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儚き日常

作者: いぷしろん

日常。

それは、往々にして刺激がなく、つまらないものに思われがちだ。

しかし、

今日の次に明日が来るように、

太陽が東から昇り、西に沈むように、

「いつもと同じ」ということは、ただそれだけで人に安心感を与えるものなのである。

日常の素晴らしさ。日常の儚さ。

真の意味でそれに気づくとき

それは日常が打ち壊されたときである。

私は悔いた。

日常をないがしろにし、ただあって当然とばかりの態度で日々を過ごしていたことを。

私はあの日を忘れない。

もう二度と、過ちを繰り返さない。

私はあの日、確かにそう心に誓った。




その日は朝から土砂降りの日だった。

けたたましく響く雨音に目を覚ました。

時計を見ると午前6時を示している。起きるには少し早かったが、目はすっかり冴えてしまっており、このまま起きることにした。

寝室のある2階から居室のある1階へ降りると妻が朝食の準備をしている。

「あれ?今日は早いんだね。朝食すぐ用意するからちょっと待ってて。」

そう言われると私はリモコンを手に取り、テレビの電源を入れ、向かいのソファーに腰掛けた。

しばらくすると妻から朝食ができたからこっちへ来いと言う声が聞こえた。

しかし、テレビの画面から離れるのが億劫だった私は、ここで朝食を食べると返した。

「えぇ~。もう、仕方ないなぁ。」

文句をたれながらも彼女はソファーの前にあるローテーブルに食事をおいた。

朝も早いというのに、主食、主菜、副菜、汁物としっかり揃ったこれ以上ないくらいの朝食だ。

しかし、それもいつものこと。いつからか感謝も忘れ、いつも通り食す。

それを見た彼女はちょっと困ったような顔をした後、キッチンへと戻っていった。

私は彼女が何を思うかなど気にもせず、テレビのニュースキャスターが話す経済ニュースに見入っていた。

朝食を食べ終わり、一息つくとシャワーを浴び、いつもと同じように身だしなみを整え、スーツを着込んだ。

時間を見ると7時半。職場までは1時間はかかるからそろそろ出かけなければならない。

私は鞄を手にすると玄関へ向かった。

私が出発するのを察した妻も一緒に付いて来た。

「いってらっしゃい。」

「おう。行ってくる。」

いつもと同じやりとりで家を出た。


職場へ着き、いつも通り仕事を始めてしばらくたった頃。

私はデスクで来週の会議で使う資料を作っていた。

この会議で初めて自分が作り上げた企画を発表できる予定だったのだ。

採用されれば私にとって大きな躍進につながるのは確実だった。

この仕事を始めて2年。ようやく掴んだチャンス。

これを逃すわけにはいかないと強く意気込み、精を出していた。

どこかから私の名前が聞こえた。どうやら上司が私を呼んでいるようだ。

ずいぶん焦っているように見える。

なにか問題でも起こしたかと憂鬱になりながらも立ち上がると、上司のデスクまで向かう。


「お、おい!おまえの奥さんがトラックに轢かれたって!今電話が!」


「えっ……?」


「だから、奥さんが事故に遭ったって!早く病院に行きなさい!」


私はその言葉を理解できなかった。

いや、言葉の意味は理解できた。

ただ、それが自分のことのように感じられなかった。

認められなかった。

認めたくなかった。

もし、それが事実ならあいつは今?

いや、そんなはずはない。そんなはずは……。


思考の渦に飲まれ、固まってしまっていた私の背中を同僚が叩く。


「おい!何してんだ!早く行くんだ!」


その言葉でようやく正気に戻った私は車の鍵を取り出し、急いで会社を出た。


会社を出ると自分の車まで走り、乱暴に扉を開け、乱暴に閉めた。

エンジンをかけるとラジオから陽気な音楽が流れた。

私は無性に腹が立ち、叩きつけるようにオーディオのスイッチを切った。

音楽を楽しむような余裕なんかなかった。

ただ早く病院に着きたい。その一心だった。


彼女が運ばれた病院は会社から40分はかかる位置にあった。

普段ならそう遠く感じることもない距離だ。

だがこのときは、無限に近いほどの距離に感じた。


もっと早く。

もっと早く。

思えば思うほど焦りは募った。


ほんの数分。

信号に止められただけで

間に合わず、冷たくなった妻の姿が目に浮かんだ。


警察に止められても仕方のないくらいの速度で走っているはずなのに

まるで歩いているかのように遅く感じた。


テレビのニュースで、毎日のように事故のニュースが流れていた。

それが普通だった。それが日常だった。

だが、それはあくまでテレビの向こうの話で、他人事だった。


まさか、それが妻に起こるなんて。

まさか。そんなまさか……。


やっとの事で病院に着くと、駐車場に前から突っ込み、乱暴に車を駐め、鍵をかけるのも忘れて入り口へと走った。

受付にたどり着くと、大声を出してしまいたくなる気持ちを必死に押さえ、事情を伝えた。

何を言っていたかなど覚えていない。

これ以上ないくらい焦っていたし、息も切らしていたから、しどろもどろになっていたであろう。

だがどうにか伝わり、案内してもらった。


「手術中」という文字が光る扉の前まで連れられると、そばの長椅子で待つように言われた。

私はその文字を見て妻がまだ生きていることを知った。


まだ、彼女は生きている。

ただそれだけがどれだけ私の希望となったことか。


すると手術室から医師の一人が出てきた。

厳しい顔をしている。

私はその表情に恐れを感じながらもすがるように立ち上がった。

一瞬の沈黙のあと、彼の口から発せられた言葉は、私にとってあまりに残酷なものだった。


「現在、奥様は非常に危険な状態です。我々としても全力を尽くしておりますが、最悪の事態もご覚悟ください。心中お察しいたしますが、手術の終了までお待ちください。」


そういって彼は頭を下げると手術室へ戻っていった。

私はその言葉に茫然自失となりながら、ふらふらとそばにあった長椅子へ向かい、腰を下ろすと頭を抱えた。


ここで本当に彼女は死んでしまうのだろうか。

最後の言葉も聞けず、突然に、逝ってしまうのだろうか。


そう思うと強烈な後悔の念が私を襲った。

今朝、私は彼女が作ってくれた朝食をなにも言わずに食べた。

彼女がこっちで食べようと言っているのに自分の都合でそれを拒否した。

困ったような顔をしていたのに、それに気づいていたのに、何も言わなかった。


そう。

何も言わなかった。

何も伝えなかったのだ。

せめて「ありがとう」と一言感謝すればよかった。

せめて共に食べ、何気ない会話を交わせばよかった。

こんな最後は嫌だ。

こんな別れは嫌だ。

絶対に嫌だ。


あいつが死ぬくらいなら自分が死んだ方がましだ。

本気でそう思った。

本気で変わってあげたいと思った。

普段は信じてもいない神に祈りもした。

だがどうしようもなかった。


ただ刻々と過ぎていくだけの時間に、私は己の無力さを噛みしめていた。

彼女と結婚したとき、私はあいつを一生守ると言った。

彼女は「じゃあ……よろしくねっ!」と笑顔で答えた。


それがどうだ。

自分が彼女の何を守れていると言えるんだ。

なんにも守れちゃいないじゃないか。

彼女に笑顔も、幸せも、何にも与えてやれずに

彼女の命というかけがえのないものですら守れないなんて……


「チクショウ!チクショウ!チックショォォオオーー!!」

私は自分自身に対する苛立ちを抑えきれず、そう叫びながら何度も、何度も己の膝を叩いた。

そして泣いた。

久しく忘れかけていた涙だった。

どれだけ自分を痛めつけても全く痛くなかった。

だがどれだけ自分を責めても、心が晴れることなどなかった。


ふと唐突に妻の笑顔が心に浮かび上がった。

するとそれをきっかけに、今までの彼女との思い出が走馬燈のように私の心に流れ込んで来た。


私がどうしても解けなかった課題を彼女と一緒に解いた高2の冬。

自分から手伝いを申し出たのに結局解けず、悔しがっていたあの表情。

感謝を伝えられて偉そうな態度を取るほほえましいその姿。


彼女と一緒の大学に行こうと自分に合わないレベルの大学を目指して共に受験勉強した高3の夏。

自分の馬鹿さ加減が嫌になって落ち込んでいた私を本気で心配し、励ましてくれた彼女。


時にお互いアホをやりながらも切磋琢磨し、合格を勝ち取った冬。

あまりの嬉しさに思わず抱き合ってしまい、恥ずかしさから私を思いっきりビンタしたときの彼女のちょっと赤くなった焦り顔。


新しい環境に浮かれてほかの女の子に手を出した私に、泣きながら言われた「さよなら」の一言。


過ちに気付いて、必死に謝り、やっとの事で私を許してくれたときの変わらない天真爛漫な笑顔。


必死に働いて稼いだお金で用意した指輪を手に、夜景の見える丘でプロポーズしたときの、驚きと嬉しさが入り交じり、うれし涙を流す彼女の表情。


懐かしい思い出の数々から、私はどんなときも笑顔を忘れない、彼女の生き方を思い出した。

そうだ。彼女はいつも優しく笑っていた。

時に涙を流すときがあっても、最後には必ず笑顔で乗り切っていた。

彼女は私がこうして自分を責め続けるのを望まないだろう。

それならばせめて、

せめて信じよう。

彼女が生きて帰ってきてくれることを。


そう思うと不思議と涙はすっと引いていった。

私は彼女の生きる力を信じ、ただひたすら彼女の無事を祈った。

ただひたすらに祈り続けた……


しばらくして「手術中」のランプが消えた。

私は即座に立ち上がると手術室から出てくる医師を待った。

医師が出てくるまでのちょっとした時間がひどくもどかしく感じた。

やっとのことで出てきた医師は私のほうを見るとやさしく笑みを浮かべながら深く、ゆっくりとうなずいた。

私はその意味を理解すると床に膝をつき、泣き崩れた。

「よかった……本っ当によかった……ありがとう……ありがとうございました……」

「いえいえ、奥様の生きたいという気力が強かったからですよ。」

そういうと彼は私に立ち上がるように言うと、彼女の容態を説明し始めた。


「なんとか山を越えることはできました。とはいえ、意識が戻るまでは安心できません。それまで、病室で彼女に付いていてあげてください。」


病室に入るとそこには点滴や心電計に囲まれ、全身を包帯で覆われた痛ましい姿となった妻がいた。

だが心電計からは規則正しく、はっきりとしたリズムで心拍が聞こえた。

彼女は生きていた。

彼女はこの危機を乗り切ったのだ。

私は嬉しさのあまりまたもや涙を浮かべそうになった。

涙なんて久しく流していなかったというのにずいぶんと涙もろくなったものだと思った。

ベッドの横に用意されていた椅子に腰掛け、彼女の横顔を見る。

包帯に覆われていれどもその頬は確かに血の気があった。

彼女が意識を取り戻すまで、私はずっと彼女の横顔を見ていた。


しばらくして

「んっ……」

「おっ。意識が戻ったのか?俺が分かるか?」

私がそうささやくと、彼女はゆっくり小さくうなずいた。

「イケメンさんが目の前にいますよぉ……」

「ちょっ、おまえ、こんな時に……バカヤロウ……変なこと言うんじゃねぇよ……」

彼女は思わず泣き出しそうになる私の手を弱々しい力で握ると、こう続けた。

「私……まだたっくんとさよならしたくなかったから……戻ってきたんだよ?」

「俺も……またこうやっておまえと話がしたかったよ……よかった……お前が生きていてくれて、本当によかった……」

私たちは共に涙を流して見つめ合い、もう一度こうして語り合うことができた奇跡を噛みしめた。


「俺……今回のことでたくさん反省した。後悔した。今まで俺、お前に感謝の気持ちも何も、伝えてこなかったよな。お前の頑張りに、ちゃんと応えてあげられなかったよな。いつもいつも、俺に合わさせてしまってばかりでごめんな。これからはちゃんと気持ちを伝える。一緒の時間をもっとたくさん作る。お前のやりたいことだっていくらでも叶えてやる。そしてなにより、俺はお前に誓おう。お前を絶対1人にさせない。俺が必ず、お前の隣で、お前の最後を看取ってみせる。俺は今日、残される者の苦しさを知った。ただただ悲しく、辛かった。お前にそんな思いはさせたくない。だから安心して生きていてくれ。俺はただお前がそこに居てくれるだけで、頑張れる。」

「ふふふ。ありがとう。たっくんがちゃんと反省してくれたのなら怪我したのも儲けものだったかな?っていうかそんなかっこいいこと言っちゃって……もう……惚れ直したよ。これからが楽しみだなぁ。最後までよろしくね?」

私は彼女のようににっこりと笑うと、深く、しっかりうなずいた。

「あっ、そうだ。お見舞いは駅前のシュークリームでよろしくね?」

「え?ちょ、あそこ、遠っ。ってまあいいか。買ってくるよ。愛しのお嬢様。」

「あら、お上手で。」

こんな冗談も今まではただ毎日過ぎ去る日常の一コマにすぎなかった。

だが今では違う。

今ではこうしたやりとりの一つ一つが大切な思い出であり、私自身の心にしっかりと刻まれる大切な日常なのだ。


こうしてこの事件は後腐れなく終わった。

彼女も怪我こそかなりの重傷だったものの、幸い後遺症もなく、1年後に無事退院した。

私がその間の家事洗濯炊事でとてつもない苦労をしたことは言うまでもないだろう。

そんなことからも彼女の大切さを骨身にしみて感じたものだ。

この事件の後から、私は彼女への宣言を守るため、長年吸い続けてきたたばこをやめた。

大好きだった夜酒もやめ、毎朝のジョギングとバランスのよい食事をする習慣を作った。

通勤の際には事故に遭わないように、また起こさないように常に細心の注意を払った。

私自身が彼女と同じ状況になり、彼女を苦しめないように。

そして何より、第二の彼女を作らないように。

すべては彼女のため。彼女との約束を守るため。

そう言い張る私に彼女はやりすぎだよと言ってくれるが私はそうは思えなかった。

意地でも約束を守る。そう心に決めていたのだ。



あれから68年が経ち、ついに今日、私の妻は亡くなった。

私の目の前で、私に見守られながら、安らかな笑顔で静かに息を引き取った。


妻よ。

私は確かに君との約束を守ったよ。

私はちょっとさみしいけれど

君はきっと最後まで幸せだっただろう。

私ももう少ししたらそっちへ行くから

そのときはまた

やさしいあの頃の笑顔で

出迎えてくれるかい?


彼女は最後にこう言葉を残した。

「今度は私があなたを見送ってあげるんだから……」


私は彼女と出会えて幸せだった。

これだけは自信を持って言えよう。

もうひ孫に囲まれるような年になってしまったけれど

心はあの頃のままで

お前を死ぬまで

いや、死んでからもずっと

愛し続けよう。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


祖母の死から3年後、祖父は私たち家族に見守られながら静かに息を引き取った。

その顔は仏様のように安らかで、幸せそうな顔だった。

祖母と祖父のエピソードは私たちも聞いている。

幼い頃は2人の話を聞いて、恋にあこがれたものだ。

祖母は2人の兄弟を産み、そのうちの兄が私を含む姉妹2人の父となり、弟が兄妹2人の父となった。すでに私と私の姉、そして従兄弟が結婚し、子供を授かっている。

私たちの家系は皆互いを愛し、互いを思いやることを大切にしている。

これは祖父の教えの賜物だ。

祖母が大けがをする事故に遭って以来、気持ちを言葉で伝え、相手のためを思って行動する姿勢を最後まで貫いてきた祖父。そしてなにより、自分が彼女を見送るのだと必死に努力し、それを本当にやってのけたその気概には私も尊敬している。

この話はこれからも私たちの子に、孫に、語り継いでいこう。

祖父があれからもう一度、祖母と出会い、いつまでも一緒に居られることを、私たちは真に祈っている。


ーーーーーーーーーーー完ーーーーーーーーーーーー


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