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雨音 一、二

第六章   雨音


さぁ始まる

紅に染まれよ

縁どられた

命の競演

カーニバル 


       一


日も暮れるころ、明慶寺をあとにした嵐、若雪、兼久の三人は、若雪を間に挟み、納屋までの帰途についていた。

 兼久の手には、智真の手による絵が巻かれた状態で、大切そうに抱かれていた。智真が兼久にそれを手渡す前、兼久が出来栄(できば)えを確認した際、嵐も若雪もその絵を見ていた。

 それは墨のみで描かれた、やや欠けた月と雲、そしてそれを下界より隠者が眺めているという簡素な構図の絵だった。絵を目にした若雪は、智真の画力に感嘆した。

 墨一色で、見事に幽玄の美しさが表わされている。

(…美しい。智真どのの、お手は確かだ。―――けれどなぜだろう、どこか物悲しくも思えるのは……)

 兼久が心惹かれるのがこの絵に表わされるような世界ならば、この(うつつ)を生きることは彼にとって辛いことなのかもしれない。

(――――――――兼久兄様の在り様は、哀しい)

 兼久は、己を誰かに理解されたいとは願っていない。

 最初から、ただ独りの生を貫くであろうことを、承知しているのだ。

 自らの気質と共に。

 美しい水墨画は、その美しさゆえに、若雪の気持ちに痛ましいものを感じさせた。


 堺に数ある商家の中でも、納屋は聞こえた大店である。堺の町に生きる人間の多くは、今井家の人間の顔を見知っていた。

陰では男装の若雪を数に入れて、「今井家の若様三人衆」と女性たちに呼ばれ関心の的だった。三人三様、趣の異なる整った容貌は、堺の女性の目を十分に楽しませていた。

 丁度その三人が(そろ)()みしている様子は、そうそうお目にかかることの出来るものではない。通りがかりに、彼らに気付いた娘が頬を染めて、「なあ、ちょっと、あれ…」と連れの娘の袖を引いていた。他にもちらほら数人の女たちが、道を行く若雪たちにこっそりと注目していた。


「嵐どのは、明慶寺に何用(なによう)で参られたのですか?」

 若雪の問いに、嵐は兼久のほうをちら、と見た。

 彼が嫌う方面の話をすることになるからだ。

「―――智真の部屋に(かみなり)()けの護符を張りにな。先日会うた時、またあいつ黒雲呼びよったし、身に着けとく呪符も一緒に持ってったんや」

 兼久は黙って聞いている。

「…―――ええと、護符と呪符は、違うのですか」

「ああ、ちゃうな。大きゅう分けたら、呪符は災厄を取り除くことが目的、護符は防ぐことが目的で、別もんなんや。霊符言うたらその総称やな」

 疑問を持ったら聞かずにはいられない性分の若雪に、嵐はもう少し踏み込んだ話をしてやった。兼久の耳にはどう届いているやら、と思いながら。

「…若雪。(あめ)切る、(つち)切る、八方(はっぽう)切る、…って言葉、知っとるか?」

 兼久の静かな問いかけに、若雪がことも無げに頷く。

「呪詛返しの秘文ですね。呪詛に限らず、相手のかけた術を解くものでもあると聞きます。魔を(はら)う効果もあるそうですが、実際に使われることはそうそう無いものです。――――なぜ兼久兄様が、神道の秘文をご存じなのですか?」

 神官家に育った身として、若雪にはごく当然に心得ている秘文のようだった。

 嵐と兼久の二人が黙り込んだ。

 二人共、つい今しがた、「実際に使われることはそうそう無い」秘文の実用する状況を経験したばかりなのだ。

「…少し耳にすることがあったさかいな。…由風は、呪術全般を(たしな)んどるんか?」

 間を置いて若雪に答えてから、そのあとに続いた言葉は、兼久からの歩み寄りだった。

「……全てを完璧にとは言えませんけど、可能な限りは頭に叩き込んでますよ。いつ何時(なんどき)、役立つかわからしませんから」

 嵐もまた、それに応じた。

「相変わらず、忙しない奴やな」

 その言葉には、今は刺も毒も無かった。

 兼久が嵐を(いと)う理由には、茶に対する嵐の姿勢にも原因があると、嵐は解っていた。

 嵐は茶をそつなく点てることも出来るし、客としての作法も申し分無い。だが、器用過ぎるのだ。茶とは本来、形ばかり押さえれば良い、というものではない。嵐が茶道に対して見せる奥行の無さ、茶への愛着の無さが、兼久には我慢ならないのだった。

 しかし、闇の空間で演じて見せた大人気(おとなげ)無いいがみ合いには、嵐も兼久も互いに恥じるところがあり、悔いてもいたのだ。

 若雪を間に挟み、無言の内に二人はとりあえずの和睦(わぼく)を結んだのだった。


 ――――――それは、摂理の壁に縛られた神々のささやき。

 世の行末を見定める、老翁(ろうおう)たちの声。

「花守がしくじったとな」

「なんと。それではやはり、摂理の壁は」

「うむ、赤色(せきしょく)よ」

(とし)(わか)の者に行かせたが、そも間違いであったのだ!」

「理の姫のお見立てと言うが」

「…それにつき、容易ならざることを耳にした」

「何だ」

「………理の姫は、心底からは吹雪を忌避(きひ)なさるものではない、と」

「―――馬鹿な。聞き逃せぬ。聞き逃せぬ話ぞ、それは」

「…ご真意が、計り知れぬ」

「しかし、お任せするしか我らに出来ることは無い」

「なんともはや、思うようにことが進まぬものよ……」


「大事無いか、明臣(あきおみ)

 闇の中、光の(おり)に閉じ込められた相手が、軽く身じろぎした。

「――――なんだ、(みず)(おみ)か。無いよ。そもそもこの檻が、僕を御老翁(ごろうおう)たちの手から守る為のものだってことくらいは、君だって解ってるだろう。姫様の光は、何人(なんびと)にも破れない」

「…なぜ、しくじった」

 涼やかな声は平淡で、責める響きは無かった。

「………創り上げた空間に、入るべきでない者を入れてしまった。僕の、落ち度だ。術式に不慣れなのは言い訳にならないな――――――これでよく、神を名乗れる」

 その言葉には自らに対する強い嘲りがあった。

「―――明臣、我らはそもそも、そのような存在なのだ。万能を自らに期待することは、間違っている。………神の、傲慢(ごうまん)だ」

 最後にぽつり、と言い添えられた言葉は、ひどく明臣の気に障った。

「ああ、ああ、元々は水の(かたまり)、湖だったような者に、僕の気持ちなど解らないさ!自らも、恋着(れんちゃく)に囚われた身であるくせに!!」

「明臣。お前もしや、嵐に同情しているのではないか?」

 苛立ち紛れの叫びに対して、揺らぐことなく返って来た冷静な言葉に、明臣は一瞬口を(つぐ)んだ。力無く、低い声で答える。

「―――――――――解らないだろうよ、君には」


 多少の問題はありながらも、天下は勢い留まることを知らぬ織田信長の手中に向けて、転がり落ちてゆくようであった。納屋も、宗久も嵐も若雪も、時局を慎重に見極めながら信長の助力となるべく、それぞれに立ち働いた。その間、若雪は七忍らの助けも借りつつ、宗久と嵐の間に起こる対立の予兆を見逃さぬよう、息を()らして見守っていた。

 信長が朝廷から授かる官位も、天正五(1577)年霜月には従二位・右大臣、天正六(1578)年睦月には正二位にまで昇った。

 そしてその年の弥生には、決定的な出来事が起こる。

 上杉謙信が、死んだのだ。

 嵐は、これで信長は天下を()った、と確信した。

 そののち起こった上杉家の後継争い・御館(おたて)の乱に乗じて信長は越中国に侵攻、上杉軍を破る。

 同じ年には、ついに嵐たちの待ち望んだ中国侵攻が始まった。

 また、中国侵攻のころと時を同じくして、石見に残した宗久配下の護衛だった者たちから報せが届いた。その内容は、山田正邦が御師職と室を大社国造家に返上し、その職権が(とどこお)りなく小野氏に移ったというものだった。報せには、正邦は御師職と室の返上後、身内と少数の家臣のみを連れ、ひっそり出雲を去ったともあった。

その報せを受けた若雪はしばし目を閉じ、それから深く、安堵の息を吐いた。朝拝を止めたのちも若雪の部屋には神棚がそのままにあったので、それを亡き家族に見立てる思いで手を合わせ、正邦の件を報告した。

(父様、母様。太郎兄、次郎兄、三郎。…これをもって終わりとすること、お許しいただけるでしょうか………?)

ようやく本当に、あの惨劇に区切りがついた、とそう感じて、若雪は人知れず少しだけ涙をこぼした。

 

そして時は移り、天正九(1581)年、信長は時の正親町(おおぎまち)天皇(てんのう)より左大臣に推任される。同年皐月、納屋においては、昨今(さっこん)の信長の形勢に浮足立つような空気が流れていた。

「今の織田様の勢いをもってすれば、中国を掌握されるんも、そう遠い話ではないやろ」

 宗久がゆったりと満足げな響きを持たせた声で語る。長の労苦が報われる時の近いことへの安堵が、その顔に(にじ)み出ていた。

 信長の天下は、もう、すぐそこまで来ている。

「さいですね…。今んとこ、そう見えますねえ」

「――――はっきりせん返事やな、嵐」

 おや、という声で宗久が聞き咎める。嵐は、ちらりと歯を見せて笑った。

 今年で二十二歳になる嵐の今一つ不明瞭な答えに、宗久は眉根を寄せた。

 やんちゃな面立ちの抜けた嵐の顔つきは、年相応に落ち着き、一層大人びたものとなっていた。その顔には、慎重を期そうとする思慮深さが浮かんでいる。

「若雪、そなたはどう思う?」

 煮え切らない嵐を置いて、宗久が若雪の意見を求めた。とかく情勢の先を読む洞察の鋭さにおいて、この養女より勝る者を宗久は他に知らない。納屋における女軍師だ。

 宗久の問いに微笑を浮かべた若雪は今や二十四となり、清らな花が静かにも咲き匂う風情を湛えている。髪の長さが追い付いた為、今では男装も解いて小袖姿だ。ともすれば殺伐(さつばつ)とした空気を帯びる遣り取りの中、若雪の存在は、場に優しさと、華やいだ落ち着きを添えていた。

 首を傾けた拍子に、濡れたような黒髪がさらりと揺れる。

「…嵐どのは、ご懸念を抱いておられるのではありませんか。勢い盛んで、今一歩で念願に手が届く、という時は油断や隙の格好の温床(おんしょう)とも成り得ます。最も用心すべき時、と言っても過言ではないでしょう。私たちは、今まで以上に息を詰め、織田様の近辺や他の勢力の動きに気を配る必要があると存じます。毛利はまだ――――――(ねば)りを見せるでしょう」

「…ふん、二人共、可愛げが無いな。もう少しはしゃいで見せればええもんを」

 その言葉に嵐と若雪が顔を見合わせ、どちらからともなく笑み交わした。

 口では不満げな宗久が、頼もしい甥と養女の冷静な反応に満足していることは明らかだった。わざと作ってみせた宗久の渋い顔の目の奥には、笑みがある。

幸い、幾度かひやりとした場面はあったものの、若雪の懸念したような嵐と宗久の対立、という展開を迎えることなく、今日(こんにち)に至っている。そうした経緯もあった為、宗久の部屋で、嵐、宗久と共に地図を中央にして車座になっての天下の情勢の話し合いは、若雪にとって気の休まるものだった。二人と共に手を取り合い戦っている、という実感が湧くからだ。

 このころにはもう、宗久の息子兼久は他所に邸を構えて独立していたが、相変わらず若雪への茶の指南だけは続けていた。

 

自室に戻った嵐は、一人、腕組みをして考え込んでいた。

信長の天下統一に向けての動きが順調であるのは良しとして、他にどうにも腑に落ちない悩みが嵐にはあった。

 ―――――――それは、雅やかで美しく、しかしどうにも悲しい夢に関するものだ。

思い返してみればもう何年も前、若雪が堺を離れ、山陰へ向かったころより見ていた。数えてみると随分長い期間ということになる。

その夢には嵐の他に、若雪一人が現れる。

桜の花びらが、彼女の周りをはらはらと、静かに舞う。

その幻想的な美しさの中、若雪は嵐を置いてどこか遠いところに行こうとしている。どこに行くとも知れず、しかし嵐には追って行けない場所に向かうのだということだけは、なぜか解った。

小袖姿に美しい打掛を羽織り、嵐をただ一度だけ振り返る。

その顔は別離の悲しみに満ちていた。

本意ではないが、行かねばならないのだという思いが双眸(そうぼう)(あふ)れていた。

そして前に向き直り、歩み去るのだ。

嵐は一人、散った桜の花びらと共に取り残される――――――――。

こんな筈は無い、と茫然としながら。

(………………あんな顔、見たないな)

 夢は未来を告げるもの、何らかの啓示、神仏との交流の場、と捉える見方がこの時代の社会通念であった。ましてや嵐は陰陽の術をも習得した身であり、夢を軽んじるものではない、という感覚は人並み以上にあった。

夢を見始めた当初は、若雪に置いて行かれた自分の心情が、そのような夢を見せるのだろうと思った。状況が状況だっただけに、そう納得出来た。しかし若雪が堺に戻ってからも、同じ夢は度々嵐を訪れた。夢の中の若雪は、実際の彼女の年齢を追って成長していった。

 遠ざかる若雪に向けて必死に手を伸ばすが、届かない。

 いつも、一度として、彼女に伸ばした手が届いた例は無い。

もどかしさと別離の痛みに呻くような思いを抱え、しかし目覚めた途端に焦燥感(しょうそうかん)は消える。若雪が同じ邸内にいる、彼女を失ってはいない、という事実を思い出して安堵する。

(―――俺も大概、(やわ)やな)

 石見で若雪に夢違誦文歌を教えたのは、嵐自身が夢違えの呪法を多用していたからでもある。悪夢を吉夢に転じるという呪法の効能に、(すが)っていたのだ。

 しかし若雪にかつて教えたそれも、今もって続くこの夢の前では心許(こころもと)無かった。

(現になる夢とも思えんけど……。神霊の仕業、ちゅうことはないやろか)

 五年前に明慶寺で起こったような奇怪な出来事は、あれ以来無い。しかしそのことが嵐には、かえって不気味な沈黙に思えてならなかった。

〝その暫くの間で僕たちに出来ることは、あまり多くは無いんだ〟

 神霊が言っていた「暫くの間」、とは今現在を指すのではないだろうか。

「僕たちに出来ること」というのが、嵐に夢を送り込み、何らかの警告、もしくは啓示を知らしめようとしているとは考えられないだろうか。

 それはあながち的外れでもない疑念だと、嵐には思えた。

 また、近頃ひっきりなしに舞い込んでくる、若雪の縁談話も悪夢の原因の一つかもしれない、とも密かに考えていた。若雪が嵐の手の届かないところに行く、という比喩の示すところに、嫁入り以上のものは無いだろう。

 人目を引く端麗な容貌に納屋という大店の娘ときては、多少年嵩であっても縁組をして損にはならない。何の思惑からかは解らないが、それらの打診(だしん)(かた)(ぱし)から断っている宗久の対応は、嵐にとって実に有り難かった。

 何一つ確かな約束の出来ない今の自分には、若雪を引き留める権利が無いと、嵐は縁談にしても若雪に接するにしても、彼女の婚儀に関しては何の口出しもするまい、と強く自制していたからだ。

「…………」

 若雪本人は、どこへも嫁ぐ気は無いのだと周囲に明言していた。

 宗久が許すなら、生涯独り身で通すつもりのようだ。それは立場その他から考えてみても異色のことである。

 若雪の言葉を洩れ聞いた嵐の心境は複雑だった。

(…なんでやろか)

 そう疑問に思う自分もまだ独りではあるが、若雪に嫁ぐ意思が無いことの理由が嵐には解らなかった。しかし、その理由を正面切って聞くことは自分の胸の内を明かすようで、躊躇(ためら)われた。どうにも動きようが無く、嵐は日毎(ひごと)花開くような若雪の容貌を前に、一人じりじりとしていた。

(―――――紅も注してくれへんし)

 若雪が小袖を着られるようになれば、きっと注してくれるだろうと思っていた、いつかの紅も未だ注す気配が無い。小袖姿に戻れば、注したところを披露してもらえるものとばかり思い込んでいた嵐は、当てが外れた思いだった。多少、拒絶されたようにも感じた。

 けれど紅を注すことを催促したり、注さない理由を尋ねたりすることには、躊躇いがあった。どうしても手放せない意地があるせいだ。尋ねてしまえば何かに負ける気がした。結局のところ嵐が若雪に取る対応は、年月を経た今でも、若雪が石見より戻ったころとあまり変わらないままと言えた。多少穏やかに外見が大人びたからと言って、中身までそれに伴うものとは限らないようだった。


「――――そうですか、特に変わりは無い、と」

「はい」

 嵐が一人自室で考え込んでいるころ、若雪は中庭に(かしこ)まった嵐下七忍の一人、片郡(かたごおり)の報告を聞いていた。

 その後ろには兵庫もいる。両腕を頭の後ろで組み、中庭を気ままに歩き回っている。

「当面は山陰・畿内の指揮を任されるご様子です。――――明智様が、気になられるのですか」

 大きな体躯に似合わずつぶらな瞳をしぱしぱさせて若雪に向けながら、片郡が不思議そうに尋ねた。若雪が長い(まつげ)を伏せる。

「そう――――…少しばかり。……けれど、きっと私の、思い過ごしでしょう」

 唇をやや苦笑気味に形作り、穏やかな声でそう言う若雪だったが、彼女に限っては、〝少しばかり〟がそのままで終わらないことを、片郡は経験から知っている。

「引き続き、探ります」

「ええ、―――――気を付けて」

 片郡が去ったあとも、兵庫は何か物言いたげにうろうろと中庭に留まっていた。

「どうかしましたか、兵庫」

 顔を向けた若雪を、兵庫は少し(まぶ)しそうな目で見た。

「聞いてもいいですかね、若雪様」

「何でしょう」

「どうして嫁に行かないんですか」

 心構えをする隙も無く兵庫にいきなり問われ、若雪は面食らった。

 相変わらず遠慮や躊躇というものを知らない。

「……兵庫には、関わりの無いことです」

「つれないですねー。まあ俺はともかくとして、少なくとも嵐様には関わりのあることです」

「嵐どのが何か―――――」

 問う若雪を、兵庫が横目で見遣る。皮肉げな眼差しだった。

「言いませんよ。あの気質、知ってるでしょう。若雪様は若雪様でそんな調子だから、俺としてはまだるっこしくて仕方ない訳です。全く。いい大人が二人揃って、何をしてるんだか。…嵐様が他の嫁御を貰っても、若雪様は平気なんですか?」

 歯に衣着せぬ物言いだが、腹は立たなかった。若雪は柔らかく目を細めた。

「嵐どのは自由なご気性です。誰に囚われることも良しとなさいません。もちろん、私にも。……私は、私の誇りにかけても嵐どのの生きる(かせ)になりたくはない。ですから迎える嫁御が、嵐どのが空を舞う妨げにならないのであれば、私はそれで構わないのです、兵庫」 

 兵庫はそれ以上続ける言葉を失くし、沈黙した。若雪が緩く握った白い拳を、彼は目の端で捉えていた。空からぽつり、ぽつりと水滴が落ちてきた。

 

「降ってんな」

 兼久の邸に備えられた茶室で、若雪が主、兼久が客としての稽古を終えた時、兼久が言った。稽古が終わったとは言え、兼久が茶室で私語をするのはあまりあることではなく、若雪は少しばかり驚いた。

 茶室は、宗久の邸にあるものに比べると極めて慎ましく、貧しいような風情だったが、茶道具から掛け軸から隅々に至るまで、ひっそりと枯れゆく花のような趣があった。掛け軸の絵は、五年前に智真が描いたものだった。

(……兼久兄様は、ずっとこのような世界に身を置きたかったのだろう…)

 初めて兼久の茶室を訪れた際、若雪はそう思った。兼久が納屋から離れ、自分は少し寂しいような気持ちだったが、兼久の願いが叶えられたのならそれで良かったとも感じた。兼久は兼久なりに、心穏やかに幸福であってくれるなら、それで良いと思えた。

「若雪は、雨は嫌いか?」

「――――いいえ。雨には雨の、風情があります」

 続けて問うた兼久に戸惑いつつも、若雪は答えた。

「ああ……。その通りや」

 兼久は、満足そうな表情をした。

 そのあとは沈黙が続いた。

「そなたは随分と、変わったな…」

 雨音だけが響く長い沈黙のあと、兼久が、掛け軸の水墨画を眺めながら呟くように言った。

「そうでしょうか」

「ああ。自分では解らんか。…女子とは、そんなもんかな」

 静かに降り続く雨の音に、茶室全体が包まれているようだった。

「若雪。そなたにとって、由風とはなんや?」

「―――――――」

 急襲、のような兼久の問いかけに、若雪は一瞬詰まった。

 何も答えることが出来ず、ただ兼久の静かな顔を凝視する。

「―――強うなってきたな。今日はもう、帰り」

 五月雨(さみだれ)の季節の到来だった。


 数日後、目まぐるしく動く戦局の中、安土に帰城した信長に呼ばれ、嵐と若雪は近江にいた。

 石見銀山に関するこれまでの報告と、今後の方針を信長に説明する必要があった為だ。加えて鉄砲補充の算段も打ち合わせなければならない。地上およそ六階建てにもなる安土城の、天守に程近い部屋で信長に拝謁(はいえつ)したのち、嵐と若雪は揃って信長の前より辞去(じきょ)した。

 信長は、先頃堺に製法が伝わった金襴(きんらん)の衣を纏い、至極(しごく)満悦(まんえつ)の様子だった。信長の注文を受け、宗久が手配した品である。

 嵐はここぞとばかりに「吹雪となれば云々」の言葉について信長に尋ねたが、信長の反応はそれまで何回か繰り返されたものと同様、素知(そし)らぬ顔で「さて、左様なことを言うたかな」というものであった。

 そんなことより、折角来たのだから城を存分に見学して行け、と言われ、二人して眩しいような金箔(きんぱく)の壁や障壁画を物珍しげに見ながら、稀に見る壮麗な城の内部を巡り歩いていた。主も金襴なら城も金襴である。若雪は素直に感心して見入っていたが、嵐は正直、やたら派手過ぎて自分の好みではない、と思った。信長はそれなりに茶道を重んじるよう振る舞ってはいるが、およそ侘びさびとは遠い城の在り様だった。こちらが信長の本音だろうな、と嵐は思う。兼久あたりが見れば目を背けそうだ。

そうして呑気に城を見て回っているところに、神経質な面持ちの男と出くわした。

明智(あけち)日向(ひゅうがの)守光(かみみつ)(ひで)だった。

 嵐も若雪も、回廊(かいろう)の端に身を寄せ(こうべ)を垂れる。

 それを見る光秀の顔に、不快な色が走った。

「――――たかが商人(あきんど)の分際で…、上様にたかる(はえ)共が」

 すれ違いざま、そう憎々しげに吐き捨てると、光秀はそのまま去り行こうとし、しかし果たせなかった。

「待ちや、日向守」

 市が、行く手を(はば)んだ為である。怒りが籠った声は、いつになく居丈高(いたけだか)に響いた。

「これは―――…、お市の方様」

 さすがに光秀が辞を低くして、頭を下げ神妙な態度を取る。

ついと(あご)をそらせた市は、それを、冷たい光を宿した目で上から睨み据えた。

「はて、そなたともあろう男が、随分と礼儀を弁えぬ物言いじゃな。―――――信長兄上と妾の大事なる客人に、大層な無礼をしてくれおるものじゃ。妾は告げ口は好かぬが、品の無い雑言(ぞうごん)は尚好かぬ。なんなら若雪らとそなた、果たしてどちらがより兄上のお役に立っておるか、今からでも妾自らお伺いして来て良いのじゃぞ?」

「いえ、左様なことは――――――…。失礼をば、致しました」

 光秀はあくまで市に対してのみ恐縮の体で畏まると、嵐たちには目もくれずに立ち去った。

 光秀の背中の消えた先を見遣り、嵐が溜め息を吐く。

「やれやれ………。だいぶん、ご機嫌ななめですね。お市様も、あんまり苛めが過ぎんのはようないですよ」

「光秀には、あれくらい言うて丁度良いのじゃ。あの男、自分以外が間抜けにしか見えぬような奴ゆえ。己の何が信長兄上のご勘気(かんき)(こうむ)っておるのか、まるで解らずに戸惑うておるのよ。―――些か、哀れとは思うがの」

 自らの辛辣(しんらつ)な物言いを省みる気はさらさら無い様子で、市はふん、と顔を背けた。若雪たちが安土を訪問する日に、市も安土城にいたのは示し合わせた訳では無く、偶然だった。

 光秀はいつ見ても神経質な面持ちだが、今日はいつにもましてピリピリしており、彼の周囲の空気まで不穏に尖っているかのようだった。信長に難題を言われたのか何なのか知らないが、八つ当たりは迷惑だと嵐は考える。

 とは言え、若雪も嵐もこの手の見下され方には慣れており、光秀に何と罵られようと、顔色一つ変わるものではない。

 たかが商人。それで結構である。

 光秀の去ったあとをじっと若雪が見つめていることに気付き、嵐が声をかけた。

「どないした、若雪どの?」

「――――いいえ、何も」


 光秀の暴言(ぼうげん)に一矢報いてやったのだから少しばかり付き合え、と市に言われ、嵐は安土城下の楽市に来ていた。

 信長の保護下、年貢や債務から解き放たれた商取引が行われる楽市には、堺とはまた違った気風の賑わいがあった。

 中には、女だてらに大きな荷を担いだ行商を(なり)とする(れん)(じゃく)商人(しょうにん)の姿もある。

 一方、若雪は市からあっさり放免(ほうめん)され、堺への帰途に就いた。

「…そのように怖い顔をするでないわ。同じ邸に住まう同士、若雪とはいつでも会えるであろ。たまには妾の機嫌をお取り」

 市は品の良い一枚の単衣(ひとえ)を両手で抱え持ち、被衣(かづき)としている。しかし、身に纏う小袖は紛れも無くそこらの商家の奥方よりも豪華であり、いかにも貴人のお忍びといった風情であった。

 晴天の下、安土城下に賑わう楽市には爽やかな皐月の風が吹き抜け、人々の顔を和やかなものにさせていた。

 だが嵐はその例外だった。

「そんなら、それこそ俺やのうて若雪どのと楽市を満喫するなり、されたらええやないですか。俺になんぞ御用ですかね、お市様?」

 嵐は仏頂面のまま、しかし目は本人が意識するより前に、至る所に置かれた反物や多彩な品を見定めている。商売人の(さが)だった。

「ふむ。用と言えば用」

 (つや)の光る唇で、歌うように言いながら市は(べに)の入った貝を、何の気なしに手に取る。

 嵐は黙ってそれを見ていた。

 振り返った市は、晴れやかな声で告げた。

「嵐、反物を幾つか見繕っておくれ。そなたが品定めをした打掛は、色柄共に、いつも申し分無い。義姉上(あねうえ)も、よくお喜びじゃ。もちろん、姫たちもな。姫たちの土産に、何かここでしか手に入らぬような品が欲しいと思うてな」

 そんなことか、と嵐は思ったが、先に若雪を帰らせたことの得心は行った。品物の目利きは嵐のほうが得手であり、慣れてもいた。品定め兼、護衛役という訳だ。

(この方も、人の親ではあるんよな…)

 多少、失礼な感心の仕方をする。

 普段の市の自由気ままな言動からは、子の親という印象があまり窺えないのだ。

 それは年齢を感じさせない美貌のせいでもある。

「ご依頼があれば、納屋で請け負いますけど」

 この言葉に市が唇を尖らせた。

「解っておらぬな。妾が直々に出向き、姫たちの顔を思い浮かべながら検分した品である、ということが肝要なのじゃ」

 一理あると思い、嵐は楽市の中で、反物を豊富に取り扱っていそうな店の集まりに目を留めた。布や織物を売る市屋と米・魚鳥を売る市屋とは異なる。さりげない動きで、道を乱暴に行き過ぎる交通人から市を庇いつつ、反物が多く並べられた店の前まで移動する。

 市はそれに対し当然、という顔つきではあったが、その目はどこか嵐を観察しているようでもあった。赤ん坊を背負って楽市にやって来たらしい女が、市の華やかな装いに目を丸くしている。

 市の視線を意に介さず嵐が尋ねた。

 顎に手を当て、目はじっと反物を見ている。

「上の姫君は、おいくつでしたっけ」

 市が目を細めて答える。口元は優しげにほころんでいた。

「茶々(ちゃちゃ)か。十四になった。あれは妾に似て美しゅうなるぞ」

「ああ、さよですか」

 親馬鹿と自分の美貌を誇る物言いに、嵐は気の無い相槌を打った。

「なんじゃ、そなた。興味無いのか」

 どうでもいい、と言わんばかりの嵐の返事に市が鼻白むと、嵐はげんなりして答えた。

「お年を訊いたんは、反物の色柄との兼ね合いを判じる為ですよ………。俺が姫君方に興味持ってどないするんですか。身分違いにも程があるでしょう。年かて俺より下過ぎますわ。それに俺は、自分より年下は女子に見えませんよって」

「……左様であろうな」

 多少無礼な言い様ではあったが、被った単衣を心持ち上げ、嵐の顔を見上げながら市は首肯した。一瞬、「確かそなたは、若雪よりも二歳年下の男であったな」という意地の悪い言葉が市の頭をよぎったが、口に出すのは控えた。言えば嵐は大いに気分を害するだろう。もとよりそれを気遣うつもりなど市には毛頭無いが、その相手をするのは面倒臭い。

 嵐があまり頓着しない様子なのを良いことに、見定める目付きで、市は嵐を尚もじろじろと眺めた。やや奇怪な生き物を見る目付きだった。

 自他共に剛直(ごうちょく)を認める市にとって、そこまで若雪に惚れ込んでおきながら、未だ何の行動も起こしていない嵐は謎でしかない。

(そなたらには想う者と添えるだけの、自由があるではないか)

 それは自分にも、そして恐らくは娘たちにも、得ることの出来ない自由だ。

 浅井長政は市にとって決して悪くない夫であったが、焦がれる程の想いを抱ける相手でもなかった。市が嵐や若雪の持ち得る自由を、どれだけ羨望(せんぼう)の思いで見ているのか、嵐は解っていないのだ。

 市の胸中を知った訳でも無いのだろうが、嵐はどこか物思う顔つきだった。

 その目は、ここに無いものを見ているようだ。

 心を遠くに飛ばしているような嵐の横で、市は手近にある濃い色の布地に手をかける。

「…のう、嵐、これはどうじゃ?唐紅(からくれない)の華やかな色が、茶々にはよう映えるのじゃ」

「ああ、ええんやないですか」

 次の反物を手に取る。

「ではこれは?金糸と若竹のような色合いは、素直な(はつ)の気性に相応しかろうて」

「ええんやないですか」

「………………いっそ(ごう)には墨染(すみぞめ)でも買うて帰ろうか」

「ええんやないですか―――――は?何考えてはるんですか、お市様」

 それはこちらの言葉だ、と市は白い眼をする。

「やっと我に返ったか。……妾は疲れたぞ」

 もちろんその言葉は、どこか休めるところに案内しろ、という意味の要求だった。

 嵐ははっとした様子で、さすがにばつが悪そうに詫びた。

「ああ、すんません。ちいとばかし、考え事してたもんで。どこか、休める店で茶でも飲みましょか」

 我に返ったあとの嵐の動きは、手慣れた風情で無駄が無かった。

 市が腰掛けてもくつろげる程度には品の良い店を探し出し、楽市に溢れる人混みの中を、歩きやすいよう気遣いながらそつなく導いた。

 懐から出した手拭(てぬぐい)を腰掛けに敷くとその上に市を座らせ、若干の距離を置いて自分も腰を下ろす。茶を二人分注文するが、運ばれて来た茶に市は目もくれなかった。

「やれ、疲れた。されど、人の活気は心地好いわ。これが、兄上の創り出そうとしている国の在り様か。―――――悪くない」

 市は通りを見ながら穏やかに評した。

 そんな目でこの往来を見ていたのか、と嵐は意外に思いながら自分の茶を口に運んだ。

「して、そなたら、なにゆえ未だ祝言(しゅうげん)を上げぬのじゃ?」

「―――――」

 今、茶を口から噴き出さなかったのは、日頃から自制心を培っている鍛錬の賜物だと嵐は思った。そして鍛錬を欠かさなかった自分に感謝した。

 ごくり、と慎重に茶を飲み下すと、さりげなさを装いながら訊き返す。

「念の為に伺いますけど、それは俺と若雪どのとのお話ですかね?」

「当然じゃ。他に誰がおる」

 そなたは馬鹿か、と言わんばかりの冷たい眼差しを受けて、嵐は返す言葉を探した。

「―――――若雪どのは、一生嫁ぐことなど無い、お心積(こころづも)りのようですよ」

 我ながら逃げを打つ返答だ、と嵐は言いながら思った。

「………して、その理由が、そなたには解らんのじゃな」

「お市様にはお解りですか?」

 嵐は横に座る市を見遣った。(かづ)いていた単衣は、今は横に置いてある。

 華やかな面をさらした市のほうを、通りを行き交う男たちがちらちらと見ていた。

 市はふう、と息を吐く。

「愚問じゃ。――――若雪らしいわ。知りたいか、嵐?」

「はい」

「教えぬ」

 間髪入れぬ嵐の返事に、市はにっこりと笑って答えた。

 嵐の顔つきが不穏なものになるが、知らぬ顔をする。

 意地悪ではない。

 これは嵐が、自分で到達しなければならない答えだからだ。

「―――嵐よ」

 市が低い声で呼ばわる。厳かな呼びかけは、信長を彷彿させるものがあった。

「そなた、この世に大切なものがどれ程ある?それらを、たった一つの為にどれ程捨てられる?選ばずとも済む、とは言わせぬぞ。捨てざるを得ぬ、この乱世ゆえに。――――妾はな、叶うことなら若雪のみを選び、共に生き、死にたかった。………若雪の為に、死にたかった。されど、妾にはそれが出来ぬ。姫たちを置き、ただ若雪の為だけに生きるも死ぬるも、妾には許されぬのじゃ。―――――そなたに解ろうか。かような、無念が?この、口惜(くちお)しさが。――――――妾はこの時代の、(しもべ)ではない」

 いつもの市とは、どこか人が違ったかのようだった。神妙な口振りで、真摯に紡がれる言葉の奥には、隠し得ぬ憤怒(ふんぬ)とやるせなさがある。とりわけ低く語られた最後の言葉には、底光りしそうな怒りが籠っていた。市の双眼の奥には、揺らめく炎の影があった。その射抜かんばかりの眼差しは、真っ直ぐに空へと向けられている。

 そして嵐は思い至る。

 市は、天に対して怒りを抱いているのだ。若雪と共に在ることを許さぬ、天に対して。

 そして天という大きな器の中には、この時代をも含まれている。

 市の怒気(どき)を和らげんとするかのように、控えめに吹く風がその髪を揺らした。

 市は少し口調を抑えた。厳しかった声音には、ごく僅かにだが諭すような色が加えられる。

「嵐。妾は飛ぶことが叶わぬ身なれど、そなたはいかようにも飛べよう。…例え掌中(しょうちゅう)(たま)を抱いたままであろうと、そなたの飛翔を妨げるものではあるまいぞ。いつまでも選ぶ手前で足踏みしておるようでは、決して若雪を得ることは無かろうよ。――――――心決めた時には、手遅れになるやもしれぬぞ」

 真摯な口振りで話し終えると、独り言のように付け足した。

「…のう、嵐よ。思えば、妾たちは随分と、若雪に囚われておるな………」

 その声はそれまでの厳しさとは打って変わって、吹き過ぎる薫風(くんぷう)のように、あたりの柔らかなものだった。

 けれどその柔らかさに、嵐は何の返答も示さなかった。

 市も、返事を期待してはいないようだった。

市の瞳に悪戯っぽい光が戻った。にやりと笑うと、嵐の顔を覗き込む。

「若雪と出会うこと無く、そなたが今少し早うに生まれておれば、妾はそなたに惚れておったやもな。いや、そなたが妾に惚れておったかな?」

 笑いを含んだ声に、嵐は再度、口に含んだ茶を噴きそうになる。

 今度は茶が喉の変なところに入り、軽くむせてしまった。

(有り得ん…)

 互いの心の中枢に、どこまでも揺らぐことなく若雪がいる二人だからこそ、嵐と市は年齢や身分、性別をも超えた友誼(ゆうぎ)(つちか)うことが出来るのだ。

 それを承知した上での、市の軽口だった。 


       二


 さらさらと、優しい雨音が響いていた。

 若雪は店の帳簿を読んでいた目を上げた。

 障子戸を開けて、廊下に立つ。中庭に植わった草木から、濃い水の匂いが発散されているかのようだった。その匂いを深々と吸う。

万物(ばんぶつ)を育む、(あま)(みず)……)

 落ちてくる雨粒を受け止めるように右手を伸ばし、天を仰いで考える。

 兵庫も兼久も、なぜあのようなことを言うのだろう。

 今のままでは、自分に出来ることは何も無い。

 嵐に嫁ぐこと、添うことは出来ない。ただ共に、この戦乱を生き抜くだけ――――――。

 唇から吐息のような微笑をふ、と漏らす。それで十分ではないか。

 若雪は俯いて思った。

 彼らは解っていない。

 嵐の恐れが。若雪の恐れが。

 その時、小さな、幼い声が響いた。

「―――(かか)(さま)?」

 若雪は驚いて中庭を見渡した。

 庭に植わった松の木の影から、蘇芳の着物を着た七歳程の()(わらわ)がそろり、と出て来た。

 髪を、肩につく程の長さで切り揃えている。同じく真っ直ぐに揃った前髪の、下にある目は大きく、くるりと澄んでいる。愛らしい少女だ。

「母様――――――、見つけた」

 子供はそう言い、嬉しそうに満面の笑みを浮かべて、と、と、と、と小走りに駆けて来ると、細い両腕をいっぱいに広げて、若雪の胸に躊躇(ためら)いなく飛び込んできた。

 反射的に子供を抱き留めて、その温かな感触に若雪は戸惑う。

(なぜここに、こんな子供が?)

 さらさらと降る雨は柔らかいが、そのままでは風邪をひく。

 若雪は慌てて子供を部屋に招き入れた。

 それが二人の出会いだった。


 名を尋ねると、子供は小雨(こさめ)、と名乗った。

 一向宗の門徒であった二親(ふたおや)を亡くしたのち堺に流れ着き、今はたまたま拾ってくれた人の下で働いているという。それを聞いて、若雪の表情に翳りが落ちた。

(一向宗―――――)

 それは、織田信長が成して来た華々しい戦績の、暗部だ。

 一切の躊躇も無く、女子供の弱者に至るまで、信長は一向宗門徒を根絶やしにしようとした。信長を影で援助してきた、今井宗久の養女である自分もまた、その殺戮(さつりく)に手を貸したも同然なのだ。

 信仰に身を捧げる人々を、情け容赦無く踏みにじる信長の在り様は、かねてより神官の家に生まれ育った若雪を慄然(りつぜん)とさせるものがあった。

 それでも若雪は、宗久らと共に、彼に賭けた。

 天下を(たい)らげる力があると見込んで、信長の冷酷な面を含めて、彼の成す所業全ての清濁(せいだく)(あわ)せ呑んだのだ。

(例え天つ水に打たれようと、私の罪が浄められることはあるまい)

 そのことを理解する年頃になれば、小雨は自分を恨むだろうか、と若雪は思いながらその髪を優しく撫でていた。座る若雪の膝にもたれかかったまま、心地好いのか、小雨は身じろぎもせずうっとりと目を細めている。

(世が鎮まれば…)

 若雪は口を引き結んだ。

 信長が天下を平定し、乱世が終着を見たならば、その時には小雨のような子供も減るだろう。

 世が鎮まれば。

 世が鎮まれば―――――――。

 若雪は信長の為に働きながら、その言葉を呪文のように心の内で繰り返していた。

(小野家を襲ったような惨劇は、もうあってはならない。その為にも)

 今も流れているだろう他者の血が報われるよう、祈るばかりだった。

(あと少しで、それも終わる。この、何がどうなってもおかしくはない世の中で、嵐どのや養父上たちを、私の家族を、失くすような恐れも無くなる筈だ。今度こそ、きっと―――――――――――――――)

 果て無き乱世の、終わりが訪れるのだ。

 自分の一生は、それを見届ける為にあるのかもしれない。

 そんなことを考えていた若雪の顔を見る小雨は、あどけない様子で小首を傾げた。

 どこまでも可愛(かわい)らしい仕草だった。 


小雨の顔色が良くないのを見て取った若雪は、雨に打たれて風邪をひいたのかもしれないと思い、志野に相談した。微弱ながら熱もある。

その結果、体調が整うまでは若雪が部屋で面倒を見ることにした。

 そうとなれば、小雨の雇い主には連絡の必要がある。

 しかし小雨は、自らの主人の名前を知らないようだった。

 どうやって中庭にまで入り込んだのか訊いても、「母様がそこにいるって教えてもらったから」の一点張りだった。

「ただの風邪やろうとは思いますけど、何も姫様のお部屋に置かれんでも―――――。奉公人の部屋で、面倒見ますよって」

 若雪は、志野の言葉に対し静かに(かぶり)を振った。

 小雨が、若雪を母と慕って離れなかったのだ。若雪がどこへ行くにもあとをついて来た。

 哀れだと思った。

 幼い(わらべ)が、ただひたすらもういない母親を恋い慕う様が切なかった。

 亡き母を切望する思いは、若雪も身に染みて知っていた。

仮初(かりそ)めでも母親になってやれれば、恐らく子を産むことなく生を終えるであろう自分の、慰めにもなる―――――。

(この先、子を持たぬであろう私の寂しさと、母を亡くしたこの子の寂しさが、きっと呼び合ったのだ。私たちは互いに、心に空いた隙間を埋め合うことが出来る………)

 小雨が「母様」と言って若雪に抱きついて身体を預けて来る時の、得も言われぬ充足感は、若雪の心をしみじみと満たした。

 若雪は数日の間、一切の勤めを一旦棚上げし、小雨の世話にかかりきりで過ごした。

 共に食事をとり、同じ寝床で眠った。

 嵐がその話を聴きつけ、小雨を見ようと若雪の部屋を訪れた時には、小雨の姿は既に邸内のどこにも見当たらなかった。

(――――――行ってしまったのか…)

 若雪は寂しく思ったが、体調が回復して雇い主の下へ戻ったのだろうと考えた。

 仮初めの母娘(おやこ)ごっこが、終わったのだ――――――――。

 若雪の感傷を他所に、嵐の顔つきは穏やかでなかった。

 おもむろに、若雪に問う。

「若雪どの。その小雨とやらに会うた時、善悪(ぜんあく)探知法(たんちほう)はちゃんとしたんか?」

 善悪探知法とは、神道系の秘言を唱えることによって、対面する相手が自分にとって危険な人間かどうか(わか)る、というものである。

(しん)()清明(せいめい)、神水清明、(しん)(しん)清明、神風(しんぷう)清明、善悪(ぜんあく)応報(おうほう)清濁(せいだく)相見(そうけん)

 この言霊(ことだま)による人間の判別は、嵐と若雪の常であった。とりわけ初対面の相手には、必ずと言って良い程、この探知法の秘言を密やかに口ずさんだ。

「――――いいえ。嵐どの、相手は子供ですよ?」

(女子っちゅうんは、子供に弱いな…)

 どちらかと言えば子供が嫌いな嵐は、醒めた目で思う。

 とりわけ若雪はその傾向が強い気がする。

(―――――――三郎のせいかな……)

 そんなことを考えながらも、嵐は厳しい表情を緩めなかった。

「…何も解らん子供のほうが、かえって性質(たち)が悪い時もある。自分のしてることを、よう理解してへんからな」

 久々に顔を合わせたと思えば、話す内容はこれだ―――――。

 そう思いながらも、嵐は注意深く言った。

「若雪どの―――。自分に近付く人間に、もっと注意せえとあれ程言うてるやろ。あんたは慎重なくせに、相手によってはたまにえらい無防備が過ぎるんや」

 久しぶりに聞く嵐の小言に、若雪は少し笑った。

 小雨を危険な者と捉える考えは未だ若雪には無かったが、自分が気を許した相手には途端に無防備になってしまうことは確かだった。

「今後は気を付けます、嵐どの。ご心配かけてすみませんでした」

「うん。そんならええ」

 神妙に謝る若雪に嵐もそれ以上は言わず、そっと伸ばした手で若雪の髪を軽く撫でた。若雪は初めこそびくり、と身体を揺らしたが、あとは身動きせずに沈黙していた。さらさらとして(つや)やかな髪は触り心地が良い。

 髪にあった嵐の手が、嵐本人の意思に反して若雪の白い頬に触れそうに動く。

 指は頬に届くほんの寸前で、静止する。触れぬまま輪郭(りんかく)をなぞるように下降し、それから拳を形作ると、ぎこちなく手は降ろされた。

 若雪は嵐の手の動きをじっと目で追っていたが、何も言わなかった。

 嵐も何も言わず、そのまま(きびす)を返した。

 

 巌の赤色(せきしょく)は最早、点滅どころではなく、巌全体を覆うかのようであった。

「ああ………」

 深い悲嘆を窺わせる呻き声を洩らし、彼女は耐え切れずその場にくずおれた。

 それを支え上げる腕に縋り、ようよう顔を上げる。二対の薄青(うすあお)い双眸が視線を結ぶ。

 触れ合いに、互いの温もりは無い。

 神の属する世において、神に確たる肉体は無く、表わす姿は霞のようなものだ。

 温もりを知らぬ神が、人の世を見定めることの疑問を、理の姫はもうずっと前から感じていた。

(知らぬままで、人の嘆きを、祈りを、判じることが出来る筈も無いものを)

「――――水臣」

「はい」

「…私は、彼らを助けたい。だから彼らを助ける為に、あなたの力も貸して欲しい」

「…はい。それは無論」

「そうして私を―――助けて。老翁の中には、全て見捨てよと申す者もいる。……私に疑念を抱く者もいる…。さもあろう。…吹雪は、私の手には余るものなのかもしれない。しかし私は、どうしてもやりおおせなければならないのだ。我らに関わる全ての存在にとって、残された希望はあまりに少ない…。―――――そうであったとしても」

 絶望と希望の混在する闇を切り開き、希望のみを招き寄せようとすることが、果たして可能かどうか――――――――問うよりも先に、動かなくてはならない。

「……申すまでもございません。理の姫様の御身は摂理の壁の為に、我ら花守の身は姫様の為にあるものです。――――けれど姫様がお望みとあらば、壁に(あだ)なすこととて、(いと)うものではありません。御老翁の言葉などに、お心を悩まされませぬよう」

 ――――明臣は間違っている。

 自分は明臣の心も、嵐の心も解らない訳ではない。解りはしても、その為に揺らぎはしないだけだ。嵐や明臣の心を理解はするが同情はしない。

 それが自分と、彼らの違いだ。

 水臣は自らの冷徹をとうの昔に認めていた。

 理の姫は、水臣にとって尊い光そのものだ。その存在はどこまでも至高だ。

彼女の前では、全ての物事は些末事(さまつじ)に過ぎない。

 問題は、その些末事に関して、彼女が深く拘泥(こうでい)し苦しむことにある。

 自分が動く必要性を、水臣は感じていた。

「水臣」

 至高の存在が彼の名を呼ぶ。どこか忘我の境地にあるような顔だ。

「はい」

「…神とは何だ……。神とは、一体何なのだ―――――…かくも無力な身でありながら」

 

「え?若雪さんは今、寝込んでんの?」

 相変わらず五月雨の降りしきる中、納屋を訪れた茜が嵐に言った。

 今年で二十となるのに、一向に嫁に行く気配も無い。

 容姿のみを見れば愛らしい顔立ちをしており、近付く男もいない訳では無いだろうに、と嵐は冷静に異母妹の佇まいを判じながら答えた。

「ああ。珍しいこともあるもんや。あんな顔立ちで、身体はえらい丈夫なほうなんやけどな。せやからお前、見舞うのはええけどあんま騒々しゅうすな」

「失礼やな。あんたに言われるまでもないわ」

 そう言って茜は嵐の部屋を見渡した。

 自室に他者が入ることをあまり好まない嵐だが、茜は比較的出入り自由だった。

(相変わらず、呆れるくらい整頓された部屋やな)

 嵐は邸内にもう一室、部屋を持っており、その部屋には薬草の束やら山と積まれた書物やらがあるらしいが、起居するこの部屋はちり一つ無い程に片付いていた。

「ほんなら、ちょっと見舞うてくるわ」

 部屋を出る素振りを見せた茜に、嵐が声をかけた。

「――――茜。お前、なんで嫁に行かへんのや?」

 茜が足を止め、嵐を見た。

「お前んとこは、商売もようやっとる。父親は町代(ちょうだい)寄合(よりあい)やし、縁談の一つや二つ、話が来てるやろ」

「……あんたには関係無いやろ」

 嵐は真顔で茜の顔をじっと見ると、一つ息を吐いた。

「智真か」

「―――――」

「……あいつはやめとけ。――――僧侶やからとかやなくて、智真は多分、一生誰も(めと)る気は無い」

「若雪さんがおるから?」

 切り込むように茜が言ったので、嵐は驚いた。茜がそれを察しているとは思っていなかった。

(女の勘は、怖いな)

 密かにそう思いつつ、言葉を返す。

「―――せや」

「……けど、若雪さんには嵐がおるやろ?」

「…………」

 どいつもこいつも、と嵐は思う。

 人の気苦労も知らないで、好き勝手なことを言う。向けられる言葉が、なまじ見当違いでもないだけに厄介だった。

「……嵐って、割と遠慮無しに若雪さんの部屋に入るよな。普通は、女子の部屋に入るんは、もっと気い遣いそうなもんやのに。――――――若雪さんを、試してんの?どこまで自分が近付くのを許してくれるか、確かめたいん?」

 嵐はそれには答えず、少し声音を変えて(なだ)めるように言った。

「――――――なあ、茜。…俺はな、誰にも、何にも縛られとうはない。死ぬそん時まで、自由に駆け抜けて生きたいんや」

 市には気後れして、言えなかったことだ。

「……若雪さんに縛られとうないって、言うてんの?」

「…ああ」

「若雪さんが、嵐を縛るって、そう思うてんの?」

「………」

 本人にその意思が無くても畢竟(ひっきょう)そうなるだろう、と嵐は考えていた。

 茜は面を伏せて黙り込んだ。

「…あんたがそんなことやから」

「え?」

 茜がくぐもった声で言う言葉を、嵐はよく聞き取れなかった。

 勢い良く、茜が面を上げる。目にはきつく、強い光があった。

「あんたがそんなんやから、若雪さんが一生独り身で通すなんて言うんや。嵐はな、怖いだけやろ。一人の女子に囚われることで、自由を自分から捨てるような気がして怖がってんねや。――――今までに無い、自分に変わることに怖気(おじけ)づいとる。変わっていく自分を認める覚悟が、出来てへんのや。せやないと、若雪さんが嵐を縛るとか、そんな阿呆なことよう思いつかん筈や。あんたは結局、まだ若雪さんを信じられんのやな。―――――――――――――――――――若雪さんが、可哀そう」

 茜は切れ味の良い刃物のような口調で言うだけ言うと、嵐を置き去りにしてさっさと部屋を出て行った。

 残された嵐の顔には、苦いものが浮かんでいた。

 (ふすま)を背にしてずるずると座り込む。

 隠してきた、あるいは見ない振りをしてきたあれやらこれやらを、ものの見事に看破(かんぱ)されてしまった気がする。茜に比べると、市はまだしも手心を加えてくれていたということか。女たちの持つ千里眼のような洞察力に、嵐は(おのの)いていた。

(あいつももう、子供やないんやな…)

 普段のような言い争いをしているとつい忘れがちになるが、茜は昔から明敏(めいびん)な性質だった。

 実際、嵐は若雪によって変化する自分を恐れていた。若雪は、嵐にとって大事な一人の女子だ。それはもう随分と前から、そうだと自分自身認めるところだった。共に乱世を生きる同志であると同時に、若雪は(ほの)(じろ)い花びらを纏う花のように、極めて大切な存在だった。歴史に爪痕を残す、という嵐の野心に支障をきたさない限りにおいて、若雪の為に様々な便宜を図った。自分の手が必要かどうかに関わらず、彼女を守ってやりたいと思い、望みを叶えてやりたいとも思った。気付けば、自覚した以上に若雪にのめり込んでいる自分がいた。嵐はそのことに危ういものを感じた。

自分は、若雪に囚われ過ぎてはいないだろうか。

このままでは、己の自由が若雪に奪われるのではないか。

 ――――――――――彼女の存在が、鷹のごとく自由に生きる妨げになるのではないか。

生涯、誰にも嫁がないと言った若雪の真意が、今なら少し解る気がした。

嵐が恐れるものを、若雪も察している。

しかし嵐は未だ、覚悟を決められないままでいた。

床に座り込んだまま、途方に暮れるような思いで、そのままじっとしていた。


「若雪さん、嵐はやめとき!」

「はい?」

部屋に入るなり、憤然とした顔で言い放った茜に、若雪は思わず訊き返した。

「あいつ、とんだ臆病もんやわ。あんな阿呆やとは思わんかった、情けない!」

ひどく腹を立てた様子で尚も言い続ける茜の言葉を、若雪は大人しく聴いていた。

いつもの兄妹喧嘩にしては、茜の腹立ちの度合いが並みではない。

上半身だけを床から起こし、小袖を肩にかけた姿で、若雪は茜が鎮まるのをただ待った。

「若雪さんなら、他にいくらでもええ人がおるやろ。よりによってあんな面倒臭い奴、選ぶことないわ」

若雪には返す言葉が見当たらない。嵐は一体、何をしでかしてこれ程までに茜を怒らせたのだろう。何となく、茜が自分の為に怒ってくれているらしいことだけは解った。

「………嵐どのは、器用そうに見えて案外に不器用なところがおありなのです」

 若雪がそっと口を開くと、茜も心当たりが無いでもない、といった顔で黙った。

「…気ままに生きとるだけや」

 そう言った茜の声には、先程までの勢いが無かった。

「若雪さんも、あいつの半分くらいでええから、もっと身勝手に生きたらええのに」

 その言葉に若雪は軽く笑った。

「――――頑固な性分なのです。我ながら」

 そう簡単には、変えられるものではなかった。

 それに、と続ける。

「私はこれでも、随分と身勝手ですよ。茜どのに、そうと知られていないだけで」

 茜は()に落ちない、という顔をした。

 若雪は微笑を浮かべ、そんな茜を見ていた。


 五月雨の名残りと言わんばかりに激しい雨が降る中、明慶寺の仏殿の隅に敷かれた畳の上で、智真は座禅を組んでいた。外の雨音の激しさが遠く感じ取れはするものの、仏殿の中は森閑(しんかん)とした空気に満ちていた。それは智真自身が、雨音から遠い境地に心を浮遊させているからかもしれない。激しい雨音からさえも遠く離れて、智真の心はひたすら虚となっていた。

 随分と長い時間を、そうとは気付かぬままその姿勢で過ごし、うっすらと目を開ける。

 今後の身の在り様について、智真にはこのところ考えていることがあった。

 恐らくそれを打ち明ければ、嵐も若雪も反対して智真を止めるだろう。自分でさえ未だ決心するまでには至っていない考えだ。

 けれどその道を選ぶことが、智真には最善の道と思えた。その為に自分は明慶寺へと来たようにも思えるのだった。

(それが私の、踏み出す一歩になるやろう)

 そう考えていた。

 仏殿の入口付近で雨音とは異なる物音を聞いた気がして、視線をそちらに向ける。

そして瞠目(どうもく)した。

 いつから立っていたのか、仏殿入口より外の、雨が降りしきる中に兼久の姿があった。

 全身が水を被ったように濡れている。この雨の中、傘も差さずにいたのでは無理も無い。

 その様相は、まるで幽鬼(ゆうき)のようでもあった。

「兼久どの――――――」

 どないしはったんですか、と智真が続けようとしたが、それより先に、伏せていた面を上げて兼久が口を開いた。静かな声は、しかし雨音にも負けること無く智真の耳に届いた。

「智真…。頼みがある」




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