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月下行 三 (後半部)

 その週の日曜、真白、剣護、市枝、怜は連れ立って買い物に出かけた。

 真白の誕生日プレゼント選びだ。

 本人には知らせず、三人で小遣いを出し合って買う、という怜と市枝の案もあったのだが、やはり皆でわいわいと買い物を楽しんだほうが良いのでは、という剣護の案に最終的には落ち着いたのだ。

「しかしなあ…」

「何、剣護?」

 些か乗り気でない剣護の声を、真白が聞き咎めて振り返る。

「いや、高校一年にもなった奴が、クマのぬいぐるみとか欲しがるか?しかもシュタイフとかのじゃなくて、ふつーの奴」

 知名度の高いブランドの名前を挙げた剣護を、呆れた眼で真白が見る。

「剣護が買えもしないって解ってるのに、欲しいなんて言える訳無いじゃない。第一、ブランドもののクマには、そんなに興味無いもん…。て言うか、良くシュタイフなんて名前知ってたね、剣護。クマのプーさんくらいしか知らないかと思ってた」

 なにおう、と剣護が応じる。

 シュタイフはテディベアで有名なドイツの人形メーカーである。

「そうねー。テディベアって色々なブランドが出してるけど、そういう高級志向じゃないのよね。そもそもこっちが求めるのは。もっとこう、郷愁?っていうの?そういうツボにグッとくるものでなくちゃ。そういう点ではまだアンティーク物のほうが味わいがあって良いよね」

 市枝が「解る」、という感じに頷きながら真白の意見を支持する。

「そうそう。さすが市枝、女の子。良く解ってる」

 俺だって、そういう機微(きび)が全然わからない奴じゃないもん、と拗ね気味になる剣護の肩をポンポン、と取り成すように怜が叩いた。

 四人は今、市内のデパートに来ていた。ハイブランドから安価な物まで取り揃うファッションビルより、老舗デパートのほうがありきたりなぬいぐるみコーナーを見つけやすいだろう、という考えのもとだ。「あ、でもあとであっちのビルにも入りたいかも」「はい!私、夏物の服、チェックしたい!!」とは、女性陣の意見だ。これに対し男子二人はやや警戒する顔つきになった。ファッションビルに寄れば、二人の、特に市枝の荷物持ちになることが目に見えているからだ。加えて、女子が試着だのするのを待ったり、試着した服について意見を求められたりするのを想像すると、少なからず想像するだけでげんなりするものがあった。とりわけ剣護は、そういう遣り取りが苦手だった。

「そっちは俺が付き合うんで、剣護先輩は先に帰りますか?」

 察したように、気を利かせて怜が言う。

 彼ならば、嫌な顔もせずスマートに女子をエスコートしそうではある。

 その言葉に甘え押し付けてしまいたい、とは思うものの、剣護は些か力無く首を横に振った。

「いや…、俺も付き合うよ。今日は、お嬢さんたちのエスコートってことで、親父たちから昼飯やらの軍資金も出てるしな」

 気を遣った怜の申し出を、今から疲れた顔で剣護は遠慮した。

デパートまでの道のりを歩く四人を、すれ違う歩行者がちらちらと見ては通り過ぎる。それぞれ整った容姿の彼らは周囲から浮き、多少目立っていた。服装はそれぞれ、市枝を除いてはあまり飾らないものしか身に着けていないが、そこは問題ではなかった。

 市枝は品の良い若者向けブランドの服を、見事に着こなしていた。

 それはそれで、浮いている集団の中で更に浮いてはいたが。

 上質な物を着ていれば、それは自ずと周りにも知れるのだ。一見すると市枝を姫としてそのお供たち、という構図に見えるが、彼らの中心にいるのは真白だった。

「そういえば江藤君と市枝って、いつ知り合いになったの?市枝、この間は随分息巻いてたけど」

 この真白の疑問に、怜と市枝はちらりと視線を混じらせる。

「うん、真白に近付くのなら、剣護先輩だけじゃなく、私にもちゃんと顔を見せなさい、って言っておいたの。彼、中々素直な性格だよ。ちゃんと私にご挨拶して来たもの。だから私も、認めてやった」

「…………」

 得意そうに言う市枝だが、真白は怜の表情を見て、どこまでが本当なのか、いまいち掴みかねた。怜はポーカーフェイスが基本らしく、何を思うのか周囲に悟らせないところがある。けれど朗らかに良く笑うところが、彼に冷たい印象を与えなかった。

(ご挨拶って…)

「それ本当?無理したんじゃない、江藤君。大丈夫?市枝、ちょっと強引って言うか、わがままなところがあるから」

 市枝の言い様に心配になって、ぼそぼそと彼女には聞こえないように真白が確認すると、怜はにっこり笑って頷いて見せた。

「うん。彼女、ああ見えてそんなに無理言う子じゃないよ。大丈夫」

 それは確かにその通りなのだが、真白は怜の笑顔に、相手を気遣っての作為的なものを感じた。

 普段から周囲の空気を読み、それに合わせて対応する、人付き合いの良い子なのだな、と改めて怜に対する認識を持つ。少し醒めている、とも取れる。

 全体的に見ると、かなり大人びていると言えるだろうか。少なくとも、一般的な高校生よりはずっと大人だ。

 何となく誰かに似ている、と思ったが、真白はその似ている誰かを思い出すことが出来なかった。

 心地良く空調の効いたデパートに入るとエレベーターに乗り、おもちゃ売り場のある六階のボタンを押す。

 目当てのフロアーに着くと、やはり男子二人はどこかそわそわと気恥ずかしげだ。

 子供の喜びそうなおもちゃに囲まれて、視線を上下左右に落ち着きなく彷徨わせている。

 六階に着くまでとは打って変わった力無い歩みで女子二人について来る。二人共容姿が良いので注目を浴びやすいのも、この場合には気の毒だった。

「ママー、あのお兄ちゃんたちもおもちゃ買うのー?」と言う、小さな女の子の声にも、少なからずダメージを受けたようだ。

 真白はどこか名曲、「ドナドナ」の物悲しい旋律が流れるのを聴いている気分になった。

 ぬいぐるみ売り場に着くと、早速商売のカモ、とばかりに化粧が濃いめの女性店員が足早に近付いて来た。昨今は老舗デパートも経営が楽ではないのだ。その目は主に市枝を捉えている。

「いらっしゃいませ。どなたかへの贈り物ですか?」

 マネキンのようなにこやかな笑顔に気圧されつつ、真白がぎこちなく進み出る。

「クマのぬいぐるみを探してるんですけど…」

 おや、こちらのお嬢ちゃんか、という顔で女性店員は真白に向き直って、改めて商品を勧め始めた。真白にも育ちの良い空気はあったので、これはこれで良し、と思われたようだ。

「まあ、それでしたら、こちらのシュタイフのテディベアなどは、定番ですが大変人気があり、お勧めですよ」

 女性店員は濃い色のルージュが引かれた唇の、両の口角を上げ、にっこり、微笑む。

気のせいかシュタイフ、という単語が強調して発音されたように聞こえた。

「いえ、別のものが良いんです。出来れば有名ブランドの出してるようなものじゃなく…」

 ちょっと怖い、と思いつつ真白ははっきりと言った。

 それを聞いた女性店員は、態度に出さないように、それでも0・5度ほど発する空気の温度を下げた。しかし尚もにこやかに商品を勧めて来る。客商売である。

「ではこちらなどはいかがでしょう。最近流行りの作家さんの手作りです。一点物ですよ」

 次に出されたクマのぬいぐるみは、成る程、大層独創的ではあったが、いかんせん奇抜過ぎて部屋に置いて寛げる思いが真白にはしなかった。しかも値段はシュタイフに劣らない程に高価だった。それを見て剣護が無言で首を横に振る。

 却下、という意思表示だ。

 だろうなあ、と思いながら、真白は顔を巡らせる。

 その時真白の目に、ぬいぐるみコーナーの端のほうにぽつねんと座っている、薄い茶色のテディベアが飛び込んできた。やや前屈みに座るそのベアは少し小振りで、紺色のビロードの細いリボンを結び、つぶらな一対の瞳は赤味がかっている。愛嬌がある顔つきなのに、どこか哀愁を帯びても見える。

 ちょこん、と座るその姿が愛らしい、と思って黙って見ていると、怜もそのテディべアを見ていた。

 そのテディベアを指差して、形の良い唇に微笑みを浮かべて勧める。

「あれなんか、いいんじゃない?門倉さん」

 自分以外にも共感してくれる人がいた、と思い、真白は嬉しくなって強く頷いた。思わず笑顔になる。

「うん。私も、実は今そう思ってたの」

「あー、俺もそう思ってた」

 気の無い剣護の言葉は、確実に便乗だった。

 彼の顔には「どれも似たようなもんじゃねーの」と書いてある。

「どれ?あれ?へえ、うん、かわいいじゃない。真白らしいよ」

 こちらは本気で市枝が言った。

「――――あちらでございますか」

 応じる女性店員の声はにこやかだったが、どこか冷ややかでもあった。

 あまり大きくないカモだったことに落胆しているのだろう。

そのテディベアの値段は、真白以外が考えていたプレゼント予算よりずっと安かった。

 けれどリボン付きで、可愛くラッピングしてもらったその包みを持った当の真白が、傍目にはっきり解る程嬉しそうだったので、他の三人からの、甲斐が無い、と言う不満は上がらなかった。誕生日の主役が喜ぶのなら、それが一番なのだ。

 真白は年齢にしては大人びているので、テディベアに喜ぶ年相応の姿を見て、剣護たちもそれなりに満足だった。

 そろそろ時計が正午を回るころだ。昼食をとるには良いタイミングである。

 四人はデパート最上階にあるレストラン街に向かっていた。混み合い過ぎる前に行かないとひどく待たされることになるので、心持ち四人共早足になる。

(テディベア抱えた女流歌人…)

 剣護は真白を見てこっそりそう思った。

 しかし真白の、「何て名前にしようかなあ」の声に、剣護は後ずさった。

 ちょっと待て、と言わんばかりの声を出す。

「真白お前…、買うだけならまだありとして、女子高生が、ぬいぐるみに名前までつけちゃうんかよ、そりゃ無しだろ。引くわJK~」

 同意を求めて「なあ?」という風に怜の顔を見るが、彼は肩を竦めただけで、賢明にも特にコメントしなかった。

「JKって…。剣護、おじさんの言う言葉だよ、それ。良いじゃない、別に。ありだよ。それこそJKなんだから、テディベアに名前つけるくらい」

 ちょっと気分を害したように真白が反論する。

「何てつけるのー?どうせなら可愛いのにしようよ」

 こちらは女子らしく、真白の気持ちがごく普通に汲み取れる市枝が、にこやかに尋ねる。

「そうね…」

 真白がラッピングされた包みをじっと見て、考え込む顔をする。

「太郎とか」

 にこ、と笑いながら真白は皆に提案してみた。

 自分では、シンプルで悪くないネーミングだと思っている。

「……………………」

 レストラン街へ急いでいた皆の足が一瞬止まる。歩みはすぐに再開されたが、彼らの間には沈黙が満ちた。

 市枝も怜も黙っている。言う言葉がちょっと見当たらないのだ。なまじ良い笑顔で言われてしまっただけに、突っ込みもしづらくなった。

 ここで突っ込めた剣護は、さすが付き合いの長さだけあって、果敢だったと言えるだろう。彼の言葉には遠慮が無かった。

「泣きたくなるようなネーミングセンスだな、しろ。お前実は、女子高生の着ぐるみ被ったばあちゃんだろう。ファスナーどこだ?ファスナー」

 そう言って真白の背中のあたりをじろじろと見て、ファスナーを探す振りまでする。

むっとして、真白が隣を歩く剣護に代替案を出す。

「じゃあ、次郎とか」

「……いい加減に日本昔話から離れろ」

 似たり寄ったりじゃねーかと呆れながら剣護が言った。

 この次は三郎、などと言い出しかねないことはその場の流れから明白だった。

 五行歌などを嗜む割に、ネーミングに関する真白の語彙(ごい)はあまり豊富でないことが、この時点で判明した。

 結局、デパートにいる間に、テディベアに名前が付けられることはなかった。

(早いとこ、何か良い名前を考えてあげよう)

 そう思ったところで、真白の足が止まった。

(――――あれ?)

 早く、良い名前を――――――――あの、美しい、…何にだっただろうか。

 昼食をとるべく、デパート最上階に向かっていた他三人が、それに気付いて振り向いた。

「どうかした、真白?」

「あ……、ううん。何でもない」

 咄嗟(とっさ)に笑顔でそう答えた歩き出したものの、真白は今感じた違和感に当惑していた。

(前にも、思った…。いつ、何に対してだか覚えてないけど。そう。その時は誰かに頼まれて、名前を付けると約束した―――――――確かギリギリで、その約束は果たせた。直前で、間に合ったなと、安心したのを覚えてる。―――――何の直前だった?)

 それは、あの赤い(しずく)を飛び散らせる前の。

「………」

 今自分は、何を考えた?

 真白は背筋がすう、と冷たくなった気がした。

(なんか、記憶が混乱してるな…。思ったより私、テンション上がってるのかな)

 自分で自分を取り成すようにそう思う。思い込もうとする。

 そんな真白を、他の三人は三様、見守るように眺めていた。

 その時の三人は、それぞれが子供ではない目をしていた。

 誰一人として高校生らしい瞳を持たず、皆が黙って真白をじっと見つめていた。

 

 四人はその後イタリアンレストランで散々飲み食いとお喋りを楽しんだ。

 主に男子が飲み食い担当、女子がお喋り担当である。

 男子二人の食事量に、女子二人は圧倒されていた。

 剣護の食べっぷりは真白も知っていたが、怜もそれに負けていない。端整な容貌と食欲には別段何ら関連性は無いらしい。どちらかと言えば細身の身体の、どこにそれだけの食事量が吸収されるのだろう。

「―――――あれだけ食べて太らないって、どう思う?真白」

 市枝がこっそり訊いてきた。彼女が近付くとふわり、と香水の良い香りがする。

「……ずるいよね。食費、かかりそうだけど。恐るべし、成長期」

 もちろん、男子二人が気兼ねなく育ち盛りの食欲を満足させることが出来たのも、剣護がスポンサーである両親から頂戴して来た軍資金のお蔭だった。

 心ゆくまで腹を満たした怜と剣護は、意外に機嫌良くファッションビルにも付き合った。

 怜は最初から女性陣に付き合うつもりだったようだが、あわよくば途中で逃げ出そうと目論んでいた剣護も、腹がくちた余裕からか、快く真白たちに付き合った。真白はともかく、市枝の買い込んだ服の量は相当なもので、予想通り、男子二名は荷物持ちとなった。


 勢い込んだ市枝と一緒の買い物に疲れはしたものの、十分に楽しんで帰宅した真白は、今日買ってもらったテディベアを膝に置いて、夕食が出来上がるのをリビングで待っていた。鼻歌混じりで機嫌が良い。

 頭の中では、相変わらずまだテディベアの名前を考えている。

 ちなみに現在、キッチンで甲斐甲斐しく夕食を作っているのは、剣護だ。

 活動的な祖母二人が、今日は揃ってかたやダンス教室の、かたや書道教室の用事で遅くなる、ということで、剣護は母から「あんた、しろちゃんに何か作って来てやんなさいよ」と仰せつかった次第だ。こんな時の為に、真白の家のキッチンには剣護専用の黒いエプロンまで常備してある。

 中華鍋を片手に、ジャッジャッと炒め物をする立ち姿は堂に入っている。

 オイスターソースの美味しそうな匂いが鼻を突く。

 その後ろ姿を見ると、真白にはぼんやりと羨望の思いが湧く。

 真白は料理が昔から苦手だった。家庭科の調理実習のある日を、仮病で欠席したいと考える時もある程である。苦手意識が強過ぎるのも上達出来ない一因だ、と剣護からは指摘されていた。もっと楽に構えてみろ、と。

「…剣護、何で料理が出来るの。ずるい」

 食事を作ってもらいながら言うには理不尽な言葉ではあったが、炒め物しながらでも真白の不満そうな声は耳に届いたらしく、剣護は笑った。

「これからの時代は男も料理の一つや二つ出来ねーとな。モテないでしょ」

「………料理出来なくたって、剣護ならモテるよ」

 割と本気で言った真白に、剣護が笑う。

「ははっ、そりゃ光栄。お前だって料理出来なくてもモテるだろ。別に良いんだよ、不出来なものが人間一つくらいあったって。―――――真白、テーブル拭いて皿出しといて」

「はーい。でも今度、また料理教えてね」

 食器戸棚から二人分の平皿を出しながら言う。付け合せに野菜スープも出来ているので、スープ皿も取り出す。カチャカチャ、という音を背景に剣護がからかい混じりに応じる。

「はいはい。教え甲斐があるくらい、上達してくださいね」

「意地悪いこと言うなあ」

 真白はむくれる。

 その様子を笑いながら剣護が、そら出来た、と言った。


 四人はそれからよくつるんで行動するようになったが、女子二人、男子二人という釣り合いのとれた人数にも関わらず、誰かと誰かが付き合うようになる気配は全く無かった。

 どちらかと言えば自然と真白を中心に、彼らのグループは動いていた。


 ある晩、真白は夢を見ていた。

 それは時々見る同じ夢で、誰にも話したことは無いが、真白はその夢を見るのが好きだった。目覚めた途端に詳細は忘れてしまうのだが、真白は夢を見ている間、夢に出て来る青年に、少女らしい憧れを抱いていた。


 真白は飛び起きた。

 起きた瞬間、悠長に寝ている場合ではないのだと、なぜだか思った。

 その途端に、くらりと目眩(めまい)がした。

「無理すな、若雪どの」

 柔らかい声で誰かに言われる。

 声をかけた相手は優しげな顔で、腕組みをして立っていた。

 どこか古風な着物を着て、障子戸にもたれかかっている。

 その瞳は、真白だけを真っ直ぐに見ている。

 優しさが溢れるような顔と声に、真白は無性に泣きたくなった。

(ああ、会えた――――――会いたかった)

 例え夢であっても。

 もうどれだけの間、会っていないことか。

 彼はゆっくりとこちらに向かって歩いて来る。

 そして、真白の傍で片膝をつく。

 彼がいる。すぐ近くに。

 少し手を伸ばせば、届くところに。

 実際、そうして手を伸ばそうと思った。

 触れようとして。


 そこで、目が覚めた。


(久しぶりに見たな……)

 この夢から目覚めるといつも幸福で、それでいてひどく切なくなる。

 顔は朧でよく思い出せないが、〝彼〟は相変わらず、優しかった。

(厳しいところもあったけど優しかった…――――いつも、肝心な時には)

 そう考えた一瞬後、真白は今自分が何を思ったかを忘れた。

 夢の中で感じたこと、考えたことも全て忘れた。


「かくまで深き恋慕とは

 わが身ながらに知らざりき

 日をふるままにいやまさる

 みれんを何にかよはせむ

 空ふくかぜにつてばやと

 ふみ書きみれどかひなしや

 むかしのうたをさながらに

 よしなき野べに落つるとぞ」


 詠み上げると国語教師は、カッカッとチョークで黒板に書き留めた。

「これは佐藤春夫の『殉情詩集』に出て来る詩だ。七五調は文学界に根強く残っていて、例えば斉藤茂吉や芥川龍之介なんかも、その影響を受けている。門倉のやってる五行歌は、比べると更に縛りの無い境地の歌、ということになるな」

 佐藤春夫の詩に気を取られていた真白は、急な名指しに虚を突かれた。

 大層ロマンチックな詩だと思う。

(これほどに好きだったとは自分でも思わなかった―――――、か)

 そこまで詠ませる程の情熱など、自分はまだ知らない。

 窓ガラスの外の晴れた空を見ながら、右手で頬杖をつき、詩の前半部を胸の内で復唱してみた。


「かくまで深き恋慕とは

 わが身ながらに知らざりき

 日をふるままにいやまさる

 みれんを何にかよはせむ」


 いつか自分も五行歌で、こんな情熱的な歌を詠むようになるのだろうか。

 今はとてもではないが、想像もつかない。

 少なくともこの時は、真白はそう思っていた。

 次の満月の晩までは。

 しかし結局この詩が一つのきっかけとなり、彼女は目覚めることになる。

 時はもう、ほぼ満ちていたのだ。


 ――――――かくまで深き恋慕とは



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