし、なんでも成し遂げる為の手助けをするわ。それをある程度なら理解もしてあげたい。だからこそ真実の愛でもお金でも何でもなんでも与えてあげるの。私にとっての見返りがあれば、ね」


 だけど貴女。


「貴女にとって、ここに来る必要って何かあるの?」


 だから知りたいのよ。


「貴女がどうやってここを知ったのか、誰からここを聞いたのか、何故ここに来たのか」


 朧さんの口元からも、目からも、先程までの笑みは失われていた。

 真剣な素面というか、本当にソレが不思議で堪らないといった様な表情と仕草。頬に手の平を当て、首を傾げ、座る姿勢から脚を組んでいるのも分かる。


「貴女にとっての白兎はだれ?」


「……切っ掛けは、桃ちゃんです」


「あぁ、黒宮さんね」


「桃ちゃん、『黒宮』って言うと怒りませんでした?」


「さぁ、如何だろう。ただ、ここは私の店で、ここでは私が店主だから」


 その朧さんの言葉には何故だか妙な説得力があり、私を納得させるのに十分な何かがあった。嫌な重苦しさではないけれど、体感として受ける圧力や空気の循環する速度。そういったものがほんの少しだけ上がった気がした。


「……桃ちゃんが白兎なら、私がアリスになっちゃいますよ」


「そう。だから私は貴女にとってのジャバウォッキーであり、バンダースナッチなの」


「ジャバウォッキーやバンダースナッチは良い人ですか? それとも悪い人ですか?」


「さぁ? それは受験後にでも分かるんじゃない? 貴女が鏡の国を読めばの話だけれど」


「教えてはくれないんですね」


「本は自分で読むから感動するのよ。人伝で聞いた話から教訓を得辛かったり面白い話と前振りされたのにも関わらず一つも面白くなかったってのと同じ。『百聞は一見に如かず』の『一見目』が最も重要になるが『読書』や『鑑賞』という行為よね。貴女もそう思わない?」


 促され、私は口を開かないまま一度首肯する事でその問いに肯定を示した。

 私は『不思議の国のアリス』しか知らない。

 私は『鏡の国のアリス』を、まだ知らない。

「だからね——」言って、朧さんは片側だけの口端を上げて見せた。

 その行為にどんな意味があるのかは分からない。

 だけど如何だろう。そのある種無機質の様にも見える片側の口角だけを上げた笑みの表情が、何故だか私に朧さんの言う『ジャバウォッキー』や『バンダースナッチ』を連想させた。

 だから、それは詰まり、そういう事なのだろうと思った……。


「貴女の発する『一聞』は、私の『一見』足りえるのかしら? 私にそれを証明できる? 納得させる事ができる?」






 私に、見返りを求めさせる程の何か力があると思う?






 …………。


 ……私は。


「……私は、桜子との幸せが欲しいです」






 言うけれど、朧さんは私のエゴに、至極つまらなそうな表情を浮かべた。












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