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番外編 残雪行

番外編 残雪行


 嵐の前の

 昔語り

 日輪と

 夢に埋もれた

 雪の夜


 赤く染まり、散りゆくひと葉を小野若雪(おののわかゆき)は眺めていた。

 父から剣の稽古を受けたあとだったので、艶のある黒髪はしっかりと組紐で束ね、群青の袴を穿いている。十三歳の少女に父の振るう木刀の力は重厚に過ぎ、手には未だに痺れが残っている。

 元亀元(1570)年神無月、出雲では神在月と呼ぶ月、時は織田信長の勢力盛んな時代。織田・徳川連合軍は姉川の戦いにおいて、浅井・朝倉連合軍を敗北せしめた。

 若雪の住まう出雲国、杵築(きつき)の支配権は尼子氏から毛利氏の手へと移っていた。

 小野家は代々御師職を継ぎ、出雲大社の国造家に仕えていた。国造家はこの時代、千家(せんげ)家と北島家に分裂しており、これは若雪の父である小野家当主・小野清連(おののきよつら)の頭痛の種であったが、清連は北島家寄りの立場を示していた。

「若雪」

 井戸で手を洗っていた若雪に長兄の小野太郎清隆(おののたろうきよたか)が声をかけた。

 今年で十六になる嫡男には幾つか縁組の話があったが、いずれの話もまだまとまっていない。若雪はそのことに安堵していた。

(けれど遅いか早いかの違いだ。いずれは太郎兄も然るべき家の娘御を娶られる)

「はい、太郎兄」

「手を見せろ」

 若雪に迷う隙も与えず、清隆は妹の手を取り、眉を顰めた。

 白い掌に出来た複数のまめは破れ、血が滲んでいた。

「――――――俺には父上のご存念が解らぬ。こうも娘に剣術を仕込んでどうなる。戦場に出す訳でもあるまいに」

「父様も兄様たちも、戦場に出られるやも知れぬではありませんか」

「俺たちは男だ。神官とて戦場で死すこともある。だが若雪は女子ではないか。お前はもっと緩やかに慈しまれるべきだ」

「……太郎兄や次郎兄が慈しんでくださります。私はそれで十分です」

 若雪は長い睫を伏せて言った。

 清隆は得心の行かない顔で、若雪の髪にある浅葱色の組紐を見た。

 それは数日前に清隆が市で手に入れ、妹に与えた物だった。

「似合っている」

 若雪は一拍遅れて兄の言葉を理解し、微笑んだ。

「ありがとうございます」

「縁組の話があると言うのは真か?」

 すぐあとに続いた清隆の問いかけに、若雪の笑みは固まった。

「…はい」

「お前が乗り気でないなら、俺から父上に申し上げる」

「それでは兄様が父様の御不興を買います」

「構わん。どうせ近頃の俺の在り様は、父上のお気に召すところではない」

「なれど父様は太郎兄に期待しておいでです」

「どうであろうな」

 清隆はひっそり笑うと浅葱色の組紐に触れた。

 明朗な長兄がこの数か月憂いがちな表情を浮かべることに、若雪ら兄妹は気付いていた。

(私のせいだ)

 清隆も次兄の清晴も、父・清連が娘に教え込もうとしている静寂なる剣を、邪道と見て忌まわしく思っていた。特に嫡男たる清隆がそれを理由に反発し、逆らう姿勢を見せることを清連は不快に感じているようだった。

「いかがする?」

「………え?」

「縁組」

 清隆の目は真っ直ぐに若雪を見ていた。

「私は、」

 秋風が吹き抜けた。赤い葉が散る。

「―――――――まだ、どなたにも嫁ぎたくありません」

「解った。父上に進言しておく」

 請け負った兄の声は、少しだけ和らいでいた。


 小袖に着替えた若雪は、小野家の蔵の中に次兄の姿を見出した。

 蔵の周囲は欅が植えられ、暑さや風から蔵を守っている。

 薄く埃の積もった石敷きの床に、若雪は足を踏み入れた。裸足にひんやりとした石の感触が冷たい。杵築の冬は厳しい。じきに足袋を履かねばいられない季節になる。

「次郎兄」

 振り向いた小野次郎清晴(おののじろうきよはる)の端整な顔の、口角が釣り上がる。

「若雪。どうした?」

「……書を探しておいででしたか?」

「ああ。竜韜を探していた」

「りゅうとう」

「兵法書だ。六巻ある内の一つ。文韜と武韜は読んだから、次を読みたくてね。何か用だったか?」

「はい、あの」

 清晴の微笑が妹を促す。

「…太郎兄が父様と喧嘩になるようなら、次郎兄に、太郎兄を加勢するか、仲裁に入っていただきたいのです」

「お前の縁組の話か」

 聡い清晴は、すぐに察したようだった。

「はい」

「国造家の縁戚との話ゆえ、父上も早く進めたがっておられるようだな。難しい相手に見初められたな、お前も」

「嫁ぎたくないのです」

 兄の優しい声の響きに、若雪はつい、甘えるように本音を言った。

「であろうな」

 次兄は目を眇めて妹を見た。

「お前のたっての願いとあらば、引き受けよう。俺の言葉がどれ程のものになるかは解らぬが」

 若雪の力んでいた肩が緩む。

 清晴は言葉巧みで人を説得させる独特の声音を持つ。それは父を始めとして誰もが認めるところであった。

「恩に着ます、兄様」



 蔵の南にある主殿の南面は畳が敷かれ接客や主人の日常の間となる。小野家当主・小野清連の姿はこの主殿、南の間にあった。

秋上宗信(あきあげむねのぶ)が毛利方となったは遺憾である」

 清晴が父の前に座すと、今年で三十七となる清連は前置きなくそう言った。

 国造家の内紛のみならず、尼子氏支配下のころより起こった神官上官職の移動激化、大社末社の自立化など清連の頭を悩ませる種は事欠かない。

「時勢でございましょう」

 清晴はそれのみを答えた。皐月に済んだ話を今更持ち出すか、と内心では少し驚いていた。

 清連は片方の眉を歪め、次男の顔を見た。

「時勢、か。さもありなん。しかし秋上は天文五(1536)年には尼子経久様より自筆の和歌をいただいた程の家。時勢とはかくも無情よの」

 国造家は千家家・北島家共に尼子経久の娘を妻に迎えた時期もあり、尼子氏と縁が深かった。今でこそ勢力盛んな為に毛利に概ね従っているが、国造家始め大社神官たちの胸の内は、清連と同様に尼子寄りであった。

「あきあげは とみとたからに あひかして おもふことなく なかいきをせむ」

 涼しげな響きで詠み上げた清晴が父を見返す。

「こんな歌でありましたか。確か」

「……良く存じておるな。私でさえ、まだ童であった時の話ぞ」

「いずこかで小耳に挟みました。和歌を与えるとて調略の手立ての内には相違ありませぬ」

 ふっ、と清連が笑う。

「お主の耳は通りが良い。して、話とは何だ?」

「次の回国なのですが」

 御師職を有する小野家は、諸国を巡り信仰を普及させ、参拝の勧誘をすることが本分である。回国に伴い、訪れる土地での商いも生計を立てるに重要な務めだった。また、御師の中でも比較的富裕な小野家は参拝客を宿泊させる御供宿の経営権・(むろ)も併せて所有していた。清連から二人の兄よりも才覚を見込まれた若雪は、幼いころより両親に連れられ御師としての回国の旅に出ていた。

「ああ、縁組の話もあるゆえ、若雪は置いて行くつもりだ」

「―――――――若雪に兄上をつけてやるのはいかがでしょう」

 清連の顔に息子の思惑を探る色が浮かんだ。

「どういう了見で物を言うておるのだ、清晴」

「若雪は縁組を渋っております。あれは兄上に殊の外懐いておりまするゆえ、家を離れ難いのでしょう。一度遠方にて気を落ち着かせれば、心静まり、定まるものもあるのではないかと。いずれにしろ、御師職を継ぐのは兄上です。若雪が嫁ぐ前に、諸国の商売相手や領主らと顔を合わせておくに越したことはありますまい」

「……若雪は嫌がっておるか」

「口には出しません」

 素早く、清晴は言い添えた。

「うむ。あれは親には逆らわぬ」

 満足げな清連の声音に、清晴の形の良い眉が顰められそうになったが、堪えた。

(逆らえぬのだ。そのように、あなたが育てた)

 清晴は無表情を貫いた。

 腹の内を晒せば、不利になる物事が世には多い。

「考えておこう。確かに清隆には諸方と体面させる必要がある。下がれ」

「はい」

 清晴は頭を下げて父の前を辞し、奥の間に向かった。


 厨の板張りの床に寝転がっていた清隆の上にふ、と影が差した。

 見上げると、含み笑いをするような清晴の顔があった。

「子供のようだな、太郎兄」

「次郎か」

 言って身を起こす。

 清晴は左右に視線を遣り、人気の無いことを確認した。

「次の回国、兄上と若雪が行くことになった。備後の、三次(みよし)のほうまで」

「……なぜだ?」

「俺が方便を用いた。―――――――太郎兄。若雪を連れてこの家を出ろ」

「まさか帰って来るなと言っているのか?」

「そうだ」

 清隆は戯言を、と笑いそうになって、清晴の真剣な目にそれを止めた。

「なにゆえそのようなことを言う」

「若雪だ」

 清晴の呟いた名前は、清隆の胸に波紋を投げかけた。

 ひとひらの雪が、舞い降りた気がした。

「このままではあれは、父上の意のまま、嫁ぎもすれば、………剣で人を殺めもするだろう。若雪の心は、それには耐えられぬ。若雪が壊れる前に小野家から放してやらねば」

 清晴の言葉は、清隆にも良く理解出来た。

「……俺が共に行くこともあるまいに、次郎。それではお前が余計な荷を負うことになるぞ」

「構わぬ。家を継ぐは誉れだ。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)伊弉冉尊(いざなみのみこと)は兄妹だったであろう、太郎兄」

 清晴の言わんとしていることを清隆はすぐに察した。

(いつから気付いていたのか)

 浅葱色の組紐を、若雪にやるよりも前からだろう。

 弟の真っ直ぐな目を直視し辛くて、清隆は顔を背けた。

「忌まわしいとは思わんのか、お前は」

「なぜだ?俺は兄上と妹の幸を願っているだけだ。兄妹と知る者のない土地で暮らせば良い。母上の実家の、大伯母上ならば助けてくださるだろう。父上もあそこは嫌って近寄ろうとはせぬ」

「父上はともかく。若雪を三郎と母上から引き離すのか」

「いずれかを選べと言えば、若雪は必ず兄上を選ぶ。されど出雲を離れるまでは言うな。言えば若雪が心乱し、父上に露見するやも知れぬ」

(若雪が俺を選ぶとは限らぬ)

 清隆は気弱な心の内を、弟に告げることが出来なかった。



 夕餉の後、母・若水に呼ばれた若雪は、主殿の奥の間にいた。

 燭台の上で灯心の火が揺らめく。

 まるで自分の心のようだと若雪は思った。

「若雪。次の回国の折には、これを持ってお行きなさい」

 そう言って母がつと畳の上に置いたのは、桜模様が彫り込まれた柘植の櫛だった。

 若雪は櫛を見て、母の顔を見た。

「なぜですか、母様?」

 若水が静かに微笑んだ。

「そなたも年頃ゆえ。母の物を幾つか与えても良いでしょう。若雪は学識にも秀で剣の才はこの杵築でも並ぶ者はおるまい。ですがそなたは女子です。己を愛で、飾ることも覚えねば」

 そう言って、若水は若雪の髪を撫でた。

 端麗な母の顔の中、一対の瞳は潤んでいるように見えた。



 柘植櫛を手に、廊下を歩く若雪に末弟の三郎がまとわりついて来た。

「姉上、回国に太郎兄と行かれるのですか?」

「そう」

 母に似て優しげな顔立ちの三郎は頬を膨らませた。

「ずるいなあ、兄上は。私だって姉上と銀山やら三次やらに行きたいのに」

 若雪の目が和む。自分に良く懐いてくれている弟を、若雪もまた可愛いと思っていた。

「そなたはまだ十一です。今少し時が経てば、三郎とて兄上を手伝い回国することになるでしょう。……銀山?」

「はい。石見銀山にも立ち寄ると兄上から伺いました」

 それは若雪は初耳だった。

 清隆が石見銀山を訪れる理由が、若雪には解らなかった。



 三日後、小野太郎清隆と若雪は杵築を発った。


 日本海沿いに馬を進め、石見国大田に差し掛かった。

「毛利が水軍を宇龍(うりゅう)から加賀浦(かかうら)に動かしたらしい」

 宿の濡れ縁に座る清隆が若雪に語りかけた。

 杵築を出て以来、ほとんど口を利かなかった長兄がやっと喋ってくれたので、若雪は嬉しかった。清隆の傍らには黄金色の太刀・臥龍が置いてある。若雪の持つ懐剣と同様、手に馴染んだ得物だ。

「左様ですか」

「水軍を上手く使えば天下は近付く」

 若雪は兄の顔を窺った。

「兄様は天下人に興味がおありですか」

「いや、全く無い。俺は自分の領分が侵されねばそれで良い」

「領分」

「ああ、お前たち弟妹や―――――――妻や子といった」

「縁組がまとまったのですか。杵築に戻れば、どなたかを娶られるのですか」

 憂いがちな顔で問う若雪の黒髪と、それを束ねる浅葱色の組紐を清隆は見た。

「それは有り得ぬ」

 若雪は小さく息を吐いた。


 大田からは馬を降りて、銀山川を舟で上り石見銀山に至った。

 銀山周辺は家立ち並び、商業地としても賑わっていた。

 清隆は小野家と商売相手でもある家に若雪を預け、一日、一人で行動してまた戻って来た。

 兄に置いて行かれるのではないか、と危惧していた若雪はほっとした。手慰みになればと供された、緑の地に濃い紫と白の花弁を持つ菊の色柄が鮮やかな手毬を持って、障子戸を開けた清隆を出迎えた。毬には淡い金糸も使われ、若雪の白い手の内でぼう、と光るようだった。清隆は毬を手にした妹の愛らしい様子を見て、口元を緩めた。

「太郎兄、お帰りなさいませ」

「恙なく過ごしておったか。美しい毬だな」

 剣よりも、手毬のような女子らしい物をこそ妹に持たせてやりたいと、清隆も清晴も常々考えていた。清連は若雪が常の女子のように振る舞うことを喜ばなかった。小野家では父以外に若雪を見守る誰もが、若雪の中に伸びやかで健やかな無邪気さを育んでやりたいと願っていた。

「はい。……御機嫌がよろしいですか、兄様」

 清隆は、笑みを浮かべた。

「うむ。さすがは銀山のお膝元だな。良い細工師を見つけた。三次での取引に使うぶんの銀も調達して参った」

「銀細工を作らせるのですか」

「まあな」

 では、その為に石見銀山に寄ると言っていたのか。

 兄がどういう銀細工を何の為に欲するのか、若雪は知りたかったが、何となく訊くのは憚られた。


 それから当時、舟運の中継地として栄えていた浜原までを、方々で手に入れた魚や銀などの商品と共に馬で進み、浜原からは水路に切り替え(ごう)(かわ)を三次まで遡った。

 三次では地方領主たちに祈祷依頼も受け、清隆はそれを請け負った。三次ではここまで運んで来た品を売る代わりに、鉄製品を仕入れた。

 三次の地方領主の求めに応じて戦勝の祈祷を行った清隆は、若雪と共に客分として遇され一部屋を与えられた。

 清隆はこの地に至るまで、両親や若雪がこれまでに付き合いのあった商売相手や領主層との対面を滞りなく済ませていた。彼らは清隆の頼もしいことを褒め称え、父・清連の跡継ぎとして申し分ないとの賛辞を口にした。


 余程ここの領主に見込まれたのか、与えられた部屋は南に面した畳張りの部屋で、床の間には青磁の香炉が置かれ、芳しい香りが漂っていた。

「白檀ですね」

 昼、この部屋に初めて足を踏み入れた若雪が口元をほころばせて言う。

「そうなのか?」

「密教でも使われる、香の一種です」

「俺は不調法者ゆえ、香のことなどは良く解らぬ。お前の香とは違うな」

「私は沈香を用いておりますゆえ。ただ、回国のような旅路においては、香を焚き染める暇も無く支度も出来ませんから、今は何の香りも致しますまい」

 微苦笑しながら語った妹を清隆は見た。

「いや。…未だ香っておる」

「太郎兄は鼻がよろしいのですね」

 若雪は無邪気に言った。

「……若雪。俺たちはこの後、三次の外れの、大伯母上の住まいをおとなう」

「大伯母上。母様の伯母上様ですね。お懐かしい」

「そうだ。そしてお前は、そこに留まれ。杵築には戻るでない」

 若雪の顔が固まった。

「―――――なぜですか?」

「次郎とも相談した結果だ。俺たちはお前を、小野の家から、父上から、意に沿わぬ縁組から解き放ってやりたい。母上も同じお気持ちだ」

 そこまで話してから、清隆は妹の顔を見た。

 御師として白い上衣、白い袴を穿いた若雪は顔色まで白くなっていた。

「太郎兄は、私を置いて杵築に戻られるのですか」

 黒い双眸が清隆を見つめた。

「…………」

「兄様と、二度とお会い出来ないのですか。次郎兄とも、三郎とも、母様とも?」

「お前次第だ。戻るを選ぶも良し。戻らぬを選ぶも良し。……若雪。お前が望むなら、俺はお前と共に小野家を離れても良い」

「兄様と共に?大伯母様のもとで?」

「そうだ。兄妹と知る者のない土地で生きよと、次郎が言った」

 若雪の顔には狼狽と迷いがあった。

「私が望めば、太郎兄は傍にいてくださるのですか」

「そのつもりだ――――――どうする?」

「太郎兄はそれで良いのですか。小野家の家督も、御師職も継げませぬ。皆が兄様のことを、立派な跡継ぎと目しておりますのに」

「俺は……、」

 清隆は妹から目を逸らして続けた。

「…冬が好きだ。白い雪が舞う。もうずっと前から、俺は雪のひとひらに焦がれていた。だからそれで良いのだ」

 若雪はその言葉を、心の内で繰り返した。

(雪のひとひらに)

「私は。私は、赤く染まり、散りゆくひと葉を見て、己の想いのようだと思っておりました。いかに赤く染まろうと、……ただ、散るしかないものとばかり。それがとても、悲しかった」

 兄の胸に若雪は身体を寄せた。包み込んでくれる腕の温もりを感じる。

「置いて行かないでください、兄様。傍にいてくださりませ」

「…承知した」



 日暮れ時、稲が金色の広がりを見せる中、清隆と若雪の目の前に豪壮な門が見えて来た。

 武家屋敷とはやや異なる造りの、名主の邸の門前に一人の老婆が立っている。

 藍染めの小袖を着た白髪の老婆は、若雪たちの姿を見ると相好を崩し歩み寄って来た。

「若雪か。若水によう似て来た」

「お久しゅうございます、大伯母様」

「清隆も、よう来た」

「御無沙汰致しております、大伯母上」

 老婆・(その)はふんと笑った。

「無沙汰もする筈じゃ。清連は儂を嫌っておるゆえの。仔細は若水の文にて知った。気兼ねすることはない、いつまででもおれば良い。二人だけで暮らしたいと望むなら、近くに頃合いの家を手配してやろう」 

 全てを承知しているような園の物言いに、兄妹は頭を下げた。


「良く我らの来る刻限がお解りになりましたな」

 囲炉裏端で供された茶を飲みながら清隆が言った。

 御師の装束から、(はなだ)の上衣、濃色(こきいろ)の袴に着替えている。

 邸では、若雪たちの到着を見計らったように湯まで準備されていた。

 清隆は妹に先を譲ると、自らはそのあとに湯に浸かり、旅の疲れを流した。

 園がに、と白い歯を見せる。

「そこはかとなき女子の勘よ」

「大伯母様は昔から、勘の鋭いお方でおられました」

 若雪もまた、真新しい朽葉色の小袖に着替えていた。控えめに施された野菊を象った刺繍が品が良い。兄妹の衣服はいずれも、園が用意しておいてくれた物であった。

「そう、そう。たまに託宣めいたことも口走るゆえ、小野の当主には胡散臭い婆よと敬遠されての。若水はあの石頭に良く従うておる。が、さすがに娘は可愛かったと見えるな。手放す決意をする程」

 若雪は茶碗に目を落とした。

 若水から手渡された柘植櫛は、大切に仕舞い持って来ている。

 それを手渡した母の心境と潤んでいた瞳の理由が、清隆の話を聴いてから納得出来た。

爽原(さわはら)のお家は皆、お変わりありませぬか」

 妹を横目で見てから清隆が尋ねた。

「うむ、このあたりも毛利の支配下のようなものでな。孫のな、今年で十五になる武遠(たけとお)が合戦に出たがって父母を困らせておる。我らは田畑を耕すが本分と言うに。まああの年頃の男というものは大概が皆、そんなものじゃ。お主らのように腕を磨いてもおらぬ身で、無闇に刀を振るいたがる」

「ああ、武遠。宗丈丸(そうじょうまる)か。懐かしい」

 清隆が顔をほころばせた。

 遠縁の武遠とは、まだ互いに幼名で呼ばれていたころ、清晴や若雪を交えて遊んだことがある。

「顔を合わせても戦の話はしてくれるなよ。お主らの部屋は奥の、客間の続き部屋じゃ。それで良かったかの?」

「はい。お心遣い、痛み入ります」

 清隆と若雪は、揃って頭を下げた。


 用意された部屋は申し分ない広さだった。

 障子戸を開ければ広縁に出て、庭の木々を眺めることも出来る。

「しかし、神棚は無いな」

 兄の言葉の意味を若雪は察した。

「回国の間、朝拝がままならないのは落ち着かないと、父様たちも仰っておいででした」

 朝拝とは早朝、神に供え物をして大祓祝詞(おおはらえのりと)を奏上することを言う。

「その内、大祓祝詞を忘れそうで怖いな」

「まさか」

 若雪は清隆の言葉を笑った。

 幼いころから身の内まで刷り込まれている祝詞を、自分たちが早々に忘れてしまえる筈がない。

「忘れたほうが良いのかも知れぬ。祝詞も、」

 清隆は言葉を切ったが、若雪にはその続きが何となく解った。

 忘れたが良いのかも知れない。

 祝詞も、小野の家も、杵築も、大社も。

 けれどそれは容易なことではないのだと、兄妹は知っていた。

 若雪は手に持った柘植櫛の、桜の彫り込みを手で撫でた。

「母上の物だな」

 妹の手元を見た清隆が言った。

「はい。此度の回国に持って行くようにと言って、渡してくださったのです」

「そうか………」

 母の意図は清隆にも伝わった。

(次郎。三郎――――――)

 清晴に自分の代わりとして重い責を負わせてしまった。

 三郎から慕っていた姉を取り上げてしまった。

 清隆は彼らに申し訳ない思いだった。

「…今宵は雨になりそうですね」

 若雪が開いた障子戸の向こうを見て言った。

 確かに湿った匂いがする。それに混じって若雪から、仄かな香の匂いもした。

「若雪。櫛を貸せ」

 若雪は不思議そうな顔で兄の言葉に従った。

 しゅるり、と漆黒を束ねていた浅葱色の組紐を解く。さらさらと黒髪が流れた。

「――――――兄様?」

 清隆は黙ったまま、若雪の髪に櫛を当てた。艶やかな黒髪は櫛にほとんど引っかかることなく、梳く手応えも呆気ないくらいだった。

 若雪は櫛で髪を梳かれている間、黙っていた。年頃の兄が同じく年頃の妹の髪を梳く。こんなことは、小野の家では望むべくもなかった。すればたちまち秘められていたものが暴かれ、二人は引き離されただろう。

(この日々が、ずっと続くのであれば)

 自分は幸せだと若雪は思った。


 稲の刈り入れを若雪と共に手伝った清隆は、居室の前の広縁で寛いでいた。

 神官家で生まれ育った兄妹には、武術の心得はあっても田畑を管理する行為には不慣れだった。二人共、見よう見まねで覚束ない手つきでもって稲の中で働いた。

 園に命じられたのではなく、自分たちから申し出たことだ。

(しかし剣術とは勝手が違うな。腰が痛む。若雪にまでさせるのではなかった)

 若雪が戻って来た。

 手には風情ある彩が抱えられていた。

 花の彩の中で清隆に判別がつく物は、撫子と尾花、桔梗くらいだった。

 若雪は少し困った面持ちをしていた。

「いかがした、若雪。それは?」

「………いただきました」

「…誰から」

「宗丈丸…いえ、武遠どのからです。秋の七草だそうです」

「―――――――そうか」

 若雪は兄の硬い声に、どこか項垂れた様子で横を通り過ぎようとした。

 気付けば清隆は細い手首を掴んで引き寄せていた。

 ばらばらと花々が二人の足元に落ちる。

 萩、葛、女郎花、藤袴。

 桔梗の淡い青紫、尾花の白銀、撫子の薄紅に加え、黄や緑、蘇芳や紅の色が散った。

「……太郎兄…」

 腕の中で若雪が小さな声を上げる。

「お前はもう、外に出るな。止むを得ぬ時は俺が同道する」

「…はい…」

 

 昔馴染みとは友誼を育めそうにない、と清隆は思った。


(誰が目をつけるか解らぬ。俺が少し目を離した隙に、若雪を狙う男が横から奪って行くやも知れぬのだ)


 それだけは我慢ならなかった。


 その年の初雪は早かった。


 外では雪混じりの風が強く吹き、邸の板戸を音高く揺らしていた。

「娶ってやれば良かろうに…」

 囲炉裏端に座る清隆の耳を、不意に大叔母の声が打った。

 夕餉の後、若雪は先に部屋へと戻っている。

「…は、」

 清隆を見据える園の目は、炯炯としていた。

「若雪じゃ。いつまであのままにしておく。祝言を挙げるとあらば、儂が委細、支度を整えてやろう。小野家に劣らぬ嫁入り道具も、若雪に持たせてやる程に」

「………あれは妹です」

「近隣でそれを知るは儂くらいのものじゃ。武遠とて滅多にこちらには来ぬ。お主は清晴らと違い、顔は父親似じゃ。若雪とは似ておらぬよって兄妹とも解るまい」

「阻むは、高き垣根にございますれば」

 園は厳しい目で追及した。

「その垣根超える覚悟無くして婆のもとに参ったか」

「……若雪の退路を断つことになります。あれが悔やんでも、後戻り出来なくなる。女子は男より尚、後戻りし辛い世です」

「若雪にはとうに覚悟が出来ておる。清晴も。覚悟が未だ定まらぬは、清隆。お主のみじゃ」

 清隆は本音を吐露したくなった。

 板戸が鳴る音に紛らせて、この勇ましい老婆に己を晒してしまおうと考えた。

「俺に若雪が守れましょうか」

 老婆は素っ気無く答えた。

「出来るであろ」


 部屋に戻ると、隣室の明かりは既に消えていた。

 清隆の部屋だけ夜具も敷かれ、燭台の火がともっている。若雪の心遣いだろう。

 夜着に着替えてから清隆は隣室に声をかけてみた。

「若雪。起きているか」

 少ししてから若雪が襖を開け、夜着の襟元を整えながら姿を見せた。

「太郎兄。いかがされましたか」

「お前に渡す物がある」

 そう言って妹に差し出したのは、銀色に光る簪だった。

 燭台の火が一つあるだけの薄闇の中で、それはきらりと輝いた。

 銀の簪には丸い輪の中に桜の花の透かし彫りが施され、その上に小さな真珠が一粒ついている。

「銀山の細工職人に注文していた物だ。手頃な真珠を見つけるのに手間取ったらしく、先日、ようやく届いた」

「……この為に、細工師を探しておいでだったのですか」

「そうだ」

「かように高価な物を」

「―――――――結納の品の代わりだ」

 若雪が言葉を返す間も無く、清隆は若雪の髪を束ねる組紐の上あたりに簪を挿した。

 漆黒を背景にして、清涼な浅葱色と冷たく美麗な銀、気品ある真珠のまろやかな白の組み合わせの妙が清隆の目を和ませた。

「お前は桜と竜胆が好きだったと思って考えた末、桜の意匠にしたのだが、正しかったな。若雪に良く似合う」

「太郎兄。結納とは…」

 若雪が振り向いて尋ねた。朧な明かりに照らされた顔を美しい、と清隆は思った。

 自分の妹が誰より美しいことを清隆は知っていた。

 誰に代わりが務まるものでもないことも。

〝出来るであろ〟

 言葉を飾らない大伯母の声が清隆の背を押していた。

「春、雪が融けて桜が咲くころに。俺の嫁になれ、若雪。この地で共に暮らそう。俺は何をしてでも、お前が喰うに困らぬようにする」

「太郎兄の、嫁御にしていただけるのですか?」

 若雪はいつかの晩と同じことを尋ねた。

 その時は冗談だと言って逃げたが。

「なってくれるか」

「――――はい。はい」

 若雪の目は潤んでいた。

 清隆はその目を見てぞくりとした。

 焦がれて止まなかったものが手に入る幸福を、恐ろしいと感じた。

(お前が手に入るのか。お前を他の男に取られずにすむのか)

 すぐそこに座るのは、最愛の女子だった。

 柔らかな芳香を幾ら狂おしく想っても、諦めるしかないと自分に言い聞かせて来た――――――――。

(……得られるならば、奈落に果てようと構わぬ)

 若雪の身体を襖に押し付けると、カタリと小さな音が鳴った。

 薄く開いていた若雪の唇の上から唇を被せる。微かに若雪の肩が動いた。

 清隆はくちづけを徐々に深くしていった。

 若雪の息吹を全て奪ってしまうような勢いだった。

 若雪が苦しそうに眉を寄せても止められなかった。

 随分長い間そうして、やっと唇を離した時には、若雪の息は乱れていた。清隆はそのまま、若雪の耳の後ろから首の線を辿るように唇を押し当てて行った。若雪の身体は時折びくりと跳ねるように動いた。そのたびに襖が小さな音を立てた。

「兄様」

 か細い声が清隆の動きを止める。

 嫌なのだろうかと思い、妹の顔を見る。

「あの、帯を、解いたがよろしいでしょうか」

 まだ息が整わずたどたどしい口調で言う若雪に、清隆は軽く目を見張り、微笑むと黒髪を撫でた。

「いや、それは男がすることだ」

「そ、うなのですか?」

 才識に優れた若雪だが、この方面に関しては奥手だった。

「そうだ」

 笑み混じりの声で答えながら若雪の瞼の上に唇を当てる。若雪は両の目を閉じて、震えるような吐息を洩らした。熱い息は清隆の肌にも届いた。

 若雪は夜具の上に横たえられた。夜着から覗いた白い肩から胸元、その下深くまで、清隆は丁寧なくちづけを落とし続けた。若雪の身体は思い出したように身じろぎした。

 

 それはまっさらな雪原に、厳かに歩み入る儀式のようだった。

 

 外はいつしか風が止み、雪が緩やかに落ちる晩となった。

 雪白の香りに清隆は酔った。



 年が改まって元亀二(1571)年睦月、爽原の家に早馬が着いた。

 清隆は受け取った文を読むと、顔を強張らせた。

〝小野清晴、病重くして余命幾ばくやも知れず〟

 若雪の顔も蒼白になった。

「次郎兄が―――――そんな」

 震える妹の身体を清隆は胸に抱いた。

「若雪。……」

「戻りましょう、太郎兄」

 清隆が言うより先に、若雪が目を強く光らせて言った。

「また、またこちらに来れば良いのです。春に。桜のころに。そうして、私を嫁に迎えてください、兄様」

 清隆は目を細めた。

 一旦、杵築に戻ってしまえばそれは、夢物語のように叶い難くなる話だ。

 しかし清晴をこのままにしておくことも出来ない。

 それでは一生、清隆と若雪の心に悔いが残るだろう。

「―――――支度が整い次第、ここを発つ」

「はい」

 

 若雪と清隆は、雪の残る道を来た時とは逆に辿った。


 園が出先から戻ったのは、既に二人が去ったあとだった。世話になった礼と春に再訪する旨を書いた文が園に残された。

 家人から話を聴いた園は、顔を歪めた。

「莫迦な。それは清連の謀じゃ。空言じゃっ。なぜお主ら、止めなんだ!戻ればあれらには凶が待っておる、大いなる凶事が。それが見えておればこそ、儂は清隆らをこの地に留めんとしたに。このままでは若雪も清隆も若水ら諸共に―――――――」

 死んでしまう、と呻き、顔を覆った老婆を、家人は恐れる眼差しで見た。


 爽原園には、この春、小野家を襲う凶刃の予感があった。

 幼いころより園に備わった予見の力は、周囲の人間を遠ざけもし、畏敬の念を抱かせもした。



 小野太郎清隆と小野若雪が三次を再訪することはなかった。

 園の見抜いた通り小野清晴は健在で、重い病と言うのは清連の作り話だった。

 清隆と若雪を連れ戻すのにどの手段を選べば最も適当であるか、父親である清連には良く解っていた。若水も清晴も、清連の企みを阻止することは出来なかった。


 そして同年の春、小野家は大社神官の一人、山田正邦の雇う刺客の凶刃に襲われる。

 当主・小野清連、妻・若水、嫡男・小野太郎清隆、次男・小野次郎清晴、三男・小野三郎はこれにて落命する。

 たった一人、娘・小野若雪のみが生き残り、堺の会合衆・今井宗久の計らいで堺に落ち延びる。


 生家を離れる際、若雪は桜の彫り込みのある柘植櫛と共に、銀細工の簪を持って出た。

 

 この先、若雪の行く手には嵐が待っている。


 若雪は銀細工の簪と兄への想いを、終生、誰にも見せることは無かった。










挿絵(By みてみん)













 天正九(1581)年皐月、今井宗久の邸で、兵庫は微睡む天女を見た。

 今年で二十四になる宗久の養女・若雪は、自室の前の廊下に、障子戸にもたれて眠り込んでいた。普段は隙の無い若雪の無防備な姿に、兵庫は目を丸くした。

(お疲れなのか)

 織田信長の意向のもと、戦局を見定めながら立ち働く若雪には暇が少ない。

 清かな風の吹く日和、束の間の安らぎに眠る主に、どう対処すべきか迷う。

 起こすべく声をかけたが良いだろうとは思うものの、このままそっとしておきたい気持ちもあり、兵庫は考えあぐねた。

 薄色の小袖だけで外の空気に身を晒し、風邪をひきはすまいかという懸念もあった。

 少し思案した後、兵庫は邸内にいた志野から打掛を借りて来ると、そっと若雪の身にかけた。

 そのまま静かに離れようとした時、何かが兵庫の衣を引っ張った。

 見れば目を閉じたままの若雪が、野良着の袖を掴んでいる。

 淡く色づいた唇から、小さな声がこぼれ落ちた。

「――――――兄様…」

 白い頬には涙がある。兵庫は息を呑んだ。

(兄。小野家の兄弟か。……確か兄は二人、おられた筈)

 どちらのことだろう、と考える。追及したくなるような声だった。

 まるで想い人を呼ぶような。

 続く切なげな声が、兵庫に判じさせた。

「…太郎兄………かないで…」

 袖を掴む手に、力が籠る。

 これでは離れられない。

 そう思いながら、若雪を凝視した。

〝太郎兄。行かないでください〟

 柳眉が悲しく歪んでいる。

(若雪様。もしや)

 心に浮かんだ疑念を兵庫は打ち消そうとした。

(…実の兄妹だ)

 しかしそのような例も、世には数多、ある。

 兵庫は世と言うものの表裏を知り尽くしていた。

(嵐様には、知られぬが良いだろうな)

 そのまま、兵庫の身は眠る若雪の隣に縫い止められた。

 天女の白い手に袖を掴まれて。

 少しだけ、役得だと思った。

 

 若雪はゆるりと目を開けた。

 久しぶりに、愛しい夢を見た。悲しい夢を見た。

(夢と知りせば覚めざらましをとは、良く言ったものだ)

 気付けば誰かがすぐ横にいた。

「嵐どの?」

「兵庫です」

 その声を聴き、兵庫の袖を掴んでいる自分の手を見る。兵庫は困ったような顔をしていた。慌てて手を離す。

「――――――すみません。引き留めましたか」

「いえ」

 忍びの男は首を横に振った。気遣うような目に鼓動が一つ鳴る。

「兵庫。私は何か、寝言を言ったでしょうか」

「いえ何も。夢を見ておいででしたか」

 若雪は頬に手を遣る。濡れている。

「ええ。時折、昔の夢や幻を見ることがあるのです」

「夢。幻」

 言葉を吟味するように、兵庫が繰り返す。

「失ったものが、…まだこの手にあるような心持ちに陥るのです。懐かしいものや、……懐かしい人が」

〝懐かしい人〟

 兵庫は中庭に植わる松の樹を見た。

「嵐様なら、若雪様の失ったものを埋められますか」

 若雪は儚く微笑んだ。

「もとより、埋めてもらうつもりはありません。容易く埋められるものでもない」

 どこか悟ったような声音を、兵庫は悲しいと感じた。

 夢幻でしか幸を感じられないのだとしたら、ずっと目を覚まさないほうが若雪の為になっただろうか。

「杵築に戻りたいですか?」

「…いいえ。あそこは最早、私にとって悲しい土地でしかない。もしも養父上や嵐どのに出逢わなければ、私はきっと備後国の三次に住まおうと考えたでしょう。夢に殉じて」

 若雪の言葉を、兵庫は定かには理解出来なかった。

 若雪は顔を上げ、日輪を仰ぐ。

(太郎兄が、あそこにおられる)

 虚ろな目をした若雪の頬を優しい風が撫でた。



 今井宗久の甥・望月嵐由風(もちづきあらしよしかぜ)と宗久の養女・今井若雪を主とする嵐下七忍の一人、兵庫はこの翌年、本能寺において討ち死にする。

 それと同時に若雪が昔、誰を想っていたかを知る人間はこの世から消えた。







参考文献:「戦国大名尼子氏の研究」、「大社町史」通史編、「大社町史」史料編収、秋上家文書、坪内家文書、「石見国銀山要集」、「出雲大社の壇所制」(『七生』四九)坂本喜四郞、他

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