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逝く花 三 (後半部)

「…―――――――」

ふと誰かに呼ばれたような気がして、嵐は目を上げた。

「どないしはりました?嵐さん」

「ああ…いや。それで?これが?」

「はあ。子守明神像の絵です。これは質の良い逸品ですよ、由緒ある物やと聞いとります」

小袿(こうちぎ)を着た女性が赤子を抱いた子守明神像は、〝運命違えの法〟に欠かせない物とされる。その所以(ゆえん)は定かではない。子を授かることを願う像が、本来は宿るべきではない、運命を入れ違えての子でさえも、母胎に宿るようにと、そう導く為かもしれない。言わば術の介添(かいぞ)えのような物か。

「ははぁ。値段がかさむ筈やな。もう少し、まからんか?」

像の描かれた絵を抜け目無い眼で検分しながら、嵐は商いの交渉に入る。

「そうですなあ…。嵐さんは、お得意さんですさかい。これでどないです?」

心得ている店の主の動かしたそろばんの目を見て、嵐は「ふむ」と声を上げ一つのそろばん玉をピン、と人差し指で弾いた。

「これで頼むわ」

嵐がに、と笑う。

「いやあ、かないませんなあ」

苦笑いしながら、店主は頭を掻いた。


「私が―――、もしも私があなたの言うような神の力を持つ者であるとして、あなたはなぜ私に会いに参られたのですか?」

若雪の黒々とした瞳には、正面から水臣の姿が映し出されている。水臣はその問いを契機に、ゆっくりと立ち上がった。

「…それを申し上げる前に―――――――、私に何かお尋ねしたいことがおありでは?」

「尋ねたいこと?」

「私はそれを、教えて差し上げることが出来ます。例えば、嵐などがあなたに遠慮して言わないことなどを―――――。これは私の、言わばせめてもの罪滅ぼしです」

罪滅ぼしと言う言葉の意味は解らなかったが、誘導するようにそう言われて、若雪はずっと問いたかった疑問を思い出した。しかしそれは、口にするには胸の痛む疑問だった。

「兄様は…、兼久兄様は、なにゆえ私を殺めたいと思い詰める程、私を憎まれていたのでしょう………」

気付けば、水臣の差し向ける通り、ほろり、とその問いを口にしていた。

それは確かに水臣の言う通り、嵐に尋ねたところではぐらかされるのが落ちの問いだった。けれど若雪には、ずっと疑問だった。兄と慕っていた兼久が、自分に殺意を抱いた理由が―――――――――。死病に罹らせんと意図した訳が。

胸に重しを載せた心地がして、思わず顔を俯けた若雪の耳に、予想だにしない答えが降ってきた。

「それは……、兼久が、あなたを慕っていたからでございます。無論、恋慕の情、という意味で」

驚きに若雪が面を上げると、水臣は少し苦々しい表情を浮かべていた。

「あれは、今にして思えばそう、神の誤算と言うべきものでありました」

(神の誤算――――――?)

「我らは、兼久が吹雪の鍵となる者と知っていた。吹雪とは、あなたの為に嵐が行う外法のせいで起きる、多大な災厄を示す符牒です。…専らの意味では、ですが。〝雪に嵐では吹雪となろう…〟。お聞き覚えがございますね。信長は、それを伝えた巫だった。兼久は茶道の中に自らの孤高の世界を見出し、やつしの美にとりつかれた男でした。そしてあなたはそのやつしの美、欠けたるがゆえの不足の美を、生きながらにして体現する者、と兼久の、―――あの男の目には映っていたのです。長い間、ずっと」

 若雪には兼久の考えもまた理解出来なかった。

 意表を突かれた顔になる。

(やつしの美?不足の美?――――…私の何が、そう思わせたのだろう)

「我らは、あなたを満たすべく、嵐や、市の方たちに働きかけました。それは先んじて行動を起こすことの出来ない我々に成し得る、ほんの僅かなものではありました。摂理の壁の目を盗むようにして、夢や、他の偶然を装った、力の行使。嵐たちはあなたの心の穴を少しずつ塞ぎ、兼久の言葉を借りて言うなら、満たしていきました」

虚ろにも傷ついた心が、次第に満ちて行くような感覚。充たされることの温もり。

それは、神々にも望まれたことだった――――――――。

(…いや。仕組まれただけのものではない。私が望んだことだった。私も、求めたことだった。少しで良い、普通の、幸せが欲しくて)

「あなたが満たされれば、兼久はあなたから関心を失くすと思っていました。さすれば吹雪が起こることも無い。けれど――――――――、兼久は、やつしから離れゆくあなたを憎むようになってしまった。恋着の強さは、そのままに。我らの、計算違いが引き起こした、それは悲劇でした」

若雪は何も言うことが出来なかった。立っているのがやっとだった。

今、水臣が語ったことの、全てを理解することはやはり出来ない。

だが経緯はどうあれ、自分はやはり兼久に憎まれていた。

そのことに違いは無かったのだ――――――――――。

(兼久兄様…………)

朗らかで率直な、実の兄弟だった者たちとはまた異なる、繊細な気遣いを見せる兼久を、若雪は確かに兄として慕っていたのだ。

その、兄から真に憎まれていたのだという事実は、若雪の心を改めて深く、鋭く傷つけた。胸から血が流れ出るような錯覚を覚えながら、若雪は兼久に心の内で問いかけた。

(兄様、それでは私はどうすれば良かったのですか。嵐どのや智真どの、お市どのや、茜どのたちに囲まれ親しくさせていただいた―――――――その喜びを、知らなければ許されたのでしょうか?)

人と関わらず孤独のまま。過去の痛みをいつも抱えながら。常に変わらぬ、冷えた面で。

決して溶けることのない雪のように、ずっと凍てついたままで?

―――――――――そんなことは、出来なかった。

それでは到底、自分は生きて行くことが出来なかっただろう。

結局のところ自分の望む在り様は、兼久には受け容れられなかった。水臣は神の誤算だと言った。しかし神々が関与しようがしまいが、若雪が若雪である限り、兼久が兼久である限り、いずれ兼久は若雪の存在を忌み、憎まずにいられなくなっただろう。

(詰まる所、今の在り様は私の避けられぬ運命だったということか)

 茫漠(ぼうばく)とした頭で若雪はそう思った。

「我々はまた、兼久が嵐に確執の念を抱かないようにも、働きかけました。全ては吹雪を起こさない為だったのです。しかし、人の心を変えるのは、神とて容易ではない―――。兼久は、嵐への確執とあなた様への歪んだ恋慕の念。その二つに囚われてしまったのでございます。そしてあなたは死病に罹り、……吹雪は成ろうとしてしまっている。今やその、一歩手前まで来ているのです、雪の御方様」

相次ぐ事実の発覚に、若雪は目眩を覚える程混乱していた。

吹雪の指すものが、小さくない災いであるということだけは何とか呑みこんだ。

詳細は解らないが、恐らく嵐は吹雪の何たるかを知った上で、人として成してはならない禁忌を犯そうとしている―――――。

小袖の上に更に重ねて羽織った小袖が、風に揺れた。

寒い――――――――――。

先程から、身体の芯が凍えるように寒いのだ。

それは冷たい空気のせいばかりではなく。

若雪は、自分の身体が小刻みに震えていることに気付いていない。

一度だけ唾を飲み下し、乾いてカラカラになった口の中から、若雪は言葉をひねり出した。

「嵐どのは、一体どのような外法を行うおつもりなのです」

水臣が目を細めた。その質問をこそ待っていた、とでも言うように。

「〝運命違えの法〟と、それは呼ばれています。外法の最たるものに属するゆえ、それに手を出す者はこの数百年、現れたことも無い――――――。呪法を行うその時をもってして二人の人間の、来世を入れ替えるのです。右を左へ、左を右へ…。水は火に、火は水に。属性を変えることが根幹となっている術です。すなわちあるべき魂二つを、逆の場所へと。当然、呪法が成った時点で、それら二人の人間は落命します。この場合は嵐と、雪の御方様のお二人ということになります」

「馬鹿な……」

「そう、愚かな行為です」

 然り、と水臣が首肯する。

「なぜ、嵐どのは、そんなことを………?」

水臣が若雪の瞳を見つめた。その、薄青い目で。

そうして、長いこと何も言わなかった。

答えはあなたの中にある、と。そう言われているように若雪は感じた。

そしてそれは実際そうだった。

「…私の為、ですか。先程、そう仰いましたね」

水臣は一つ、瞬きをした。

「これまでにも苦行のような生を歩んで来られたあなた様の、悲しい来世を彼は知ってしまった。自らの平穏な来世と共に。彼にはそれが許せなかったのです。……この心情につきましては、些か同情の念を禁じ得ないものがありますが……」

「そ―――――――、」

 それは違う、と若雪は思った。心に突然、強い風が吹いたように。

 もし嵐が本当にそう考えているのだとしたら、彼はとんだ心得違いをしている。

「私は――――――、私の生は、苦行ではなかった。…それはもちろん、辛いことはあった。耐えられぬ程の苦しみも、悲しみも知った。そうして今は近付く死に怯え、恐れてもいる。けれど、決してただ不幸なだけではなかった―――――…そう、不運では、あったかもしれないけれど。それでも大事と思う人たちと、触れ合うことが出来、彼らの幸を祈ることが出来た。嵐どのにも会えた―――――」

(あなたに逢えた―――――)

 この胸の温もりを、熱を、今、嵐にも知らせたかった。

 嵐がそれを十分には解っていないと言う事実を、自分もまた迂闊にも知らずに来た。

 伝える言葉は、足りていなかったのだろうか。

 自分の心を表わす言葉の拙いことを、若雪は昔から自覚していた。滑らかに、自らの思いを滔々と語るような芸当は、若雪の苦手とするところだった。それでもとりわけ嵐には、思いを告げる言葉を惜しまずに、努めて今まで接して来たもりだった――――――――。

 知って欲しくて。

「なのに、それなのに、何を指して私の人生を悲しいものと思われたのか。嵐どのは、私にとって御自分がどれだけ大きな存在なのか、解っておられないのです。その点のみにおいても、嵐どのは間違っておられる。御自分の尺度だけで、私の幸・不幸を測るなど」

 言い募りながら若雪は悲しくなった。

 嵐は十二分に、あらゆるものを若雪に与えてくれながら、それを自分では些細なものとしか捉え切れていないのだ。あれ程賢明な人が。

 全てを凍らせるような冬の風が吹き、若雪の黒髪をザアッと大きく(なび)かせた。

 嵐の作った結界の、注連縄(しめなわ)から垂れる紙垂(しで)が千切れんばかりにはためくのが、視界の隅に見える。

 泳ぐ黒髪の合間から、若雪は何一つ飾らない本音を口にした。――――静かに、真実を。

「逢えただけで……共に時を過ごせただけで、私は良かったのに」

 その為だけではないにしろ、今生は確かに価値あるものとなったのに。

 彼にはそれも解らなかったのだろうか。伝わらなかったのだろうか?

 嵐は若雪に様々な心の色をくれた。それらは鮮やかで、濁り、暗く、明るく、深く、浅く、若雪の心を彩った。だからこそ、思いもしたのだ。恩を返したい、と。出来ることなら自分の手で守ってあげたい、と。

 けれど嵐は若雪のそんな思惑の、はるか上、高い空を飛んでいた。

 軽々と、若雪に与え続けながら。

(嵐どの―――――きっとあなた御自身が一番、それを御存じではなかった)

 そんな嵐が若雪には一層愛しく、また悲しくも愚かに思えた。

「教えてください。どうすれば、どのようにすれば、嵐どのを止めることが出来ますか?病で寿命を終えるのは、私一人で十分です。苦しい来世が待っていようと、そのようなこと、今はどうでも良い。私の運命に、嵐どのが身を挺して巻き添えになる必要などありません――――――」

「それは―――――――」

水臣が唇を動かしかけた時、シャラリ、という澄んだ音色が、咎めるように大きく鳴り響いた。

「水臣っ!!」

天女の降臨だった。


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