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第36話 瀬尾茜の凶器

錆色のダイヤモンド。



◆ ◆ ◆



何物にも勝る喜びだ。

大きく息を吹き込めば、私のラッパは私の思う通りの音を奏でてくれた。

練習を積めばより精度の高い曲となり、美しい音色を誰の耳にでも届ける事が出来た。

良い音楽と良くない音楽とがある事を私は重々に理解している。

誰だって良い音色を聴きたい。

私だって、良い音色を聴かせたい。

練習は苦では無かった。

吹けば吹くほどに曲や音色の質が上がり、私はそれに喜びや充足を感じていたから。

人が産まれてから死ぬまでに目にする絵画はいくつあるだろうか? 映画は? 小説は?

数多ある芸術の中で、音楽だけは人が産まれ落ちる前から感じ取る事の出来る美しいものなのだ。

母胎の中でも受け取る事の出来る芸術。

お母さんと自分の心音が、きっと人が感じ取るとこの出来る一番最初の芸術なのだ。

音楽は好きだ。

音大にも行く。

きっと私は将来音楽に関係する仕事に就くだろう。

それは奏者かも知れない。

それな教師かも知れない。

奏で、伝え、受け取る人に喜びや、それに類する何かを伝えたい。


それが私にとって、何物にも勝る喜びなのだ。



◆ ◆ ◆



口の内側の肉を噛むと、舌先には鉄の味が広がった。

握り締めた拳の内側では掌に爪が食い付き、そこには痕や痣が残るのではないかという力が無意識下で込められていた。

口内も、掌も、凄く痛い。

それなのに、歯は口内の肉を噛むのをやめないし、掌は握った拳から開かれる事がない。


沢山の練習を積んだ。

夏休みも殆ど部活に当てた。

昼休みも放課後も、私はトランペットを吹いた。

本当は、昼休みだってゆっくりお弁当を食べながら他愛の無い話で笑いあったりしたかったのだ。

放課後だって、帰りに喫茶店に寄ったり、オシャレな雑貨屋さんで可愛い小物を見たりしたかった。クラスの子達がリボンやキーホルダーサイズの可愛いぬいぐるみでカバンを飾るのを羨ましく無いといったら嘘になる。

私だってそうしたかった。

夏休みだって、もっと沢山由紀と過ごせた筈だ。

お祭りや花火大会といったイベント事だけではなくて、もっと他にも、ただなんとなく海に行ってみたり、気になる映画を借りてきて一緒に観たり、雑貨屋さんを巡ってみたり、ただ無為な時間をずっとお喋りしてみたり、そういう事だって出来たし、本当はそういう事がしたかったのだ。

そういう事を我慢して、そういう事に憧れて、いつか出来るだろうそういう事を指を咥えて遠くから見ながら、ただ直線的に其処へと向かう様練習を積んできたのに、それなのに……。





「……茜ちゃん、もうやめなよ。……手、痛いでしょ?」


由紀にそうやって言われ、私は強く握っていた拳を圧から解放すると、掌にはやはりくっきりと爪痕が四つ並んでいた。それは紫色に色付いていて、皮膚下の毛細血管を長時間圧していたのが明らかに見てとれた。


「手は、大事にしないとダメだよ……。私達は特にさ」


包み込む様に掌を摩られると、痛さの上から暖かさを与えられた。

秋も半ばになりつつあるこの時期の、由紀の体温。それは私に嬉しさと同時に、申し訳の無さを沸々と湧き上がらせた。


「……ごめん、由紀。私、全国行けなかった……」


「……謝る事ないよ、茜ちゃん……。私、ちゃんと聴いてたよ。茜ちゃんの演奏」


そうだ。

由紀はちゃんと聴いてくれていた。

ホールを埋め尽くす観客の中でも、私には由紀の姿だけほんの少し輪郭が太く光って見える。

今日だって、ちゃんと由紀の事を壇上から見つける事が出来た。


だから、負ける気がしなかった。

何にも。

誰にも。

何処の学校にも。


演奏は上出来だった。

ミスも無かった。

これまでやってきたどの練習よりも、絶対に上手く出来た自身があった。

白海坂の金賞には確信があった。


事実として、白海坂は金賞を取った。

それでも、吹奏楽コンクールでの金賞校の全てが次に進める訳ではないというのが常である。

金賞校の中でも審査員評価の上位数校のみしか次のステージに進めない。


白海坂は全国に行けなかった。

あんなに練習したのに。

……あんなに、練習したのに…………。


「私ね、茜ちゃんのトランペットが、一番好きだよ」

言って、由紀は私に笑みを向けてくれる。

日の落ちかけた夕暮れ時のオレンジ色が由紀の表情を薄く照らすと、嬉しさと愛しさに混ざり込んだ悔しさと情けなさが、一層に自身の胸中をグラグラと駆け回っていった。


白海坂は確かに強豪校だけれど、全国常連という訳ではない。

ある程度の基盤こそあるし練習もキツイけれど、白海坂の区域は何処も吹奏楽強豪校揃いだ。去年全国に行けたからと言って、翌年もまた同じレールが敷かれているとは限らない。


だから、今年白海坂が全国に行けなかったのは、白海坂より他の学校の方がより上手く、審査員との相性が良かったからだ。


私は、まだ二年生だ。

私にはまだ来年がある。

だから、全国に関してはまた来年チャンスがあるのだ。




今年最も会場の注目を攫ったのは、演目順が最後の学校だった。

そこは区域内でも吹奏楽では無名に近い学校で、去年までは『目指せ銀賞』が目標だったであろう学校。

それが、今年はどういう訳かここまでしっかりと勝ち上がってきて、前に演奏した数多の学校をその華麗で艶美な合奏により置き去りにした。


白海坂も、置き去りにされた学校の内の一校だ。


確かに上手かった。

白海坂も上手かったけれど、確かにそこも上手かったんだ。

上手かったし、華麗で美しかった。


思い出し、私はまた悔しさから口の内側の肉を噛み締める。

切れた箇所が痛くて、鉄の味が不快で、「……コラッ」と由紀に怒らたのを機に、二度の呼吸で胸中の気持ち悪さを落ち着かせた。


由紀は私のトランペットが好きだと言ってくれた。


けれど今年、このホールで一番上手かったトランペットは最後の学校の子だった。


最後の学校が演奏するまでは、きっと私が一番上手かっただろう。

それだけの自信があった。

だって、沢山練習したから。

色んなものを投げ打って、我慢して、それでもラッパが好きで、音楽が好きだから、今年、私が一番上手い自信があったんだ。


強固なもの程一瞬で掛かる強い圧には弱いと聞く。

ダイヤモンドだって砕けるし、鉄だって濃度の高い酸素中では一瞬で錆びる。





私の自信は彼女の吹くトランペットのたった三小節で砕かれ破片にされた……。





「……ごめん、由紀」

「…………あのね茜ちゃん、私ねーー」


もう何に対して謝っているのかも分からず、ともすれば、由紀に謝る事で手前の自尊心や存在の意義を確かめる為そうしていた私に対し、由紀は、少し声量を抑え気味に、そして、少しだけ言葉を選ぶ様にして、言いを発し、先を続けた。



「ーー私も、多分、私より上手く立体を、細かく作れるとか、……そういう人がいたら、きっと悔しいと思う……。同年代にいても、年下でも、……年上の人でも。だけど、だからね、練習とかも頑張れると思うんだ。生きてる内のね、こんな、十代の内に、一番上手いなんて、きっとつまらないよ……」



茜ちゃんのトランペットが好き。



「ーーだけど、茜ちゃんはもっとトランペットが上手くなるよ。……毎日聴いてるから分かるよ、私も。……今日の茜ちゃんより、今日のあの子の方が、きっと上手かった……。だけど、私は茜ちゃんのトランペットの方が好きだよ。……この意味、分かってくれるでしょ……?」



上目を遣い、由紀は私の手の平を、爪痕が紫色に残っているだろう手の平を、両の手で優しく包んでくれた。


私は深呼吸をする。

大きく吸って、大きく吐いて。

吸う為には吐かなければならない。

全部の空気を吐き切ってから、新しい酸素を沢山肺に送る為に吸うのだ。


悔しいあれやこれやを一度吐き出して、由紀のくれる言葉とか優しさとか、そういうモノを沢山、自分に取り込む為に。


17歳のコンクールは終わった。

17歳のコンクールは全国に行けなかった。

でも、まだ18歳のコンクールがある。

この一年で、私があの子より上手くなれば良い。

たったそれだけの話だ。


「ありがとう、由紀。……多分、私は大丈夫だから」

「……うん」


閉会したコンクール。

ホールから排出される人の波。

今日喜んだ人も、今日泣いた人も、誰にでも明日がある。


私の明日はきっとまたラッパを吹く日々だ。

そして、由紀が隣に居てくれる日々。


それなら、今日の悔しさも、毎日の練習も、耐えられるかも知れない。


「帰ろうか?」

「茜ちゃん、帰って良いの?」

「うん、もう自由解散になってるから」


楽器なんかの荷下ろしは次の部活の時になっている。

だから、今日はもう帰ろう。

少しでも、心と身体を休めたい。


「何処かに寄って行こうか。由紀、付き合ってくれる?」

「ふふっ、良いよ。茜ちゃんとなら」


言って薄く笑んでくれる由紀。

何処か、お茶でも出来る場所で腰を落ち着けたい。そうして少しの反省会をして、家に帰れば良いだろう。






私はそう思っていたのだ。







本当に、私はそう思っていた。







由紀と共に帰路に経とうというその時、ホールから出てくる幾多の人の中に、だ……。




私はあの子を見付けてしまった……。




「……茜ちゃん?」

言った由紀の声が遠くに思えるくらいに頭が錯綜して、気が付くと私は由紀の手を引いて走っていた。


今しか無い気がしたのだ。


何というか、奏者としての私が自身にそう告げたのだ……。


人を掻き分け、人の間をすり抜け、由紀の手を離さないで、由紀の付いてきてくれる速さで。





「ーーちょっと待って!」


駆け寄って言うと、彼女はあっさり立ち止まってくれて、特に躊躇う事もなく此方に向いてくれた。

まだ周囲には人が沢山居るのにも関わらず、彼女は自分がそうやって呼ばれた事を自識していたし、何処か彼女にはその自信がある様にも見えた。


少し息を切らせた私と、大きく息を切らせた由紀とを交互に見て、彼女は「なぁに?」と小首を傾げてみせる。


……何かと問われると、私は言葉を返せなかった。特に何かがあるわけでは無く、衝動的に駆け出して声を掛けた結果だったから。

私にだって分かる訳がないのに、由紀と彼女に真意が分かる訳がなかった。


それでも、此方から声を掛けた以上、私が言いを発しない訳にはいかない。



「……えっと、……貴女、トランペット吹いてた子でしょ? 最後の学校で……」


「えぇ、そうですけど」

問うと、なんの感慨もないと言う風に、彼女は簡単にそうやって言いを発し、少しだけ口角を上げて笑んで見せた。



…………言葉に詰まる。



何かが言いたくて声を掛けた訳ではない気がする。……だけど、声を掛けずにはいられなかった。私は、彼女に何が言いたかったのだろうか? 何を確かめたかったのだろうか……?



「……全国、おめでとうございます」



なので、必死に絞り出した私の言葉がそれだった。

自身で自身を滑稽にすら思う。

彼女は私を知らないし、私だって彼女の事を知っている訳ではない。

ただ、今回のコンクールで、彼女が一番上手くラッパを吹いた。

ただそれだけの事なのだ。



すると、私の言いを受け、彼女は何かを確かめるようにしてから「その制服、白海坂よね?」と口を開き、先の言いを続けた。



「白海坂だって金賞じゃない」



「……私達のはダメ金だから」



「ダメ金ってなに?」



「……全国に行けない、金賞の事だよ」





そうなんだ、知らなかったわ。





すると彼女は、さもそれが当然だとでも言うように、そして何でもないと言う風に、そうやって吐いて、困った様に少しだけ笑んで見せたのだ……。



「ごめんなさい、私そういうの知らなくて。ただ、吹奏楽部の子にコンクールで吹いてって言われただけだったから……」


「……それってどういうーー」


「これの次? が、全国大会なの? 多分、私はそれには行かないわ。来週からは、また違う予定が入っているの」



此方が特に聞いていない事まで言いを吐かれ、更に彼女は先を続けた。


私が何も言いを返せないままに、彼女は先を続けるのだ……。



「あぁ、そういえば貴女見たわ。さっき。白海坂のトランペットのソロ吹いてた人ね?」


「…………」


「貴女上手ね、トランペット」


「…………」


「貴女はきっと大成するわ。頑張ってね、応援してるから」




そう言って、彼女は「それじゃあ」とこの場を後にしようとする。

そうやって、人の波でまだ溢れている喧騒の中に入っていこうとする。



「ーーッちょっと待ってよッ!」



だから、私は彼女の背中に呼び掛けた。

こんなに短い時間の間で、先程と全く同じシチュエーション。


振り向いてくれないかとも思ったけれど、彼女は再度立ち止まって此方を向いてくれた。



「まだ何か?」


問われるが、今度は躊躇わない。

言葉にも詰まらない。

だって、聞きたい事は決まっていたし、聞きたい事は山程もあったから。



「…………何で? 貴女、もう、トランペットは吹かないの?」



「えぇ、多分吹かないわ」



「……あんなに上手いのに?」



「そうね。だけど、私が上手いのなんて、きっと今だけよ。一年後二年後、きっと私より、誰も彼もが私より、何もかも上手くなってるわ」



「…………そんな、ーーッ何でよ⁉︎ 今より上手くなる為に練習するんでしょ⁉︎ 貴女だって大成するわよ! そんなに上手いのに、そんなに上手くなる為に努力したんでしょ⁉︎ 練習したんでしょ⁉︎」





問うが、彼女は首を横に振った。

それは何処か諦めにも似ていたし、ともすれば、彼女は達観している様にも見えたし、私にはそう思えた。



「練習も努力もしてないわ。私のは、つまらない、純粋なただの才能。貴女知ってる? ただの才能じゃ、好きなものに対しての努力や練習には到底敵わないのよ?」



「…………私はーー」

「才能なんてね、つまらないわよ」

言い掛けるが、私の言葉は彼女の言いに遮られた。


きっと彼女は怒っていない。

喜んでもいないし泣いてもいない。

そして、楽しんでもいない。

本当に、それが当然だと言う風に、これまでもずっとそうだったと言う風に、ーーそして、これからも変わらず、ずっとそうだと言う風に……。


「私は、貴女みたいなのが羨ましいよ。大切なものがあって、ずっと掴んで離さない事が出来るんだから。そういうのが、本当に羨ましい」


彼女は私から視線を少しだけ逸らし一瞥する。


私の隣には、少しだけ息を切らせた由紀がいた。


息を切らせて、私と彼女との会話に一言も口を挟む事無く、何故だか薄く涙を流していて、繋いだ由紀の手の平が少しだけ汗ばんでいた。





「貴女、トランペット続けなよ。きっと大成するから」


再度彼女にそう言われ、私は「……えぇ、そのつもりだよ」とだけ答えた。





こんなに悔しい事はこれまで無かった。

悔しいし、自分が何処までも情けない。

ハラワタが煮えくり返るという語句の意味が分かった。

心臓が熱くて、内臓が熱くて、手の先や足の先までが熱くて、それなのに、頭だけは変に冷静で冷えていた。




「貴女、名前は?」

私が問うと、彼女はやはり少しだけ笑む。

それがきっと、彼女のこれまでの経験から得た術なのだろう……。









「辻絢音絢芽って言います」










貴女の名前は聞かないわ。これでも私、貴女に嫉妬してるんだからね?

そうやって口端だけで笑みを作ると、「それじゃあ」と言って、今度こそ彼女は人波に紛れて行った。


私はもう声を掛ける事は無かったし、ツジアヤネさんも立ち止まって振り返る事は無かった。









「……茜ちゃん」





「……なに?」





「……お願いがあるんだけど」




首ごと視線を向けると、由紀は流していた涙をゴシゴシと拭っていた。

今日の今此処で流した涙を、全て無かった事にしようとする、そんな彼女の所作。


そうして、由紀は口を開く。












「……約束して。……世界で、一番のトランペット奏者になって」













「…………そのつもりだよ」


私は首肯と返事でそう返した。













この日、私は由紀と約束をした。









そして、私は一人の名前を覚えた。







きっとこの先、私の進む道で彼女の名前を聞く事は無いだろう。







それでも、私がその名前を忘れる事は無いと思う。









いつの日か、だ。


いつの日か、私はあいつを、私の吹くトランペットでぶっ殺す。




そう決めた。




それが、今日コンクールで全国出場を逃した私が交わした、由紀との約束だ。










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