第42話 花見坂上沙耶のおはよう
これまで。
そしてこれから。
◆ ◆ ◆
少し早い時間。
中学受験をして、この桜並木の坂道も今年で六年目。
薄く舞った桜の花弁は、その朝の日差しの中でチラチラと控え目に地面へと影を落としている。
暖かい風とか、気持ちの良い澄んだ空気とか、そういうのは何度体感しても飽きる事は無いし、いつだって新鮮に受け入れる事が出来る。
週に五日。毎日毎日、こうして同じ年頃の女の子達と同じ方を向いて登校してきたけれど、それももう、今年一年で終わってしまうのだ。
日も登り、この登校路の其処彼処で挨拶の交わされる光景は、今もほんの何年か前でも少しだって変わりがない。
白いリボンの持ち上がり組や新入生組の彼女達。
ピンクのリボンの少し高校という年代にこなれてきた彼女達。
そして、赤いリボンの、最上級生となった、私達。
感慨深いと、そう思うにはまだ早すぎる気はするけれど、この高校最後の一年間がこれまでで一番忙しいのは、きっと事実だ。
「沙耶、おはよ」
「あ、おはよう。春真ちゃん」
賑やかしい登校路の中で、後方からそうやって声を掛けられて肩をポンと叩かれた。
朝の挨拶を返すと、春真ちゃんは柔らかくニッコリと笑う。
「沙耶今日は早いね」
「うん、ちょっと緊張しちゃって」
「緊張?」
「三年生の始業式だもん。緊張しちゃうよ」
言うと、春真ちゃんはそれを受け、小さく笑い声を漏らして見せた。
「っはは、そんなんじゃ一年間保たないよ?」
「大丈夫だよ。もぅ、意地悪言わないの」
そうやって少しだけふざけ合ったのち、「春真ちゃんも今日は早いんだね?」と問いを投げかけると、彼女は左右にふるふると首を振って、「いや、私はちょっと遅れちゃってるの」と頰を掻いた。
「……?」
「――あぁ」
私の浮かべた疑問符を感じ取ったのか、春真ちゃんはそのまま続けて言いを発する。
「千里とね、早くに来て美術室で描こうって言ってたんだけど、ちょっとだけ遅れちゃってるの」
「あぁ、じゃあ早く行ってあげないとだね」
「ん。でもまぁ、千里は待っててくれるから」
「……そっか」
「じゃあ沙耶、また後でね」
「うん、また後で」
そうやって二人で手を振り合うと、春真ちゃんは駆け足で先へ先へと走っていく。
春真ちゃんと殻梨さんは二人で同じ美術大学を目指していると言う。そして、受験までに一枚でも沢山二人で描くと約束していると、春真ちゃんは嬉しそうに私に話してくれた。
だから、春真ちゃんと殻梨さんにとって、……二人だけじゃなくても、誰にとっても時間は有限だけれど、きっとこれからの一年間も二人にとっては有益なものになるに違い無いと、私はなんとなくそう感じる。
「おはよう花見坂上さん、今のは、安西さん?」
「うん、おはよう、星波さん、宴町さん。春真ちゃん始業式の日でも早くから殻梨さんと絵を描くみたい」
「そっか、同じ美大目指してるって言ってたもんね」
春真ちゃんの走って行った後、今度会ったのは星波さんと宴町さん。
赤いリボンを付ける星波さんの隣でピンクのリボンを付けた宴町さんは、私に丁寧な所作で「おはようございます」と頭を下げてくれる。
そんなに気を遣わなくても良いよ?と、そう言うけれど、宴町さんは『先輩なので』と一生懸命に首を横へと振ってくれた。それから、もう半年も経とうとしている。
「クラス替え、みんなで同じクラスになれると良いね」
そうやって柔らかく言ってくれる星波さんに、私も「そうだね」と柔らかく返した。
出会いは少しいざこざがあったけれど、今ではもうそんな事は気にならなかった。だって、そういうのは全部忘れたし、本当にそんな事があったかも定かではなくなっているから。時間は残酷なばかりではない事を私も星波さんももう知っているし、得られた事の方が沢山あったし、それの方が嬉しい事が大きかったから。
「私も、志穂さんと同じクラスが良かったです」
少しだけ寂しそうなのは宴町さん。けれど、彼女も本気で言っている訳ではないし、星波さんもそれを彼女の髪を撫でる事で答えてあげていた。
「ワガママ言わないの。その代わり、今日は甘い物を食べて帰りましょう。雉鶴の好きなもので良いわよ」
「っふふ、約束ですよ?」
そうやって笑んで見せた宴町。
そうして、「それじゃあ、私達は園芸部に寄って行くから」と、やはり星波さんと宴町さんは二人して先へと歩を進めて行った。「うん、また後でね」と手を振ると、星波さんは手を振り返してくれて、宴町さんはやはり丁寧に頭を下げてくれた。
美術部、園芸部、文芸部。
結局、部活には何も入らなかった。
興味のあった事もあるにはあったけれど、それに注視出来るほど自分に自信も無かったから。
その代わり、勉強は沢山したし、放課後に大切な人との沢山の時間を過ごす事も出来た。
大切な事は人によって違うし、私にとってこの高校生活で大事だったのは誰かと同じ物じゃなくて良いと思っていた。
だから、私は前を歩く彼女に声を掛ける。
歩幅を小さく、それでもしっかりとした足取りで登校路を進む彼女へ。
「おはよう、桃ちゃん」
「あ! サヤちゃん! 久し振りだね!」
溌剌と、元気に、桃ちゃんはそう言って大きく笑顔を浮かべて見せてくれた。
桃ちゃんの身長は150㎝も無い。
そして、隣で並んで歩く彼女の身長は、170㎝近くある。
「三月場さんもおはよう」
「えぇ、おはよう。花見坂上さん」
三月場さんもそうやって挨拶を返し、薄く柔らかい笑みで応えてくれる。
桃ちゃんと三月場さん。
二人のリボンはピンク色。
今年から、二人は二度目の二年生を過ごす事になる。
去年の夏休み明け、三月場さんは長期の入院をして、桃ちゃんは白海坂に登校して来なくなった。
それでも、学校側とはしっかりと話が付いていたし、一度だけ桃ちゃんに理由を聞いてみたけれど、私と春真ちゃんはそれ以上の追言をしなかった。
『四月の新学期まで、私は学校に行けないの。だから、もう一回、二年生のやり直し』
『約束なんだよ。意地悪なんだ。だけど、少しだけ嬉しかったよ』
そう言って、桃ちゃんは大きく笑って見せたから、その話はそこで終わりにした。
登校出来なかった期間も二人には会っていたし、三月場さんは闘病からも回復した。
それでも、二人の制服姿を見るのは本当に久し振りだったから、例えリボンの色が自分達と違うものでも、素直に嬉しかった。
「っえへへ。ダブっちゃったけど、サヤちゃんとハルちゃんは先輩になるのかな??」
「――っいやいや、いいよそういうのは!」
手をブンブンと振って否定すると、三月場さんが桃ちゃんに人差し指で「めっ!」として、「桃? そういうからかい方はダメだよ?」と桃ちゃんを嗜める。
そして、口元で上品な風に笑んでから、「学年は変わっちゃうけど、また同じ様に仲良くしてくれると嬉しいな」と、三月場さんは少しだけ頭を下げるので、私も「勿論だよ」と笑って返した。
まだ三月場さんは他の人と同じ様な速度で歩けないけれど、私達はそこからゆっくりと三人で登校した。
そして、その間に色々話をしたし、色々話を聞いた。
勉強の事とか、遊びに行った事とか、これからの白海坂での過ごし方とか。
「二回目だから沢山百点取れちゃうね!」
そうやって戯ける様に笑った桃ちゃんに対して、「あぁ、そっか。そうだね」と三月場さんも笑って返していたので、二人はきっと大丈夫なのだろうと、やはる、なんとなくそう思えた。
まだ余裕のある朝の時間。
始業式までまだまだいくらも時間がある。だから、クラス分けを確認して、新しいクラスまでの道程を迷っても全然問題の無い時間なのだけれど、校門付近まで来たところで桃ちゃんは「それじゃ、私と冬乃は先に行くから」と、すこし歩みを早めて先を進んでしまった。
「それじゃあサヤちゃん、また後で」
「? ……うん、また後で」
せかせかと校門を通っていく桃ちゃんと三月場さん。
声を掛けられて、また声を掛けられて、今度は私から声を掛けて。
そうして、この三年生に上がった始業式の日。
校門前で待ってくれていた彼女に、私はまた一言、「おはよう」と声を掛ける。
彼女も、桜子も私のそれに気付いてくれて、「おはよう」と朝の挨拶を互いで交わす。
「赤いリボンだね」
「桜子もね」
「沙耶」
「ん?」
「今日も可愛い」
「……もぅ、バカね」
私の隣を桜子が歩いてくれて、桜子の隣を私が歩く。そうやって白海坂の校門をくぐろうとしたところで、「あ、沙耶ちょっと待って」と言われ、「なあに?」と、何事かと足を止める。
「桜の花弁」
「あ、本当だ。ありがとう」
私の髪に付いていただろうそれを、桜子は指先で摘まみ取ってくれた。
指先から離れた桜の花弁は、朝の少し暖かい風に乗って空を舞う。
あの花弁は、また誰かの頭に止まるのだろうか?
「ねぇ、桜子?」
「ん?」
「本当に、外部の大学、受けるんだよね?」
「ん、そのつもり」
「沢山勉強しなきゃだね」
「うん」
「沢山思い出作りたいね」
「うん、そうだね」
「桜子」
「なあに?」
「今年も一年、よろしくね」
「私も。よろしくね、沙耶」
どちらから言うでもなく、互いに互いの手を取り、繋ぎ、二人で白海坂の校門をくぐった。
私達のリボンは赤色。
高校三年。
白海坂女学園での、最後の一年が始まる。




