月下行 二 (後半部)
「真白お姉ちゃん!」
学校からの帰り、剣護と別れ自宅に入ろうとした真白は、元気な声に呼ばれて振り返った。向かいの家の子が駆けて来るところだった。小さな身体に、少しブカブカした空手の稽古着を着ている。満面の笑みだ。
そうだった、ここにも小さな格闘家がいたな、と釣られるように笑みを唇に浮かべながら、真白は言った。
「碧君、こんにちは。今から空手のお稽古?」
屈み込んで、目線を相手の高さに合わせて話しかけると、碧は勢い良く頷いた。
「うん!僕ねえ?強くなって、おっきくなったら、真白お姉ちゃんのこと守ってあげるからね!」
意気込んでそう言う幼い碧が可愛くて、真白はその頭をくしゃくしゃと撫でた。
「ありがと。待ってる」
「うん!待ってて!」
「……ませガキだな、こいつ」
「うわ!剣護、家に入ったんじゃなかったの?」
背後から急に聞こえた声に、真白は飛び退いた。
心臓に悪い。
「いや、お前の名前が聴こえたから」
「剣護兄ちゃん、こんにちは!」
「はい、こんにちは」
ませガキと言う言葉の意味が解る訳でもないだろうが、碧は剣護にも至極素直な挨拶をした。何とも屈託が無い。これには剣護も苦笑しながら応えてやる。
「ねえねえ、剣護兄ちゃん、また今度お稽古つけてよ」
碧が瞳を輝かせながらねだってくる。右手は剣護の制服のズボンの裾をぐいぐいと引っ張っている。
「んー、良いけどママには内緒にしとけよ?」
「何で?」
きょとんとした顔で碧が尋ねる。
「大人には色々あんの」
碧の母親が、剣護が碧の稽古相手をしてやっていると知ると、それについて心配だの謝礼だの、余計なことに気を遣いかねない。その為の口止めだが、まだ幼い碧には理解出来ないらしく右に左に首をひねっている。
「碧ちゃん!行くわよー!」
その内、碧の母親が黄色い軽自動車の窓から声を上げ、碧は「じゃあね!」と言う元気な掛け声と共にそちらに飛んで行った。
何となしにその小さな後ろ姿を剣護と共に見送った真白は、碧の母親の会釈に会釈を返しながら剣護に訊いた。
「剣護、碧君、強くなりそう?」
「なるね」
振り向きもせずにあっさりと断じる。剣護はおだてやお世辞は言わない。
「…………ただ、才能だけで言うと、碧はもちろん、江藤より俺より強くなりそうな奴を、他に俺は知ってるけどな」
「え、誰それ。そんな人いるの?」
初耳だ。
驚いて訊き返した真白に、剣護が笑った。それから、さっき真白が碧にしたのとそっくり同じようにくしゃくしゃとその頭を撫でた。
「冗談だよ。そんな奴いてたまるか、ばーか」
そう言うと、さっさと自宅の扉を開けて中に入って行った。
(…もうすっかり元気だな)
家に入り私服に着替え、祖母の淹れてくれたお茶を飲みながら、真白は剣護の様子を思い返していた。
剣護は小学校低学年の一時期、ノイローゼに罹ったことがあった。
原因は解らない。
ただ、気付けば血まみれの死体に囲まれている夢を見るのだと訴え、不眠症になった。
叔母夫婦も医者も、まるで心当たりの無い夢に苦しむ彼に、困惑するばかりだった。
なぜか真白と一緒にいる時だけ辛うじて睡眠がとれていたので、叔母夫婦の懇願の末、真白はしばらくの間隣家に泊まり込み、剣護と同じ布団で眠った。剣護は、他に縋るものが無いかのように、真白を毎晩両腕でしっかり抱きしめて眠りに落ちて行った。真白も、子供ながらに、この従兄弟に何か緊急のことが起きていると察し、毎晩剣護の体温に大人しく包まれていた。そうすることが、彼を守ることにも繋がるのだ、と子供心にも真白は察していた。
あのころの剣護の、目の下に濃く出来た隈と、やせ細った腕を今でも真白は覚えている。
三か月程その状態が続き、自分で希望してなぜか格闘技教室に通い始めてから、少しずつノイローゼ状態から脱していった。それと共に一人でも睡眠をとれるようになり、真白は自宅に帰って眠る、普通の状況に戻った。
今では剣護にそのころの面影は全く無い。彼は昔よりずっとたくましく、しなやかに強くなった。それこそ高校の生徒会長になるなど、あのころは予想だにしなかったものだ。
ただ、当時の剣護に関する記憶で、真白にも印象深く残っているものがある。
格闘技教室に通い始めたころ、剣護は真白の手を握って言ったのだ。
〝今度こそ、ちゃんとお前を守るから〟
あの言葉と、先日家で聞いた、どうして格闘技が好きなのかと言う質問の答えが、重なって蘇る。
〝守りたいものがあんの。今度こそ、ね〟
小学生時と同じく、守りたい対象が自分のことと考えるのは、自惚れが強過ぎるだろうか―――――――――。
二回も繰り返された「今度こそ」とは、どういう意味なのだろう。
まるで昔に守れなかったことがあるかのような。――――――小学生が?
そう考えながら、真白は剣護の言葉を反芻していた。
「どうしたの、真白ちゃん。物思うお顔しちゃって。お年頃ねえ」
真白が座るソファの正面に座り、自らもお茶の入った湯呑を持つ父方の祖母はもう六十をとうに過ぎているが、ダンス教室の指導をしている影響か、プロポーションも肌の色ツヤも、到底そうは見えない。
深い色をしたルージュをつけて艶然と微笑む様は、老紳士方相手でなくともさぞモテるだろう、と思う。膝丈のスカートからは、ダンスを続けている恩恵か、年齢を感じさせない見事な脚線美が覗いている。
自分などよりもずっと色気がある、と真白は密かに以前から羨ましく思っていた。
けれどその色気は、市枝の持つような若さと容姿、個性ゆえの色気とは違い、年齢を熟成させるように重ねることに成功した人間だけが持てるもののような気もする。
だとすれば、自分が祖母のような色香を持てるようになるには、少なくともあと数十年はかかるということだろう。気の長い話だ、と思ってしまった。
「何でも無いよ。塔子おばあちゃん」
「真白ちゃん、そう言えば最近、五行歌作らないわね。どうかした?」
尚も心配そうに訊いて来る祖母に、真白は少し言葉を詰まらせた。
「五行歌……。いや、作ったと言えば作ったんだけど………」
はっきりしない物言いで口籠る真白に、祖母はあっさり要求した。
「あら、見せてちょうだいよ」
「うん――――」
まずかったかも、と思いながら、のろのろと一冊のノートを、部屋に置いた鞄の中から取り出して来る。真っ正直が過ぎるのも、考え物だ。
真白は五行歌の創作ノートをいつも持ち歩いている。思い浮かんだ時に、忘れないように書き留めて置く為だ。
差し出したダークグリーンのノートを祖母が開く。見た目が若くても、これだけは手放せない老眼鏡をかけ、声に出して詠む。
「――――桜よおまえ
咲き誇れよ―――」
そこでふ、と祖母の眉が曇った。
「……この目が消えても…
残酷なほど健やかな
理のもとに――――――」
詠む祖母の顔には翳りがある。
見せるべきではなかったか、と真白は今更ながら後悔していた。
決して心配させたい訳ではなかったのだ。
「もう一首あるのね」
もう止めようか、と真白は後悔と共に思った。
けれどその思いを他所に、祖母は既にノートの頁を繰っていた。
その顔は最初にノートを開く前よりも真剣だ。詠み上げる。
「はらり花びらと共に
去りし人
みるみると
溢れゆく水
面影の沈む底―――――…」
ノートを静かに閉じると、祖母はどこか物思うように二回呟いた。
「…良い歌だと思うわ。…うん。……良い歌だと思うわ」
そう口では言いつつ、けれど、どこか悲しそうに首を傾げた。
「良い歌だけど。何だか――――、何だか悲しい気持ちになるわ、この、二首とも。とっても綺麗なんだけど、惜別の歌よね。まるで泣きながら詠んだ歌みたい――――。真白ちゃん、本当に最近何も嫌なこととか悲しいこと、無かったの?」
祖母が老眼鏡を外し、真白の目を覗き込むようにして訊いてくる。
真白は、それに対しては力強く頷いた。両掌をぶんぶんと振る。
「うん。全然。全然無いよ―――――。毎日は、順調過ぎるくらいだし。…――――でもこの二首は、気付けば詠んでいた、って感じなの。ノートに自分の字で書きつけてあるのを見て、自分自身、驚いたくらい―――――。昔、こんな思いをしたことが、あったのかな、私?」
けれど子供の思いの反映された歌としては、大人び過ぎている。
祖母はしばらくそんな真白を心配そうに見つめていたが、やがて頬に手を遣り溜め息を吐いた。
「やっぱり俊也たちがずっと家を空けてる、っていうのは考えものかもしれないわね。両親の不在は、まだまだ影響が大きい年頃ですもの。日本で勤務出来ればねえ………」
祖母は息子夫婦が若い娘を置いて海外勤務していることを、快くは思っていない。
無論、真白の為を思ってのことである。
そこに話が繋がってしまったか、と真白は慌てて言った。
「違うの、そんなんじゃないよ。確かにお母さんたちがいないのは寂しいと感じることもあるけど、私には塔子おばあちゃんも絵里おばあちゃんも、叔母さんたちや剣護もいる。十分過ぎるくらい、周りには親しい人がいてくれる――――――。だから私は、全然大丈夫なのよ、おばあちゃん」
しかし力説したその先は、口に出してはとても言えなかった。
ただ。
ただ時々、どうしようもない寂しさと悲しみが、餓えた獣のように自分の中を徘徊する。
泣きながら、徘徊する。
自分でも、その獣を抑えきれない。宥めきれない。
じっと、獣が大人しくなるのを待つ他に無い。
堪えていれば、やがて獣は眠る。
その獣が、自分の中の一体どこから来るのか。
こんなに平穏な日々の中に、どうしてあの人がいないの。
そう、理屈にならない思いがどこから来るのか。
叫びたくなるような強い思いが。
考えても答えは出ない。
きっとそんなのは思春期特有の妄想に過ぎないのだ。
なぜなら自分は今、幸せな筈なのだから――――――――。




