逝く花 四 (前半部)
四
天女の発した声は悲鳴だった。
「…―――――理の姫様…。……明臣か」
水臣が苦く呟いた言葉で、若雪は空間を割って出現した女性もまた、神であることを悟った。そして、瞠目した。
理の姫と呼ばれた神が水臣と同じく、若雪に跪いたからである。水臣が敬称で呼んだことから、彼女が水臣より高位の神である察しはついた。その神にさえ跪かれる自分とは――――――――――――。思わず怯んで一歩、後ずさる。
理の姫の右手には、先程の音の主であろう、錫杖が握られている。彼女が膝を折った動きに合わせてシャン、と鳴った。
彼女は初めの一声を放ったあと若雪に頭を垂れると、肩で息をしつつも、水臣を一睨みしたのち、水臣と同様な口上を述べた。
「この、佳き日に――――――御尊顔を拝し奉り、光は嬉しく存じ上げます、雪の姉上様―――――――」
声には敬意と好意と、なぜか悲しみが宿っていた。長い黒髪が数束、一礼と共に地をかすめる。
「姉?」
若雪は怪訝さを通り越した表情で、小首を傾げた。
最早何と答えて良いのやら解らない。
自分に神の妹などいない。その筈だ。
何やら――――――――――。
何やら色々なことが、随分とおかしくなってしまっている。
若雪は笑い出してしまいそうだった。
気付けば耳に入るのは、奇怪な作り話のような語りばかり。
いつから自分は、夢物語の世界に迷い込んだ?
しかもこの夢は、吉夢と言うよりはむしろ―――――――――――。
(あらちをの かるやのさきに たつ鹿も ちがへをすれば ちがふとぞきく)
若雪はぼんやりとしながら、胸の中で縋るように夢違誦文歌を詠んだ。
そうすればこの悪夢から、誰かが助け出してくれるのではないかと思った。
嵐が助けてくれるのではないかと、そう思った。
けれど彼らの話では、助けが必要なのはどうやら自分ではなく、嵐のほうだ。
(―――――そうなのか。……ならば、お助けしよう。今度こそ私が、嵐どのを)
若雪は、そこだけは得心する気持ちでそう思った。水臣の語るところでは、今の嵐の先には深い闇が待ち構えているような気がする。
けれど若雪は、そうではなく。闇ではなくて。
(光の未来を)
嵐にあげたい。
幸せになって欲しい。
それが無理ならせめて、絶望や不幸からは隔たったところにいて欲しい。
(知らなかったな…)
若雪は自分の胸の底から、滾滾と湧き出る泉のような想いがあることを感じていた。
自分は嵐に関わることなら、こんなにも貪欲になれるのだ。
(常に助力をいただいてきた嵐どのを、今度は私がお救いせねば。その為に出来ることは、きっと全て、成し遂げて見せよう………………)
若雪の双眼に、強い光が生まれた。
理の姫は挨拶の口上を述べたあと、流れるような動きで立ち上がると、そんな若雪の思惑を読み取るように、彼女をその薄青い瞳でじっと見ていた。親しみの籠った、労わりある眼差しだった。反対に水臣は氷のような眼で二人を見ていた。
理の姫は、それから若雪の瞳にそれまでに無い光が宿るのを見て取った。若雪の考えが一段落しころを見計らい、彼女は自らと、若雪の知られざる素性を美しく響く声で物語った。
「…姉上様。私は光。――――陽の光にして、月の光。大日如来とはまた別に、それらの神格化した存在にございます。あなた様は、私が慕い、自らの光を投げかけた峰の白雪であられました。惹かれずにはいられない程、それは尊い、清らな白き光でございました。私よりもお早く神の位を得られ、―――――だのになぜか、人の世に彷徨い出てしまわれた……。塵芥の中へと。よりによって、かほど清浄なる姉上様が。思えばそれが悲劇の根源でした」
「峰の、白雪」
「はい」
現れた当初からどこか悲しげな面持ちでいた理の姫が、初めて微笑した。憧れのようなものが、その微笑からは感じられた。
自分は、それ程に清らかなものから生まれたのか。けれど聴いたからと言って、すぐに実感の湧く話ではなかった。あまりに、大仰過ぎる。自分はこの手で人を殺めたこともあると言うのに。
それに―――――。
悲劇?水臣も悲劇と称した。しかしここに至って―――――悲劇とは一体何を指すのか。
家族が惨殺されたことか。自分が死病に罹ったことか。尽くした信長が死んだことか。
兵庫らの死んだことか。もしくはそれら全てと、今の、これからの嵐の在り様か――――――――。
若雪には判別がつかなかった。
「それが無ければ、摂理の壁が警告と反発を示す赤色を表わすこと無く、また、吹雪が生じる苗床さえ無く、物事も万事平穏に過ぎたでしょう」
「………平穏、に」
しかしきっと、嵐に出会うことも無く。
若雪はそうと察した。
「けれど、姉上様は人界へと迷い降り、人の蠢く渦中に混じってしまわれました。お恥ずかしい。神の、天の失態にございます。私は理の姫・摂理の壁の番人となってのちもあなたをお捜し申し上げ、ついに行方の知れたその時より、見守らせていただいて参りました、ずっと。…見守ることしか、叶いませんでしたが。吹雪に関わる数々の不思議は、姉上様が関わられたゆえによるところが、大きいのでございます。私は巫女姿で、あなたにお会いしたこともあるのですよ」
若雪の頭に、初めて桜屋敷に赴いた日のことが思い出された。
(…もしやあの、盲目の老巫女が―――…?)
けれどそんなことは、もうどうでも良い、と若雪は思った。今、肝心なことはただ一つだ。
「私は……、どうすれば良い。どうすれば、嵐どのを救えるのですか」
「それは…」
言い淀んだ理の姫に代わり、水臣が口を開いた。
「簡単なことでございます」
「黙りなさい、水臣!」
理の姫の叱責をあっさりと流し、水臣が冷ややかに言った。
「外法の対象者が、いなくなること―――――――すなわち、嵐が死ぬか、あなたが御自ら命を絶たれることです、雪の御方様」
若雪は目を大きく見開いた。
(嵐どのか、私が、死ぬ――――――――――――?)
「水臣!!」
苦く、口元に笑みを浮かべながら水臣が理の姫に言った。
「外法を成そうとする嵐が、その阻止の為にみすみす死ぬ筈も無い。また雪の御方様が、嵐の死を望まれる筈も無い。嵐を死なせない以上、選べる手立ては雪の御方様の御自害しかございません。理の姫様、お解りの筈でございましょう」
「いいえ、他に」
理の姫が首を横に強く振る。
唇を噛み締め、目を険しく細めて伏せ、足元を見据えて言った。
そこに答えを求めるように。
「何か他に、手立てがきっと」
「ございません」
水臣はにべもなく言い切った。解りきったことに対して、それでも嫌だと駄々をこねる子供に対するように、少しの苦さと、笑みを含ませた声で。
「…あなた方は、神であられるのでしょう?なにゆえ、嵐どのを止めてくださらないのですか」
若雪の当然の質問に、水臣も理の姫も黙った。
「―――――私たちには、それが不可能なのです、姉上様。嵐の行動を阻むことが、出来ない。彼はなぜか、私たちの力の干渉を受け付けないのです。ゆえに……」
そのまま口を閉ざした理の姫を、若雪は信じられない思いで見た。
理の姫を庇うように、水臣が再び声を発し、話を元に戻した。
「そも、今の在り様が雪の御方様におかれては間違いなのです。神の力と資格を持った、されど人としての歪な一生を終えられたのちは、改めて神の位に封ぜられることになるでしょう。過ちが正されるだけです。雪の御方様は、正しきお姿に戻られるのです。それが今、成されるとして、何の問題がありましょうや?」
キッ、と理の姫が水臣を睨むが、水臣の苦い笑みは深まるばかりだった。
「神が神の寿命に通力で干渉すること自体が不可能なのです。だからどんな延命祈祷も効かなかった。如来にしろ歓喜天にしろ、人として生きておられるとは言え、やはり神の属と称されて然るべき雪の御方様の寿命への関与は、僭越というもの。しかし運命違えの法ならば神仏の力を必要としない。ただ膨大な霊力さえあれば良い。建前として神への供物やらは用意するが、真に要るのは呪具と霊力、そして呪法の対象となる人間二人の魂のみ。主なる通力を得る為神仏の力を借りる、という手段の枠外にあるゆえに、嵐が選び取り得る唯一の呪法なのです」
そこまで言って水臣は、嫌悪感から顔を歪ませた。
「愚かにも人の生み出した、神仏に頼ることの無い、実に不遜で忌まわしい外法。それが運命違えの法。彼は止まりますまい。そうして、止まらぬとあれば必定取れる道は一つ」
静謐を象ったような声で、水臣が断じた。その目は若雪を捉えている。
運命違えの法を行えば、若雪はおろか嵐も死に、大きな災いが世を襲う。嵐は享受する筈だった平穏な来世の代わりに悲運を背負う。若雪に代わって。
しかし呪法の成立前に若雪が死ねば、失われる命はその一つだけ。嵐の来世も安泰なまま、世を災いが襲うことも無い。
それでは今、自分が選べる最善の行動とは。
若雪は白い面を固まらせていた。
嵐を助けたい。
自分の為に、外法に手を染めようとする彼を、思い留まらせたい。
自分の為に、自らの生を投げ出そうとする嵐を救いたい。
嵐に自死など、あまりに似合わない。
この先、自分の身がどうなろうと、嵐には生を全うして欲しいのだ。
最早、病を治して二人で祝言を上げる未来が潰えたのだとしても、そんな事柄とは関係無く生き続けて欲しい。
(例え私が倒れても、と――――――――そういう、約束の筈)
けれど、約束だからと言って簡単に聞く嵐でないことは、誰より一番よく若雪が知っている。嵐は時々、嘘を吐く。それは概ね若雪にとって優しい嘘を。
運命違えの法を行うと決めた時点で、彼は若雪との約束を破る覚悟をしていたのだ。
ならば若雪が先んじて動く他無い。
(水臣どのの仰る通り、私が選べる最善の方法とは、ただ一つだ)
「………嵐どのに、重ねた借りを一遍にお返し出来る、ということですね…」
そう静かに、穏やかに言った若雪を、泣きそうな表情で理の姫が見た。
そんな天女をあやすように、優しい声で若雪が問う。
「理の姫様…一つだけ、お伺いしたいことがございます」




