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月下行 三 (前半部)

       三


五月も半ばに差し掛かった。

新学期にやっと慣れてきた生徒たちが、昼食後の休み時間にそこここで群れ集い、語らっている。前期試験ももう終わり、生徒たちは今、解放感に浸っている最中だった。

張り出された成績順位表の、一年と三年のトップを同じ門倉性が占め、多少話題になったりもしていた。また、一年の成績二位に転入生の名が載ったのも、生徒の注目を集めた。

晴天の下、市枝の、金茶の長い髪がザアッと吹く柔らかくも強い風に流されて、きら、と光る。

陶聖学園自慢の、カフェテリア近くにある欅の下に置かれた白塗りのベンチに腰かけて、市枝は短めのプリーツスカートから出たスラリとした足を組んで頬杖をついていた。

絵になる佇まいに目を奪われはするものの、しかし男子生徒たちは気後れして、ただ彼女を遠巻きに見て通り過ぎていた。

そこに、声をかける恐れ知らずがいた。

「改めて考えると」

 怜がベンチの後ろに立っていた。手を後ろ手に組んでいる。

「どうお呼びすれば良いのか、迷ってしまいますね、あなたの場合」

 後ろから呼びかけた怜を、市枝はちらりと横目で見遣る。その目の動きすら、品を失わない色気がある。

「なぜ?」

「日本史の教科書やドラマで、複数の呼ばれ方をされていますから。とてもメジャーな方ですから、呼び名が多くても無理ありませんが。どうお呼びすれば?」

 改めて尋ねる怜から、ふい、と目を逸らす。

「好きに致せ。決められぬならば市で良いわ」

 そう、そっけなく告げる市枝の目は女子高生のものではなかった。

 無邪気に真白に戯れかかる三原市枝は、どこにもいない。

 その違和感を完全に無視し、にこやかなまま怜が尋ねる。

 それはそれで普通ではなかった。

「ではお市様。僭越(せんえつ)ながら隣に座っても?」

「許す」

 市枝はあっさり答えた。

 まるで冗談のようなこの遣り取りは、この場、この二人においてはごく自然なものであった。

「失礼します」

 そう断って市枝の右側のベンチに腰かけた。

「――――遠くはないのであろう?」

 出し抜けにそう言った市枝の言葉に、怜は目を丸くした。何の話か、掴めなかったからだ。けれど、すぐに思い当たり、頷く。

 同時に彼の表情は、少し沈む。

「そのようですね。…理の姫様も、元々そう仰っておいででしたし」

 これに対し市枝は、やや鼻白んだ様子で答えた。

「理の姫なぞはどうでも良い―――――――最近の若雪は見ておれぬ。あれは、既にもう真白ではない。若雪としての己を取り戻しておる。ただ記憶が、戻らぬだけ。…求めておるわ。妾には解る」

 眉を(ひそ)めて、市枝は憂い深げにそう評した。

 誰を求めているかは言わなかった。双方共に承知していることだ。

「―――――告げること、あいなりませぬ」

 解ってはいるだろうが、と思いながら念の為にと怜が戒める。

 市枝は心外とばかりに答える。

「ふん、言われずとも。若雪が妾を思い出す時は、自力でなければならぬ。思い出して…もらわねば。妾の、白雪に。…尤も、その時会い(まみ)えることが叶うかは、また別の話じゃがの」

 少し寂しげに、市枝が言い添えた。

 気ままに吹く風に、市枝の金茶の髪が再びザッと靡いた。

 きらきらと輝く髪に、尊大な表情を湛えた市枝は、さながら外国の王侯のようだ。

 眼差しに宿すのは、王者の煌めき。

 高慢・傲慢・不遜。そうした言葉がこれ程似合う女性を、怜は他に知らない。

 現世においてはただの一般人に過ぎない。

 だが、抑えても隠しても、表れるものはある。表出を防げないものは。それは真白にも言えることであった。市枝は随分と上手く、自ら作ったキャラクターの影に隠れているので、高貴と威風を兼ね備えた空気に気付く人間はそういないだろう。

(信長公譲りか――――――――)

さすがだな、と怜は思う。思わず感嘆の吐息が漏れる。

さすがの威厳だ―――――――――小谷(おだに)の方。

怜の賞賛の眼差しを一顧だにせず、市枝は何も塗っていないのに艶めく唇を開いた。

「さてもがんじがらめに定めで縛り、散々に人も神をも苦しめてきた摂理の壁―――――。吹雪による力を神つ力として利用し、壁そのものの負う罪悪を浄める、禊の時を経る力に変換するとはの。今で言うところのエネルギー変換じゃな。――――壁には良い気味じゃ」

 市枝はそう言うとクッと小さく笑った。

 怜も頷く。

「はい。禊の時を経る、つまりそれは、今の若雪と嵐の在り様を指します。現に起こり得なかった筈の外法が成ったのは、ひとえに吹雪の力を利用したが為。若雪と嵐は今、運命違えの法を犯していることになります。その年数が長引けば、摂理の壁はその性質ゆえに、その事象に耐え得ることが出来ない。許されてはならない事象が放置され続ける、という事実に耐えられないのです。然るに――――――」

「摂理の壁が、崩壊する。自滅する、という訳じゃな」

二人はそこまで話すと、どちらともなく沈黙した。

それぞれに、もたらされた知識に思うところがあった。

「しかし解らぬな」

 市枝が言う。

「何がですか?」

「摂理の壁の崩壊後も、真白と嵐が運命違えの術を犯しておることには変わり無かろう。運命は入れ替わった、そのままなのじゃから。新たに築かれる摂理の壁に、支障は無いのかえ?」

「一度崩れたものが再生すると、それまでよりも強固なものとなります。壁も、それと同じだと理の姫からは伺いました。以前崩れた同じ原因により、再び崩壊することはないだろう、と」

「都合の良いものじゃな」

 市が鼻で笑う。

 怜は少し思案したのちに、自分の見解を述べた。

「……そのぶん、次の新たな摂理の壁が、理の姫たちの意図にそぐわない反応を示した時は、より厄介なことになるのでしょうね」

「それはもう、妾たちの知る所ではないわ。それこそ神々の領分と言うものであろ。捨ておおき」

 市は神々の心情に、少しも思い遣るもののない様子で言い放った。

「―――――しかしそなた。いくらそなたであろうとも、軽々しゅう若雪と呼びつけにすること、妾は気に食わぬわ」

 次に口を開いた市枝は、やや苛立ち混じりの声で怜を(とが)めた。

「若雪を呼びつけに出来る者は、限られておる。例えそなたが若雪の何であろうと、若雪が神の眷属たること、ゆめ忘れるな」

「……申し訳ございません」

 市枝自身、若雪を普通に呼びつけにしており、その口にする理屈には横暴なものが無いでも無かったのだが、怜は大人しく侘びの言葉を述べた。市枝は若雪を独占したいのだ。呼び方も含め、他人に何一つ譲りたくないと思っている。

 その心情に、怜は譲歩することにした。

 市枝は少し、気が鎮まったようであった。

「―――――そも吹雪は、なにゆえ成ったのであろうの」

 いかにも今思いついた、と言うように市枝が言った。

彼女は頬杖をつくのを止め、右肘をベンチの背に預け、上目遣いに怜を見ている。

 怜の眉がピクリと動く。ベストを脱いだアイスブルーのシャツの肩のあたりには、(けやき)の葉の黒い影が風の動きと共に揺れ、躍っている。

「成り得ない条件の中で、生じた甚大な力。数多の流れがなぜか吹雪を呼ぶかのように動いた。神と呼ばれる存在にすら、それは防げず。欠かせぬ条件を欠かしたままで、それでも吹雪は成り、外法は成った――――なにゆえじゃとそなたは思う、怜?いや、――――――――」

 市枝の問いかけの最後の、名前の部分はザザアッと突如強く吹いた風の為、言葉として怜に届かなかった。

 そして怜は市枝の問いかけに何も言わず、不可解な笑みをもって答えた。

 

(摂理の壁の崩壊こそは、理の姫の真の願い)

 愛剣・雪華をもって自らの手で死にゆく覚悟を定めた若雪に、理の姫は告げた。

 若雪が命を賭しても尚、万一吹雪が起こってしまったからには、必ずそれを災いを呼ぶ禍つ力の吹雪ではなく、光の、希望をもたらす吹雪とする、と。

 その力で摂理の壁は破壊され、神々が、もっと先んじて現に救いをもたらすことの出来る新たな摂理の壁が創られる。壁が不在の間は猶更、神は自由に力を振るうことが出来る。

 それ程までにも、摂理の壁は理の姫を中心とした神々に、その意図や希望、そこから生じる動きに縛りを与えていたのだ。

 壁を破壊する為にも、転生する筈だった先の世で、禊の時をしばらくの間過ごして欲しい―――――――。

 それは理の姫から若雪と嵐への要請だった。

 そうしてそののちには、きっと若雪として、また嵐として、元の時代に戻り、生きてもらうから、と。

 若雪と嵐が禊の時を経て帰った暁には、両者必ず息を吹き返す――――――――――。

 理の姫はどうあってもそれを成し遂げて見せる、と誓った。

新たな摂理の壁のもとでならば、それが可能。

壁が崩壊状態にある時には猶更、神の自由にそれを成すことが可能だからだ。

ゆえに―――――――――――。

 

若雪と嵐が理の姫と交わした、それが約定だった。

尤も嵐のほうは事後承諾になったようだが。

若雪は嵐を守る為に、また、光の吹雪を招く一縷(いちる)の望みにも賭けて、その命を散らした。

 そしてその内情は、理の姫が必要、と判断した者にのみ明かされた。


 市枝は、必要と判断された者の一人だった。

(若雪は、嵐の為に命を手放した……嵐め)

 そう考えたところで、市枝の表情は俄然、険しいものとなった。

 憎らしい奴、と思う。

 守れよ、と言い置いたものを、自分の為に死なせるとは不手際も良いところだ。

 彼女は頭上の緑を見上げた。

 若々しく、瑞々しい。葉の合間を縫って天からこぼれる光に、市枝は目を細めた。思わず掲げた手を見る。若い、華奢な手だ。まだこれから先の幾多の経験を知らぬ手だ。

 壁の崩壊ののち、市枝の記憶がそのままなのか、それともお市の方としての記憶は消えて行くのか、理の姫は教えなかった。どちらでも良いと、市枝は思っていた。どちらにしろ、自分は真白の傍にいる。

 若雪は帰るが良い。あの乱世に。あの男と共に、生きれば良いのだ。

(帰って幸せになるが良い)

 市枝は優しい眼をして、愛しい雪よ、と胸中で呼びかける。

 若雪が消えても、真白は残る。記憶があろうが無かろうが、真白は真白だ。

 若雪であり、真白であり、自分は……。

 自分は自分だ。市であり、市枝であり。

 魂は、変わらず同じものだ。

 彼女と笑い、悲しみ、喜び――――――、今度こそ、共に生きるのだ。

 透明な雫が、一粒だけポタリと市枝の下ろした手の上に落ちた。

 この手に、(しわ)が刻まれていくまで。

(この、手に)

 蛍の迷い込んだ夏の宵、手に入れたい、と語った自分の言葉を、果たして真白が思い出す日が来るだろうか。

〝誓い合った〟という記憶は確かに無いだろうが、自分は若雪に宣言した。

 次は手に入れて見せるから、忘れるなよ、と。例えその記憶が若雪の、もしくは真白の奥底深くに埋もれて表面化する時が来ないとしても。

(されど、今生こそは)

 目を閉じ、耳を澄ます。

 学生たちの笑い声、叫び声。喧噪が聴こえてくる。

 今もまた、ある意味乱世であると市枝は正しく悟っていた。

「…あの時代よりは、僅かばかりましかもしれぬがの」

 薄く目を開け、誰にも聴こえない声で市枝は囁いた。


怜が校舎に入った時、壁にもたれるようにして剣護が立っていた。両手はズボンのポケットの中だ。

外の暖かく柔らかな空気に比べると、コンクリートの校舎内の空気は肌にひんやりと触れてくる。

ここからは一年の教室が近い。偶然ではなく、意図して怜を待っていたようだ。

市枝との遣り取りを見られたかな、と思う。

それにしては普段通りの顔をしている。

「なあ、江藤」

「――はい」

「俺さ、お前には記憶が無いって思ってたよ」

「…………はい」

 怜の顔が強張る。話を聴いていたのか。聴かなくても既に察していたのか。

「責めてねえよ。んな顔すんな。俺だって、聞かなかったしな。言わなかった」

 そこから剣護はちょっと間を置いた。

「―――――お前んとこの担任の、倉石が話してんの聞いた。お前、ちっちぇーころ、ノイローゼやってんだって?俺と一緒。言った言葉も似てるな。〝血の海に囲まれてる〟。お前もそこから、護身術なんて興味持ち始めたんじゃないのか?」

 灰色がかった緑の瞳が、真っ直ぐに怜を見ていた。

 怜もまた、視線を逸らさずに剣護を見た。一切、誤魔化そうとは思わなかった。

 そんなことをしてはいけない相手だ―――――出来ない相手だ。

 不意に懐かしい、という思いが怜の胸に溢れた。慕わしい、という思いも同様に。

 彼は昔も真剣な話をする時、射るように人の瞳を見据えて話した。今のように。

 普段の朗らかさが、そんな時にはまるで一変するのだ。

「はい――――その通りです、先輩」

 もうお互いに、お互いが誰だか、解っていた―――――――――。

 それは、懐かしいという言葉では到底言い表せぬ程に、感慨深い邂逅だった。

 両者の間に響き合う、目には見えない共鳴のような空気が確かに芽生えていた。

 共に命も預け合ったことある者同士。かけがえのない、唯一の存在を守ろうとした者同士。

 はるかな時の河を超えて、二人は再び巡り合った。

 剣護は、怜の顔をじっと見たまま言った。

「再来週には、真白の親が帰国する。あいつの、誕生日が近いから。きっと、タイムリミットはもうすぐ近い。……お前も俺も、覚悟が必要ってことだ」

 制服のズボンのポケットに両手を突っ込んだまま、試すような視線で剣護は怜を見据えた。

 その試す眼に、怜は静かな刃のような声音でもって答えた。

「…解ってます――――――――、もう、思い出した時から解ってました。若雪が大事なのは、あなただけじゃないんです、先輩」

 その言葉に、剣護が目を細めた。

「―――言ったな、名前。お前、――――――本当にあいつなんだな。口調が、そのまんまだ」

 口元には意外にも嬉しそうな笑みが浮かんでいる。

「……いけませんか。俺が若雪の名を、語っては」

 怜にしては、そつのない態度とは離れた、挑戦的な口調だった。

 市に対してして見せた譲歩とは、まるで違っていた。それは相手が、若雪にとって自分と同等に近い存在だからでもある。

 剣護はポケットから出した右手で顎のあたりを撫でながら、まだ少しにやにやしていた。

「…いや?ちょっと、自分でも驚くことに割と嬉しい。俺の他にも、――――若雪を知ってる奴がいるってことが。お前が、あいつだってんなら、尚のこと。若雪を…覚えていてくれる奴がいるってことが、嬉しい。そんなもんなんだな。変だな、人間って」

 率直なその言葉に、怜もちらりと笑いを見せた。

「解る気が、します」

 怜は小さく頷いた。

「なあ?若雪は綺麗だったよなあ」

「はい」

 唐突な剣護の問いかけに、思わず、と言ったように怜は微笑んで答えた。否定しようも無い。

「情にもろかった」

「はい」

 これも否定しようが無かった。

「料理以外は、何でも出来た」

「そう。覚えてます」

 怜はそこで少し苦笑してしまった。完璧な彼女にも、出来ないことはあった。

「寂しがり屋なところがあって」

「ええ。けれど怒ると怖かった」

 最後の怜の口調は、少し茶化すようだった。

 そこまで言うと、二人して笑み崩れた。

 確認した事柄は、全て真白にも当てはまる。

 けれど二人の語る人物は、真白ではない。

 確かに、と怜は思う。分かち合う人間のいる喜びは、確かに言葉に出来ない程の充足感を胸にもたらす。

 そうして、少しの間二人で共通の記憶を確認した。それは言葉によるじゃれあいだった。

 まあ何にせよ、と剣護が会話を締め括るように言った。

「最後に選ぶのは若雪だ。どちらを選ぶか、もう見当はついてんだけどな、これが。腹立つことに」

 剣護は唇を拗ねたように歪めて、そう言った。

 怜もまた頷いたが、彼の顔にはどこか諦めのような色があった。



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