第XX話 unknown
私だけの『罪』と『罰』
◆ ◆ ◆
出されたコーヒーは美味しくなかったし店内は薄暗くて辛気臭かった。
窓から見えるその向こうに景色なんてものはなく、ただただ黒い海と黒い空が見えるだけ。
ここがどういう場所かは知っている。だけど、こうして足を運んだのは初めてだ。
一体どんな店なのかと思って来てみたら、何の事はなかった。
ただそれだけ。
ドアを開けると上部に付いたベルが『リン』と鳴って、カウンター席に促されて、店主みたいな女の人は口元だけで笑っていて目は全く笑ってないし、メニューの冊子も無いし、頼んでもないのに美味しくないコーヒーが出てきたし。
本当はケーキが食べたかったのに。
タルトが食べたかった。
苺のタルトが。
「あるわよ? 苺のタルト」
言うと、店主だろう彼女は左手だけを腰に当てて立ち居を崩し、何故だか呆れる様に大きく嘆息した。
嘆息し、片眉を上げ、そうしてまた、私の言いを待たずして口を開く。
「さっきから貴女、口が悪いわねぇ。コーヒーが美味しくないだの辛気臭いだの。残念ながらここは私の城よ。少しは我慢して欲しいし、それが出来ないなら出てって欲しいんだけど?」
「……あぁ、失礼しました」
さういえば、ここの店主は心を読むと噂で聞いた事があった。
でもまぁ、ここまできて読まれて困る心も無い。それに、話が進まないよりは心を読んでもらって勝手に理解してもらう方が幾分か助かる。
……と、そこまで思案したところで目の前の店主が明らかに顔を顰めて不機嫌そうに息を吐いたので、私は「すみません。また、失礼しました」と頭を下げてみせた。
「貴女みたいなのは初めてじゃないけど、貴女くらい若いのは初めてかも知れないわね」
「それ、褒めてくれてます?」
「そんな訳ないじゃない。私貴女の事良く思ってないもの。可愛げが無いし生意気そうだし、うちのコーヒーが美味しくないって言うし」
「はぁ……」
だけどね――。
店主の彼女はそうやって言うと、カウンター内に備え付けられているのだろう冷蔵棚から皿を一枚取り出し、私の前に差し出した。
そこには1ピースのタルトが乗っていて、タルトの上には沢山の苺が敷き詰められていて、その真ん中には細かな装飾が施された銀色のフォークが突き立てられていた。
「良くは思ってないけど、嫌いじゃない」
店主は喉元だけでくつくつと笑い、両の口端を三日月みたいに持ち上げて、嘘みたいに歪な笑顔を浮かべて寄越す。
それを見て私は、『あぁ、良かった。本当なんだ』と、心の底からそう思い、誰にともなく感謝した。
◆ ◆ ◆
中学三年の秋、親の都合で転校をした。
私は転校なんてしたくなかったけれど、私に拒否する権限は無かったし、そもそも私にはそんな事を言う度胸も無かった。
親の操り人形だった訳じゃない。
尊敬もしてるし感謝もしてる。
両親には地位も名誉もあったし、他方からの信頼もあった。お金もあったし会社も大きかった。
だから、なんの不自由もないこの自身の生活に感謝こそするけれど不満なんて一つも無かったんだ。
けれど、年齢を重ねる毎に浮き彫りになってくる窮屈さや、己の見解の狭さが、なんとなく、どことなく、視界に映る色をどんどん薄くしていく様でもあった。
何でも買ってもらえる。美味しいものも沢山食べれる。どこだって連れて行ってもらえる。
そんなのが嬉しかったのは他の子と違う発色をするエメラルドグリーンのランドセルを背負っていた時まで。
中学に進学すると、取り囲む環境は少しずつ変化し始めた。
小学の時に行っていた習い事の取捨選択。
土曜日日曜日でも通わなければならない塾。
家に帰ってもそこには音楽だか絵だかの先生が居て、それから逃れられないのだと悟り、実際にそう言われた。
進学する高校も決まっている。
進学する大学も決まっている。
就職する会社も決まっている。
結婚する相手も決まっている。
漫画やドラマみたいな話だと思ったけれど、それが私の現実なんだと言われたら、不思議と納得してしまっていた。
納得したし、それを受け入れたけれど、視界の中の色合いはどんどん薄くなっていった。物の主線だけが黒く、色は白と黒だけがなんとなく見えて、何を食べても味がしなくて、どんなに素晴らしい演劇を観ても涙が流れなかった。
そして、中学二年の冬の日。
薄く雪が降り始めた、その日。
ついに白でも黒でもない灰色の雪が空に舞っているのを見たその日。私は自分を諦めた。
だから屋上まで行ったのに。
諦めたのに。
終わりで良いかと思えたのに。
それなのに、不意に現れた彼女に声を掛けられ、視界に入れた彼女の像には、ちゃんと色が付いてたんだ。
輪郭線だけじゃなくて、この寒い中で頰を紅くして、鼻の頭も紅くして、可愛い色のマフラーをきつく締めて、そして、優しい色の瞳をしていて……。
◆ ◆ ◆
一目惚れだった……。
◆ ◆ ◆
当初進学を予定していた志望高校へは行かなかった。
それは私の意志ではなく、母が私を彼女から遠ざけたい一心での事だった。
もう色んな事が面倒だったけれど、最後に見た彼女の、私の母に平手で打たれた彼女の頰の赤さが忘れられなかった。
別に罪の意識は無かったんだ。
だって、私は恋をしただけなのだから。
それでも、次にまた同じ様に誰かを愛せるとは思えなかったし、彼女とのたった一年にも満たない日々だけを思い出にしようとした。
進学した彼女のいない高校。
私立で偏差値もある程度高く、近隣でも人気のある女子校。
その中で、私はなるべく平凡に生きていたんだ。
だってそうだろ?
ここでまた悪目立ちをしてしまったら面倒なんだ。誰かに好かれるのも自身の為にならないし、才能があってももう私は努力も展望も諦めたから何かを極めたいとも思わない。それくらい自身の生まれや家が大きいのはもう知っている。
調子に乗って絵を描いたりトランペットを吹いたり小説を書いたりしても、きっと私の知らないところで賞賛されて歪んだ持ち上げられ方をするだけなんだ。
いらないんだよ、そういうの。
くだらないとまでは言えないけれど、もう、本当にいらないんだ。
私は、何もいらないんだよ……。
『ねぇ、知ってる? ライトオレンジの話』
そんな誰かの話し声を聞いたのは、高校に進学した年の夏休み明け。
信じるには値しない噂話や都市伝説の類い。
しかし、その誰かの話を耳にした日から、どういった事か『ライトオレンジ』の話はいたる所から私へと流れ込んできた。
そもそも、その噂話だって誰がしていたかも明確ではなかったし、ふとした時に聞いた話し声は辺りを見回してみても周囲には誰も居なかった。
「私に、『ライトオレンジ』に行けって事?」
独り言の様に、誰にともなくそう問うてみると、余りにも当然の様に誰かの答えが返ってくる。
『そうだよ』
◆ ◆ ◆
「――で、ここに来たって訳ね」
「そうです。何かおかしいですか?」
「いや、なにも」
カウンター内に居る店主はそうやって言うと、何かに納得した様子で声を出さずに吐息で笑う。
「ま、良いさ。雅は貴女みたいな子が好きだからね」
「……雅?」
「こっちの話よ。貴女は学生時代の雅の声を聞いたの。それだけ」
「……はぁ」
店主は肩を竦め、私は意味も分からず疑問符を収めるしかない。
出された苺のタルトを少しずつ食みながら店主と意味があるのか無いのかみたいな話をして、二杯目のコーヒーを出されたところで「それじゃあ、そろそろ貴女の願いでも聞いてみましょうか?」と話が先に進められた。
「知ってると思うけれど、貴女の願いに応じた何かを、私は貴女から貰い受ける事になるのだけれど、それでも良いのね?」
「問題無いです。何でもあげられますし、制約でも枷でも何でも嵌めて下さい」
どうせ面白味もない今後なので。
「そう。コーヒー、砂糖とミルクを入れてみたら? 少しは美味しくなるかもよ?」
「……はぁ」
言われた通りに差し出された二杯目のコーヒーへ砂糖とミルクを入れてみたけれど、それは少し甘くなって飲みやすくなっただけだった。
美味しいとは思わないし、コーヒーなんてインスタントでも豆から挽いたとしても、残念な事に私には違いが分からない。
「本当に、何でも叶えてくれるんですか?」
問うと、店主は腕組みして少しだけ中空を仰ぐ。そうして、私に真っ直ぐ視線を合わせてから「まぁ、大体なら」と言いを吐き、続けた。
「一生消えない虹を瓶詰めにする事も出来るし宇宙の果てを見せてあげる事くらいなら出来る」
店主は続ける。
「この星に太陽を落とす事も出来るし誰かの病を治す事も出来るし流れ星を好きなだけ降らせる事も出来る。貴女のお家を普通の一般家庭にする事も貴女を中学二年の冬の日に戻す事も出来るし貴女を星波志穂と絶対に見付からない何処かに逃がす事も出来る。勿論、貴女を殺す事も出来るわ」
「ちょっとムカつきますね」
「素敵でしょ?」
店主は笑った。
心底つまらなそうに。
「星波志穂を幸せにしてあげてください」
言うと、店主は再び笑った。
今度は、心底嬉しそうに。
「案外普通なのね」
「何とでも言ってください」
今、私の願いはそれだけだった。
私の我儘に付き合わせて、いらない思い出を作らせてしまい、苦い経験を積ませてしまい、傷を負わせ、苦しめた。
償いなんて高貴なものでもない。
結局はコレも私のエゴだ。
だって、そうでもしないと私は志穂に謝る事すら出来ない。
「『星波志穂を幸せに』ね」
「出来ないんですか?」
「出来るわよ。ひと一人幸せにするくらい造作もないわ。これくらいなら貴女から貰い受けるものも安価なもので済む。良かったわね」
「それは、良かったです」
別に魂を取られても良かったのだけれど、店主がそう言うのなら別段重い何かを望んで背負う事もない。私だって今進んで死に行くのは躊躇われる。
胸を撫で下ろす私。
顎に手を当てて唇を尖らせる店主。
そうした後、店主は思い付いた様に両の手の平を合わせ、瞳を大きく見開くと、口を弧の字にグニャリと歪ませた。
…………血の気が引いた。
空調は生暖かいのにも関わらず背中に冷や汗を掻き、全身に鳥肌が立った。
私がここに来た理由と、その願いが、今の私には最も重要な優先事項だったんだ。
きっとこの店主はその事を分かっている。
それを楽しんでいるか如何かは別なのだろうけれど、例えば、何か――。
……あぁ、そういえば、この『ライトオレンジ』の噂話の中に、こんな一節があったのを思い出した。
特に重要視していなかったけれど、成る程確かに、そういう事だったのかと悟る……。
『順序』。それと『好感度』……。
「【貴女はもう、この人生で『星波志穂』に認識されない】。それを枷として貴女の願いを叶えるわ。それでどう?」
少しだけ、泣き出しそうになるのを、グッと堪えて、私はそうして…………。
「……悪魔ですか?」
「ん? あぁ、自己紹介が遅れたわね。私は朧扉。よろしくね」
「辻絢音、絢芽です……」
「知ってるわ」
「……それは、私が志穂の――」
色んな可能性があったけれど、それ以降の言葉が出てこなかった。何が良くて何がダメなのか、その尺度が今のままでは曖昧で、それを明瞭にしたかった。
朧扉は言い淀む私の様子など気にも止める事無く、私の欲する答えの全てを投げて寄越してくれた。
「貴女が星波志穂の視界に入ったところで星波志穂は貴女を認識しないわ。声も聞こえない、匂いもしない、一挙一動を感知しない。貴女の絵を見ても貴女を感じない。貴女の奏でる曲を聴いても貴女を感じない。貴女の書いた小説を読んでも貴女を感じない。貴女の歌は届かない。貴女の心は届かない。貴女の想いは伝わらない。貴女が生きていても死んでいても関係ない。貴女が結婚しても星波志穂は挙式に来ないし貴女が死んでも星波志穂は通夜に来ない。貴女は面と向かって祝われない、悲しまれない、悔やまれない、怒られない、恨まれない、そして貴女は星波志穂に面と向かって好かれない」
「…………」
「それでも良いなら、貴女の願いを叶えるわ」
噛み締めた唇からは血の味が滲んだ。
涙を堪えるのに必死だったけれど、ここで泣いたら悔しいから、絶対に泣きたくなかった。
「あら、泣いても良いのよ?」
「……志穂には、私の記憶や思い出が残るんですか? 私には、志穂の記憶が残るんですか……?」
「えぇ、そうね。残るわね」
「……残酷ですね」
「そうかしら?
「……悪魔ですよ」
「朧扉よ」
「……志穂を、幸せにしてあげてください……」
こんなクソみたいな場所には二度と来ないわよ。
そう言うと、朧扉は、「それはどうも」と、今日一番みたいな優しい笑顔で私に枷を嵌めた。
見えない枷。
今後一生、外される事の無い枷。
「ま、次の人生では星波志穂と幸せになれると良いわね」
「……うるせぇよ馬鹿」
「何とでも」
こんな事なら、もっと沢山志穂と話をしておけば良かった。
こんな事なら、もっと沢山志穂と写真を撮っておけば良かった。
こんな事なら、もっと早く、志穂に会いに行って謝っておけば良かった……。
死ぬ程、山程の『たら』と『れば』が浮かんでくるけれど、もうそんな事は意味など無いのだと気付き、自身を納得させ、そして、朧扉の前では決して流したくなかった涙が一粒だけ溢れて頰を伝った。
直ぐに拭って消したけど、きっと朧扉にはバレているだろう。
でもまぁ、最後に志穂の為に志穂の幸せを願えて良かったよ……。
ばいばい志穂。
どうか私の手の届かない場所で、貴女の幸せを大切にして。
そして、出来る事なら私に囚われないで、私を忘れて……。
高校二年の春。
ライトオレンジを出る間際に飲んだ最後のコーヒーは、生まれて初めて――。
「……なんだ、美味しいじゃないこのコーヒー」
「当たり前でしょ。私が淹れたんだから」
「……死ねよブス」
「貴女は頑張って生きなさいね」




