月下行 二 (前半部)
二
放課後のチャイムが鳴った。
集団がどっと動き出す時の、独特の気配がする。若いエネルギーの渦巻く熱気が、チャイムを合図に一斉に溢れ出る。
目を覚ますと、若雪は見知らぬ所にいた。
「―――――――?」
漆も塗っていない固い木製の、背の高い文机のようなものに俯せて寝ていたらしい。
「…嵐どの―――――――――?」
改めて周囲を見回し、ぎょっとする。
身に着けた衣服、部屋、何もかも見覚えが無い。
確か自分は、嵐と共に石見から堺へと戻る旅の途中だった筈だ。
明日には堺に着けるもの、と思い懐かしくも楽しみな思いで早々に眠りに就いた。
それが――――。
ここは、宿ではない。
それに、ついさっきまで、周囲は夜の闇に包まれていた。なぜ未だに夕日があたりを照らしているのだろう。
「あ、嵐どの。どちらにおいでですか。嵐どの?」
キョロキョロとあたりを見回す。
どこにも、誰もいない。
若雪は恐慌状態に陥った。
身に着けているものを見下ろす。おかしな格好だ。
それに何より――――――寸鉄一つ帯びていない。
ここがどこかも解らない状況で、丸腰とは――――――。
じわり、と額に汗が滲む。
緊張しつつ長い廊下に出るが、やはり誰もいない。
誰も。
走って階段を上がり降りしてみる。
けれどやはり。
嵐が、いない――――――――――。
息を切らして茫然とする。足元がふらつく。
いつから?
考えてみれば、もう随分長く嵐に会っていない気がする。
それこそ十年以上は―――――。
でも、先程までは確かに宿で一緒だったのに?
明日には堺に着くと言うのに。
若雪は混乱の極みにあった。
「おい、真白」
突然、呼びかけられてビクッと振り向いた。
南蛮人のように、灰色がかった緑の目をしている若い男が立っていた。
年は嵐と同じくらいだろうか。
(誰…?)
見知らぬ顔に警戒する。
そんな彼女に、どこか相手の顔は苦々しげだった。
「しろ……お前、なんつー顔してんの。それじゃ迷子になって泣き出しそうな子供だぞ」
それから自分の両肩にそっと手を添え、訊いて来るのは―――――――。
「――――真白。…俺が、判るか。判るな?」
剣護だ。
見間違えようの無い緑の目が、ひどく気遣う様子でこちらを見ていた。
「――――――?」
パチパチ、と瞬きを繰り返す。
なぜなら、今まで自分は見知らぬ和風旅館のようなところにいたからだ。
そこでも、誰かが自分を心配そうに見ていた。それもやはり見知らぬ誰かだったが――――――。真白に害意が無さそうな点では、剣護と一致していた。真白は白い着物を身に着けていた。そこで自分の両の掌を見て、―――――そうして気が付くと学校に戻って来ていた。思い返せばその時に見た掌は、色こそ白いものの、固く、まめやたこだらけで、自分のものとは到底思えない程、何らかのスポーツ、或いは武術などに打ち込んだ人間のものだった。
思わず自分の両の掌を見る。
――――――まっさらで、剣護に言わせるなら軟弱な掌にホッとする。間違いなく自分の手だ。
良かった。いつもの場所に帰って来れたのだ。
目の前にいるのは、剣護だ。――――懐かしい―――――――。
そう。懐かしい。
やっと会えた。この人に、また逢えるとは思っていなかった。
涙が溢れて来て、うん、うん、と真白は、子供のように二回頷いた。
「判る。剣護――――…良かった」
「うん。俺は、ここにいる」
剣護が、一言一句、明快に言った。真白の心の奥にまで、滲み込ませるように。
「剣護。私、今まで違うところにいたの。こことは違う地名の、知らない場所。知らない人と一緒だった。関西弁で、向こうはこっちを知ってるみたいだった。でも、私には全然判らなくて―――…」
真白は混乱するままにまくしたてた。
剣護は一瞬だけ目を鋭くした。けれどその直後には、真白を包み込むように柔らかく抱き締めた。真白は驚いたが、すぐに彼の体温にホッとした。
(温かい…)
幼い子供にするようにポンポン、と頭を優しく叩かれる。ほとんどの生徒が部活動に向かい、或いは帰宅したあとだったので、校舎内はがらんとしてどこか物寂しげだった。通行人がたまたま無人だったのが幸いしたが、誰か他に人がいても、剣護はこの場合同じようにしたかもしれない。これ以上に無い、優しい声を出した。
「ああ、大丈夫だ。もう、大丈夫だよ、しろ―――――真白。それは、夢だから。今はほら、俺がここにいるだろう?」
うん、と真白がまた子供のようにコクン、と頷いた。両手は剣護のブレザーを、まるでそれしか縋りつくものが無い、とでも言わんばかりにしっかり握り締めている。これではあとで皺になってしまう、と頭の隅で思うが、手に籠めた力を緩めることは出来ない。
廊下の奥からこちらに向かう足音が聞こえてきた。
「剣護先輩、門倉さん見つかったんですね」
怜の声だ。走って来たようで、少し息が弾んでいる。心配をかけたようだ。真白は声を聴いて思う。何やら面倒をかけてしまったらしく申し訳ないと思うし、こんな所を見られるのは恥ずかしいが、今はそれどころではない心情だった。まだこの状態から動くことが出来ない。親鳥にひっつく雛鳥のように、真白は剣護にしがみ付いていた。剣護も突き放したりはしなかった。依然、子供をあやすように真白を両腕で包み込んでいる。
そのままの状態で、何も恥じらうこと無く怜に顔を向けて答える。
「うん、いた。悪かったな、お前にも捜させて」
「いえ、いいんですけど…」
剣護の腕の中で泣く真白を、怜が心配そうに見つめていた。
その視線と真白を剣護はちら、と計るように見比べる。
「――――うたた寝で少し夢を見て、ナーバスになっただけだ」
疑問の声を上げる余地を与えない程、剣護が素早く一息に説明した。
「……そう、ですか」
今一つ納得していないようだったが、剣護が有無を言わさない口調で言い切ったので、怜もそれ以上の追及はしなかった。けれど探るような目で、剣護を見ていた。
こののち真白は、自分がこの時考えたこと、思ったことを、ある時に至るまで思い出すことが無かった。
真白の知らない間に、剣護と怜は随分意気投合したらしく、今では時々真白の家で二人揃って武術について熱く語ったりしていた。自宅と違い大人がいることがほとんど無いので、居心地が良いようだ。怜は親と離れて一人暮らしをしているそうだが、それでも寂しいと感じること無く、大人のいない解放感を満喫しているらしい。今ではすっかり門倉家にも入り浸っていた。それぞれ武術にのめり込んでいるとは言っても、二人共、学校で剣道部や柔道部といった部活に所属するわけでもなく、本人たち曰く「もっと実践的な格闘術」を身につけたい、と考えているそうだ。その為に個人的に通う教室を持ち、日々鍛錬しているということだ。怜は転校してこれまで通っていた教室に通えなくなった為、今後独学で続けるか、剣護が時々通う格闘技教室に通うか、思案中だと話していた。
そろそろ日も暮れようとするのに、話が尽きる様子も無い。
多分、今日はそれぞれ人に習い事を教えている真白の両祖母が、普段より遅くなることを知っていて気を回しているのだろうとも思われた。若い男二人が、いつまでも娘一人しかいない家に居座るのもそれはそれで問題かもしれないが、この二人からは危険な気配は微塵も感じられず、真白も全く警戒していなかった。むしろ二人からは、真白の警護役を務めようという意気込みが感じられた。
とは言っても女子高生の話し相手をするでもなく、ソファに腰かけた彼らは、真白にとっては果てしなくどうでも良いことを、延々議論している。
「――――だから、最初の構えが既に大事なんだよな。相手の攻撃を受ける面積が最も少なくなるような姿勢に身体を保つことが重要なんだ」
「それで、あの半身の姿勢が生まれた訳ですよね。そして腰を落とす。俺、あの腰を落とす所作を一定時間続けられるようになるまで、大分かかりましたよ」
解る解る、といった顔で剣護が笑いながら答える。
「あの姿勢、きっついからなー。腹筋とかも、もろに使うし。両膝なんかも最初のころはしんどくてプルプルするし。でもあの基本の構えで武術続けてたら、おっさんになっても確実に腹は出ないぜ。ビール腹にでもならなけりゃなー」
かっかっ、と剣護が笑っている。
「剣護先輩、今度稽古つけてくださいよ」
「謙虚な言い方するね、お前。俺に負けてると思ってない癖に。まー良いけどさ。稽古するんなら、防具が要るなー。お前、膝につける奴持ってる?俺の奴、もうボロボロでさ」
白熱する話し合いの中、真白が紅茶カップをそっと二人の前に置き、急に夢から覚めたように二人が口を閉じた。やはり自分の存在は途中から忘れられていた、と確信した真白は当然面白くなかった。こういう時には如才無さそうな怜も、話に熱中してついうっかりしてしまったらしい。
「…………」
御機嫌斜めになった女子を前にさすがに二人共、やや気まずそうな顔を見せる。
互いに、相手がどうにかしてくれないものかという思いが、表情に出ている。
ささやかな腹いせに、紅茶カップに注いだのはローズヒップティーである。美容と健康に良く、甘酸っぱい香りのする、ルビーのように赤い色をした女性向けのお茶だ。
怜は平気で飲んでいるが、剣護は渋い顔をしている。口に合わないらしい。
(―――よし)
真白はそれで少し、溜飲が下った。
それにしても――――――。
溜め息を吐きながら言う。
「二人共、どうしてそんなに格闘技が好きなの?剣護なんて、本当に子供の時からだけど。私にはよく解らないなー…。男の子ってそんなもの?」
理解出来ない、という響きの籠められたこの真白の問いに対して、少し空白の時間があった。
カチ、コチ、カチ、と掛け時計の音が大きく響く。
剣護も怜も、妙に通じ合った沈黙をした。
そろそろ真白が訝しく感じてきたころ、剣護が口を開いた。
「そらお前、男のロマンだよ。俺、守りたいものがあんの。今度こそ、ね」
剣護は沈黙ののちそれだけを軽い調子で言い、怜は無表情で何も答えなかった。
「…何か少年漫画みたいだね」
「うるせー」
「門倉さん、ずっと気になってたんだけど―――――」
翌日、学校の教室で怜が休み時間に、響きの良い声で真白に訊いて来た。
クラス委員として学校案内をして以来、怜は解らないことは真白に訊いて来るようになった。男子のクラス委員はあまり面倒見の良いタイプではなかった為、怜がこの学校に慣れるまで、自然と真白が彼の世話を引き受けることになっていた。クラス委員という立場上、それは不自然なことではなく、怜が真白に何かを訊くこと自体がそうは無いことだったので、妙な女子のやっかみも起こらなかった。
「あの、一ヶ所空いてる席さ、誰の席?ずっと空席になってるけど」
そう言って、怜は教室の最前列の窓際の席を指した。
ぽつんと忘れられたように、誰も見向きもしない空席は、気付いてしまえば気になるだろう。
「ああ、あれ…」
真白は頷き、痛ましそうな表情を浮かべた。
その席にも、座るべきクラスメートはいるのだ。
重い気分で口を開く。
入学試験の成績によって振り分けられた一年A組特別進学クラス。通称「特クラ」と呼ばれるこのクラスのクラスメートは、まだ全員揃ってはいない。
「入学式前にね、交通事故に遭ったらしいの。それで今、入院してる子の席なのよ。……早く退院して、あそこも空席じゃなくなれば良いんだけど」
聞けば彼はまだ眠り続け、目を覚まさないと聞く。
両親や他の家族は辛いだろう。
我が身に置き換えてみると、よりその思いは強くなる。
恐らく怜も、自分と似た思いだろうと考えながらその顔を見ると、彼は眉根を寄せ、やや厳しい顔つきで立っていた。
「江藤君?大丈夫?」
どこか辛そうにも見えるその表情が心配になり、真白が声をかけると、怜は我に返ったように頷いた。
「ああ、大丈夫。…何でも無いよ」
そう言って浮かべた微笑は作り物だと、真白にも判った。
放課後、剣護は寄る所があるからと言って、先に帰った。
ほとんど毎日登下校を真白と共にする剣護には、珍しいことだった。
途中で駅の花屋に立ち寄る。春の花々が所狭しと並んでいるが、剣護にはどれがどれやらさっぱりだった。薔薇やカーネーションくらいしか見分けがつかない。
ガリガリと頭を掻く。
忙しく行き交う人の中、足を止めている客は剣護一人だった。
「すみません」
「はい、何でしょう」
自分ではどんな花を選んで良いのかわからず、店の女性に声をかける。
笑顔で振り向いた女性は恰幅が良く、赤い頬でいかにも健康そうだった。青緑色のエプロンを着け、忙しそうに立ち働いている。
「あの、お見舞いに持って行く花って、どんな花が良いんでしょうか」
「そうですねえ。やっぱり香りのきつい花や、血を連想させるような真っ赤な花なんかは、避けたが良いでしょうねえ。柔らかい色合いのものを選ばれると良いですよ」
にこやかな説明に頷き、目の前に置いてあるフラワーアレンジメントを指差した。
「これなんかは?」
「ああ、良いと思いますよ」
にこにこと女性が頷く。
剣護が選んだアレンジメントは、ガーベラとカーネーションの組み合わせだった。
「いくらですか」
「千二百円になります」
尻ポケットから迷彩柄の薄い財布を取り出してベリッと蓋を剥がし、千円札と小銭を取り出した。
剣護が向かったのは、市内でも大きな総合病院だった。
ナースステーションを通り過ぎ、目当ての部屋番号に辿り着くと、返事は無いだろうと思いながらも軽くノックし、フラワーアレンジメントを手に部屋のドアをそっと開けた。
剣護が静かに室内に入ると、ベッドに横たわった少年は、左腕に点滴を注した状態で眠っていた。
少しだけ開かれた窓から穏やかな風が吹き込み、ミントグリーンのカーテンをふわりと揺らした。
―――――――――穏やかな風も、少年の深い眠りまでを揺らすことはない。
それが現実だ、と剣護は思う。
コトリ、とベッド脇の小テーブルに持って来たフラワーアレンジメントを置く。
小テーブルには他にも果物の盛られた籠やらがあり、花が追いやられてテーブルから落とされはしまいかと、剣護はやや不安に思った。
それから、眠り続ける少年の、まだあどけない顔を見た。
その顔を見て僅かに、剣護は眉間に皺を寄せた。彼の目は普段よりずっと大人びて、まだ十七年しか生きていない人間の眼差しとは思えない程に深かった。
「なあ。お前さ―――――俺のこと…、俺たちのこと、恨むか?」
答えることの無い相手に、話しかける。
読み取り難い色を宿した瞳で。
少年はピクリとも動かず眠り続けている。
それをじっと見て、剣護は目を伏せる。
「………悪い、な」
それだけを言うと、剣護は黙って眠る少年の顔を眺め続けた。
「さっき来た男の子、可愛かったわね。ハーフかしら」
「前にも来てたわよね」
「ああ、あの、南棟のお見舞いの」
「207号?まだ目が覚めないの?」
昼下がりのナースステーションで、気ままな会話が交わされる。
「そうみたい―――――まだ十五歳よ」
「スリップ事故で…かわいそうに」
「高校の入学式も、間近だったんですって。有名な進学校らしいわ」
「まあ……」
「早く目覚めると、良いわね。―――――ご両親を見るのも痛々しくって」
「そうね」




