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雨音 四

       四


「……………」

純粋無垢な眼差しが、書物を手にする嵐に真っ直ぐ注がれている。

 こんな状況でもなければ微笑ましいと感じたであろうそれが、今の嵐にとっては気を散らすことこの上無い、難物(なんぶつ)だった。

(勘弁してや…)

 これで何度目になることかと思いつつ、嵐が口を開く。

「……あんな…、若雪どの。(とこ)の中の隙間(すきま)からであっても、視線、いうんは気になるもんなんや。―――――あんまこっちを見られては気が散る。そもそも俺は、そういうもんに(さと)い生業しとるんやから。さっきから、書物がいっこも読み進めてへんのやけど」

 横になった若雪との間に几帳を挟んで嵐が書物に目を通す、ということで落ち着いた筈の状況だったが、智真が明慶寺へと戻り、いざそれを実行するとまた別の問題が生じた。

 確かに若雪は、嵐の邪魔をせぬよう大人しくじっとしていた。

 書物に目を落とす嵐をじっと見ていた。

 夜具を目の下まで引っ張り上げ、目から上だけを覗かせた状態で、几帳に掛けられた練絹と襖の隙間から嵐を凝視し続けた。

 ―――――――これで集中出来る筈が無かった。

(子供帰りしとるんちゃうか)

 本気で嵐がそう疑った程、こちらを見る瞳には邪気が無い。

 その仕草を愛らしいと思わないでもないが、集中を乱して命続祈祷の調べ物を疎かにする訳にはいかない。面白くないという自分の思いはさておき、もう少し智真を引き留めておくべきだったかと考える。だが智真も、そう暇な身ではない。いつまでも若雪の相手をさせるものではなかった。

「あ…、すみません」

 若雪は指摘されるとすぐに視線を逸らす。

 そしてまた必ず、その視線は嵐に帰ってくるのだ。

 どうでもいい人間の視線なら受け流すことも無視することも出来るが、相手が若雪ではそうもいかなかった。

 嵐はこれ以上読み続けることを断念して、書物をパタリと閉じた。

 がしがし、と首の後ろを掻く。

「ああ、もう」

 その声を聞いて、若雪が恐る恐る、という顔をしたのがわかった。

 また嵐が彼女を叱るのでは、と思っているのだ。その顔を見て、嵐は少しばかり後悔した。自分の短気な性分が、不必要に若雪を構えさせている、と思ったからだ。

 意図的に作った表情で、声で、相手の望む自分を演じるのは嵐の得意とするところであったが、本音で相対する人間相手には、つい性格のきつさが表に出てしまう。

 智真や市のように、嵐のきつさをあしらうのに慣れている人間が相手であればそれでも良いかもしれないが、若雪は、他者をあしらうという行為に馴染(なじ)みが薄い。身内に対しては特にそうだ。いつでも温厚で純粋で、真面目だ。

 嵐が鑑みたところでは相性が悪い訳でも無いと思うのだが、若雪と嵐がそれぞれに持つ個性は、時にひどく噛み合わず、たまに嵐を苛立たせ、反省を促したりもした。

「この際や、若雪どの。俺になんか、訊きたいことは無いか?訊かれるまんま、答えたるわ。人の話す声でも、聞いてたら暇つぶしにはなるやろ。けど今日だけやで。明日から、また俺は書物の続きを読む」

「――――何でもよろしいのですか?」

 怒られるとばかり思っていた若雪は、嵐の気前の良い発言に目を丸くした。

「――――――ええで」

 よもや女子絡(おなごがら)みの話までは訊かれまい、と思い、嵐は請け合った。

 訊かれた言葉は危惧(きぐ)したものとは全く方向の異なる、思いもよらないものだった。

「…嵐どのはなぜ、料理がお上手なのですか。何か、秘訣(ひけつ)でもあるのでしょうか」

 真剣な声に、嵐は目をぱちぱちと瞬かせた。

 それから笑いが噴き出そうになり、慌てて口を手で覆った。

 しかし、くっくっく、という笑い声はどうしても漏れてしまい、若雪は怪訝(けげん)な表情をした。自分が嵐を笑わせるようなことを訊いたとは、思ってもいない様子だ。

(ああ、せやった。若雪どのの、弱みやったな…)

 人も羨む容姿に触れれば切れる程の聡明さを備え、更には剣を取らせれば敵無しという、およそ完璧と見える彼女は家事、とりわけ料理がひどく不得手で、そのことに強い引け目を感じているのだ。

 改めてそのことを認識し、嵐にはその引け目が可愛くも可笑しくもあった。

「――――母親がなんも出来んかったからな。俺が上達するしかなかったんや。食うてく為にも、色んな仕事せなあかんかったし」

 笑いが収まり、嵐が語った内容に、若雪は自分が踏み込んだことを訊いてしまったと思った。嵐は特に気にした風でもなく、喋り続けている。

「俺の母は叔父上の姉とは思えん程、若う見える人でな。子供心にこの人は化けもんちゃうか、って疑うたりもしたもんや。その上、まあ息子の俺が言うのもなんやけど、それなりに別嬪やった。若雪どのみたいに儚い感じやのうて…、せやな、お市様と少し似た感じか。せやけど名家に育ったからか、料理どころか、実利に繋がるようなことはいっこも出来んかった。若雪どのの比やないで」

「…はあ」

 実利を重んじること甚だしい嵐の母の印象としては、意外なものがある。なまじ嵐が何でも器用にこなしてしまう人間なので、その母も、出来ないことは無いような女性だったかのように若雪は考えていた。それとも実利と程遠い母を持った為に、逆に嵐の中で実利に重きを置く性質が育まれたのか。

 市に似た雰囲気の美人、を頭の中で描いた若雪は、そこから嵐が生まれるところを想像してみた。性格はともかくとして、顔立ちには何ら似通ったところの無い二人だ。両者共に端整ではある。

「茶目っ気があるいうか、子供じみたところのある人でな。よう悪戯(いたずら)を仕掛けられて往生したわ」

「悪戯?」

「家の戸を開けると桶が上から降ってくるのは日常茶飯事で、いつの間にかこしらえた落とし穴に落とされたり、暴れ馬をけしかけられたりな。…他にすること無かったんかな。本人は、自分がおらんようなっても俺が生きていけるよう、鍛えとるんやて言うてたけど。―――――――あれは半分以上、面白がってたな」

「………」

耳を疑う程に、剛毅(ごうき)な気性の女性だ、と若雪は思った。そして、幼少のころより身内にそのような鍛えられ方をしていれば、嵐のような若干癖のある性格になるものなのだろうか、ともこっそり考えた。

「…なんか俺に失礼なこと考えとるやろ」

 嵐に指摘され、若雪はどきりとした。小さく首を横に振る。

「いいえ。そのようなことはありません」

「あ、そ。まあ、ええけど」

 あまり信用してはいない口振りだった。

「――――なあ。俺も訊いてええか、若雪どの。あんた、…料理する時に、その、……味見はしてるよな?」

 嵐はこの機会にと思い、かねてより疑問だったことを口にしてみた。

 失礼の仕返しという訳ではないが、今なら訊けそうだと思ったのだ。

 返答はすぐに返ってきた。

「もちろんです。何回も」

 若雪の力んだ答えに、さよか、と相槌を打ちそうになって、(とど)まる。

「……何回も?」

「はい。これでも、料理が不得手だという自覚はあります。ですから、何かを作る際には、何度も何度も何度も、味見に味見を重ねて―――――…仕舞いには、味がよくわからなくなるのですが…………」

 言葉が進むにつれて、若雪の声は憂いを含み、重しを載せられた舟のように沈んでいった。

「―――――……成る程な」

 思わず嵐は(うな)ってしまった。

 不得手と思う余り、力み過ぎているのだ。

 嵐は、若雪の作る料理の、実に独特な味付けであることの合点が行った気がした。

(…俺が横で教えたったら、なんとかならんもんかな)

 それとも、そうしたらそうしたで、若雪は嵐の目を気にして緊張し、いつも以上に力んでしまうだろうか。

 話題が途切れ、双方共に沈黙した。

 実のところ若雪は、先刻から嵐の話には父親が出て来ない、と思っていた。

 口数多く話すのは、母親のことばかりだ。

「…………」

 不自然と言えば不自然だが、茜の一件もある。

 触れたくないことは誰の過去にでもあるのだと思い、若雪はその点を追及しようとはしなかった。恐らく嵐は、母一人子一人のような環境で育ったのだろう。嵐にとって母の存在は、若雪が推し量るよりもずっと大きなものなのだ。

(確か、嵐どのが十にも満たない年に、亡くなられたのだと聞いた……)

 その存在を亡くした時の嵐の心の痛手を思うと、若雪の胸も(きし)むようだった。

 そうした様子の若雪を、気がつけば嵐がじっと見ていた。

「―――――なあ、若雪どの」

 世間話でも始めそうな口調なのに、その声を、どこか怖い、と若雪は感じた。嵐には、真剣な話を何気ない口調で切り出すところがある。床の中、身構える思いで答えた。

「…何でしょうか」

 目を逸らさぬまま嵐が続けた。

「小雨か?」

 表に出すまい、と努めた若雪の顔が、ただ固まる。

「――――何が、ですか?」

「若雪どのに労咳をうつしたんは」

「違います」

 素早く、若雪は断じた。

 それは勘違いであると、嵐には思ってもらわなければならない。

「けど、他におらんやろ。その子は、体調を崩してた言うたな?そんで若雪どのと数日の間、寝起きを共にした。―――――――小雨からうつったとしか、考えられへん。時期から考えてもな。なら小雨はそのあと、どこに消えた?雇い主がおる、て言うてたんやろ?……そいつが、この成り行きを仕組んだんやと考えるんは、俺の穿(うが)ち過ぎか?」

「穿ち過ぎです。いくら嵐どのでも――――。あの子はただ、亡くした一向宗徒の母親を恋しがっていただけです。私や、あなたや、養父上や、織田様が死なせた親が恋しくて、寂しかっただけです」

 その声には怒りも、あてつけめいたものも無かった。ただ切ない悲しみだけがあった。

「………うん、小雨は多分その通りなんやろな。せやから問題は、その雇い主のほうなんや。あんたにはとうに、見当がついてるんやないんか」

 若雪は口を閉ざし、もう何も答えようとはしなかった。

 こんな問答を、以前にもした覚えが嵐にはあった。

(あれは…)

 嵐下七忍を若雪に引き合わせたあと、丹比(たじひ)(みち)から逸れた河原でのことだった。

 あの時の若雪は、自分に暗殺の為の剣を教えた父親を庇っていた。そうして偽りで彩った父の像を、信じ込もうとしていた。


 今は誰を庇っているのか――――――。

 嵐には、既に大方の推測が出来ていた。

 若雪の部屋をあとにし、自室へと()()げながら嵐は思った。

 若雪が死に繋がる病をうつされて尚、庇おうとする人間などそう多くはいない。

 庇えば庇う程に、嵐の確信を強くするだけだ。

〝私の、悪い癖です〟

 父親の姿から目を背けようとした若雪は、自らをそう評して責めた。

 そんな彼女に嵐は、それは若雪の弱さではない、と言ったのだ。

 今でもその思いは変わらない。

 あえて若雪の悪い癖を挙げるなら、情が深過ぎることだ。

 初めて若雪に会った時、嵐はその印象を、情に(もろ)そうだと評した。それから、それが命取りになるかもしれない、とも言った。

「……………」

 果たして、事態は嵐の言った通りになったのだ。

 大きな夕日が沈もうとしている。

 暮れゆく冬の風は一層、冷たい。

(日が、沈む――――)

 嵐は目を細くして、落陽(らくよう)に見入った。

 間を置かずに、あたりを暗闇が包むだろう。

「――――兵庫」

「はい、何ですか?」

 名を呼ぶとすぐ隣の部屋の障子戸が開き、兵庫がひょっこり顔を出した。

「裏付けは?」

「まだですね」

「…お前にしては時間のかかるもんやな」

「そりゃ、他の七忍はそれぞれ関東やら中国やらに散って、堺には今俺しかいませんし?色々と、手が足りないんですよ。ご理解ください」

「―――続けて調べろ」

「はいはい」


 数日後、昼頃に再び納屋を訪れた智真は、若雪の部屋を訪れる前に、志野に呼ばれた。

 若雪には内密に、相談事がある、とのことだった。

「―――小雨(こさめ)?」

 供された茶碗から、智真は顔を上げた。

「はい。具合を悪うしてたようで、数日の間、姫様がお部屋で面倒見はったんです。私には、どうも姫様の病が、その子からうつされたとしか思えんで――――――。姿を消したんは、単に主人のとこに戻っただけなんでしょうけど。姫様からは、そのことを誰にも言うな、とりわけ嵐様には知られるな、って口止めされたんです…。けどなんや不安で……。智真様にお話ししようと思いましてん」

 客間の一室で恐縮するように話す志野を、智真は見つめた。

 志野が若雪の意思に背くなど、滅多にあることではない。

 しかも話を聴く限り、明らかに若雪は小雨と、―――――その主人とやらを庇っている。

「…志野さん。その子、どんな子でした?」

「蘇芳の色の鮮やかな着物の…、肩までの黒髪で。大きな目の、愛らしい()(わらわ)でした」

「―――――――――――――」

 それを聴いた智真の身を、衝撃が駆け抜けた。置き損ねた茶碗が畳に転がり、緑の茶が畳の上に(あふ)れては()み込んでいく。

「……智真様?」

 顔色を変えた智真に、志野が訝しげに声をかける。

 カタリ、と音がして二人が振り向くと、若雪が立っていた。手をかけた障子戸が細く開いた向こうで、顔を強張らせている。

「――――喉が渇いて。水を貰おうと思ったら話し声がしたので、つい足を止めてしまいました。すみません…」

 言い訳するように若雪が言った。

「姫様……」

 うろたえる志野を制して、どちらともなく智真が口早に尋ねる。

「嵐は、どこです?」

 切迫(せっぱく)した声に戸惑いながら、若雪が答えた。

「明慶寺に行くと、仰っていましたが?」

「――――来てません」

 目眩(めまい)がするような思いで智真が言った。

「え?」

 聴いた言葉が理解出来ない、という表情を若雪が浮かべる。

 そんな彼女に向けて、()んで(ふく)めるように智真は繰り返して言った。

「嵐は、明慶寺には来てへんのです!」

「―――けれど………」

 確かに嵐は、明慶寺に行くと言って昼前に出かけた。

 なぜ彼が、行く先を若雪に偽る必要がある―――――――。

若雪はそう言おうとして、一つの可能性に気付き両手で口元を覆った。

「まさか」

「若雪どの――――、あなたは部屋に戻ってください。私が嵐を追います。嵐は、小雨の主人が誰やったんか、もう気付いてる。早う行かんと――――――――――殺してまう」

 最後の言葉を智真は青ざめた顔で呟き、足早に走り去った。

 残された若雪と志野は、揃って茫然としていた。


 寒風の吹き(すさ)ぶ堺を駆けながら、智真は去る五月雨の日のことを思い出していた。


〝智真…。頼みがある〟


(なんでや―――――)

 道を駆ける墨染の有髪僧は随分と大衆の視線を集めていたが、今の智真の知るところではなかった。

(なんでや、兼久どの―――――――!!)


 堺の町は北荘と南荘に分かれているが、兼久の構えた邸は宗久の納屋と同様、南荘にあった。

 元々あまり人を雇わない主義の兼久の邸に、智真は訪問を知らせる声もかけずに、草鞋(わらじ)()ぐ手ももどかしく兼久の名を大声で呼ばわりながら駆け込んだ。

「兼久どの!どこですか、兼久どの!?」

 不思議な程に、邸には人の気配が無い。いくら奉公人が少なくても、智真がこれだけ騒げば、誰か一人くらいは駆け付けて来て良さそうなものである。

(――誰も、おらんのか?…兼久どのも?)

 出来れば不在であったほうが良いと、そう思いながら声を張り上げていた智真だったが、彼の呼びかけに応じる静かな声があった。

「ここや。―――――騒々しいな、智真」

 さらりと開いた障子戸の向こうに、兼久が立っていた。

(間に合うた――――――)

 智真は肩で息をしながら、そう思った。

 ひとまずは、安堵する。

「…兼久どの……。あの時の子供は、小雨て言うんですか?…あの雨の日、私と和尚さんで(とむろ)うた、あの子です」


 頼みがある――――――――――。

 濡れそぼった兼久の腕には、小さな女の童が抱かれていた。

 既に、事切(ことき)れていた。

〝この子を、弔うてやってくれんか〟

 抱き取った子の身体はひどく冷たく、腕にずしりと重かった。

 濡れた肩までの黒髪が二筋(ふたすじ)ばかり子供の頬に張り付いていた。

身に着けていたのは、目に染みるような蘇芳の着物だった―――――――――。

 訳ありであることを察した智真は、すぐに明慶寺住持に相談し、兼久の願う通りに子供を境内の墓地に葬り、経を上げて(ねんご)ろに弔ってやった。

それを最後まで見届けた兼久は弔いの礼だけを述べ、十分な額の回向(えこう)代を置くと他には何も喋らずに去って行った。

 智真たちは黙って兼久を見送り、彼の行為の背景までを探ろうとはしなかった。


「ああ……。そう言うたら、名前を訊いたことも無かったな。小雨、言う名前やったんか…。―――――悪うないな…」

 常と変わらず、淡々と言う兼久に智真はカッとなった。

 何かの間違いではないか、実は兼久は何も知らないのではないか。そう、祈るような思いで駆け付けた自分の行為を、軽んじられた気がした。

 激したままに怒鳴りつける。

「嵐に殺されてもええんですか!」

 兼久は顔色一つ変えなかった。

「……あの子はな、いつの間にかうちの庭に入り込んで、茶室で私が茶を点てる様子を聞いてた。ご覧のとおり、納屋とは違うて、入ろう思うたら入り放題の家やさかいな。私が茶室を出るまでじいっと待っとる。猫みたいな子やった。作法もなんも知らんけど、茶の味が好きなようでな、私が点てた茶を飲ませたら、それは大事そうに、少しずつ飲みよるんや。愛らしかったで」

 兼久はその様子を思い出したように、目を細めた。

「気紛れに、下働きなんぞさせてみた。……労咳を患っとることに気付いたんは、少し経ってからのことやった。―――――あの子の両親はもう死んでたようやったけど、よう受け容れられんのやろな。(かか)(さま)を探してるんやと、いつもそればかり言うてた。………今にして思たら、少し心を病んでたんかもしれん」

 智真は何も言えずに兼久が語るのを聞いていた。

(まさか)

「あんまり母を恋しがるんが哀れで、私は言うたんや」

(そんな)

「兼久どの、あなたは――――――」

「―――――納屋に、お前の求めてる母がおると。天女のように綺麗で、お前に優しゅうしてくれる女人(にょにん)がおると。部屋の場所も、私が教えた」

 兼久が、誰を指してそう言ったのかは、明らかだった。

 智真はまだ信じられない気持ちで兼久を凝視していた。

 気付けば、走った際に噴き出た汗が(したた)り落ち、足元の畳に小さな()みを作っている。

「なんで。なんでそないなこと言うたんですか……。それを言うことで、小雨を納屋に差し向けることで何が起こるか、まるで解らんかったとでも言うんですか!?」

 兼久の両腕を掴んで揺さぶる。

「いや―――――、ことはむしろ、私の望んだように動いた。私自身が、驚いた程」


 そのころ納屋では、智真が去ったあと我に返った若雪が、声を張り上げていた。

「兵庫!兵庫!」

 自室に戻り、上に向かい下に向かい、声を限りに叫ぶ。その声には懇願の響きがあった。

「兵庫!出て来てください!」

「――――犬猫じゃないんだから。あんまり頑張って声を出すと、身体に障りますよ。若雪様」

 開いた障子戸から、ごく普通に兵庫が姿を現した。

 てっきり天井や床下あたりにいるかと考えていた若雪は、多少驚いたが、そのことに構う余裕は無かった。

「嵐どのを止めてください。急いで――――あなたは、行き先を知っているのでしょう」

 確信の籠った若雪の問いかけに、兵庫は軽く肩を竦めた。

「まあ知ってますけど。…その命令には従えませんね」

 突き放すような言い方に、若雪は目を見開いて尋ねる。

「どうして………」

「嵐様から、別命を既に受けてます。若雪様を、ここから動かないようにしろ、とね―――――――――」

 行動を読まれている。

 若雪は唇を噛んだ。

 そんな若雪を見ながら、兵庫が口を開く。

「…いつか、若雪様は俺に訊きましたよね。嵐様と若雪様、双方から違う命令を受けた時にはどうするか―――――。俺は答えた筈です。理と、義を多く含むほうの命に従う、と。今の若雪様の命には、理も、義も感じられません。ただ情によって動いている。違いますか」

 兵庫の言葉は冷たく、容赦が無かった。

 それから少し間を置いて、付け加えるように言った。

「―――俺も少しは迷ったんですよ、若雪様。もし俺が調べ上げた通りのことを嵐様に報告すれば、嵐様が兼久どのを許さないであろうことは、明白でしたから。けどね、迷ったのは……少しの間だけでしたよ」

 若雪はただ兵庫を見つめている。

「――――…あなたも一応は俺の主です。自分の主を死病(しびょう)に追い込んだ人間を、俺が救わなきゃならない(いわ)れも無いですね」

 ふい、と横を向いた兵庫を、若雪は一喝(いっかつ)した。

「このたわけが!!」

 若雪が人生で初めて放った一喝は、美しくしなる(むち)にも似て、周囲の空気を鋭く打ち据えるような迫力があった。

 思わず飛びずさった兵庫は一瞬、自分の耳を疑った。

 儚げな面を、極めて厳しく引き締めて佇む若雪に、恐る恐る、尋ねる。

「…今、若雪様が怒鳴りました?」

 若雪が大きく息を吸う。

 ここで兵庫を相手に、位負(くらいま)けする訳にはいかない。

「そうです、たわけと言ったのです!情に囚われているのは、兵庫のほうです。そんな子供じみた感情で、納屋を分裂させる気ですか!?……嵐どのが兼久兄様を殺めれば、例え理由が何であれ、養父上が許しません。そうなってしまえば、もう、私にもどうしようもない。必ずやお二人は、(たもと)を分かつことになるでしょう。それが、嵐どのの為になるとでも思いますか。頭を冷やしてよく考えなさい!!」

 兼久の死は、嵐と宗久の間に決定的な亀裂(きれつ)をもたらす―――――――――――。

 声を荒げてそのことを指摘した若雪は、息を乱していた。白い頬は怒りに紅潮している。自分が夜着同然の白小袖のままで兵庫の前に立っていることを、今更ながらに思い出した。

 呆気(あっけ)に取られた顔で、兵庫がそんな若雪を見ている。

 それでも、と若雪は荒い息のままで続けた。光る(まなこ)は、兵庫を睨み据えていた。

「……それでも兵庫が嵐どのを止めぬなら、私が自ら出向きます。嵐どのの命に従い、私を病身(びょうしん)と侮り力ずくで止められると思うなら、やってみるが良い」

 そう言って若雪は、雪華を手に取った。


「どこぞへ、早う身を隠してください。嵐は、あなたを許さんでしょう」

 兼久の言葉に受けた衝撃に茫然とした智真だったが、思い出したように慌てて言った。

「お前は私を許すんか、智真?」

 兼久にそう切り返され、智真は兼久の上衣の袖を掴んでいた手を離した。

離した両手は、行方を失ったように宙を彷徨(さまよ)う。

「――――――解りません。けど、利用された小雨が、哀れやとは思います」

 蒼白な顔で答えた智真を、兼久が軽く笑った。

「お前にはかなわんわ…」

「早う、早う逃げてください。若雪どのの、今の在り様があなたの望んだもんやなんて、そんな。そんなことを嵐が聞こうもんなら―――――――、」

「逃げる?何でや。ここは、私の邸や。由風が何を聞いたかて、関係無い」

 おっとりと、兼久が言葉を返す。

 智真は必死の形相(ぎょうそう)で言い募った。

「嵐は、きっとここに来ます。じきに―――――恐らくあなたを、殺しに。せやから、その前に」

「ふうん…」

 それでも兼久は動こうとはしない。

「けどそれは、ちいとばかし間に合わんかったようやで、智真」

「え?」

 智真は兼久の言葉に怪訝(けげん)な表情をし、その視線を追い、そして凍りついた。

「思うたより遅かったな、由風」

 二人のいる部屋の開け放たれた障子戸の外、嵐が静かに佇んでいた。

 その左手は腰刀を掴んでいる。

 外では、氷雨(ひさめ)が降り始めていた。




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