月下行 一
「 あなたは私の大切な
息吹、風、…嵐。
そして私は雪、あなたを追う。
どこまでも舞い、飛び違い、
あなたを迎えに参ります 」
「やめろ、やめるんや、嵐!その数珠放せ!」
狂い咲きの桜の下、流れた鮮血が一人の男をも狂わせた。
風花と桜の花びらとが、入り乱れ舞い踊る。
どこまでも。
嵐と呼ばれた若者の腕には若い女が抱かれている。身にまとう打掛は血まみれで、眠るように目を閉じている。
女の身体を抱いたまま、天を仰ぐ若者の目には、途切れることのない涙があふれていた。その瞳はまるで洞のように虚ろで、どこも見ていない。
もうどこも見ていない。
何事かを低くぶつぶつ呟いているようだが、内容を聞き取ることはできない。
雷鳴が遠く聞こえる。
彼が手に持つ数珠の糸を引き千切ると、連なっていた水晶玉が一斉に弾け散った。緋色を映し花びらや雪片の舞う中を、踊るように水晶の一粒一粒が、あるいは跳ねて、あるいは転がり、きらきらと輝く。
それは禍々(まがまが)しさを孕んでいながら、息を呑むほど美しい光景だった。
(若雪…)
(若雪…)
「やめろ―――――――っ!!」
第九章 月下行
一
それは私の一歩で
それは私の道で
けれど陽の下にいる私に
静かに頭を振るのは
鏡の中の私
「禊の時を過ぎれば?」
「ええ」
「光の吹雪に?」
「ええ、きっと」
「―――――ならば私は参りましょう」
天女の姉妹は約定を交わし、そうして彼女の心の臓は動きを止めた。
これはそののちの物語。
智真が庭先の三人に気付いた時、場はやたらと静かだった。
風花が音も立てず舞っていた。桜の花びらと共に。
狂い咲きの庭にいるのは、変わった着物を着て錫杖を持った美しい女性と、これも変わった着物を着た長い髪の男。見ただけで、人ならぬ、尊き身だと察せられた。
そして、嵐が座り込んだ背中が見えた。
よく見れば、彼の腕には若雪が抱きかかえられているようだ。
「嵐…………」
智真の声に振り返った嵐は、驚くべきことに涙を流していた。
それは嵐の両の目から溢れ、止まることを知らず流れ出ていた。
どんな時であってさえ、泣かない彼の涙を、智真は初めて目にした。
「―――――どないしたんや。何があった?若雪どのは…、気を失うてはるんか?」
この智真の問いに、流れる涙もそのままに、嵐が小さくクスリと笑って答えた。
「いや―――――――――――死んどる」
「阿呆言うな!」
反射的にそう言い返しながら、智真はもう解っていた。
嵐の胸に抱かれた若雪の傍に転がる抜き身の懐剣。
彼女の纏う、美しい青紫の打掛を赤く染めたものの正体。
何より――――――――嵐の涙。
(あかん――――――――)
このままでは、自分は衝撃のあまり雷雲を呼んでしまう。身に着けた呪符も、この状況の前では物の役にも立ちそうにない。目眩がして、踏んでいる地面が急に柔らかで頼りないものになったように感じた。
「……なんでや、若雪どの。約束したやないか。――――――――答ええ、なんでや!!」
嵐が涙を撒き散らしながら叫び、懐から数珠を取り出した。
智真はハッとする。
〝鬼封じの数珠〟。
そして足元には、子守明神像の絵がなぜか置いてある。
それからのことは、よく覚えていない。まるで智真の理解を超えた展開が繰り広げられたからだ。けれど智真はなぜか、嵐がこれから成そうとしていることを止めなければ、と思った。彼が何か、ひどく不穏なことをしようとしている気がした。そして聞こえてくる雷鳴を、抑えなければとも思った。
嵐は若雪の亡骸を抱き上げ、子守明神像の絵を持って注連縄を巡らした結界内に入った。
次の一言は、虚ろな瞳の静かな宣言だった。
「天地は、もう無い」
咆哮を、天に向けて放つ。
「ああ…あ…あああああああああああああ――――――――!!」
そして泣きながらに〝鬼封じの数珠〟を引き千切った。数珠に封じられた霊力が溢れ、乱れるまま結界内に四散する。
「若雪……」
嵐が呟く声を智真は聴いた気がした。胸が切り裂かれるような響きだった。
自分の胸にある思いと同じ響きに感じて、息が出来ない程に苦しかった。
千切られた数珠から解放された水晶玉は、至る所に飛び散った。
それはきらきらと輝いた。
きらきらと。
嵐が何か唱え事を終え、ふっと身体から力が抜け落ちたように倒れた。
そして激しい風のような透明な力の塊が、その場に顕現した。
在るもの全てを押し流すかのような、圧倒的に甚大な霊力――――――。
―――――吹雪―――――――――――。
訳が解らないながらも、智真はとにかく顔を庇い、吹き飛ばされぬよう、両足に力を籠めて必死で踏ん張った。
そんな中、視界に入った長い髪の男と、女性の顔には隠し得ぬ驚愕があった。
男が呻く。
「なぜだ……。片方が既に死んでいるのに、呪法を成し遂げ得るなど。有り得ない」
「姉上様。姉上様――――――…」
なぜか若雪に対して姉と言い募る女性の顔には、涙があった。
ああ、と女性が悲嘆の呻き声を上げる。
ああ、これで吹雪が成った、と智真の耳には聞こえた。
次いで、けれどまだ…、とも聞こえた気がした。
桜の花はほとんど散ってしまった。
朝まだ早く、キッチンカウンターの椅子に腰かけて、門倉真白は庭にある桜の木を見ていた。
北欧調のシンプルながらシックな掛け時計は、現在、午前六時を指している。
同居している祖母二人は、まだ起きて来ない。
生徒の自主性を尊重する、という校風のもと、朝課外も無く、部活動にも所属していない身としては、する必要の無い早起きを真白は高い頻度でしていた。ブレザーの制服にも、もう既に着替えてある。
しばらく散った花の名残りに見入ると、真白はガスコンロの前に立ち、湯を沸かした。
コン、と鳴ったリビングの扉を振り向くと、ジョギング帰りと見える門倉剣護が姿を見せた。片手に着替えを持ち、もう片方の手に持ったペットボトルの水を飲み干すと、真白に催促する。
「しろ、俺にもコーヒーな」
真白を略した「しろ」と言う呼び方は、剣護とその家族だけが使う愛称だ。
「…ミルクとお砂糖入れる人には淹れたくないな」
女子には珍しく、真白はブラック無糖に拘りを持っていた。
「渋いマスターみたいなこと言ってねーで、頼むよ。俺、シャワー浴びて来る」
そう言うだけ言うと、隣家に住む従兄弟は堂々と真白の家の浴室に向かった。
彼はたまにジョギングをした朝、着替えを持ち込んで真白の家でシャワーを浴び、真白の淹れるコーヒーの御相伴に預かるのが習慣化していた。
「………」
(今年から受験生なのに、余裕なんだから)
尤も、剣護の成績を鑑みれば、大抵の難関大学でも合格する確率は高いだろう。
多少胡坐をかいても許される程度の実力が、彼にはある。
溜め息を一つ吐くと、真白はペーパーに入れるコーヒーの粉の量を、計量スプーン一杯分追加した。自分は一人で二杯飲むつもりだったから、これで淹れるコーヒーの量は合計で三杯分となる。
淹れたコーヒーを、丁度マドラーで撹拌する頃合いを見計らうかのように、剣護がリビングに入って来た。上下共にスウェットを着ており、制服に着替える気はまだ無いようだ。ガシガシ、とタオルで濡れた髪を拭いている。水滴が二、三滴、焦げ茶色の髪から床に落ちる。
「はい」
「お、サンキュ」
コーヒーを受け取った剣護はミルクと砂糖をたっぷりと入れ、実に美味しそうにこれを飲んだ。
複雑な目でそれを見る真白には構わず、尋ねる。
「伯父さんたちから連絡あった?」
「うん、丁度昨日。来月末には帰れるだろうって」
に、と剣護が笑う。
「娘のバースデーに間に合う訳だ。良かったじゃん」
真白の両親は共に海外勤務で多忙だ。その為、日頃は二人の祖母と、隣家に住まう叔母夫婦の世話になっていた。
また、従兄弟で二歳上の剣護も、昔から何くれとなく真白の面倒を見てくれた。真白同様一人っ子だが、基本的に兄貴体質だ。
「んで、これが今日の弁当な」
トン、と可愛らしい黄色の弁当袋をカウンターの上に置く。「よくそれで足りるね」と言いながら。剣護の弁当箱は、真白の弁当箱の軽く二倍の大きさがある。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして」
家事全般に有能なこの従兄弟は、こうして時々真白の弁当まで作ってくれる。
毎日のことでは無いとは言え、早朝、ジョギングに行く前に手際よく冷蔵庫にあるもので二人分の弁当を作ってしまう従兄弟を、真白はこの点においてはひどく尊敬していた。
本人は、自分の分を大目に作り、余りを真白の弁当に回しているだけだと言うが、中々高校生の男子に出来ることではない。
例え丁寧に淹れたコーヒーに、ドポドポとミルクや砂糖を注がれようと、文句は言えない弱みがこのあたりにあった。
剣護、という仰々しい名前は、アメリカ人である彼の父がつけたものだ。彼の父は日本マニアでサムライマニアだった。自分の大事な人を守れる男になるように、という願いを込めて名付けたと聞く。本人は別段、名前に関して思うところは無いらしい。
「親父がつけたかったんだから、いいんじゃねえの?」
一度訊いてみたら、そうあっけらかんと答えた。
叔父のマニアックなところはその謝罪の言い方にも表れていて、叔母を怒らせた時などは、決まって「ワタシ、切腹するくらい、反省シテマス」と言った。本人としては至って真面目なその発言が、ますます叔母の怒りに火を注ぐことになるのだが―――――。
剣護の顔立ちは、やや彫りが深く整っている。加えて灰色がかった緑の目が、彼がハーフであることを強く物語っていた。焦げ茶の髪は真白と共通するものであり、これはアメリカ人の父の遺伝ではない。
気質としては自由奔放、俺様主義なのだが、カリスマ性があり成績優秀、スポーツ万能で人への気遣いも忘れない為、高校では前期生徒会長も務め、校内で教師を含め知らぬ者の無い人気者だ。
実に派手な従兄弟である。
他方、真白はと言えば―――――――――。
「真白、お前、また五行歌が新聞に載ったって?」
「ああ、うん」
去年の誕生日プレゼントに両親から贈られた、青い花模様の描かれたウェッジウッドのコーヒーカップを両手に、ふーっと息を吹きかけながらあっさり答える。
五行で歌を詠む他は基本的に自由に創作して良い、とされる五行歌を、真白は祖母の影響もあって小学生のころから嗜んでいた。
それが今では新聞の投稿欄の常連になり、五行歌に堪能な女子高生、として知られている。小さいながらも一度新聞記事に取り上げられたことが、周囲にその存在を印象付ける決定打となった。
加えてどこか凛とした容姿から、高等部に入学してからまだ間が無いのに、学校では「女流歌人」のあだ名で通っている。本人はそのことに何ら頓着していない。
剣護共々、男女に限らず人気があるが、本人は従兄弟程には騒がれることを好まなかった。静謐な空気を纏い教室に佇む彼女は、特に男子生徒から、憧れを持った目で遠巻きに見られる存在だった。そしてあまり物事に動じない姿勢は、同性の女子生徒から頼られることが多かった。
今はまだ一年だが、学年が上がると、後輩の女子たちから「お姉様」呼ばわりされるのではないかと剣護は睨んでいる。
カチャン、とコーヒーカップをソーサーに置く。
「ごちそーさん。じゃ、俺戻るわ。またあとでな。バスの時間に遅れないようにしろよ」
「わかってる。タオルも、洗濯機に放り込んでおいて」
ジョギングの際に着ていた上下は、既に洗濯機に沈んでいる。
「ん、よろしく」
首に髪を拭いたタオルを掛けた剣護は、そのまま、リビングのドアを開けて、ピタリと止まった。首をこちらに巡らして、顔だけを真白に向ける。
「真白さ、」
「何?」
「お前、今、楽しい?毎日」
深い緑の目が問いかける。胸の奥、底の底のほうで、真白は微かにヒヤリとした。
時々、この従兄弟はこうして不意を突いてくるから油断ならない。
戸惑いが露骨に出ないように気を付けつつ、当然の答えを口にする。
「え、うん。楽しいよ。…どうしてそんなこと言うの?」
友人にも家族にも恵まれ、学校生活も順調だ。
妬みから同級生に嫌がらせを受けたことも余りない。
おまけに五行歌という趣味の世界でも認められている。
そう、楽しいと、幸せと感じなければおかしい。
かすめるような笑みを浮かべて改めて真白は言った。自分にも言い聞かせるように。
「私、楽しいよ、剣護」
けれど緑の目は安堵に緩まなかった。
「――――――なら良いけどね。お前時々、すごく何かが足りない、って顔してる時あるからさ。あれ、見てるほうがきついんだよな」
そう言って剣護はパタンとドアを閉めた。
ばれていたな―――――――。
教室の窓から青い空を見上げて真白は思った。
こんな空を見ると、なぜか鷹の飛ぶ様を連想する。
悠々として蒼穹を力強く飛翔する―――――――。
厳しくも美しい、その飛翔に憧れる。
昔から真白は、鷹の写真や、飛ぶ姿を映した映像を好んで見た。
部屋にも鷹が空を飛んでいる写真が飾ってある。
剣護などはこれを見て、首を傾げるものだが。
「ブラックコーヒーといい、お前、渋い趣味してるね」と。
あんな風に自由に飛べれば良いのに、と思う。
学校も家も決して嫌いではないけれど。
(鷹が自由に飛び続けると言うのなら、私も一緒に飛ぶ身となりたい)
真白には、最後のこの感覚が、自分でも理解出来ない。
今のこの、穏やかな生活を置いて一体何と、誰と飛びたいと言うのか。まさか本物の鷹ではあるまい。
―――――――剣護だろうか。
(剣護は優しい)
子供のころからずっと、お互い一人っ子で、両親が留守がちな真白をいつも構ってくれる。守ろうとしてくれる意識を感じるのは、温かい毛布にくるまれた時のように安心するものだ。
(剣護は優しいけれど―――――けれど)
―――――――けれど寂しい、と自分の心が叫んでいる。
あの灰色がかった緑の目では埋められない何かが、自分の中にはある。
ぽっかりと空いた、向こう側の見えない穴のようなものが。
一緒に飛べるものならと願う相手は、彼ではない。
真白は随分前から、そのことに気付いていた。
そして、若干の罪悪感を感じていた。
「こら、こおーら、女流歌人!戻ってこんかっ」
担任の倉石の呼ぶ声に、真白ははっとした。
教室にどっと笑いが起こる。
今は朝のホームルームの真っ最中だった。
転入生の紹介をしていたのだ、と真白もやっと思い出した。
黒板には「江藤 怜」と書いてある。
倉石の癖字より数段は達筆なところから見て、転入生本人が書いたのかもしれない。
その顔を見て、真白は僅かに目を見張った。
(綺麗な顔――――――)
男子生徒だが、女子と比べても遜色無いような端整な顔立ちをしている。
色白の顔に薄く笑みを浮かべ、すらりとした立ち姿は見栄えがして、いかにも秀才肌という印象だ。優等生を地で行くタイプにも見える。
基本の青地にインディゴブルーと茶、グレーの主な三色で構成されたチェックのブレザーが良く似合っている。ブレザーとはかく着るべし、というお手本のようだ。
「江藤怜です。趣味は護身術。よろしくお願いします」
物静かそうな外見に似ず、意外にハキハキとした自己紹介だった。頭が切れそうな感に加えて、表情にも活発な色がある。
きゃー、護身術だって、かっこいー、と黄色い歓声があちこちから上がり、クラスの女生徒からは拍手喝采だ。一部、興味を示す運動部男子もいたものの、当然ながら男子生徒はほぼノーリアクションだった。いくら綺麗な顔立ちでも男子は男子だ。これで女子だったらどんなにか、と言ったところか。
(ふうん、見かけによらないな。どう見ても文化系一筋な感じがするのに)
自己紹介の時、一瞬目が合ったと思ったのは、真白の気のせいだったのだろうか。
「ここが視聴覚室。英Bの時の授業では、結構良く使うよ。この部屋は効きの良い空調がついててね、夏でも職員室なんかより涼しいの。休み時間なんか、こっそりここに避難する人もいるくらい」
クラス委員の立場上、その日の昼休みに、真白は江藤怜に学校を案内する役目を倉石に任された。男子のクラス委員は、今日は部活動のほうに顔を出さねばならないとかで、案内出来なかったのだ。
連れ立って歩く二人を、時折、ちらりちらりと通り過ぎる生徒が見ている。
新顔の怜が珍しいのだろう。しかも容姿が容姿だ。
「へえ、良いね」
この言葉を聞いて真白はクスリと笑う。
怜は確か、都内でも指折りの新設校から来た筈だ。
「前の学校のほうが、設備は進んでたでしょう?」
「うん、でも広すぎた。俺はこの学校くらいの規模が良いよ。移動教室のたびに走り回るのは結構うんざり」
「足腰を鍛えられてたってわけね」
笑って言いながら真白は、どこも善し悪しだと考えた。
怜は頷きながら、肩を竦めて見せた。
丁度視聴覚室を出て、次は体育館にでも案内しようかと真白が思っていたところに、剣護と出くわした。最初見た時は、それが剣護とは判らなかった。彼が顔が隠れるくらい大きな模造紙を丸めたものを、いくつか抱え持っていたからだ。前が見え辛いらしく、多少ヨロヨロと蛇行運転になっている。
「剣護。どしたの、それ」
「あー、しろか、その声?いータイミングだ。助けてくれ。さっきアゴ崎に捕まって、生徒会室まで運べって言われた。重かねーけど視界を邪魔して歩きづれーったら。俺はもう役員でもなんでもない一般ピープルだっての。よいしょっと…」
掛け声と共に、視界が効くように模造紙を持ち直す。灰色がかった緑の目が、やっと真白たちのほうを向いた。
「いつまでも雑用扱いされちゃたまんねー…って。真白、そいつ誰?見ない顔だけど」
胡乱な目付きで怜を見遣る。声が途端に低くなった。
「ああ、転入生の江藤怜君。江藤君、こっち、門倉剣護、三年で前生徒会長。ついでに言うと私の不肖の従兄弟」
「お前、説明がなってないぞ」
当然のことながら剣護から苦情が出るが、真白は何も聞こえなかった振りをした。
怜が興味深そうな顔で、軽く頭を下げた。
「こんにちは、初めまして。江藤怜って言います。俺、今日この学校に来たばかりで、門倉さんに今、校内を案内してもらってたんです」
にこやかな怜の挨拶を、剣護がどこか値踏みするような目で聞いていた。
「初め、まして――――江藤君?」
不自然さのある、固い声で剣護は応じた。
「剣護。江藤君、護身術が趣味だってよ」
に、と口角を上げて真白が剣護に言う。
「へえ?そりゃ面白い」
剣護もにやり、と笑った。どこか野性味のある笑みだった。
遣り取りの事情が解らない怜は、少し首を傾けて黙っている。
「しかし随分とまあ、中途半端な時期の転入だな。うちに中途編入なんざ、勉強は出来るって証拠だろうが。よし。江藤君とやら、丁度良い。これ運ぶの手伝え」
この言葉に真白は呆れた。
「よし、とか言って。模造紙運ぶのに、成績優秀なことのどのへんが丁度良いのよ。脈絡が無さ過ぎ。最初からそのつもりだったでしょ。怠慢だよー、それって。今からそんな先輩風吹かせちゃって良いの?」
真白の苦言に、剣護がしかめっ面をする。
「うるさいよ。お前は黙ってなさい」
「良いですよ」
相当にざっくばらんで強引な剣護の態度を気にする風でもなく、怜はにこやかな顔であっさりと模造紙の半分以上を請け負った。
「え、案内は?」
慌てた真白にさらりと答える。
「ここまでしてもらえたら、あとは大体判るよ。ありがとう、門倉さん」
「うん。俺、お前みたいに殊勝な奴、好きよ」
性懲りも無く、剣護がそう評し「感心、感心、」などと言っている。先程までとはだいぶ態度が違う。
そういう次第で怜は剣護と連れ立って、生徒会室に向かって歩いて行った。
(目立つだろうな、あの二人)
容姿の良い男子が二人、連れ立っていれば女子が目を向けるのは、自然の摂理だ。
ふと真白は、案内などされなくても、怜は校内図の把握ぐらいしていたのではないか、という気がした。特に根拠などはなく、何となくそう思ったのだ。それくらいの周到さは、持っている男子に見える。
(さっきのあっさりした引き際とか…)
けれど、あえて怜が真白の学園案内に付き合う理由も思い当たらず、この件は真白の中で保留となった。
「真白!私と誓い合った仲でありながら、今日来た転入生と浮気したって本当!?」
下校のチャイムが鳴るなり、息せき切ってやってきた親友の三原市枝の、やや古風な言葉を使った剣幕に、真白は何だそれは、と脱力してしまった。昼ドラか、と思う。〝常に優雅に〟を身上とする市枝が取り乱して走る姿は、あまり見られない貴重な光景ではある。
「………誰と誰が、何をいつ誓い合ったって?」
真白には、今度ケーキバイキングに行こう、と市枝と〝誓い合った〟ことくらいしか記憶に無い。その大事な〝誓い〟は、真白とて忘れてはいない。
仲がどうのこうのと、こういう発言が誤解を呼ぶんだろうなあと思いながら、真白は些か醒めた目で力無く突っ込んだ。使う言葉をもっと選べば、かなり聡明であることが周りにも知れるだろうに、勿体無い、と市枝について考えを巡らせる。
他のクラスメートは部活動やら帰宅やら、早々に教室をあとにしてしまい、結局真白だけが市枝と残されることとなった。
まだ昼ドラの余韻を引き摺り、この裏切り者、と言わんばかりに唇をへの字にして睨んでくる市枝の顔は、整っている。例え睨み顔であろうと美人は美人だ。加えて華がある。しかし数知れない男子に言い寄られる市枝は、少しも彼らに興味を示さず、中学で真白と知り合ったのちは、真白に過剰な程の友情を示してくる。これを本人は愛情だと言い張って譲らない。
先程の第一声もその表れの一つだ。
ちなみに対照的な雰囲気の整った顔立ちと空気を持つ市枝と真白、二人のペアの隠れファンは、実は多い。ユリ族という人種である。陰では二人をモデルにした漫画やら小説やらも校内で密かに出回っていると聞いた時には、真白も呆れを通り越して何も言えなかった。一度、まだ剣護が生徒会長だった時に、世間話程度に相談してみたことはあるが、彼はむしろ面白がるばかりで、笑いながら「まあ、いいじゃん別に」と軽くいなして話題を終わらせた。
確かにどんな趣味嗜好も、当人たちの自由ではある。行き過ぎ、と自分が感じるまでは看過しておこう、と真白は決めていた。ちなみに当の作品類は何となく怖いものがあり、まだ読んだことは無い。この件に関しては、市枝は全くの無関心を貫いた。彼女にとっては真実がどうかが問題であって、フィクションはどうでも良いのだそうだ。
「とにかくね、別に何も、市枝と誓い合った覚えは無いですけどね、浮気も本気もしてないよ。ただ、学校を案内しただけ。クラス委員としての義務」
呆れ顔でそう説明してやる。ついでにその形の良い額にピシ、とデコピンする。
市枝は額をむしろ嬉しそうにさすりながら唇を尖らせた。
「なんだ~…。また剣護先輩にからかわれちゃった」
「からかい甲斐あるリアクションするからよ。大体剣護、何て言ってたの?」
「〝面白い奴見つけた、あれなら真白の傍に置いて良いかも〟、って」
真白は眉を顰めた。その言葉がどう転じれば、自分と怜との〝浮気〟になるのかも不可解だが、剣護の言動も多少不可解だった。
剣護は、男女共に好意的に接するが、真白に近付く男子には一転シビアだ。それが、「傍においても良いかも」とは。
「よっぽど気に入ったのかな…」
右手で頬杖をついた真白の独り言に、市枝も頷く。
「珍しいよね、剣護先輩がそこまで真白の近くにいる男子を見込むなんて」
「護身術やってるらしいから、そのへんから来てるのかも」
「あーなるほどねー。剣護先輩、格闘技が趣味だものね。そこに関しては熱血」
市枝がクスクス笑う。
二人は放課後の教室で、真白の机に向い合せに座って話していた。
教室の片側一面の窓から、夕日の一歩手前の陽光が燦々(さんさん)と差し込んでいる。
その陽に透けて、市枝の髪が金色に光る。笑みの名残りのある睫も金に染まっている。
純粋に、その様子は綺麗だな、と真白は目を細める。
成績さえ優秀であれば、他は生徒の自主性を重んじる、というこの学校は、風紀にもさほど厳しくない。むしろ名門校としてはかなり緩いほうだろう。
それを良いことに市枝は、高等部入学と同時に髪を金茶色に染めた。下手をすれば下卑た印象になってしまうその色合いは、華やかな顔立ちの彼女に良く似合い、むしろ風格さえ与えていた。長い金の髪をかき上げる仕草は、大人びて色っぽい。恵まれた容姿を持ち、寄って来る男子はことごとくあしらい、思うままに振る舞う市枝の評判は、しかし同性にも悪いものでは無かった。真っ正直さと素直さが、好ましく思われているのだ。
対する真白は焦げ茶色の地毛をそのままに、肩くらいまで適当に伸ばしている。美容院で多少すいてもらっているので、市松人形のようにパッツンともならず、無造作に伸びたショートヘア、といったところである。瞳の色も焦げ茶で、しかし透けるような白い肌や淡く色づいた唇など、一つ一つの要素はそれ程の印象を受けないのに、全体的に見るとどこか和風の品の良さを思わせるから不思議だった。ふとした目の動きなどに、そこはかとない色気を周囲が感じていることなど、真白は気付いていない。
「女流歌人」に加えて、「陶聖の白雪」などというあだ名が最近広まりつつあることなども、本人はまだ知らない。
私立陶聖学園の門倉、と言えば今や剣護を指す代名詞だが、近い内に真白のことも代名詞に入るようになるのではないか、と市枝は予想していた。懸念していた、と言ったほうが正しいかもしれない。
あまり要らない人間が寄って来なければ良いのだけれど、と頬杖をついてぼんやりしている真白を見ながら、市枝は今から気が気ではなかった。親指の、長い爪を軽く噛む。
真白はおっとりしたところがあるので、例えば自分のように押しの強い人間にはうっかり接近を許してしまうところがある。それは、良くない。自分のことは都合良く例外として、そんな輩への警戒を怠らないことが、目下の市枝の課題だった。




