第40話 宴町雉鶴の悔しさ〜中編
知りたいとか知りたくないとか……。
◆ ◆ ◆
「――あのっ! ちょっと待って下さい!」
何で声を掛けたかも定かでは無いし、本当ならそんな事する必要も無い。
それなのに、私はそうやって彼女の背中に声を掛けていた。
別に何かを期待していた訳でも無いし、何かが解決するとも思ってない。
ましてや、それで志穂さんが喜ぶとも思っていない。
だけど、私は声を掛けた。
これは私の意志だ。
私が、ただ何かに納得したいだけ。
期待も無い。
解決もしなくていい。
志穂さんに喜んで貰わなくても構わない。
これは私の意志で、私が、納得したいだけなんだ……。
「なぁに?」
振り向いた彼女は疑問符を浮かべて首を小さく傾げるけれど、私の顔を見て薄く笑んで見せた。
辻絢音絢芽さんは、そうやって足を止めてくれた。
◆ ◆ ◆
貰った賞状は鞄にしまった。
折り目が付かない様に細く丸めて、賞状入れの筒に収められて。
先輩達はみんな心配してくれていた。
文部科学大臣特別賞という栄誉が彼女に与えられて、私は悔しかったのか、それとも他の違った理由なのか、流れて落ちる涙を止められなかった。
悲しかったからじゃあないんだ。
ただ、彼女の存在が、立ち位置が、私にはなんとなく遠くに感じてしまったから。
はにかんだ笑顔、綺麗な立ち居振る舞い、迷いの無い足取り、礼節に明るいだろう姿勢、その全てが、きっと星波志穂という人を虜にした一要因なのだろう。
授賞式は終わったけれど、その後も最上位賞の彼女はいくつもの新聞社や雑誌社からのカメラからフラッシュを浴びせられていた。
いくつもの質問を投げ掛けられて、それに嫌な顔一つ見せる事なく答えていて、きっと彼女はこれからも沢山のメディアに出てくるのだと思う。容姿も良いし、聡明そうだし、こうして凄い賞を贈られているのだ、文の才能もあるのだと恐らく申し分無い。
年末か、若しくは来年か。
彼女の物語は世に出て沢山の人の目にとまる事になるだろう。
なにか、確固とした内側のものをソレとして素直に吐き出す事が出来れば、どれだけ楽になるのだろうか。
会場から駅までの道のりはとても楽しかった。
みんなで内輪ながらも高水先輩を称えて、持ち上げて、そうやって帰って、最寄りの駅に着いたらご飯を食べに行こうという話にもなった。
簡単なものでも良いし、豪華に焼肉なんかでも良いし。
そういう時、文芸部が上下関係、先輩後輩の気質が薄い場所で良かったと思う。
尊敬はしてるしちゃんと敬語も使う。
それでも、こうやって前でも後ろでもなく、先輩の隣を歩けるというのは嬉しい事だった。
それは文芸部だけじゃなく、志穂さんの隣でも同じ事で。
そう。私は今日、先輩達と地元まで電車で帰って、ご飯を食べに行って、来年も頑張ろうねって言い合って、高水さんの優秀賞を称えて、私は休み明けに志穂さんに賞状を見せてあげて、そうして志穂さんは私に『おめでとう。頑張ったね』って言ってもらって――。
……それなのに、改札を通った先に見たその背中に、私は足を止めずにいられなかった。
ぐるぐると思考は回り、手に汗をかき、生温い唾液が喉を通る。
着込んだコートとマフラーが煩わしくなるくらいに身体の表面は熱くなるくせに、内側は震えが起きるくらいに寒く冷たかった……。
「宴町さん……?」
先輩にそうやって言われるけれど、ここで意を決さなければいけないのは分かってた。
「すみません、先に行ってて貰えますか? 直ぐに追いつきますので」
電車の時間まではまだある。
声を掛けて、一言二言交わしても問題ないくらいには。
先輩には先にホームに降りていて貰った。
これは、私の問題なのだから。
……いや、問題なのか?
もしかしたら問題ですら無いのかも知れない。
だけど、これは私の意志で、納得はしたい。
声を掛け、振り向いて薄く笑んだ辻絢音さんは私のコート端から出るすかーとを見て「白海坂だね」と言った。
「……あ、はい。そうです。白海坂」
私、宴町雉鶴って言います。
そう、私は辻絢音絢芽。それで、なにか御用?
佇まいから漂う気品に少しだけ頭がクラっとした。
位の違いというか、なんというか、それは『そういう事』を自身に課している、強いているという、そういう雰囲気と印象だった。
「……あの、おめでとうございます。大臣賞」
「あぁ、ありがとうございます。貴女もあそこに居たんでしょう?」
「いや、私は佳作で……」
「なによ、凄いじゃない。卑下する事無いわよ。佳作だった凄いわ。誰かに認められてるって事だから。きっとこれからも素晴らしい作品を書けるわ」
「……はい」
会話には違和があった。
所謂現存のようなものじゃなくて、熱意というか、今後の展望とか、そういう、確かに私の事に関してはきっと思っている事をそのまま言ってくれたのだと思う。けれど……。
「あの、辻絢音さんは、やっぱり文学部に進むんですか?」
「? なんで?」
「え、だって、これからもまたお話を書くんじゃないんですか……?」
「あぁ、書かないわよ。もう二度と」
「…………え?」
少しだけ胃が痛くなった。
マチ針で、本当に薄皮一枚、それがひと撫でだけ神経に触れたみたいな痛感。
少しだけ。
だけど、確実な痛み……。
「さっきもね、なんか凄い囲まれて、色々聞かれたけどね、トイレ行くって逃げてきちゃった。『今後はどんな作品を書きたいですか?』とか聞かれても、あの場じゃ書かないですとも言えないしね」
「……書かないん、ですか?」
「えぇ、書かないわ」
「なんで、ですか……?」
「私には必要無いから」
えらく冷たく、ハッキリとそう言われた。
駅構内を行き交う賑わい。
人波が人波として確実にこの場所に存在しているのに、まるで彼女、辻絢音さんの言葉しか耳に届かない様な気すらした。
必要、ないの……?
それなのに、物語を作ったの……?
じゃあ、……それじゃあ、なんで――。
きっと、この場で言うべき事じゃない。
この場で聞くべき事じゃない。
そうだって分かってた筈なのに、私は無意識に辻絢音さんへと言いを投げていた。
「……星波さんは」
「……?」
「……志穂さんは、辻絢音さんにとって、必要でしたか……?」
「…………あぁ、貴女白海坂か。志穂を知ってるのね?」
「答えてください。……志穂さんは、貴女にとって必要じゃなかったんですか……?」
本当にそれが知りたいか如何かなんて分からない。
だけど納得はしたい。
私はわがままだから、だけど、志穂さんの事が好きだから。
物語は私にとってのアイデンティティだ。
そうだと思うし、これからもそうしていきたい。
星波志穂という人が、私にとっては必要だ。
これまでが如何だったかなんて関係ない。
私はそう思いたいんだ。
「志穂は私にとって必要だったわ。だけど、私が志穂の隣に居られなくなった。それだけだよ」
たったそれだけ。
「……志穂さんに、会いたいとは思わないんですか?」
問うたけれど、辻絢音さんは首を横に振って、やっぱり薄く笑って見せた。
「会いたいかは分からないわ。だけど、会ってももう意味なんて無いわよ。私はね、志穂にはもう見えないの」
「……如何いう事ですか?」
「そのままの意味よ。それに、意味なんてきっと貴女は知らなくて良いわ」
宴町さん、だったわよね?
問われ、私は一度首肯する。
「今は、宴町さんが志穂と一緒に居てくれてるのね。ありがとう。今日私に会った事は、別に言っても言わなくても良いわ。それがどちらであれ、志穂にとってはもう意味の無い事だから」
「……そんな」
「そのかわり、宴町さんが志穂の事を想ってあげて。志穂の為に、健やかでいてあげて」
それだけ言って、辻絢音さんは「じゃあね」と私達とは逆方向の電車のホームへと降りていった。
言葉とか背中とか、そういうものには彼女の自信が満ち溢れていた風に見えたけれど、辻絢音さんが『志穂』という度に、目元が悲しそうに揺れていた気がした。
辻絢音さんはもう二度と物語を書かないと言う。
志穂さんが必要だったけれど、もう隣には居られないと言う。
意味なんて、私は知らなくていいと言う。
私は、『健やかでいてあげて』という辻絢音さんの言葉に、『はい』とも『いいえ』とも言えなかった。
私は、辻絢音さんに何も言い返せなかった……。




