逝く花 四 (後半部)
若草の間には、嵐の言っていた通り打掛が衣桁に掛けてあった。
それは白と紫に、金糸銀糸の織り込まれた、格調高く品のある打掛だった。
手の込んだことに、美しい青紫の竜胆の柄が浮き出ている。特に注文して誂えたのだろう。竜胆の花を若雪が好むことを、よく覚えていたものだ。嵐らしい濃やかな気遣いだった。
(高価だっただろうに……)
締まり屋の嵐が、紅にしろこの打掛にしろ、一体どれだけの大枚をはたいたのだろう。
若雪自身、御師としてはもちろんのこと、納屋においても商いに携わる身の上だった為、品の価値はおおよそ解る。だからこそ、嵐が行ったであろう散財には目を見張るものがあった。
竜胆の柄の部分を愛おしむように撫でながら思う。
まるで城に住まう高貴な姫君が、纏うような衣装だ。
自分には不相応な品に思う。
同時に竜胆の花を菊と紅と共にもらった、富田林での旅路を思い出した。
あのころはまだ、兵庫もいた。欲しい物を尋ねられ、六韜答えた時の嵐の固まった笑顔。その話を聞いた兵庫の、遠慮の無い大笑い――――――――――。
懐かしい。
あの日々から、今では随分遠いところへ来てしまった気がする。
――――自らは不相応と感じる物であろうと、品物を見定める目の、誰より確かなことを堺中の商人に認められる嵐が求めた品だ。その確かな見立てによって、この美しい打掛が若雪に似合う、と判断して誂えてくれたのだ。そのことが、若雪はとても嬉しかった。自分のことを、これ程美しい打掛に見合う女子だと、嵐が思ってくれたということが、くすぐったいような喜びを若雪にもたらした。
若雪は今着ている小袖の上から、そっとそれを纏った。肩に落ち着くと重くて、暖かい。纏った瞬間、嵐にふわりと抱擁された気分になった。それは幸せで、悲しい感覚だった。
それから、袂に大切に仕舞っていた蛤の紅を、取り出した。
紅筆が見当たらないので、少しだけ濡らした薬指で紅を取り、唇の縁をなぞるようにして生まれて初めての紅を注す。微かに、手が震える。鏡立に置いた鏡を見ながら注してはいるのだが、上手く出来ているのかどうか、自分ではよく判らない。ぎこちなく、覚束ない手つきだった。
紅を注し終えたあと、鏡に映る自分の顔は、見慣れないものだった。
(唇が、赤い―――――)
当たり前のことではあるのだが、若雪はその鮮やかな赤に戸惑った。これまでの自分の顔には縁の無い色だったからだ。どうにも恥じらう気持ちが拭い切れないのは、自分が化粧することに慣れていないせいだろう。
嵐は紅を注したこの顔を見て、綺麗だと思ってくれるだろうか。
こぼれた涙を拭う。
(嵐どの…。初めてお会いしたころから、あなたは私の中に吹く嵐でした。初めは小さかった嵐が、やがて私の中でどんどん、どんどん、大きくなって――――。私の中の嵐が大きくなるにつれ、実際あなた御自身も、軽やかでありながら強く、猛々しく荒れる、鮮やかな嵐となられた。いつのころからか、私はそんなあなたに惹かれるあまり、あなたを縛ろうとしてしまうのではないかと、自分が怖かった……。私は、自分の恋慕の情の強さに驚き慄いていました。嵐どのの恐れは、正しかったのです。…私は、今からあなたを助けに死出の旅路へと参ります。そして万一、光の吹雪となった暁にはあなたとの約束を守ります。…―――――私が自ら命を絶っても、運命違えの法は成ってしまう気がする。なぜだろう。その、確信のようなものが私にはある。なれば吹雪は光の吹雪へと、きっと理の姫が変じてくれるだろう。そののちの約定も、きっと守ってくれるだろう)
だから若雪は約束を破るのだ――――――――――約束を守る為に。
待っていて欲しい。
力の及ぶ限り、死に抗うと言った誓いは果たせないことになるけれど。
彼は怒るだろうか。悲しむだろうか。……泣くだろうか…。いずれにしろ、きっと嵐は自分を許すまい。
(…許されずとも良い)
彼の目論見を防げるならば。若雪の瞳には、固く、揺るがぬ決意の色があった。
若雪は傍らに置いた雪華を見た。自ら命を断つ得物として、慣れ親しんだこの懐剣以上の物は無いだろう。病に侵されながらあれ程に恐れた死が、不思議と今は怖くない。
「―――――――」
雪華に伸ばそうとした手が、一瞬止まる。
そのようにして使う為に渡した懐剣ではないと、亡き両親は嘆くだろうか。そんな思いがふと若雪の胸をよぎった。
嵐が子守明神像を手に戻った時、出迎えは誰もいなかった。志野も、蓬も。
桜屋敷全体に、人の気配がしない。
不思議に思いながらも若雪の姿を探して若草の間に行くと、文机に一枚の紙と、その押さえのように蛤の紅が置いてあった。
紙には流麗な筆跡で、〝飛空〟と書いてあった。若雪の手だ。
腰刀の銘であることにはすぐ気付いた。
白紙の上の文字を指でなぞりながら、自然と口元に笑みが浮かぶ。
良い名だ。まるで嵐の生き様そのものを表わすような。
若雪の懐剣の銘・雪華と対になっているようなところも気に入った。
衣桁から打掛が消えている。
蛤の紅を使用した形跡もある。
それでは今若雪は、清らかにして、目も綾な艶姿の筈だ。
嵐は楽しみな思いで若雪の部屋に向かった。
鮮やかな打掛のお蔭で、嵐は若雪の部屋の前庭にいる彼女の姿にすぐに気付いた。
礼節を重んじる彼女にしては極めて珍しいことに、咲き誇る桜の大樹のたもとに、もたれかかるようにして眠っている。その近くには、嵐の拵えた結界がある。
いつの間にか天からは、風花が舞い降りて来ていた。
白いそれを目で認めた瞬間、嵐に強い焦りが生じた。
(早う起こさんと)
病が悪化する。慌てて自らも庭に降りた。大人しくしていると言ったのに、こんなところで眠りこけるなんて何をやっている。志野たちも志野たちだ。若雪をこの状態で放置したままとは。打掛を羽織っているとは言え、外気に晒されて寝て良いような季節でも体調でもない。若雪を起こして暖かい場所に移動させたら、また小言をやかましく言わねばなるまい。
そんなことを一瞬にして忙しく考える。
けれど。
眠るように目を閉じた若雪の唇は美しい紅だ。
彼女の注した初めての紅が、若雪の形の良い唇を色鮮やかに彩っている。
唇そのものが、まるで白い顔の雪原に舞い降りた、ひとひらの赤い花弁のようだった。
その唇は静かな微笑みを湛えていた。
白と紫を基調にした打掛が、思った通り、いや、思った以上に良く似合っている。
なぜか赤い色味が混じっているところが、自分の注文と異なり気に入らないが、その点を除けば文句無しの出来栄えだ。
眠る彼女の姿全てが、人ならざるもののような美しさだ。
そして彼女を飾る品々は、嵐が選び抜いて用立てた物なのだ。嵐はその事実に満足しつつ、若雪に見惚れていた。
(綺麗やな…)
今は俯いている長い睫が上を向き、若雪の瞳が自分を捉える瞬間を、嵐はぞくりとするような喜びと共に思い描いた。
嵐は若雪の美しさに打たれながら、厳かにも感じる思いの中で、彼女を起こそうと歩みを進めた。
「お頼み申します。もし!」
智真は桜屋敷の玄関口で首をひねった。
先程からおとないを告げているのだが、一向に誰かが出て来る様子が無い。
実は明慶寺住持に寺宝を持ち出したことが発覚し、すぐに返却させるようにと、きつく厳命されたのだ。嵐の行う呪法に必要らしいのは解っているのだが、住持の剣幕では、一旦は何が何でも寺に持ち帰らないと、ことが収まりそうになかった。
しかし幾ら待てども嵐はおろか、家人の出て来る気配が無い。
智真はなぜかふと、嵐の手から兼久の命を守る為に、兼久の邸を訪れた時のことを思い出した。あの日は、兼久が前もって奉公人に休みを取らせていた為無人だった、とのちに兼久に聞いた。嵐が来るであろうことを、予測していたからだ。
(…なんで、今になって)
あの日のことを思い出すのだろう。
確かな根拠は無いのだが、どうにも嫌な予感がする――――――――。
「……お邪魔さしてもらいます」
智真は小声でそう言うと、草鞋を脱いで桜屋敷の中にそろりと足を踏み入れた。




