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月下行 四

       四


 そして満月の晩が来た。

 真白は陶聖学園高等部の屋上に、制服姿のままで立って夜風に吹かれていた。

 今日は帰宅せずに、授業が終わってもずっとここにいたのだ。もちろん家には遅くなると告げてある。

 待ち人はまだ来ない。

 ――――――来ないほうが良いのかもしれない。

 一瞬、そう思う。

 彼が来ることは、一つの別れを意味する。大きな離別を。

(けれど――――――――――、嵐…)

 嵐。

 胸に抱き締めるように大切な言葉。何より大事な言葉を、もう思い出してしまったから。

 そうしてしばらく、フェンスに寄りかかって満月を見上げていた。

 満ちた月―――――。

 真白は(まぶた)の裏にも月の光を感じるように、目を閉じた。

 しばらくそうしてから、再び目を開ける。

 満月は、変わらずそこにあった。

 ―――――――――満ちた時。時の、到来。

 真白には、もうそのことが解っていた。

 それが嬉しい。――――それが悲しい。

 時の到来は真白から、与えると同時に奪う。

 満月に、手を伸ばそうとした真白に、声がかかった。

「何やってんの、しろ」

 屋上に呼び出した待ち人が現れた。彼もまだ制服を着ている。

 真白は中途半端に伸ばしかけた手を、引っ込める。

「こんなとこで。もう夜も遅いってのに。危ねーだろ」

剣護の声は静かだった。いつも通りに、真白を気遣う言葉。

「剣護―――――…」

 そう囁いた真白の、哀しみと喜び、相反する感情に滲むような笑みを見て、剣護は時が来たことを悟った。

(とうとう、か)

 ずっと――――――――いつかは来ると、思っていた。

最近では、それがそう遠くないという予感もしていた。

当たってしまったな、と思う。胸に湧く寂寞(せきばく)の思いは、どうしようも無かった。

「しろ――――もう、解ったのか?」

 何をとも言わない剣護の問いに、真白はコクリと頷く。

「思い出して―――――、しまったのか?」

 この問いにも、真白はコクリと頷いた。

 剣護は笑顔を作った。作った――――――、つもりだった。

「………じゃあ、行ってしまうんだな?」

 この問いには真白は首を縦に振らなかった。

 ただ悲しそうな顔をした。彼女の綺麗な柳眉が悲哀に(ひそ)められる。

 ――――もうこの表情は、真白のものではない。

 痛切に剣護はそう思った。急に真白が遠のいた気がした。

 元々真白は大人びた少女だが、彼女は真白より更に大人びた表情をしている。

 大人びたと言うよりも、大人の女性の顔をしている、と言ったほうが正しいかもしれない。

「いつから、思い出していたのですか。あなたは」

 真白が、真白でない声で剣護に問いかけた。

(この、口調…)

「―――――――ノイローゼに、罹った時があっただろう。あの時だ」

「では、そのころにはもう既に――――――?」

 真白のこの問いに、剣護は微笑を返した。

「そうだよ。………真白」

 剣護はまだ、何かに抗うように彼女を本当の名で呼ばない。

 対して真白は深く息を吸って、静かに、そして慎重に彼のもう一つの名を呼んだ。

「―――太郎兄(たろうあに)―――――――――――」

 声は、微かに震えていた。

〝太郎兄〟――――かつて自分のことをそう呼んだ人間が三人いた。かけがえのない、妹と弟たち。剣護にとって何より大切な記憶で、存在だった。

「……懐かしい、呼び名だな。俺はずっと、お前にそう呼んで欲しかった。――――あのクマに名前つけられた時は参ったけどさ」

 剣護はクスリと笑った。真白も釣られたように少しだけ笑う。

「それでもやっぱり、嬉しいものはあった。けど、そう呼ばれる日が、太郎兄と呼ばれる日が来ないようにと願ってもいたんだ。…来ちまったけどな」

 小野太郎清隆と、門倉剣護が混じっているような喋り方だった。

 真白がその場にしゃがみ込む。とても平静に立ってはいられなかった。

(もう―――間違いない)

 剣護は、太郎だ。小野太郎清隆(おののたろうきよたか)――――――――。

出雲大社神官・小野家の嫡男にして長兄だった人。享年十七で凶刃に(たお)れ、真白の前から姿を消した人。

 一人っ子なのに妙に兄貴体質だったのも、今では頷ける。

(こんなに近くにいてくれた――――――)

 懐かしい、という言葉ではとても足りない。

 真白はこみ上げてくるものを堪え切れず、顔を両腕に埋めて、泣き声で再び呼びかけた。

「太郎兄」

「うん」

「太郎兄?」

「うん」

「本当に?」

「うん」

「また……会えたのですね。まさか。まさかお逢い出来るなんて――――――」

「そうだよ、――――若雪」

 剣護は、ついにその名を呼んだ。繊細なガラス細工を扱うように、そっと。

 まるで触れれば壊れるのではと、恐れるように。

「―――――兄様にお会いしたら、私、ずっと謝らなくてはと思っていたのです」

 真白は重ねて確認したあと、改まってそう言った。

 それは罪悪感に満ちた、苦しそうな声だった。顔を伏せたまま言ったので、くぐもった声になる。

 え、と剣護が声を洩らす。ひどく意表を突かれた様子だった。

「謝る。お前が?何を?」

 心底心当たりが無い、という顔をする剣護を、真白が見上げた。眼は涙で潤んでいた。

「あの時。小野家が襲撃を受けたあの時、私はその場にいることが出来なかった……。皆と共に戦うことが、出来ませんでした。私とて、小野家の人間として研鑽(けんさん)を積んだ者の一人だったと言うのに。気付けば、全ては終わっていた………。私は一人、のうのうと生き延びた。―――――兄様たちの亡骸(なきがら)を、そのままにして逃げました。…保身の為に、亡骸を置き去りにしたのです。お許しください………」

 潤んだ目で必死に言い募った真白――若雪だったが、剣護は一笑した。

「何、馬鹿なこと言ってんの。死体なんかに執着して、あそこでお前まで死んでしまっては駄目だろう。本当は俺が、俺たちこそがずっと悔んでいたんだ。お前を、独りにしてしまったことを。守ってやれなかったことを。…死んだのちにも無念を残す程に…」

 その時、屋上と校舎内を繋ぐ扉がキイと重い音を立てて開いた。

「こいつもな。――――よう、次郎」

 立っていたのは怜だった。彼もまた制服のままで、静かな表情をしている。

次郎兄(じろうあに)……?」

 泣き顔のまま若雪は怜を見た。涙に濡れた目は見開かれている。

「俺が報せた」

 剣護が短く説明する。片手に持ったスマートフォンを軽く振って見せる。

 呆気に取られている若雪に苦笑して怜が言う。

「気付くの遅いよ、若雪?俺、ずっと待ってたのに」

 その秀麗な容貌は確かに、小野家次男・小野次郎清晴(おののじろうきよはる)に通じるものがある。

 彼は十五で亡くなっている。数え年かどうかの違いはあるが、現在と同じ年齢だ。

「江藤君が、次郎兄――――。じゃあ三郎も、そこにいるの……?」

 これには剣護が首を振って答えた。こちらも苦笑しながら。

「いや、さすがに幼稚園児をこの時間には連れ出せない」

「?」

「碧だよ」

「え?」

「あいつが、三郎。まだチビだけどな。あいつの家が向かいに引っ越して来てから、俺はすぐに気付いた。まるで変ってなかったしな」

「碧君が…。…あの子、記憶は…?」

 剣護が再び軽く首を振る。

「まだ思い出してねーよ。――――――尤も俺は、ずっとそのほうが良いと思ってる。あの記憶は、剣戟(けんげき)の記憶は、……マジできつい」

 剣護の顔に、苦悶の名残りが微かに浮かんだ。怜の顔にも、似たようなものが浮かんでいる。血の、海――――――。忘れていられるなら、そのほうが余程良い。

「俺や次郎は何とか乗り切ったけど、あいつの精神が保たない場合だって有り得る。ただ、あれだけお前に懐いてるってことは、何か残ってるものはあるんだろうさ」

「私……、碧君のこと、判らなかった」

 自分を責めるように呟く若雪に、剣護が宥める口調で言う。

「仕方無いよ。俺たちには記憶があったけど、お前は禊の時を終えるまで、思い出さないようになっていた」

 だから、と剣護は続ける。どこか自分自身に覚悟を促す調子で。

「お前が思い出した、ってことは、禊の時が終わったってことだ。―――――耐えられなくなった摂理の壁が、崩壊する。―――――――お前は、若雪は元の時代に戻る。お前はそもそも、本当の意味では俺たちと違い、生まれ変わってさえいなかったんだ。ただ、吹雪の力を利用して、この時代に飛んだんだ―――――魂だけ。そして十五年の間、ここに留まった。だから真白は本当には、今はまだどこにもいない。そしてそれらのことは全て…嵐にも当てはまる。あっちも今頃思い出してるころだろうよ」

 剣護が口を閉ざすと、怜が代わって口を開いた。

「――若雪――――、あの襲撃より随分前から、俺たちは、お前が哀れで仕方無かったよ。鍛錬の刻限になるといつも、お前は俺や太郎兄に気を遣い、練習用の木刀に手を伸ばしては引っ込めて、それを繰り返していた。そのたびに父上に叱られていた。何をしている、早く木刀を取りなさい、と。……俺への父上の叱責すら、自分のせいのように考えていただろう?お前の天稟(てんぴん)に、お前が引け目を感じる必要など無かったんだよ…」

 それは優しく、それでいて悲しむような口振りだった。

 その言い様を聴いて、若雪も、怜が確かに次郎だと今では確信を持った。

(次郎兄――――…)

 三兄弟の中でも優れて頭が良く、細かな気遣いが出来、繊細で努力家。けれど朗らかな笑い方は太郎とそっくりだった。

 ガシャン、と言う音に目を遣ると、剣護がフェンスに両手を叩きつけたところだった。

 苦しそうな顔をしていた。

 金網を握り締めるようにしたまま、吐き捨てるように叫ぶ。

「おまけに―――――、あの剣だ!父上がお前に教え込んでいた闇の剣。俺も次郎も、お前にそんなものを覚えて欲しくなかった。父上に何度も進言したが、容れられなかった。このままではお前を闇に染めてしまう――――。そう、焦っていた時だ。あの、惨劇が起きたのは。多勢相手とは言え、俺たちは、あまりに非力だった。呪ったよ、自分たちの不甲斐無さを」

「――――――――――――そんな、それは」

 自分の大事な兄二人が、苦しみ、憤っている―――――自分の為に。

 若雪は堪らない思いで叫んだ。その事実こそが看過出来ないものと感じた。

「あの剣は、兄様たちのせいじゃない!誰にも、どうしようもなかったのです、仕方無かった!だって私たちは、まだほんの子供だったではありませんか。母様でさえ、どうにも出来なかったものを。誰にも、兄様たちを責めることなんて出来ない!――――そんなこと、私が許さない。…あの惨劇にしろ、同じです。あの父様までが血の海に沈まれたと言うのに、兄様たちが抗い切れず斃れたことを、一体誰に非難出来ますか!」

 若雪は立ち上がって必死にそう訴えた。誰にともなく怒るかのように。

 そんな若雪を、剣護はひどく優しい眼で見た。

「……お前ならそう言うだろうと、次郎も言ったよ。若雪。さすがに解ってるな」

 若雪は怜を振り返る。

 怜は頷く代わりに微かな笑みを浮かべた。

 若雪は俯いて、心なし小さな声で言った。自分の右の掌を見る。柔らかくて白くて、傷一つ無い。何の苦労も知らない代わりに何の力も無い掌。若雪の掌とはあまりに違う。

「私――――、私は、山田正邦の足の腱を切ってからも、本当は時々考えました。…殺めるべきだったのかもしれないと。兄様たちのことを思い出すたびに。正邦はそれ程大きなものを、兄様たちからも私からも、奪った。兄様たちには、まだこれからの、全うすべき長い生涯があったと言うのに」

 それなのに、喜びや悲しみや、経験する筈だった人生の全てを若くして奪われた。

 斬るべきだったかもしれない、という迷いは若雪の脳裏をかすめる程度の思いで、決して確固としたものではなかったけれど。

「………お前が正邦を殺さずに終わらせた時、俺たちはホッとしたよ。お前の手ばかりが、血で染まる必要など無かった。たった一人、生き残ったというだけの理由で――――――。お前を業垢(ごうく)にまみれさせるなんて、考えただけでも耐え難い。もしお前が正邦を殺めていれば、俺たちの後悔はこんなものじゃ済まなかっただろう。お前という存在は、俺たちにとって聖域みたいなもんだったから――――――――――」

(ずっと見守られていた?)

 剣護の言葉に若雪は思った。

(私は、あの惨劇の直後も、そののちも、どこまでも独りという時はなかったのだ――――――――)

「けど、けどな、若雪――――――」

 剣護がフェンスから向き直り、自分の前髪をくしゃりと掴んで辛そうに口を開いた。

「それだけじゃないんだ。俺たちがお前に感じてる負い目は」

「――――――?」

「吹雪だよ」

 どこか自嘲気味に、剣護が若雪を見た。

 若雪は意図していなかった方角から物を投げられたように、目をしばたたいた。

「吹雪が―――何?あれは、私と嵐どのの出会いの果て生じた現象。兄様たちには関係無いでしょう」

 怜が苦く笑う。

「いや。本来なら成る筈の無かった吹雪を招いたのは、俺たちだったんだ。俺と、太郎兄と、そして三郎。俺たちの………罪」

「意味が、解らない」

 困惑顔の若雪を、諭すように優しく怜が語った。

「水臣から聴いただろう?運命違えの法は、二人の当事者のどちらかでも欠けると成立しないと。その為に。嵐の為に。――――お前は自害の道を選んだ。けれど、それでも呪法は成った。他にも、全ての出来事が、偶然が、流れが、花守たちの奮闘にも関わらず吹雪が成立する方向に動いた。嵐の、一人の人間ごときの暴走にさえ、神々が干渉出来なかった理由。なぜだと思う?」

 若雪は目を見開いたままだ。

 見当もつかない。

「…解らない」

 若雪は繰り返し、言った。

 次の言葉を発したのは剣護だった。

「吹雪の始まりは、俺たち三兄弟の無念だよ。まるで呪いのような…、想いの力の結集だ。理の姫たちでさえ、吹雪が成るまでそのことに気付かなかったんだ」

 剣護の真上から、月の光が狙いすましたかのように降り注いでいた。

 舞台の上で、台詞(せりふ)を読み上げる役者のように、剣護は語った。

「俺たちには、死にゆく時に強い未練があった。若雪、お前だ」

 この言葉に若雪がまた一つ、瞬きをした。

 剣護は月光の下、微笑んで続けた。

「お前一人、残して逝くのが忍びなかった。お前を守ってやりたかった。それを叶える為にも、もう一度、どうしてもお前に会いたかったんだ。それは俺も、次郎も、三郎も同じだった。俺たち三人の無念が全ての引き金となり、事態は吹雪に向けて動き出したんだ。ただの人間である俺たちの、遺恨にも似た思いが、神々の意向にすら勝った。俺たちにとっては、運命違えの法は、ぜひとも成立して欲しかった。そうでなければ、お前は病室のベッドに縛られたまま、十五で死ぬ筈だったから。死んだのち、お前に執着の残る霊魂となって初めて見えたそんなお前の運命を、何とか変えてやりたいと」

「待って!」

 剣護の言葉を遮った若雪は、青ざめていた。

 何より優先すべき事柄を、彼女は思い出していた。

「待って…嵐どのは、今どこにいるの?私が今ここにいるのは、運命違えの法の結果。私の背負うべき運命を、彼は肩代わりした…。彼の居場所を、知っているでしょう、太郎兄?――――私、行かなくちゃいけない」

「あいつ。嵐と一緒に――――――戻りたい?若雪」

 怜の声だった。若雪は一瞬言葉に詰まった。息を整えて、言葉を口に出す。

「次郎兄……。真白も、悪くありませんでした。年相応に、屈託なく生きる心地良さを、私は知りました。でも―――――」

「俺たちを、選んではくれないの?」

 怜は悲しそうな顔をしていた。嘗て次郎が、悲嘆をそれ程露わにすることは稀だった。

 その顔を見るだけで若雪の胸が痛んだ。

(兄様。兄様。そんな顔をしないで―――――――)

 若雪は下を向いた。

 それだけで、怜には伝わったようだった。

「――――――運命もえこひいきするよね。太郎兄は生まれてからずっと若雪と一緒にいられたのに、俺はつい最近になってやっと会えた。我ながら、何で思い出すのがこんなに遅かったんだか―――――記憶力が、悪いのかな」

 自嘲するような笑みを怜が見せた。

「理の姫に三人の居所を教わり、この学園に編入したいって親にごねて何とか説得して、ここまで来たんだ。母親には親不孝者、って泣かれちゃったけど。若雪や太郎兄たちに会えるのなら、この年で一人暮らしすることくらい、何でもなかった。俺は結構、器用なほうだったし。……これで若雪があの乱世に戻るって言うんなら、何の為にここまで来たのか解らないよ」

 怜の言い様は、今の家族にやや冷淡だった。

(次郎兄はまだ、江藤怜ではなく、小野次郎清晴を生きておられるのだ。そちらの記憶のほうが、次郎兄にとっては余程に重い、大切なものなのだ………少なくとも、今はまだ。……記憶の重みや、その受け取り方は人それぞれに違う。それでも、私は)

「次郎、あまり(いじ)めるな。―――――――――矢立総合病院、南棟二階の207号室だ、若雪。……そこに嵐はいる」

 剣護が怜をたしなめ、病院の一室を若雪に告げた。

 若雪の頬に滴り落ちる涙を見て、怜も言葉を止め、後悔の念を顔に浮かべた。

「どうして?……どうして、どちらかを選ばないといけないの?私は、嵐どのも、兄様たちも、どちらも大切なのに―――――――」

「それが理の姫との、約束だろう?」

 剣護が優しい声で、若雪の涙を手で直に拭ってやりながら言った。ハンカチを使わないところが彼らしい。若雪は頷いた。

「ええ、厳しい選択をすることになるだろうと、言われた……。でも、こんなことだなんて」

 若雪は両手で顔を覆った。

 満月が皓々と照るのをふと見て、柄にもなく、若雪はかぐや姫みたいだな、と剣護は思った。

 月の満ちる晩、嘆きながらも家族を置いて天に昇る高貴の人―――――――。

 但し、若雪には道行を共にする人間がいる。これからを一緒に生きて行く人間が。

「若雪、泣くな。良いことを教えてやるから」

 涙の溜まった瞳で、若雪が剣護を見た。

 にっこりと包み込むような笑顔を見せると、剣護がゆっくりとした口調で語りかける。

「お前はまた、ここに戻って来ることが出来る。今からお前が中世に飛ぶことで、真白の人生は一旦途切れる。門倉真白は少しの日数、眠り続けるだろう。そして、目覚めたお前は、若雪としての生を全うしたあとのお前だ。新しい真白だ。お前は若雪の生を全うしたあと、また真白として俺たちと生きることが出来るんだよ」

「兄様たちと……、嵐どのにも逢える?」

 ここですかさずその名が出ることに、剣護は苦笑するしかなかった。うん、と頷いてやる。

「ああ、嵐にも逢える。あいつの未来は今回の壁の崩壊で変わる。嵐は死ぬことなく、再びお前の前に姿を現すだろうよ。お前と同じ、嵐としての生を全うしたあとで、新しく目覚めるんだ」

「あの窓際の空席が、埋まるってことだよ、若雪」

 補足した怜の言葉に、若雪は驚いた。

交通事故に遭い、今もって入院し、欠席を続けている成瀬荒太(なるせこうた)という名のクラスメート。

彼が、―――――嵐だったのか。

 若雪が自ら命を絶つ前に、理の姫に尋ねたことも、今剣護に尋ねたことと同じだった。水臣の言うように、神の位を得たとして、嵐とまた出会うことが出来るかどうか―――――――。

 答えは「否」だった。

 神と人とは本来交わることの出来ない存在。

 神となってしまえば、もう嵐と話すことも、触れることも出来なくなる。

 だから決めた。

 人としての転生を重ねながら生きて行くと。

 人としての生を選んでも神の力を取り去ることは不可能、と理の姫は告げた。それは若雪自身の魂の成り立ちに深く根付くものだから出来ない、と。

ならば神の力を持った人間という歪な形で、今後も生き続けて行く。

 嵐と共に。

 そのように歪んだ存在では、また人の世で苦労するだろう。

 異端視され、迫害されるかもしれない、とも言われた。

 ―――――それでも良い。

 理の姫に忠告めいた言葉を語りかけられた時、若雪は微笑んだ。

 それでも良い。


 〝 かくまで深き恋慕とは わが身ながらに知らざりき 〟

 

 恋慕を貫くことを、若雪は選んだ。

(何度生まれ変わっても、苦しい生になったとしても、またお逢いしたい。あの、猛る風に)

「太郎兄、次郎兄。…私、行って参ります」

 そう告げる若雪の瞳は決意の色に澄んでいた。

 こんな瞳を見せる時の若雪の決意は、誰にも阻めるものではないことを、二人の兄は良く知っていた。

 怜が顔を伏せた。逆に剣護は、しっかりと若雪の顔を見つめた。

「ああ。行って、そしてまた戻って来い。今度は、俺たちは真白を待ってる。……嵐には、悪いことしたな。謝っといてくれ」

「…俺は謝らないよ。そもそも、嵐が望んだことでもあるんだ。それに―――――、結局あいつは、若雪を持ってっちゃうし」

 いつもは柔軟で冷静な怜の言葉とも思えず、剣護が可笑しそうに笑った。

「おいどうした?子供みたいだぞ、次郎」

「それはまあ、子供だよ。俺はまだ前も今も、十五までの人生しか知らないからね」

 開き直る怜に、剣護が尚も笑いながら言う。

「なあ次郎、ちゃんと見送ってやれよ。俺たちには、吹雪を招いた負い目があるだろう?若雪を引き留める権利など、本当は最初から無いんだよ」

「……解ってる。若雪。俺も、―――――お市様も待ってる。再びお前と(まみ)える日を」

 これを聞いて、若雪は微笑んだ。懐かしげに。

「ええ。…お市どのに、よろしくお伝えください。今度は真白としてお会いします、と」

 気付いていたのか――――――。思い出すと同時に。

 怜は思った。市枝は喜ぶだろうか、悲しむだろうか。

 自分でも意識しない内に、怜は若雪の手首を掴んでいた。

 剣護はそれを見てちょっと片眉を上げたが、何も言わなかった。

「…俺には何も?」

 若雪は笑った。手首を掴んだ怜の手に、残る片方の手を優しく添える。

「次郎兄。内緒にしてたんですけど、実は私…、幼いころは太郎兄か次郎兄のお嫁さんになるんだって、思ってたんです」

 怜が目を丸くしつつ尋ねる。

「――――どちらかと言えば?」

 今度は若雪が少し目を見張り、クスリ、と笑う。少し茶目っ気の入った笑いだった。

「次郎兄でしょうか」

 怜も悪戯っぽい笑いを返した。若雪の手首から、ひどくゆっくりと手を放す。

「…そう来なくちゃね。じゃあ。――――――また、な」

「若雪、今度真白になって戻ったら、髪、伸ばせよ」

 不意に剣護が言った。剣護は前から真白に髪を伸ばさせたがっていた。そのほうが似合う、と言って譲らなかったが、実際のところはどうだったのだろう。単に、若雪の面影を追っていたのではないか。

 若雪が笑って答える。

「それは、真白に考えさせてください――――――兄様たち、大好き。お会い出来て、本当に嬉しかった。――――――本当に、本当に、嬉しかった―――――…」

 若雪の頬を新たな涙が一粒伝い落ち、彼女の身体は崩れ落ちた。

 剣護がそれを抱き留める。

 彼女の身体から金粉のような輝きが抜き出たかと思うと、それは宙を飛んで行った。

 向かう先は、矢立総合病院だろう。

 天女は去った。

 

 剣護も怜も、二人揃って黙ったまま、満月の浮かぶ夜空をしばらく眺めていた。

 愛しい妹の去った夜空を。


 どのくらいそうしていたのか―――――――――。

 剣護が複雑そうな声でぼそりと呟いた。

「―――――大好きとか言われちまったぞ、若雪に。どうする?」

「そうだね。俺も驚いた。そんなこと、簡単に口に出来る()じゃなかったよね」

「真白として十数年生きた影響か、―――――誰かさんと過ごした影響か。うあ、でも、嵐にまで同じこと言ってたら超複雑」

 それにさ、と剣護は続ける。妙に口数が多いのは、彼なりに、妹であり、大事な従兄妹であり、幼馴染でもあった存在との別れに思うところが大きいからだ。

「〝どちらかと言えば次郎兄〟って何?俺、釈然としないんだけど」

 怜が苦笑する。

「案外拘るね、太郎兄」

 不満そうな剣護に、満月を見上げながら付け加えてやった。

「慰めだろ、若雪の」

「そりゃ解ってるけど、面白くねー。あーあ、伯父さんたちは間に合わなかったな」

 そう言って真白の身体を抱え上げる剣護を見て、彼も相当シスコンだな、と怜は思った。

「ねえ、太郎兄。俺たち、十四までの若雪しか知らないんだよね」

「まあ、厳密には」

「それからあとの若雪は、どんな風に成長していったんだろうな」

「…嵐は知ってるだろ」

 剣護がむっつりした顔で言う。

 怜はそうだね、と頷く。

「でもちょっと悔しくない?それって」

「――――めちゃくちゃ悔しい」

「――――だね」

 結局のところ怜もシスコンなのだ。

真白と嵐が戻って来たら、嵐は、いや荒太は相当苦労するだろう。

ほんの少しだけ、怜は、良い気味だと思った。


 矢立総合病院・南棟・207号室。

「成瀬 荒太」のプレートが表示してある病室内に、若雪は佇んでいた。

 青紫の打掛姿。錫杖(しゃくじょう)を右手にしている。

「…あらし、…どの………」

 自分を見ながらポロポロと、その白皙(はくせき)の頬に静かに涙をこぼす尊い人の姿を、荒太は夢見るような思いで眺めていた。ぼんやりと、半ば見惚れてもいた。

 涙を拭いてやりたいが、手が思うように動かない。

 彼は、長い眠りの間中、彼女が自分を迎えに来てくれる夢をずっと見ていた。

 そしてそれはきっといつか現実になる、と、夢の中ながらに確信していた。

 待つ時が報われる日が、やっと来たのだ。

 理の姫の、言った通りだった。

 荒太は――――嵐は今や全てを思い出していた。

 点滴の管に繋がれた彼の腕は細り頬はこけ、いかにも弱弱しかったが、若雪を見る瞳だけは綺麗に澄んでいた。

(来てくれたんやな…)

「…嵐どの……」

 自分のよく知る彼とはあまりに違う、変わり果てた姿に若雪は最初言葉が出なかった。

 顔立ちだけは、ほとんど変わらず優しげに整っていた。

(自由に空を舞う気性のこの方を、こんな境遇に追い遣ってしまっていたのか。そして、この先長い月日、儚くなるまで何も思い出さずにいるところだったなんて)

若雪はそう考えるとゾッとした。

 禊の時の終焉(しゅうえん)は、冷や汗をかくようなタイミングだった。

 もう一歩遅ければ、嵐は荒太として亡くなっていたかもしれない。

(自分一人、兄様たちの庇護下で安穏として。何と罪深い。取り返しのつかないことに、なるところだった――――――こんなものは、嵐どのの在り様ではない)

 泣きながら彼女は口を開いた。ポタリ、と青紫の打掛にもその雫は落ちる。

「………お判りですか、私です。若雪です。迎えに、参りました。…随分遅くなり、申し訳もございませんでした……。共に、堺に帰っていただけますか、嵐どの」

 涙に濡れた声で、若雪は問いかけた。

 その時、荒太の意識は消え、彼の身体からふうわり、と嵐の姿が出て来た。すっきりした色合いの上衣に、袴。優しげな顔に、勝気な瞳。

 いつも通りの、彼の姿だ。

 荒太の身体から抜け出て真っ先に嵐がしたことは、若雪の頬の涙を拭うことだった。若雪は目を閉じて、されるままになっている。素手で拭うあたりが剣護と同じだ、と若雪はされながらに思った。

 どことなく憔悴(しょうすい)しては見えるものの、嵐は、いつかの風の晩と同じ、当たり前の顔で当たり前のことのように若雪に答えた。

「泣くなや、若雪どの。…もう全部、終わったんやろ?桜屋敷に、俺らの家に帰ろ。俺は最初(はな)からそのつもりや」

 そう言って、改めて若雪に、その涙を拭いた手を差し出す。

 若雪は泣き笑いのような顔で、その手に自らの手を重ねた。

「白王丸、赤王丸、青王丸、赤王丸、黄王丸」

 嵐が呼ぶと、彼の式神たちが次々と姿を現した。久しぶりの主との再会に、皆、千切れんばかりに尾を振っている。

「俺の魂を、若雪どのの導きに従って運べ。出来るな?」

 嵐は、今だけ神つ力を行使する若雪と違い、自力で時空を飛ぶことが出来ない。

 その命を聞くや否や、大柄な体躯の犬たちが嵐を取り囲み、中央に押し上げ乗せた。

「では、嵐どの―――――」

「ああ、帰るで」

 若雪が理の姫から借りた錫杖を一振りすると、一瞬の間に彼らは既に中空にいて、眼下に病院を見下ろしていた。


 その翌朝、前日の満月の晩に、矢立総合病院の窓の一つから五色の光が飛び出すところを見た、と言う人が何人かいた。

 けれど満月の光のもと、五色の犬に守られた大事な魂を運び、豪奢(ごうしゃ)な青紫の打掛を羽織って錫杖を持った天女が、宙を歩む姿までを見た者は誰もいなかった。

 もしも目にした者がいれば、それは美しい道行を拝むことの出来た幸運な人間だったろう。

 しかしその幸運を得た者は実際には存在せず、ただ錫杖の澄んだ音だけが、彼女の歩んだあとにシャランと言う響きを残して、五色の残像と共に天に昇って行った。








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