逝く花 三 (前半部)
三
「明臣」
その声を聴くたび、明臣はいつも深い水を感じる。冷たくて、あまりにも清らか過ぎるゆえに、生き物の住まうことの叶わない湖のような。
本人を表わしているよなあ、と思う。
訊かれることの予想はついていたが、しれっとした顔で彼を振り向いた。
「何?水臣」
「お前、私に何か隠していることは無いか」
水の音は、明臣に静かに問いかける。
きょと、とした顔を明臣はした。それらしい表情を作るのはお手の物だ。
「隠し事?無いよ?何のことを言ってるのさ」
「……知らぬなら良い」
「僕のことより、君――――――、勝手に現に降りたりして、一体何考えてるのさ?姫様はそのこと、御存じ無いだろう?」
水臣は、声だけでなく涼やかな眼差しで明臣を見た。
「………お前には、関わり無い。姫様にも、申し上げるな」
「ふうん。――――良いけどさ」
全くこの二人は複雑だ、と明臣は思う。
理の姫と水臣、二人が互いを好いていることは明らかだ。特に水臣のほうは、盲目、と言って良い程に理の姫に心酔し、恋情に身を捧げんばかりだ。
けれどその一点が、理の姫にも、そして傍から見ていて明臣にさえも危ういものを感じさせる。
だから吹雪に関する降臨も、理の姫は水臣には秘した。自分以外の存在に、水臣が一切の温情も容赦も成し得ないと知っているからだ。下手をすれば嵐にも若雪にも、何をするか解らない―――――――。そういう怖さが、彼にはあった。
そしてまた水臣も、理の姫の慈悲の深さを知るゆえ、その深さの結果生じるであろう障害は予め排除しようと考える。
想い合いながら、互いに相手を警戒し、秘密を隠し持っている。
(…水臣の動向に、しばらく目を光らせておく必要があるな)
明臣は思った。先の理の姫の降臨について、口止めをされるままに従い、彼は水臣に何も知らせる気は無かった。
霜月に入り、桜屋敷の桜は、緩やかにほころんでいった。
嵐は何やらそれまで以上に忙しく立ち回り、一日に一回、若雪の顔を見るとすぐまた立ち去った。口では何も言わないものの、若雪は内心寂しく感じていた。
何かの儀式の準備をしているらしいが、詳細は訊いても教えてくれなかった。
だが若雪は、思い詰めたような彼の顔が気になった。
ある夜、顔を見に部屋を訪ねて来た嵐に、若雪は思い切って訊いた。
「嵐どの……。今、一体何を考えておいでですか。何か…剣呑なお考えを抱いては、おられませぬか」
嵐は、何も言わずに若雪を見返した。
「黒羽森に仰ったそうですね。自分に万一のことあらば、残る嵐下七忍を束ねよと――――――――――――。どういうことですか?」
(黒の奴―――――――――)
若雪の顰めた柳眉に、嵐は内心舌打ちする。
内密の話ゆえ、誰にも漏らすなと言っておいたのに。お蔭で若雪が要らぬ心配をしているではないか。いや、〝要らぬ〟心配、とは言えないか。
「新しい命続祈祷法の準備で今、忙しいんや。今まで以上の規模の呪法になるさかい、大根やら酒やら香油やらそれ以外にも色々と要りようでな。若雪どのが心配するようなことはあらへん。黒に、黒羽森に言ったのは、本当に万一の時の場合の話や。忍びだけが命懸けなんやない―――――陰陽師かていつでも、命懸けで呪法に臨まなあかんからな」
もちろん嵐が準備しているのは、禁断の外法・〝運命違えの法〟であった。それを行えば自分の命も無いと知った上での、黒羽森への七忍を委ねる言葉だった。
志野へも蓬へも、二人の下男へも、自分たちがいなくなったあとの支度金は用意してある。尤も彼らは、嵐たちが消えても納屋という奉公先が残っている。それは嵐を安堵させる事実だった。一旦雇ったからには、彼らの今後の身の振り方についての責任がある。
まだ、納得したとは言えない顔を若雪はしている。
白い顔の中の澄んだ瞳は、心許無い色を宿している。
溜まらず、嵐はそんな彼女を抱き締めた。
強く、強く――――――――――――。
(約束を守れへんな。堪忍―――――――――――)
「嵐どの、痛い――――――、」
身じろいだ若雪にはっとして、嵐は彼女の身体を放した。
以前の抱擁とは異なる、力の限り抱き締めた嵐に、若雪の細身が耐え切れなかった。
腕を解かれた若雪の顔は仄かに火照っていた。乱れた黒髪を、恥じらう風情で整えている。
その若雪の両腕を掴み、両目を見つめて、嵐は熱の籠った低い声で問う。
「若雪どの。紅は、―――いつ注してくれる?」
今までの時間を取り戻そうとするかのような、性急さだった。
仄赤い顔のまま、若雪は目を右に、左にしながら答える。
「……では、桜が咲いたら」
「…待っとる」
そして、桜屋敷の桜が満開を迎えた。
それは霜月のこと。狂い咲きの極致、であった。
「ほんなら、ちょう、行って来るわ。若雪どの――――」
「はい、大人しくしております」
嵐の言葉を先取りし、若雪は桜屋敷の上り框に両膝をつき微笑んだ。
普段は若雪がわざわざここまで見送りに来ることは有り得ないのだが、桜が満開に花開き、いよいよ嵐のくれた紅を注す日を迎え、小さく弾むような心持ちの若雪は、嵐を見送りに小袖を羽織り起きて来たのだった。
嵐も今日ばかりは、身体に障ると言ってそれを注意することはなかった。
「―――風花になりそうやな」
嵐が薄暗い色の空を見上げて言う。
例によって、祈祷法の為の大事な呪具を受け取りに行く、ということだった。
「帰ったら―――――」
「はい。紅を注して、嵐どのをお出迎え致します」
花のような笑顔でそう言った若雪に、嵐も「楽しみにしとるわ」、とにこやかに頷いた。
そして加えられた言葉は、自信ありげだった。
「若草の間に置いてある衣桁に、打掛を掛けてある。良かったら、それも羽織ってくれ。俺が見立てた。きっとあんたに良う似合う筈や」
そんな物までいつの間に用意していたのか、と若雪は目を見張った。嵐は、紅を注した若雪が着飾った姿を、余程楽しみにしているようだった。まるで嫁入り仕度を待つかのようだ。そう感じさせる程、どこかそわそわとしていた。それは嵐が、自分がこの世の最後に見られる若雪の艶姿を心待ちにしているからだったが、もちろん若雪がそれを知る由も無い。
嵐は、何気なく腰刀に手を遣った。
手に馴染む、慣れ親しんだ感触。
(………こいつとの長い付き合いも、これまでか)
そう思うと、さすがにしんみりするものがあった。
せめて最後に、名付けてやりたいという思いが湧いた。
「……若雪どの、それからこいつに、ええ加減名前をつけたってくれや。ああ、まあ、急がんけど――――、そっちも楽しみにしとるわ」
「――――はい」
そうだった。ずっと前に交わした約束を、まだ自分は果たしていない。嵐は急がないと言ってくれたけれど、長く待たせてしまっているあの美しい腰刀の名を、今日こそはつけなくては―――――――――。
若雪は嵐を送り出す笑顔の中、そう思った。
嵐の遠ざかる背中を見ながら、突然若雪は心の中で「行かないで」と声を上げた。
行かないで―――――行かないで行かないで。
もう、二度と会えはしないかもしれないのだから。
両手で口を覆い、目を見張る。
(―――――――――なぜ?)
全く脈絡の無いその思いに、若雪自身が一番驚き、彼女の胸をひどく強くざわつかせた。
部屋に戻る途中、若雪は寒風の中咲き誇る桜の大樹を見た。
(どうしてだろう――――)
やはりどう考えても、早過ぎる開花だ。花の命を、無理にねじ曲げているような印象を、若雪は受けていた。まだ風が、こんなにも冷たいのに。
(これではお前とて辛かろう)
「お前は、なぜもう咲いてしまったの?」
哀れを感じて、つい戯れに、桜に話しかけた。
無論、答えなど返る筈も無い。
しかし。
「それは、あなた様の為の早咲きゆえにございます」
水のように涼やかな声が、それに答えた。
桜が答えたのではない。
驚き、声のしたほうを見ると、若い男が立っていた。
裏山の裾野に繋がる開けた庭には、四本の桃の木の枝が立てられ、それらには注連縄が張り巡らされている。注連縄には紙垂が垂れ下がり、風に靡いていた。
嵐が祈祷法の為に整えた結界だった。
その横、この寒気の中涼やかに佇む男に、若雪は見覚えがあった。
しかしそれは夢の中のことだ。随分前に見た夢だが、印象が強かったので覚えている。あれもやはり春、桜の咲くより前の季節のことだった。
思い出しながら若雪は、目の前になぜかゆっくりとひざまづく男を改めて眺めた。
彼の髪の色は、どこか青味がかっており、やはり夢と同じ風変りな着物を着ている。
「私の為―――――――?」
問いかけた若雪に男が答えた。
「はい。もう間もなく、命を終えられようとするあなた様を見送らんが為、それに間に合わせんとして、桜が急ぎ咲きましてございます」
そう言って顔を上げた男は、魅惑的な微笑を唇に刻んでいた。
魅惑的で―――――、どこか不吉な匂いのする酷薄な笑みだった。
「明臣、水臣を見なかったか?」
やや困惑気味に理の姫が明臣に尋ねて来た。
「いいえ?いないのですか?」
「そう。先刻から、姿が見当たらない…。少し、気になるのだ」
これを聞き、明臣もふと懸念する表情になった。
「僕も探ってみましょう」
「ええ…。頼む」
「…お立ちください。察するところ、神に属す方でございましょう。なにゆえそのようなお方が、私などにひざまづかれるのです」
若雪の、戸惑いの中からこぼれる言葉に、男はさらに恭しく答えた。怖いような笑みは既に収められ、思索的に整った風貌が見る者に強い印象を与える。
「それはあなた様が――――、本来ならば私などよりも高位の神であらせられる身であるゆえに。名乗りが遅れましたことを、お詫び申し上げます。私は湖より成りました神の一柱、世の摂理を司る理の姫様をお守りする花守が一、水臣と称される者でございます。この、佳き日に、雪の御方様の御尊顔を拝し奉りますこと、恐悦至極に存じます」
この大袈裟な口上に、若雪はつい笑ってしまった。
「私が神とは―――、なにゆえ左様な御冗談を仰るのです。私を、おからかいですか?」
水臣は真面目な面持ちを僅かも崩さなかった。
「そのような不敬など、致す筈も無い―――――――。あなたは、御自身を、真実人であると、徒人であると今までお思いでしたか?多くの付喪神に慕われ、あなたが近くにおられれば人の霊力も増幅される―――――。人を圧して有り余る文武の才、芸能の才。その、身に余るお力全てが、まことただの人間の女子によって成し得るものであるとでも?徒人には入ることの叶わぬ禁域、摂理の壁近くまでもあなたは参られた。ご自身を人ならぬ身であると、これまでに一度も疑ったことが無かったとは、よもや仰いますまい」
若雪は耳にしたことが理解出来なかった。
いや、理解は出来たが、すぐに納得出来るものではなかった。
自分を神と呼ぶなど――――――、この青年は本当はただの物狂いなのではないだろうか。狂乱して、桜屋敷の庭に迷い込んでしまったのだ。彼の話は、あまりに突拍子が無い。さては狂い咲きの桜に、彼も惑わされたか―――…。
けれど―――――――――――――。
付喪神の話は解らないが、若雪が傍にいれば霊力が増す、とは嵐も確かに以前言っていなかったか。
それに。
若雪の胸に苦いものが蘇る。
(なぜそれができる)
(なぜそれがわかる)
(恐ろしい子だ。近寄らないでくれ)
(お前のような子供など有り得ない)
幼いころより、自分を異形の者でも見るような目で見、遠ざけた大人たち。
様々な機会に自分を斬りつけた「有り得ない」という言葉。
〝若雪…。そなたのその、人の身に過ぎる程の力は、神よりの賜りものなのやもしれませんね……〟
悲しげにそう告げた母の言葉。
頑なに認めまいとしていた若雪の心から、ふ、と力が抜けた。
目を逸らすのは限界だと、解ってしまったのだ。
(なんだ…)
若雪はクスリ、と笑った。
そうか。
目の前の青年の表情は、どう見ても狂った人間のものではない。
むしろ理性に裏打ちされた怜悧さが感じられる顔だ。
そうか。
そうだったのか…………。
やはり自分は徒人ではなかったのか。
人々の畏れは、自分への疎外は、実に当然のものであったのだ。
認めてしまえば心の一部がやはり、と頷き、楽になるものはあった。
若雪は自分でひどく腑に落ちて、そして同時に孤独を感じて悲しくも思った。
(私の居場所は、最初からこの人の世のどこにも無かった――――――――――)
その時、ぐるぐると駆け巡る数々の心当たりの記憶の中、一条の光のように嵐の声が脳裏に差し込んだ。
〝当たり前や。なんで俺が、若雪どのを恐れなあかんねん〟
きっぱりと、彼はそう言ってのけたのだ。
そうだ。いつもいつも、彼は――――――――…。
(嵐どの――――――……嵐どの)
胸の中で、呼びかける。宙に向けて、届けとばかりに。
(私はやはり、人外でありました)
自分が徒人ではなかったと知っても、彼は同じことを言ってくれるだろうか。
(嵐どの――――――……)
なぜ今ここに、彼がいてくれないのだろう。
神であるこの男の瞳は、とても怖い。一人で対峙することを、恐ろしいと感じる。
容赦が無い――――――温かみが無いのだ、その薄青い瞳には。




