第43話 花見坂上沙耶の普通
次の夏まで。
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三年目の桜ももう緑色の割合を多くしてきて、いつの間にか昼時の気温が先週よりも少し暖かく感じる様になってきた五月の終わり。
桜子は「少し遠くに出掛けてみない?」と、私にそうやって問うてきた。
春真ちゃんや桃ちゃんとお昼ご飯を食べる事もあるけれど、最近は桜子との時間が増えてきている。
登校、お昼ご飯、帰り道。そういう時間がいつまでもこれから先もずっと続くとは思っていない。……いや、続けば良いなとは思うけれど、それだって所詮は『願望』の様なものだ。あと一年もしない内に私達は白海坂を卒業するし、そうしたら其々で違う大学に進学する事もある。
私はそのまま白海坂の大学に進学するけれど、春真ちゃんは美術大学に行くし、桃ちゃんはもう一年高等部に残るし、桜子は、他所の大学を受験する。
楽しい事ばかりが続けば良いなんてのは誰もが思っている事だけれど、『そうならない』なんて事も誰もが知っている。
私も春真ちゃんも桃ちゃんも、桜子も知っている。
だから、なるべく、今一番側に居たいと思う人と、私達はこの一年を沢山過ごそうとしているのだと、そんな気がしていた。
なんとなくではあるけれど。
陽は高くて気温も心地良いお昼休みの中庭。
学年、クラス、多様な子達が其処彼処でなんやかんや、ワイワイとお喋りしながらのお昼ご飯を進める中で、私と桜子もまた、ベンチに隣り合わせで座りながら、少しずつご飯を進めていた。
私と桜子。二人で同じサンドイッチを食む。
今日は私がお弁当を作ってくる日だったから。
そんな、特に大切でもない普段の他愛ないお喋りをしていた中で、桜子の急な『少し遠くに出掛けてみない?』の問いに、私は少しだけ面食らい、食べていた自身のサンドイッチを取りこぼしそうになる。
落とさない様にと慌ててその軌道を追ってなんとか確保したけれど、ペーストされた玉子の一欠片が私の膝へポトリと落ちてしまった。
「あ……」
「沙耶、慌てすぎだよ」
向けた視線の先にある玉子の一欠片。
桜子はそれを自身の親指の腹で掬い上げ、舌先で舐めとり、それがなんでもない様な顔をするけれど、私も「ん、ありがと」と、なんでもない風にお礼を言った。
『なんでもない風』
それは特別でもない事だという意味。
彼女との二年間は、私にも桜子にも『普通じゃあない事』の数々を『普通の事』にしていってくれた。
桜子も私も良かれとして互いにしてあげる何かが普通であり、それは別段特別だという意識も無く、日常としてそれを与え、普通として受け入れるようになっていた。
例えば今だって、膝の上に落ちた玉子のペーストをすくい上げて舐め取られるなんて二年前では考えられなかった様な事でも、今では少しくすぐったいという気持ちとありがとうという気持ちが先ん出ている。
きっと桜子が膝の上に何かを食べこぼしたとしても、私は同じ様にすると思うし、桜子も同じ様に『ありがとう』と言うだろう。
気持ちが冷めたとか、そういうものではない。
手を繋げばドキドキするし、今でも見つめ合えば互いに互いを欲する気持ちが強くなる。
だから、これは『特別』が『日常』のラインまで引き上げられたという事。
『特別』が『普遍』になり、それが私達の『普通』になっているという事。
去年も一昨年も、桜子と出掛ける事は何度もあった。
一年生の時は気恥ずかしさとか不安が先行して機会が少なかったけれど、二年生の時は二人で出掛ける事は多くなっていった。
映画、プール、水族館、博物館、美術館、動物園。そうやって、他にも色々。
「……少し遠出って、どの辺りに?」
両の手で持つサンドイッチを食み、何とは無しに上目で桜子に問うてみると、彼女は少しだけ思考する振りをする。
バレバレの悩み方は私と桜子の付き合いの長さを表している様だった。
分かっている私。
それでもそういう振りをする桜子。
ややあって閃いた様に桜子は優しく口角を上げると、私の髪に軽く触れてくれた。
「山が近い温泉と、海が近い温泉。どっちが良い?」
「…………海。が、良いな」
言うと、彼女は触れる私の髪へと手櫛を通し、そのまま肩を抱く様に引き寄せてくれる。
触れられた桜子の手の平がいつもより微かに温かかったのは、きっと五月の陽気にあてられたものではないだろう。
嬉しい事なんて沢山ある。
桜子と一緒なら尚の事。
『特別』が『普遍』になって、それが私達の『普通』になると、タガは簡単に外れてしまった様にも思う。
お昼休みの中庭。
何処に誰の目があるかも分からない様な場所でも、こうして私達は二人で身体と頬を寄せ合う事が出来てしまっている。
一年生の時、あれだけ他人の目が怖かったし、絶対に知られたくない秘匿の関係性だとも思っていたけれど、何故だか今ではそういうのがあまり気にならなくなっていた。
校内にはなんとなく公認されている子達も居るし、対照的に端々ではやっぱり嫌な噂話を聴くこともある。けれど、それでも大切な人や大切な何かがある事が私達は嬉しかったし、それで満たされる事の方が沢山あったから。
「じゃあ、夏休み。計画立てよ? その前にテストとかあるし、受験勉強もあるけどさ。夏休みに一回ぐらい、大っきな楽しい事があっても良いよね」
「……桜子、志望校の判定ギリギリじゃないの?」
「大丈夫。受験までにちゃんと偏差値上げられるから」
「……そっか」
「別のとこが良い?」
「ううん。温泉好き」
「ん、良かった」
『桜子は、志望校に落ちたら白海坂に残ってくれるのだろうか?』
……と、そんな考えが一瞬でも過ぎった自分の思考を戒める。
私は桜子の足枷になりたくないし、きっと桜子も私の足枷なんて望んでない。
「じゃあ、桜子テスト。ちゃんと良い点取って、旅行行こっか」
「っはは、楽しみにしておいてよね」
二人分のお弁当箱を片付け、桜子の手の平に自身の手の平を添えると、少しだけ暖かい風が吹いた。
春の匂いが終わって、これから来る梅雨が過ぎれば、季節が熱々の日差しを連れて夏を形作りにやってくる。
高校生活。
きっと、最初で最期の二人だけの旅行。
約束をして、その約束がしっかりとした形を成す。そうしてまた次の新しい約束をすれば、それが私達の道標になってくれた。
「沙耶、今日は何処で勉強していく?」
「今日は図書館かライトオレンジかな」
「ん、そうしよっか」
放課後の勉強会。
これは、私と桜子にとって『普遍的』で至って『普通』な事。
だけど、夏休みの旅行。
これは私と桜子にとって、『特別』な事。
『特別』が『普通』になるのは嬉しい事だけど、『特別』が『特別』のままである事も、同じくらい嬉しい事だ。
…………。
……………………。
…………仮に、もし仮に、だ……。
これまで『普通』で『普遍』だった事が、もしも『特別』になってしまったとしたら――――。
大学受験。
まだ少しだけ先にあると思い込みたいソレを考え、言葉に出さずに今一度復唱した。
『桜子は、他所の大学を受験する』
そしてまた、少しの間だけ考えないようにする。
大丈夫。
約束は、沢山ある。




