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結局あの後、デュークに説教交じりのマナー講座を受けながら昼食を取った。
落ち込む優菜を心配したカーラは庭への散歩を提案して、今はそこでお茶を飲んでいる所だ。
「私、全然駄目ですね。」
優菜はカップを両手で抱えながらそう呟いた。出されてから暫く経っているが、一度も口を付けず、その体制のままボーッと景色を眺めて初めて口にした言葉がそれだった。
「そのような事は御座いません。どうか気を落とさないで下さいませ。」
カーラのフォローに優菜は"ありがとう"と力無く微笑む。
先程の場面では中途半端にグレンに折れる位なら腹を立ててはいけなかった。そうデュークに言われた。
確かに嘘でも良いから小馬鹿にされたと腹を立てずにありがとうと笑っていた方が丸く収まったと思う。
そもそもグレンは力の無い漆黒の女神の立ち位置を強固なものにする為、守護役と偽って付いてきてくれているのだ。
周りには漆黒の女神の方が地位が高いと思わせてはいるが実際はそうではない。
それを正しく理解しているのは、国王、デューク、アルベルト、グレンと優菜の5人だけある。
「だからって・・・」
また口を突いて出そうな文句を引っ込める。カーラが僅かに首を傾げていて、優菜は小さく首を振った。
「何でもありません。」
グレンが助けてくれているのは分かる。だからと言って二度も無理矢理キスをして、それをなかった事の様に平然としている意味が分からない。
「歩いてもいいですか?」
カーラが頷くのを確認してからお茶を一口飲んで立ち上がる。
東側にあるこの庭は現在優菜の為に立ち入り禁止にしてあるので、ここだけはぞろぞろ人を引き連れて歩かなくても良いのだ。
それでも、一人になる事はない。後ろにはカーラが付いて来ていた。
そんな彼女の様子をグレンとデュークは窓から眺めていた。
「俺に執着していると良く言えたな。」
デュークは優菜を目で追いながらそう言った。
「んー?もしかして怒ってる?」
グレンもデュークの横に並んで彼女を追いかける。
「当たり前だ。あんな子供染みた脅しは聞いた事がない。」
デュークは優菜から視線を外し、グレンを横目に見る。その眼差しは鋭い。
「ふふふ、あんなの本気にする方が子供染みてない?ユウナが僕に怒ってるから、ちょーっとだけ虐めたくなっちゃうんだよね。」
デュークの鋭い視線対し、グレンは笑顔で答える。彼の目線は優菜を捉えたままだ。
「怒らせている原因は分かっているんだろう?」
「うん、でも謝るつもりはないよ。ユウナは僕のモノだから。」
グレンは優菜から視線を外し、デュークを真っ直ぐに見てそう言った。
そこに何時もの笑顔はない。彼の本気が伺えて、デュークも視線だけでなく向き直って問う。
「いつからお前のモノになった?」
低いデュークの声がより低く響く。
「僕がそう決めた時から。」
グレンはニコリと微笑みそう返した。すっかり何時もの彼に戻り、デュークは眉根を寄せる。
そんなふざけた回答に納得等出来ない。
「ユウナの意思はどうなる?」
「ユウナの意思も少しは尊重してるつもりだよ。本気で傷付く様な事はしてないと思うけど?」
どこか含みのあるグレンの言葉にデュークは城へ来てからの優菜の違和感に不安を覚える。
ずっと重責の所為だと思っていたが、今思えばグレンのいる時だけなのだ、彼女に何か違和感があるのは。
「ユウナに何をした?」
眉根を寄せたまま努めて冷静に問う。
「ふふふ、ひみつー。」
微笑みながら優菜へと視線を戻し、グレンは飄々と言う。
大方予想はつくが幾ら尋ねてももう答える気はないのだと感じ、それでも嫉妬や怒りを隠す事無くその瞳でグレンの横顔を射抜く。
どんなに不躾な態度をとってもどうせこの部屋には二人しかいない。
暫くして優菜に視線を戻すと侍女のカーラの少し先でぼんやりと歩いている所だった。時折足を止めて花を眺めている。
表情迄は遠すぎて見えないが、その雰囲気は儚げだ。
今すぐに彼女を抱き締めて慰めたいと思うが、彼女がデューク自身に求めている訳ではないのでそれは出来ない。
それこそ、優菜の意思を無視した行動である。
一目で惹き込まれたこの感情が、執着だけではないと彼女にはそう理解して貰いたい。
けれど今はまだそれを彼女に伝える時期ではない。
それにはまだ優菜の心の整理や準備が整っておらず時間が必要だと思うのだが、悠長に構えていればいつ掻っ攫われるか分からないという不安もある。
現に今隣にいる男に優菜の唇を目の前で奪われたのだ。
思い出すだけでも腸が煮えくり返りそうな程に忌々しい。
「ふふふ、何を百面相しているの?そんなに感情を表にだしても平気な程、僕の知らぬ間に世の中は住み良くなったのかな?」
ハッとして横を見ると、いつの間に此方を見ていたのかグレンが面白いものを見る様な口調でニコニコと言っていた。
「ふん、どうせ此処にはお前しかいない。」
「この部屋には僕しかいないけど、そんなに感情で魔力を爆発させたら嫌でも人が気付いちゃうよ?それとも感情を表に出しても平気な程僕の事信頼してる?」
おちゃらけた様に言うグレンではあるが、これは彼からの戒めである。
実際、自身が魔力の調整を出来ていない事に気が付いていなかった。
どうも優菜の事になると感情を上手くコントロール出来ない。
「確かに、お前はこの世界の預言者。心の底では無条件に信頼も尊敬もしているが、ユウナの事は引けない。これ以上ユウナの意思を無視した行動を取るなら、この命に代えてもお前を潰す。預言者だろうと遠慮はしない。」
デュークの発言にグレンは一瞬だけ微笑みを忘れて目を丸くした。
先程の様に意図して笑顔を消した訳ではない。しかし、すぐに驚きの表情は消え、微笑みが戻る。
「ふふふ、ビックリした、君が素直に僕を認める発言をするなんて。・・・そう、遠慮しないって意味を込めて感情も魔力もコントロールしないんだね。」
いいよ。グレンがそう言った後、彼の微笑みが冷笑へと変わる。
「僕も遠慮しないから。」
同時にデュークの魔力によって張り詰めた空気が、それを圧倒的に上回る魔力でビリビリと気圧されるものへと変化した。
重力さえ変わったのではないかと思える程に身体は重くなり、息が出来なくなる。
部屋の全ての窓ガラスは砕けてしまった。
「・・ーっ!!」
デュークは思わず片膝を付いた。しかしその眼は意思を損なう事なくグレンを見上げている。
「なーんてね。」
そう言うと空気は一変して穏やかなものへと戻り、冷笑も何時もの微笑みに戻った。
「はっー・・・!」
空になった肺に空気を取り込めば僅かにむせそうになる。それでもデュークの眼から意思が消える事はない。
「ユウナにもそうやって力を誇示したのか?」
それどころか、少しの蔑みを含める。
「ふふふ、僕に最初に力を誇示したのは君だよ?僕と殺り合うなら聖地へ行く?それとも面倒だから無の時代に戻そうか?そうしたら僕とユウナの二人きりになれるし、闇だとか女神だとかユウナも気にせずに済むしね。」
「ふざけた事をー・・・!」
それが不可能ではないのがタチが悪い。一瞬誰もいなくなった世界で悲しみに暮れる優菜を想像して舌打ちをする。
本当にそうすれば彼女は自分を責めるだろう、そんな事目の前で微笑む男も分かっている筈なのに。
窓枠に手を着いて漸く立ち上がると、グレンは窓枠に足を掛けていて、デュークは優菜の方を確認する。
「君との話も飽きちゃったし、僕はユウナの所に戻るよ。」
園庭にいた侍女や護衛も優菜もグレンの魔力に当てられてその場に崩れている。
窓から飛び降りたグレンは宣言通りに優菜の元へと飛んで行き、彼女を抱き起こした。
窓枠を握り締めてそれを眺めるしか出来ない自身に腹が立って仕方がない。
カーラがゆっくりと立ち上がった頃、アルベルトが無遠慮に部屋の扉を開け放って入室してきた。
「殿下っ!!・・・ご無事でしたか!」
背を向けて立っているデュークを確認してアルベルトは安堵する。
「ああ。」
抱き起こした優菜がグレンから離れて立ったのを見届けてから振り返る。
「殿下、お手を此方へ。」
デュークの両手はガラスの欠片で傷付き、血塗れであった。
アルベルトはそれを治癒しようとするが、デュークは自分で治してしまう。
「いい。」
「殿下、気をお静め下さい。先程の魔力で城中の者が使い物になりません。その上殿下の魔力に当てられては余計に人手不足になります。」
グレンと対峙した時程ではないが、デュークはまた抑えが効かなくなっていた。
「ああ、分かっている。暫く部屋には誰も入れさせるな。」
そう言ってデュークは自室へと向かった。
「ユウナ、大丈夫?」
飛び立ったグレンはユウナを抱き起こした。
「グレンさん?はい、大丈夫です。今のは何だったんですか?」
立ち上がるとまた一瞬フラリとして、グレンに支えられる。
「ふふふ、ごめん。ちょっと遊んじゃった。」
全く悪いと思っていない謝罪である。
「じゃあ、今のはグレンさんなんですか?」
優菜は眉を寄せてそう言い、グレンの胸を押す。
「うーん、僕だけじゃないよ?」
「私、自分だけとか、自分だけじゃないとかそんな事聞いてないですよね?グレンさんお城にいて、此処にいる私達がこうなったって事は、お城の中にいた人達はもっと被害が出てるんじゃないですか?」
本当は声を張りたいが、頭がまだクラクラとしていてそれは出来そうにない。
その代わりにジッとグレンの瞳を見詰める。
「そうなるね。」
優菜が非難してもグレンの微笑みが崩れる事はなく、それがまた彼女の怒りを掻き立てた。
「・・ーっ!貴方にとってちょっとの遊びでも、お城にいる人達にとったら遊びで済まされる事じゃないのは自分で分かりますよね!?何でこんな事・・!」
怒りで声を張ればグラリと身体が傾いて、またグレンに支えられる形になってしまう。
「やめて!結構です!」
また胸を押して離れようとするが、今度はがっちりと捕まえられていて離れる事が出来なかった。
「・・・ユウナ、ごめん。」
先程迄とは声の調子が違い、思わず顔を見上げると、切なく眉を寄せるグレンがいた。
「だから、僕から離れていかないで。」
それは今にも泣き出しそうな程で、優菜は驚きに胸を押すのも忘れてしまう。
グレンはぎゅっと強く抱き締めて首元に顔を埋めた。
「グレンさん・・・」
此処で突き放す事は優菜には出来なかった。
簡単に怒りを静めてしまえば、相手の為にならないと分かっていても、傷付けてしまいそうでそれ以上は怒れなくなってしまう。
「もう二度としないって約束してくれますか?約束してくれるなら私はグレンさんを嫌いになりません。」
怒鳴る事はせず、出来るだけ優しく、ゆっくりと話した。
「・・・約束しても守れるか分からないよ?」
グレンの予想外にお子様な返しに、優菜は一瞬言葉が詰まる。
「えっと、それは守れる様に努力してくれなきゃですよね。」
「努力しても守れなかったら?」
「・・・」
段々と本当に子供に言い聞かせる様な気分になってくる。
ずっと首元で話しているので、若干くすぐったいのも我慢していて、少しうんざりしたのだが、グレンは預言者である以上、失敗や間違いが許される立場になかったのではないかと思い直す。
「グレンさんがちゃんと努力してくれるなら、守れなかったその時はまた怒ります。それで一緒にどうしたらいいか考えましょう。失敗や間違いは皆するものだから、一度や二度の事で嫌いになったりなんてしないですよ。皆そうなんじゃないですか?」
聖地を一人で守り、儀式の時位しか他人と接する機会もなく、王族よりも位が高ければ誰もグレンを咎める者はいなかっただろう。
そう考えれば、予想以上に子供っぽいグレンのこの反応も理解出来なくはなかった。
「そう、ユウナはやっぱり優しいね。・・・努力するよ。君が嫌がる事はしたくないし。」
そう言ってグレンはより抱き締める力を強くした。
優菜は戸惑いながらも、努力すると言ってくれた彼の頭を撫でる。
「・・っー!」
するとチリッと首筋に僅かな痛みを感じて吐息が漏れた。
「グ、グレンさん?!」
慌てて名を呼ぶと、漸く首元からグレンの顔がなくなり、けれど至近距離で視線がかち合う。
「ユウナ、好きだよ。ずっと変わらずそのままでいて。」
ニコリと笑う彼の表情は何時もと違って何だか切ない様な、寂しそうな、そんな印象を受けた。