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逝く花 二 (後半部)

そこは大和国、吉野の山中奥深く――――――。

蔦植物の絡まり繁った岩窟の入口に、嵐は立っていた。

あたりは鬱蒼とした山の真っ只中であり、まず初めて訪れる者が辿りつける場所ではない。そこここにはまっさらな雪の塊が居座り、気を抜くと足を取られ滑りそうだ。その冷たい白と共に、物騒にも髑髏(しゃれこうべ)が二、三個コロコロとあたりの地面に転がっていたりもするが、嵐は全く気にする様子もなく平然としていた。大方、盗賊あたりの成れの果てだろう。まだ冬眠前の蛇の、シュルル、と足元の草むらを這う姿が見え隠れする。嵐はそれをちらりと視界の端に捉えた。そちらのほうは、目にするなり表情をやや険しくする。

物言わぬ骨より毒蛇のほうがずっと始末に悪い。

「東山つぼみがはらのさわらびの思いを知らぬか忘れたか」

白い息を吐きながら、三度、繰り返し唱える。蛇の害を受けない為の咒言だ。

ちなみに山に入る前も、神言を唱えてある。

三山神三魂(さんさんじんさんこん)を守り通して、山精参軍狗賓(さんせいさんぐんぐひん)去る」

山の怪異を避ける神言だ。これを山に入る前、麓で山に向かって唱えておいた。

山入りする前の基本である。

「ししょー。おししょ~。いてはりますかぁ~~」

今の嵐の装束は、若武者の旅装と言うよりは、野良着をより動きやすく、且つ多少見目良くした忍び装束に近い。ここを訪れるには、それ相応の覚悟が必要だった。

嵐が岩窟の中に向けて一歩踏み出した途端、頭上から苦無が雨あられと降ってきた。

(そら、おいでなすった)

身を縮めて地面を転がり、素早く体勢を立て直す。すると次は左右から矢が勢い良く飛んで来た。上半身を反るように仰向け、これもなんとかしのいだところで、嵐はやってられるか、とばかりに口を開いた。

「掛けまくも畏き伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)筑紫の日向(ひむか)の橘の小戸(おど)阿波岐原(あわぎはら)御禊(みそぎ)祓え給いし時に()()せる祓戸(はらえど)大神等諸(たちもろもろ)禍事(まがごと)罪穢(けがれ)有らむをば祓え給い清め給えと(もう)す事を聞食(きこしめ)せと(かしこ)み恐みも白す!」

祓詞(はらえことば)を口早に唱えた途端、四方八方からの攻撃はピタリと止んだ。

ざり、ざり、と足音がして、岩窟の奥から見事な白髪、白髭、白眉の、仙人のような風貌をした老人が出て来た。その痩身には薄い灰色の装束の他、飾りと言えるような物は何一つ身に着けていない清々しさだ。

それでも、只者ではない風格だけは、相対する人間に嫌でも感じさせるものがあった。

老人がにこにこと言う。

「祓詞を忘れる程には、性根は腐っておらぬようじゃな、嵐よ。山入の神言と蛇除けの咒言も怠り無く唱えた様子。まずは及第点と言ったところかの」

温和な風貌に反して、初っ端から言うことがきついのは相変わらずだ。

「御無沙汰しとります、おっしょさん。あいっかわらず、手荒い歓迎ですね。お元気そうで何よりですわ」

 老人が一笑する。

「ふほ。〝こんちくしょう〟、と今心の中で付け加えたじゃろう?」

「いえいえ、決してそないなことは」

相手の顔を鏡で映したように、にこにこ笑う。

嵐に陰陽道の基礎を教えたのは、目の前の臥千上人(がせんしょうにん)だ。読心の術に秀でる、と言うより、人の思惑を推し量るのが何より得手なのだ。そしていかなる霊験をもってか、上人の有する情報は多岐にして、膨大なものであった。その身は臥していながら、千里先までも見通すと称されるゆえ、誰からともなく臥千上人と呼ばれるようになった。その為、この師匠の前に出る時は普段より一層心を平らかにすべく、嵐は心がけている。今現在考えていることももちろんのことながら、心の果ての、千里先まで読み取られることのないように。

「ま、心がけるのとそれが成るのとはまた別での」

嵐が決意した途端、それを読んで茶々を入れる。この師匠の前に、最初から円滑に話が出来た例は無かった。

「おっしょさん、ちいとそのお口を閉じてもらわんと、いっこも話が出来ませんわ。ちゃんと手土産もありますんやで。堪忍したってや」

若干辟易した笑いを浮かべながらそう言って、嵐は持参してきた瓢箪(ひょうたん)をチャポン、と揺らす。

上人がにこりと笑う。

「清酒か?」

「もちろん」

ここで「いえ、濁り酒です」とでも答えようものなら、即追い返される。悟りきった仙人のような顔をして、気難しくもあり、子供のようでもあるのが嵐の師匠だった。

「良かろう、お入り。はてさて俗世は何やら、忙しないことになっておるようじゃの。信長公の天下も、光秀公の天下も、一夜の夢か。()に儚きは、人の世よな」

 サク、サク、と岩窟の奥に歩を進めながら昨今の俗世についてさらりと述べる。

 一夜の夢も、儚き人の世も、この仙人のような老人の口から出る言葉ゆえの重みがある。

 そしてまた、これ程山深くに住まおうと、世情には著しく通じているのだ。

導かれた岩窟の奥には、蝙蝠でも密集しているかと思いきや、乳白色の水晶で出来た卓と数個の椅子が地面から生えるように据えられてある。

天井の岩には穴が穿たれ、陽光が燦々と降り注いでいる。

薄暗い岩窟の中に注がれると一層眩しい日の光に、嵐が目を細めた。陽に温められたせいだけでもあるまいが、外の凍りつくような寒さがここでは緩み、過ごしやすいくらいの空気がまったりとたゆたうようだ。

「ふむ。もうかれこれ十五年程前の話になるか。お前を弟子とした一年は―――――。以来、お前が顔を見せるのは三度目じゃな。先だっては、若雪様が石見にて消息知れずになった時であったかの」

持参した酒を上人の持つ厚い玻璃の盃に注ぎながら、嵐は師匠が記憶をなぞらえるのを大人しく聞いていた。千里眼の持ち主、とも噂されるこの師匠が、自分の今回の来訪の目的を、知らぬ筈が無いのだ。

チ、チ、チ、と小鳥の囀る声が天から降ってくる。

その内、二羽の小鳥が穿たれた穴から岩窟内に降りて来たかと思うと、一羽がたちまち薄桃色の肩巾(ひれ)を纏ったふくよかな天女の姿と変化し、上人と嵐に酌をする。上人の使う式神だろう。嵐はまだここまで自在には式神を行使出来ない。もう一羽は瑠璃色の小鳥の姿のままで、嵐の肩にちょこりと留まった。男の常と言うか、小鳥はまあどうでも良いが、天女の酌には嵐も少しばかり相好を崩す。自らの玻璃の盃に注がれた酒を、悪くない気分で呑む。臥千上人は豊満な美女を昔から好み、そしてその点においては弟子と仲良く意見が一致していた。但し何事にも例外はある。

(若雪どのは細身やからなあ)

全体に、もう少しくらい余分に肉をつけても良いのでは、とは、実は病になる前から思っていた。口が滑って、うっかり茜に以前そんなことを言ったら、虫を見るような目で見られた。男心を理解しない奴めと思う。

訪問の本題に入る前に、そんなしょうもないことを嵐が考えていると、ふわり、ふわり、と金色の蝶が卓の周りを舞い遊び始めた。胡蝶の舞い―――――――。

どこからか、水琴窟の音色を大きくしたような、清らかで快い響きが聞こえてくる。

この冬空の下、咲いている姿も見えないのに、甘い花の香がする。

相変わらずだな、と嵐は半ば呆れながら思う。

現から隔絶された世界だ。まさに桃源郷のような――――――。本来なら、若雪の住まうに相応しいのは、このようなところであるのかもしれない。

「しかし天女自らが、お前と共に在ることを望んでおられるからな。のう?色男」

心を読んだ臥千上人の言葉に一瞬ついていけず、嵐は戸惑った。

「は…ああ…若雪どのですか。以前も、天女て言うてはりましたね。まあ、そんな風な容貌ですけどね」

上人は美女と見るとすぐに、「弁天様」だの「女神」、「天女」だのと言う癖があった。

基本的に女性賛美の老人なのだ。

「それだけではない」

「と、言わはりますと?」

上人は盃を傾けてその問いには答えなかった。

「嵐。お前、近頃面白き方々にお会いしておるの」

急にそう言われて明臣のことを思い出す。肯定しようとして、ふと止まる。

〝方々〟?

なぜ複数形なのだ。

ちらり、と真っ白な眉の下の、上人の目が動き嵐を窺う。

「ほ。気付いておらなんだか。まだまだじゃのう。で、あるからにして、理の姫にお会いした際にも気付かなんだのじゃ。やれ、未熟、未熟」

白く長い髭をしごきながら上人は不肖の弟子を見遣る。

「理の姫とやらを御存じですか!?」

「陰陽道―――――…そして神仙に関わる者にとって、理の姫の存在は周知の事実じゃ。世の理の、根幹を司るお方ゆえ。……まあ、それは良い、嵐。それよりもお前な、雷神の申し子にした頼みごとじゃがの、あれは取り消せ」

そう言ってクイッと盃の酒を呑んだ。

「は?」

全てを見透かすような目で、上人は言う。

「〝鬼封じの数珠〟と〝浄玻璃鏡〟じゃ。お前がここに来たは、それらを―――…、とりわけ〝鬼封じの数珠〟を用いて若雪様の延命祈祷が成せるか否かを儂に尋ねる為じゃろう。それだけならば良い。しかし、お前は儂がその問いに否と答えし時、一体何を仕出かそうと考えておる?」

 臥千上人はそこでギロリ、と嵐を睨んだ。

「〝運命違(さだめたが)えの法〟―――――――それについてこの儂に訊こうと、しておるのではないか」

嵐の肩がピクリと揺れ、張り詰めた空気に小鳥がパタパタと飛び立つ。

「言わでも解っておろうが――――外法中の、外法じゃな。儂の千里眼が、そこまでは見抜かぬと思うたかよ。侮るな若造」

嵐はぐ、と奥歯を食いしばった。

(さすが千里眼の臥千――――――)

冷徹な目をして、上人は嵐に告げた。

「帰るが良い。外法に手を出そうと考える輩など、最早弟子でも何でもないわ」

「これは貰っておく」とちゃっかり瓢箪を傍に引き寄せ、再び盃の酒をあおりながら、しっ、しっ、と手で嵐を追い遣ろうとする。

上人の軽くあしらうような態度に、嵐はカッとした。

「なんであかんのです!若雪どのが、どんだけ苦境の中を生き抜いて来はったか、おっしょさんならご存知でしょう!?それが、あの若さで死病を患い、恐らく来世でも生は長うない。なんで若雪どのばかりが、そんな目に遭わなならんのです。それを変える手立てに縋ろうてする俺は、そないに滑稽ですか!?」

必死の形相で吠えるように叫ぶ嵐は、臥千上人が見たことの無い姿だった。術を教えた時はほんの童だった弟子は、上人にとっては瞬く間に大人の男になっていた。どれだけの年月を生きようと、子の成長には感慨深さを感じるものだ。

上人は目を細くした。

「………懸命に生きながら、相次ぐ災難に不運にも立ち会う者など、五万とおるぞ、嵐よ。――――――苦境を生き抜く?珍しい話でもない。尤もらしいことを抜かしおるが、お前が今しておるそれは、単に命の選り分けじゃ。えこひいきじゃよ。お前のその偏った熱が。心が。もし外法に手を出させるのであれば、その時出現する力である〝吹雪〟は恐らく禍つ力となりて、世に災いを招くのじゃ。その災いがどれ程のものか、お前に想像がついてか?」

 上人は盃の縁をトントン、と人差し指の先で叩いた。

「…それを喰い止めんと、またはその力を光に満ちた神つ力として救済の道を手繰(たぐ)ろうと、動いておられる方々がおる。……されどその方々にとってさえ、お前の心の熱には手出しすること、ままならぬのじゃ。それがなにゆえかは、誰にも、神々にとて解っておらぬ。お前は、その点においては、人としては確かに異端なのじゃ」

「神が、俺の行動を止められへん―――――――?そんな阿呆な」

嵐は歪んだ笑いを浮かべた。

「けど―――――、せやったら、俺は俺の企てを全う出来る、いうことですね。神に止められんもんを、他の誰が止められよう筈も無い」

上人は、厳しさと諦観の相半ばした面持ちで口を開いた。

「嵐―――――、その前によく考えよ。お前が若雪様を救う為に、無残に(むし)られる命があるかもしれぬことを。若雪様は、自らの災難を避ける為に、それを望むお方か?」

「俺はまだ、延命祈祷を諦めるとは言うてません。けどおっしょさんは、若雪どのに延命祈祷が効かない理由を知ってはりますね」

唐突に、嵐が問いに対し、切り込むように問いでもって答えた。

確信を持った問いかけだった。

「………若雪様は、徒人(ただびと)ではないからの」

臥千上人が、それだけを小さく言った。

延命祈祷さえ効力を発揮するなら、運命違えの外法に手を出す必要も無い。けれど延命祈祷が無効となる理由を、激しく外法を非難する上人は話さない。

何かあるのだ。嵐に明かすには、都合の悪い事情が。それも、若雪に関して。

嵐はそれを問い詰めることはなかったが、揺らぎもしなかった。

「師匠。俺は、若雪どのに会った最初から、一番近うで彼女を見てきました。なんでやろな、あのお人は、いつもほんの小さい幸せしか望まへんのです」

そう語る嵐の顔は妙に寂しげで、その癖、口元には優しい笑みが仄かに浮かんでいた。その様子は、上人の心さえ僅かながら切なくせずにはいなかった。

(小さく、ただ利かん気の強い童だったお前が、そんな顔をするようになったか)

上人は改めて流れた歳月を感じた。自分も老いる筈だ。

目の前に立つのは、最早小さな童ではない。

文字通り嵐――――――激しい風の奔流のような男だ。

そして自分には、この奔流を和らげることも止めることも出来ない。

ただ流れを見守るだけだ。

「あんだけの力がありながら、昔っから、そうでした…。せやから俺はずっと、それを叶えてやりたい思うて生きてきたんです。これからも―――――共に空を、舞い続けたいんです」

 例えそれが今生でなくとも。共に飛ぶことが叶わぬのなら、白雪だけでも舞えば良い。

 空を―――――――――――――。

静かにそれだけを最後に言うと、嵐は桃源郷のような岩窟を、少しも未練を見せずに出て行った。


 臥千上人は盃を握ったまま、静止した状態で動かなかった。

(意思は変わらぬか。……愚かな奴よ)

「愚かな奴よ………」

 顔を伏せて胸中の言葉を、再び口に出して繰り返した。苦く、寂しげに。

 運命違えの法を行えば、嵐とて死ぬことになる。

(師の心すら、解らぬか。弟子の死を願う人間などおるものか、馬鹿め)

「………申し訳ありませんな。理の姫様。あの馬鹿弟子には、儂の説得も、もう耳に入らぬようです。神々の面子さえ考えなければ、若雪様のことを話してやっても良かったかもしれませぬが」

ふわり、と背後に現れた高貴な存在に対して、上人は空しさを噛むような口調でそう事訳した。微かな悲しみが、その表情から漏れ出ていた。

「人の心は神の力をもってしても変えることの叶わぬことが多い。心ばかりは、私たちとて容易には踏み込めぬ領域。臥千上人、気に病まれるな」

理の姫は達観した言葉でそう告げた。

上人に、己を無力と嘆くなと、慰めるような柔らかい口調だった。

そして嵐の去った方向を眺めやりながら、凛として言った。

「私が…行く」

きっと結果は変わらないだろうけれど、それでも、と視線を落とし呟く声で付け加えた。


その晩は、輝く月さえ凍てつくような寒い夜だった。

だというのに、桜屋敷の桜は蕾が膨らみに膨らんで、今しも開花しようという在り様だ。それは、見る者に異様な印象を抱かせた。

――――――――――鼓の音が、鳴った。運命の音色が響いた。


カポン、ポンポン

ポポン、ポン…

出でよ

眠りを抜けて我のもとへ

さあ出でよ…出でよ


遠ざかり、近付き、再び遠ざかる。

外で鳴るその音色は、夜具の中横たわる嵐の耳に、なぜか確かに届いた。

誘うように。

嵐には、既に予感があった。

(来たか――――巫女よ)

嵐は夜着の小袖に胴服を羽織り、桜屋敷を出て、音の鳴るもとを追って歩いた。

草履を引っ掛けた素足が、寒さでかじかんだ。

大小路通りの十字路で、一人の老婆が嵐を待っていた。

盲目で、鹿皮を敷いた上に座り、首には長い数珠をかけ、鼓を手にし、髪は蓬髪―――――。

十余年前と、全く変わらぬ様相であった。

やはり、生きていたのだ。人の寿命としては、随分と長く生きていることになるだろう。


「また…お会いしましたな、忍びの若様」

「………?」

最初、嵐には彼女が何と言ったか解らなかった。風の鳴るような音が、夜の闇にただ響いたように感じた。

それを巫女は、嵐の表情から悟ったのだろう、今度は正しく、嵐にも解る言葉で同じ内容を繰り返した。

「…現の言葉に調節するのを、うっかり忘れていた。やはり明臣とは勝手が違うな」

そして今では嵐にも、ガラリと口調を変え、苦笑しながらそう言うこの老巫女が誰なのか、やっと解っていた。

〝明臣とは勝手が違うな〟

「理の姫様…か?―――――あんたやったんか…」

老巫女が皺だらけの顔で微笑んだ。見えない筈の目は、確かに嵐を捉えていた。

明臣の言っていた「無礼」の内容がようやく解った。

それは確かに、仮初めの姿とは言え、高位の神の胸倉を掴むのは「無礼」としか言いようが無い。水臣とやらが怒るのも道理だ。理の姫当人が根に持っていそうにないぶん、救いではあったが、嵐は胸の内で密かに反省した。

その反省には少しも興味無さそうに、彼女は嵐の目の前で変貌しようとしていた。

老巫女の姿が、するすると、呪術の解けでもしたかのように変わっていく。

皺だらけの顔が真白く滑らかになり、蓬髪は豊かに波打つ、真っ直ぐな黒髪となる。

光を宿していなかった筈の両目が、宝玉のように薄青い輝きを放つ。

姿を変じていく巫女の周りに、金の粉が眩しくもちらちらと舞う。

彼女の右手には錫杖が現れてシャランと涼やかな音を立てた。その先端をトン、と地に降ろす。衣服さえ変化し、物珍しい、けれど美しい着物となった。それは、ただなよやかに女性らしいだけの衣装ではなく、女性と男性が身に着ける衣服の、丁度中間のような雰囲気の着物だ。たおやかでありながら、中性的な美しさを湛えた面を持つ彼女に、良く似合っていた。

そうして月下に凛と立ったのは、錫杖を手にした美しい天女だった。

いや、天女と称するのが正しいのかどうか、嵐には解らない。

ただ、そう称するに相応しい、美しさと気高さであった。そして彼女はなぜか、若雪に面差しが似ていた。


嵐は、自分でも意外に思う程冷静な声を出した。

「あなたに…、訊きたいことが仰山あるんです」

 理の姫が、承知している、とばかりに頷いた。

「答えよう。その為に、私はここへ来た。私は、理の姫。摂理の壁を守る神。ゆえに(ことわり)の姫、()の姫と呼ばれる者。私はあなたの問いの多くに、答えることが出来るだろう」

淡く色づいた唇が咲きほころぶように動き、嵐に答えた。

嵐は一度、深く息を吸い、そして問いを発した。

「信長公は、なんで〝吹雪となれば〟の言葉を、叔父上に伝えはったんですか。あの方は、一体何者やったんです?」

「彼は―――――信長は、(かんなぎ)だった。何を用立てることもなく、無作為に神の声を聴き、それを人に伝えることの出来る資質を持つ者は極めて稀。信長は、その稀なる資質の持ち主だった。自在に私たちの言葉を聞き、それを他者に語る能力を有した。貴重だが、己以外に容易に従う男ではなかったため、私たちの言うことの全てを、聞いてくれる訳でもなかった」

明臣と話した時と同じく、理解し辛い言葉が、彼女の伝えるものにはあった。けれどそこを、嵐は明臣と話した時と同様に、自分の知る言葉で推し量った。

「それゆえ頼んだ。せめてあなたたちに伝わるように。外法による悪しき吹雪が起きぬよう、密かに符牒を伝えてくれるよう。あくまで摂理の壁が許容する――――、目こぼしする範囲内で。その為に、少しばかり彼の天下不武とやらに力も貸した。大局に影響は無い、と判断した限りであれば、それも可能ゆえ」

「なんでもっとはっきりと!外法のことや兼久どののすることを、前もって忠告してくれなかったんです!!」

嵐は怒鳴った。尊き身の彼らがそうしてくれていれば、避けられていた多くの災難があった。不幸があった。それなのに。

「それは……不可能、だったから」

ぽつりと言う理の姫は、表面上は平静に見えた。しかし言葉を紡いだ唇は微かにわななき、潤む瞳が、嵐の胸を打った。

「は?」

今、何と言った?

目の前の神が、まさか〝不可能〟と言ったか?

理の姫は、シャン…、シャン…、と錫杖を地につけながら、今立っている箇所を、円を描くようにしてゆっくりと歩いた。そうしながら、自らの気を鎮めようとしているようでもあった。そして、そのゆっくりとした歩みに合わせ、語った。

「…嵐よ。あなたにとって、神とは何だ?神は、決して万能ではない。私は花守を束ねる理の姫と呼ばれる存在だが、私自身、摂理の壁という森羅万象の柱石に縛られている身の上。摂理の壁は、私たちが物事を先んじて行うことを決して許さない。摂理の壁とは文字通り、天と地の理を正しく示し、導く巌を指す。理正しく世が動いていれば青色を発し、そうでなければ警告の赤色を放つ。……私たちに予告のみを与え、動くことは許さない彼の巌の存在の為に、私たちは容易く予測出来る哀しみや不幸に、前もって手出しすることが出来ない。ゆえに、若雪どのを救えなかった。信長を救えなかった。あなたが神と呼ぶ存在の、―――――それが実態だ」

嵐は茫然とした。信じられない。万能の、力を持つゆえに神ではないのか。それでは、何の頼み甲斐あって神を称するのか。多くの、無力な人々をそのままに捨て置きながら。

「毘沙門天やら、八幡神やら、仏も同じですか」

 シャラン、という音と共に、理の姫が動きを止める。嵐を見て、首を振った。

「いや、彼らは私たちより下位の、異なる領域に属するゆえに、より自由だ。皮肉なことに。動きに多くの制約を受けるのは、摂理の壁に近しい神々。私たちは、――――――私は神々の中でも、ただ高貴と呼ばれる置き人形のようなもの」

理の姫の、美しい唇が歪む。苦痛を感じながら、無理やり微笑むかのように。

それは見る者の胸にも苦痛を与える、笑みとは言えぬ笑みだった。嵐も、ぐっと息を呑んだ。

そんな嘆きを、聴きたい訳ではなかった。若雪に似た面差しで。

「嵐よ。あなたのすることを、私たちは妨げることが出来ない。それは、臥千上人より聴いただろう。それでも、運命違えの外法を、行うか――――――?」

「……行えば、どんな禍つ力が振るわれると?」

理の姫は、宙を見据えた。その先には、嵐には夜闇しか見えない。彼女には、一体何が見えているのか。透徹とした眼差しだった。そうして、シャラリ、と錫杖の輪っかのついた上部を嵐に突きつけ、歌うように(そら)んじた。

「―――――火の手が人家を舐めるだろう。水が橋を押し流すだろう。地割れが村を割くだろう。津波が人里を吞むだろう。山が一つ消えるだろう。川が一つ干上がるだろう。島が一つ沈むだろう………。…―――――――そうして全てで、現の世を襲う災いは、大小合わせて百八つ。それが、吹雪が禍つ力を発揮した時に生じる災厄の真の姿」

 言い終ると理の姫は静かに錫杖の先を戻した。

予想をはるかに超えた災いの予言に、嵐は言葉を失った。

「―――――必ず?」

理の姫は、軽く頭を横に振った。艶のある黒髪も、それに伴って微かに揺れる。

「いや……、いや。そうさせない為の未来を、今私たちは探っている。光の、吹雪を。それを手繰り寄せることが出来れば、或いは禍つ力は変じて神つ力となり、そうして――――…………まだ、この先は言えない」

「…ちゅうことは、俺が運命違えの呪法をやったかて、なんも災いが起きんのかもしれんのですね――――?」

「………そう聞けば、あなたは躊躇いを振り切るだろうと思った。どうしても、外法に手を出すことを、断念してはくれないのか」

悲しげな瞳を向けられたが、嵐は首肯した。

「…若雪どのに似とるあなたに言われると、ぐらりとしますね。けど、譲れんわ。俺は若雪どのに、光の未来をやりたいんです。この命と、それから俺の来世と引き換えにしても」

遠い昔、まだ若雪に警戒心と敵愾心を抱いていたころ、こんな言葉を自分の口から言う日が来るだなんて、まさか欠片も予想していなかった。

運命違えの呪法とは、畢竟、光と闇の交換。そういう呪法であった。

もとは訪れる方向に差し障りがあり、とされた際に行われる方違(かたたが)えの呪法から来たとも言うが、定かではない。

その内容とは、二人の人間の、互いの来世の運命を入れ替えるというものだ。相手の幸を自分へ、自分の災いを相手へ。その入れ替えの多くは、自らの幸福のみを願い、呪法の相手を不幸に陥れることが多い為に禁忌の外法とされた。しかも呪法が成された時点で、呪法の対象者となる二人は両者共に落命することが定められていた。そして違えられた来世へと、魂が飛ぶのだ。

但し嵐が行おうとしているのは、本来使われるこの外法とは、逆の目的を持った入れ替えである。

すなわち若雪の災いを自分へ、自分の幸を若雪へ。

神さえ他に例を知らない、相手の幸福を願う来世の入れ替え。

嵐は今、若雪の病が癒えないものならば、この呪法を若雪の為に使おうと考えているのだった。それには、大きな霊力が必要だ。智真の言っていた〝鬼封じの数珠〟は、必ず役に立つだろう。

もうこれ以上話すことは無いと、立ち去ろうとした嵐に、理の姫の呟きが聞こえた。

「なぜ…?」

嵐は振り向く。彼女は細い肩を落とし、悄然と打ちのめされているように見えた。

「私たちは、先んじて人に降りかかる災いを教えることが出来ない。防ぐこともまた出来ない。それは、私たちの罪と言えば罪だろう。責める声には、返す言葉も無い。あなたに吹雪のほぼ全貌を今語ることが出来たのは、吹雪を左右する事象のほとんどが、既に起こっているからだ。それでも語るのに、ここまでの時を要した」

 語る理の姫は、まるで人間のように必死の形相をしていた。

 なぜ解ってくれない?

 表情はそう問いかけているように見えた。

「…けれどこれも他に例の無いこと。多くの場合、私たちは予見出来る災いを前にして、更に無力だ。だからせめて、告げるに可能な範囲で、予言し、託宣する。人に、成してはならぬことを成そうとする者あらば、思い留まれと言う。けれど聞かないのだ。聞いてくれないのだ、誰も彼もが皆。耳を貸してはくれない。…嵐。あなたのように。なぜなのだ?」

この理の姫の、哀しみの吐露を聴いた時、嵐は人と彼ら神々の力関係が、まるで逆転しているかのような錯覚を覚えた。彼らの哀願に、人は振り向かない――――――――――。

〝彼女が、大事だろう?それなら決して、人の分を超えた術などに手を出してはいけないよ〟

(明臣が言わはったのも、運命違えの法のことやったんやな)

 けれど嵐には、理の姫の言葉も、明臣の言葉も届かない。

神仏に比べ、極めて無力でか弱い筈の存在である人間が、他ならぬ神に己の無力を思い知らせる。

目の前に降臨した神を、むしろ憐れむような思いで見つめ、嵐はそっと答えた。

自分に語ることの出来る、真実を。他に言い様の無い言葉で。

「………理の姫様。それは、人が、人やからです」


智真は、翌日、桜屋敷に自ら赴き、〝鬼封じの数珠〟と〝浄玻璃鏡〟を密かに持って来てくれた。

嵐の私室で、誰も近付かないよう人払いしてから、二人は件の呪具を広げた。

「…住持はご存じなんか?この二つが、今ここにあること」

数珠が入っているという桐の箱を慎重に開けながら、嵐が智真に声を潜めて尋ねた。

紫の絹の敷き詰められた桐の箱に入れられ、護符の張られた水晶の数珠は、僅かな曇りさえあるものの、箱から取り出すときらきらと光り美しかった。

「……いや。お話しようかとも思うたけど、それでもし持ち出しを禁じられたらどうもこうもならんさかい…」

嵐につられたように小声になった智真は口籠った。要するに、無断で拝借して来たのだ。

もう一方の浄玻璃鏡は、目立たぬように持ち出す為か、藍染めのくたくたになった布に包まれていた。

包みを開くと中からは、青銅鏡が出て来た。鏡の裏には青龍、白虎、朱雀、玄武の四神の浮彫が施されている。これまた慎重な手つきで手に取る。

「これが浄玻璃鏡――――――?ほんまか?」

思わず声を上げた嵐に、智真が頷く。

「そもそもは、いずこかの由緒ある古い社に奉納してあったものやそうや。――――…?嵐、どないした?」

嵐は、手にした青銅鏡が、見る間に曇るのを見た。そして智真も見守る中、鏡には一つの光景が映し出された。

それは嵐が何度も夢に見た光景――――――――。

呼召印を結び、夢に見た若雪の来世そのままだった――――――――――。

若雪とよく似た少女の、長い、寝台の上での深い眠り。そして目覚めぬままに訪れる早過ぎる死。

静かに流れた光景に、長く、二人共言葉を発さなかった。先に口を開いたのは、茫然とした智真だった。

「…―――――嵐。今のは、何やったんや?あの、若うして亡うなったのは、………まさか、若雪どのか?」

「―――――――……」

 やはりそうか、と嵐は苦く思っていた。自分が夢に見た若雪の未来は、〝浄玻璃鏡〟によって裏付けされてしまった。外れていてくれればと、願っていたものを。

嵐は智真に話した。

神霊のこと、〝吹雪となれば〟の言葉の意味するところ、理の姫の存在、摂理の壁の存在。

呼召印を結び見た若雪の来世を含め――――――――。

〝運命違えの法〟に関することを除いて、全てを語ったのだ。

全てを聴いた智真は、苦しげに顔を歪めながら訊いた。

「――――なんで延命法が成らんのや?」

「…解らん。それについては、理の姫もなんも仰られんかった。臥千上人も。知っとる風ではあったけどな。せやけど、〝鬼封じの数珠〟があれば、きっと――――――――」

〝若雪様は、徒人ではないからの〟

臥千上人の言葉が一度蘇ったが、嵐はそれを振り払う。

徒人でないなら、何だと言うのだ。若雪の真の姿が例え何であれ、膨大な霊力を有すると言う〝鬼封じの数珠〟があれば、延命法も効果を表わすのではないか?嵐が、外法に手を出すことも無く――――――――。知っていた筈なのに、理の姫は、何を要らない危惧をしていたのだろう。

嵐は、智真に頷いて笑いかけた。大丈夫だ、と言うように。


しかし、延命法は成らなかった。

嵐の祈祷する段において、護符の剥がされた〝鬼封じの数珠〟は、霊力を微かにも発動させることはなかったのである。


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