第41話 宴町雉鶴の悔しさ〜後編
熱。それと我儘。
◆ ◆ ◆
明日も寒いと天気予報は言う。
明後日も寒いと、天気予報はそう言う。
太陽の光が真っ直ぐに降りてきているのにもかかわらず、コートもマフラーも手放せなかった。
誰だって寒いのは嫌だ。
防寒対策はしっかりとしなければならない。
十二月の第二週、休み明けで雲一つ無い快晴のその日は、朝からやけに肌寒くて仕方がなかった。
教室内は暖房が点いているのに授業中もずっと指が悴んでいて、どれだけ着込んでも頰が冷たい気がして、屋内で吐く息も白く見えた。風邪かと思い保健室に足を運んでみるも、熱は無く身体も怠くない。引き続き授業は受ける事が出来る。
なんでこんなに寒いのだろうか?
明確な理由も無いままに、なにかの解決策も得られないままに、学食では香辛料の沢山使われたカレーを食べたのだけれど、それだってただただ辛いだけで終わってしまい、結局は身震いしながら放課後まできてしまった。
きっと『会いたいです』と連絡すれば志穂さんは直ぐに来てくれる。
だけど、それはなんだか嫌だった。
会いたい時に自分から会いに行けない様なやつにはなりたくなかった。
図書室も、やっぱり寒い。
図書委員の割り当てはこんな日でも私にちゃんと回ってくる。
だから、私はこうしていつもの通りにカウンターに着いて静かに時間を過ごした。
暖房は点いている。
室内の温度計もちゃんと25℃を指している。
それなのに、身体は全然温まらなかった。
勉強しに来る上級生。
本を借りにくる、本を返却しにくる同級生。
彼女等はみな一様に図書室内でコートとマフラーを取り払い、椅子へと腰を落ち着けてゆったりと時間を過ごしている。
それなのに、やっぱり……。
何故だか私は、コートもマフラーも手放せなかった……。
なにかがおかしいのに打開出来る策が無い。
身体がキツかった。
いつからだろうか?
心が寒かった。
いつからだろうか?
志穂さんに会えば、この極寒にも似た心の飢えは満たされるのだろうか?
考えるけれど、不安は募った。
もし仮に、志穂さん会ってもこの冷え続ける身体に暖かさが戻らなかったら……。
昨日の、彼女の言葉が思い出される。
『志穂は私にとって必要だったわ。だけど、私が志穂の隣に居られなくなった。それだけだよ』
辻絢音絢芽という名の彼女にとって、志穂さんは必要だった。
そして今、私にとっても志穂さんは大切な人だし絶対に必要な人なんだ。
独占欲なのか?
それとも、もっと他の……。
今日、図書委員の仕事が終わった後に志穂さんと会う約束をしている。
私はあと一時間、このカウンター内で図書室の長をしていなければならない。
あと一時間。
その間に、私の心臓が凍りついてしまわなければ良いのだけれど……。
◆ ◆ ◆
高水先輩は特に考えるでもなく、『悔しいっていうよりは、彼女の話を読んでみたいわ』と、屈託の無い笑顔でそう言った。
『評価はされて順位は付けられたけど、『誰か』の作品が『誰か』の作品より必ずしも劣っているとは言えないでしょ? 誰かの為に書いた話、誰かを思って書いた話。目的とか意図とか、汲み取れるか汲み取れないか。宗教によっても評価は変わるし、読み手によっても面白いかどうかは変わってくるじゃない? 太宰治か宮沢賢治か、どっちが好きかって、ただそれだけの話なのかも知れないし。あ、そんなに真剣に聞かなくても、真面目な話じゃ無いのよ? ただ、そういうのって素敵だと思わない? っふふ、他の誰もが評価しなくても、たった一人、大切な人がその物語を『面白かった』って、『好きだ』ってそう言ってくれるなら、私は物語を書く意味はあると思うの』
……それじゃあ、物語をコンクールに応募する理由って、あるんでしょうか……?
『勿論、自分の物語を誰かに認められたいって、評価して欲しいって理由はあるわ。書いたら誰かに読んで欲しい、認められたい、面白かったって言って欲しい。それとは別の理由ってなると、そうだなぁ……。誰かと私の考えを共有したい、私の気持ちを理解して欲しい、同じ気持ちになって欲しいって、そういうエゴイズムみたいなものもあるかも知れないね』
……エゴイズム、ですか?
『人なんて結局は自分勝手よ。押し付けて、それで受け入れられたらやっぱり嬉しいもの。愛の告白と同じね。著名な誰か、知らない誰か、そして、大切な誰か。そういう人に押し付けた自分勝手な感情が自分の思惑通りに受け入れられたら、そんなの飛び上がって喜ぶくらい嬉しいに決まってるから』
高水先輩は鞄に仕舞っていた優秀賞の賞状を取り出すと、それを広げて私達に示して、『やったね』と、やはり屈託なく、そして可愛らしく笑った。
◆ ◆ ◆
園芸部の庭園。
冬場はテニスコート片面くらいの大きさのビニールハウスが張られ、その中で冬に咲く花を栽培しているらしい。
図書委員の仕事を終えて校舎から出ると、もう外の寒さは極寒と言っても差し支えのない程に空気の冷たさが痛かった。
一つ風が吹けば耳が痛み、二つ風が吹けば鼻が痛み、三つ目の風で大きく身体がぶるりと震える。
少しだけ早歩きで足を進めて、近くまで寄ると半透明のハウスの中で誰かの動く影を見た。
志穂さんに園芸部へ伺う事は伝えてある。だから、私は躊躇う事無くハウスの扉に手を掛けたのだ。
外は寒い。
風は冷たい。
きっとハウスの中は今のここよりきっと暖かいだろう。
風が吹きつけないだけできっと体感はかなり変わるはずなのだ。
校舎内、暖房の効いた図書室でも身体の震えは治らなかったけれど、この園芸部のビニールハウスは如何だろうか?
志穂さんの側は?
志穂さんの近くは?
『志穂は私にとって必要だったわ。だけど、私が志穂の隣に居られなくなった。それだけだよ』
不意に、また蘇ってきた彼女の言葉……。
躊躇いなんて無かった筈なのに、扉へと手を掛けた自身の手の平が何かを恐れている風に見えた……。
寒い身体は、何を欲しているのか。
必要な人は。
志穂さん。
絢芽さん。
志穂さん。
絢芽さん。
「雉鶴? 来たの?」
考えと躊躇いが頭の中で混濁していると、内側からハウスの扉を開けた志穂さんが目の前に立っていた。
私より十センチは背の高い志穂さんへと少しだけ視線を上げると、「如何したの? 寒いでしょ。早く入りなよ」と、志穂さんは優しい笑みで私を手招いてくれる。
園芸作業用の手袋、手の平くらいの大きさのスコップ。制服が汚れない様にとエプロンをして、志穂さんは髪をアップに纏めていた。
鉢と花壇の植え替えをしていたのだろう志穂さんのエプロンは端が少しだけ土で汚れていて、この寒い冬の中で額には薄く汗をかいていて……。
志穂さんは、「ハウスの中だとあまり寒く無いでしょ?」と私に言って寄越した。
ハウスの中。
ハウスの外。
校舎の中。
校舎の外。
だめだ……。
何処にいても、何故だか……。
「……雉鶴?」
志穂さんは首を傾げる。
突然だ。だって、ハウスに入ってからも、私は暖かさが分からないし、マフラーだって解けない。コートだって脱げない。手の平の震えが止まらないし、鼻も耳も冷たいままだ……。
「……志穂さん」
「……ん?」
声をだすけど、先が続けられない。
何を言えば良いのか分からない。
言うべき言葉が、見付からない。
「……わ」
私、賞状を貰ってきました!
凄く嬉しいです!
頑張った甲斐がありました!
その言葉が続けられない……。
「雉鶴……?」
「……こ」
これからもずっとお話を書きます!
来年もまたコンクールで頑張りますから!
その言葉が続けられない……。
「……あ」
絢芽さんに会いました……。
とても綺麗な方でした……。
少しだけ、話もしたんですよ……。
その言葉が続けられない……。
「……わた」
私、志穂さんの事が好きです。
ずっと隣にいて良いですか?
志穂さんの、側にいても良いですか?
その言葉が、続けられない……。
「…………っうぁ、ふぅ、っあぁぁ……」
情けなかった。
こんな事で泣きたく無いのに、膝が笑って、立ってられなくなって、しゃがみ込んで、如何にも出来ないくらいにボロボロと涙が溢れて落ちてきた。
拭った涙が手袋に染み込んで、いくつもの跡をつくって、こんなに泣いてる意味が分からないのに、多分それが『悲しさ』では無いという事だけは明白で、悲しさじゃなかったら、一体この涙はなんなのかと、そんな思考が……。
すると、だ……。
フワリと、柔らかいなにかが私の髪を撫で、暖かいなにかが頰を撫でた……。
スコップを置き、手袋を外し、エプロンを脱いだ志穂さんは、私の視線に合わせる様にしゃがんで身を屈めてくれて、私の頰に触れてくれた。
「……志穂さん」
「雉鶴、泣かないで?」
頭を抱かれ、髪を撫でられ、胸に深く抱きかかえられ、そうして、私は声が枯れるまで泣き通してしまった。
「大丈夫だよ。雉鶴。大丈夫」
志穂さんは何も聞かないでくれる。
私に何があったのか、何故泣いてるのか。
聞いて欲しい時もある。
分かって欲しい時もある。
だけど、今はその志穂さんの心がなによりも嬉しかった。
聞かないでくれるのが嬉しかった。
分かろうとしてくれないのが嬉しかった。
ただただ、私に泣き続ける事だけを許してくれているのが嬉しかった。
今日、漸く感じる事の出来た暖かさ。
触れられる事で自覚出来た涙の意味。
聞こえた言葉と私の為にあってくれる優しさが心地良く、それを自分だけのものにしたいという我儘。エゴイズム。
『志穂は私にとって必要だったわ。だけど、私が志穂の隣に居られなくなった。それだけだよ』
『今は、宴町さんが志穂と一緒に居てくれてるのね』
『宴町さんが志穂の事を想ってあげて。志穂の為に、健やかでいてあげて』
嫉妬。
それと悔しさ。
きっと、志穂さんの事を沢山知っているだろう、辻絢音絢芽という名の彼女。
まだ、志穂さんの事をきっとあまり知らない私。
上からの目線が悔しかった。
絢芽さんの認められた最高位の誉れに嫉妬した。
私が誰かの為に書く物語なのに、それを、審査員の下した佳作で満足して良いわけが無かったんだ……。
絶対、絢芽さんより美しい物語を書く。
絶対、絢芽さんより志穂さんの事を好きになる。
そして、絶対志穂さんに絢芽さんより私の事を好きになって貰いたい。
私の事を一番に愛して欲しい。
悔しい。
悔しい。
凄く悔しい。
……と、そうやって、自分の内側、誰にも邪魔させない自分だけの我儘に向き合った途端、身体の内側がポカポカと暖かくなってきた。
震えは止まり、耳も鼻も冷たくなくなった。
マフラーもコートも暑くて暑くてたまらなくなった。
これが良い事か悪い事かは分からない。
だけど、絶対に絢芽さんには負けたくないと思った。
「志穂さん」
涙を強く拭い、顔を上げて視線を合わせる。
志穂さんは私の言いに何かを感じたのか、優しく、それでも真摯に「うん」と頷いてくれる。
「私、志穂さんの事が好きです。だから、私の物語の主人公になってください」
真剣に、そして切実に。
言うと、志穂さんは呆気に取られた様に数瞬だけ目を丸くするけれど、直ぐに「っはは」と声を出して短く笑う。そうして、私の流した涙の跡を口付けで追ってくれた。
「雉鶴の物語の主人公は雉鶴。それだけは、私は譲れないな。だけど、もし私を雉鶴の物語の登場人物にしてくれるなら、ヒロインの枠を空けておいてくれると、私は嬉しいよ」
ビニールハウスの外は冬の寒空。
だけど、この場所と志穂さんの腕の中は太陽の陽の光みたいに暖かい。
「志穂さん」
「んん?」
「好きです」
「私も」
笑んだ志穂さんが私の隣にいてくれるなら、私が志穂さんの隣で主人公やヒロインを自分の立ち位置として良いのなら――。
誰にも、だ。
本当に誰にも、負ける気がしないと思えた。




