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7 アホ子の金魚鉢



 父親がいなくなったのは、奈穂子が三歳のときだったらしい。

 そのころの記憶はほとんどなくて、父親の顔も、声も、父親との思い出も、なんにも覚えていない。

 ただ、奈穂子を抱き上げてくれた大きな人がいたような記憶だけは、うっすらと残っていた。


 父は蒸発したのだという。

 元々女性関係に問題のある人で、母と結婚してからも複数人と付き合いを続けていた。

 そのうちの一人と、遠くへ行ってしまったんだと。

 近所の人の噂話をつなぎ合わせると、そういうことらしかった。

 母親からはっきりと聞いたことはない。

 当時は蒸発の意味すらわからないほどに子どもだったし、ある程度大きくなると多少空気を読めるようになっていた。聞いてはいけないことだとわかった。

 けれど、きっと当たらずとも遠からずなんだろう。


 奈穂子を育てるために、母親は一生懸命働いてくれた。

 朝から夜まで働きづめで、保育園に迎えに来るのはだいぶ暗くなってからだった。

 いつも保育士と一緒に遊んでいた奈穂子は、ある日、部屋の隅で本を読んでいた男の子を誘った。

 それが、健司だった。

 健司の母親もその当時はパートに出ていて、奈穂子の母と同じくらい迎えが遅い日がちょくちょくあった。

 暗くなってからは外では遊べないから、室内で本を読んでもらったり、歌を歌ったり、折り紙や工作をしたり。おままごとに渋々付き合ってくれたりもした。


 奈穂子は健司のことがとても好きだった。

 健司はいつも、どんなときでも、奈穂子を拒絶しなかったからだ。

 遊ぼう、と言うと遊んでくれた。本を読んで、と言うと読んでくれた。これなんて読むの、と聞くとちゃんと教えてくれた。

 みんなの前で奈穂子から手をつないだときも、恥ずかしそうにしていたけれど決して振り払ったりはしなかった。

 奈穂子は誰よりも、健司が好きだった。

 どの先生よりも健司に懐いた。

 帰りたくない、けんちゃんと一緒にいる、と泣くほどに。

 幸い奈穂子の家と健司の家はそう離れてはいなかった。

 自然と、休日には互いの家に遊びに行くくらいの仲になった。


 奈穂子と健司が五歳のときのこと。

 保育園に金魚がやってきた。

 園児が夏祭りで金魚をすくったけれど、家には水槽がなかったらしい。

 保育士の一人が金魚鉢を持っていたので、保育園で飼うことになったのだ。

 園児が中に手を突っ込んだり、鉢を倒したりしないよう、金魚鉢はいつも保育士の管轄下にあった。

 初めは物めずらしさに金魚鉢に群がっていた子どもたちも、ただせまい鉢の中を泳いでいるだけの金魚に、次第に興味を失っていった。


 奈穂子はその金魚鉢を眺めているのが、とても好きだった。

 薄水色のまあるいフォルム。白や灰色の小石。ゆらゆらと揺れる水草。そしてそこで優雅に泳ぐ赤と黒の二匹の金魚。

 どれだけ長い時間見ていても飽きなかった。

 そして、それは健司も同じだった。

 今まで好きな遊びがかぶったことのない奈穂子と健司は、そのとき初めて意気投合した。

 二人で金魚鉢を眺めているだけで、うれしかった。楽しかった。気づいたら驚くほど時間が過ぎていた。


 いつまでも金魚鉢の前から動かない二人に、保育士はたまに餌やりをさせてくれるようになった。

 金魚は餌をあげたらあげただけ食べちゃうから、気をつけてね。

 餌の入った箱を受け取るとき、そう保育士に注意された。

 その言葉に、奈穂子は怖くなった。

 人よりも食べる量が少なかった奈穂子は、お腹いっぱいの苦しさをよく知っていた。

 お腹いっぱいのときにさらに食べようとすると、お腹がはちきれそうになる。

 なのに、金魚は満腹がわからずにもっともっとと食べてしまうという。

 きれいな二匹の金魚に、苦しい思いをさせたくなかった。

 自然と、あげる餌の量は激減した。


 そのせい、だったのかはいまだにわからない。

 ある日、奈穂子が金魚鉢を覗いたとき。

 そこには赤い金魚しかいなかった。

 あれ? あれ? と奈穂子は探した。金魚鉢を両手で抱えるようにしながら。

 そうして、見つけてしまった。

 水草の間に隠れていた、半分以上食べられて、尾と骨だけの姿になった、黒い金魚を。


 奈穂子は悲鳴を上げて、両手を離した。

 金魚鉢は棚の上から転がり落ちて、ガッシャンと割れた。

 何がなんだかわからなくて、奈穂子は泣いて泣いて泣きまくった。

 ビックリした。恐ろしかった。申し訳なかった。

 いろんな感情が複雑に混じり合って、みんなが集まってきても涙は止まらなかった。

 いつのまにか、奈穂子の手を握る手があった。

 だいじょうぶだよ、だいじょうぶだよ。そう声がかけられた。

 こわくないよ、だいじょうぶ、なかないで、おれがそばにいるよ。

 手の主は、声の主は、健司だった。

 健司は懸命に奈穂子を慰めようとしてくれていた。


 それから、保育士の手によって赤い金魚は救出されて、違う水槽で飼われることになった。

 金魚の死骸を見てしまった奈穂子を案じてか、別の部屋で。

 割ってしまった金魚鉢は、もう古いものだったということで、弁償する必要はないと言ってもらえた。

 物を壊してしまったことで、保育士にも母親にも叱られはしたけれど、奈穂子のショックが大きかったからか、そこまで強くは言われなかった。

 あの時は、本当に本当に、怖かった。

 数年ほど骨のついた魚を食べられなくなるくらいに、トラウマになった。

 それでも、一番記憶に残っているのは、ずっと奈穂子の手を握ってくれていた健司の手のぬくもりと、優しい声だった。


 ごめんね、ありがとね。

 金魚共食い事件のあとすぐに、奈穂子は健司にお礼を告げた。

 なほ子はアホ子だから、おれがそばにいてあげる。おれが守ってあげる。

 健司は、真っ赤な顔をしながら、黒い瞳でまっすぐ奈穂子を捉えてそう言った。

 うれしい、と思った。

 ずっと傍にいてくれる。ずっと守ってもらえる。

 奈穂子がアホ子だから。健司がいないとダメだから。


 だいすき、と奈穂子は心のままに言葉にした。 

 おれも、と健司は照れながらもちゃんと返事をしてくれた。


 しあわせだった。

 二人で一緒に金魚鉢を眺めているときのように、満たされていた。

 ちゃぷんちゃぷん、水が揺れる音がする。

 あたたかな水で満たされているとしあわせで、冷たい水が注がれると悲しくて、水が減ると寂しい。

 そんな、奈穂子の心の金魚鉢。



 ガッシャン。

 今はもう、金魚鉢は壊れてしまった。







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