逝く花 一 (後半部)
市が去ったのち、嵐は一人自室に座り込み考えに耽っていた。
〝天女の頼みを、聴いてやったのよ〟
そう言ったと言う信長の、言葉の意味が解らない。天女―――、天女とは何だ。まさかそのままの意味でもあるまいが――――――…。
そして、若雪に対する祈祷が効かない理由も解らない―――――見当もつかない。
嵐は、若雪の病の発覚したのち、効能ありと見込まれる修法を行った。
しかし、果たしてその効果は皆無と言って良い程見受けられなかった。
これには、呪術に携わる者としても異常な事態だと感じた。
まるで天が、若雪を生かすことを拒んでいるかのような―――――――。
(天が)
天があるとしたら。
嵐は今、天を呪っていると言って良かった。
若雪の病を間近に見ながら、ずっと理不尽な思いに駆られて来たのだ。
なぜ、若雪なのか―――――――――。
自分ならばまだ解る。
嵐は、己の罪業をよく自覚した上で、生きて来た。
戦場で数多の命を奪った。それも望んで赴いた戦場だった。中には気の進まぬ戦もあったが、勤めと割り切り参戦した。
取った敵兵の首を、乗っている馬の鞍の両側にぶら下げて、戦場を駆けたことも多くある。戦場においては珍しい光景ではない。首実検に用いる為、効率良く首を運ぶ必要があるのだ。しかし、若雪などには決して見せられない姿だった。
戦の混乱の中、非道を成す兵士をそのまま見過ごしにしたこともあった。
女子供を見殺しにせざるを得ない時もあった。
自分に向けられる、助けを求める声を聴きながら。
可能な限りのことをして生きるしかないのだ、戦場では。
情に流されてしまえば、自分の命が危うくなる。
そうして、罪業を重ねた。
いつかその報いを受ける時が来るかもしれないと覚悟の上で。
だがそれが。
(なんで若雪どのなんや……!)
嵐は両手を広げて床板につけ、胡坐をかいた姿勢のまま前傾して俯いた。床を、睨みつける。
「………おかしいやろ…」
どう考えても。
血を吐いて倒れるのなら、それは自分で然るべきではないのか。
嵐には、自分の罪業を若雪が肩代わりしたように感じられてならなかった。
その上、延命はならぬと言わんばかりに祈祷は功を奏さない。天は、まるで若雪に恨みがあるかのように、彼女にばかり辛く当たっている。
今では彼女が山陰へと発ち、離れていた三年間がひどく惜しいものに思えた。
(もっと早うに、迎えに行ったら良かった)
未だ童のままの自分でも、なりふり構わずすぐに連れ戻せば、共に過ごせる時間も増えていた筈だ。
しかしあの時点で、それは有り得ない選択だった。何より若雪が、首を縦に振らなかっただろう。
そうと頭では解っていても、それでももし―――――、と思わずにいられなかった。
時間は、無尽蔵にあるものでは無いのだ―――――――――――。
必ず尽きる瞬間は来る。
生は掌から呆気なく転がり落ちて、そうして二度と戻ることは無い。
母を亡くした時でさえ、そんな当たり前のことが、幼かった自分には理解出来ていなかった。ただ亡くした事実を受け容れるのに必死で、時間が過ぎ行くことがどういうことなのか、そこまではまだ考えようともしなかった。
(今になって……ほんまに解るやなんて)
随分と手厳しい形で思い知らされるものだ。
また、嵐は呼召印を結んで咒言を唱え、若雪の未来を夢で見るという試みを、未だに諦め切れない思いで度々試していた。しかし結果はいつも同じ、若雪によく似た面差しの少女が、寝台の上、動かないまま儚くも亡くなるというものだった。
そして試しに自分の来世も夢で覗いてみた。果たして嵐の来世は、何の不足も無い、極めて穏便で充足したものだった。これには驚いた。伸び伸びと、健やかに生まれ変わった自分が生きていた。今よりもずっと自由に、周囲の万事に恵まれて。嵐は若雪の来世の夢との落差に唖然とした。
重い罪業を負った身でありながら、平穏な未来の約束された自分。
果たして罪があるのかどうかすら判然としない身で、あっさりと命が摘まれる未来が待つ若雪。まるで神仏が取り間違えたかのような、性質の悪い冗談であるかのような、二人の運命の皮肉。
それら全ての事柄に、嵐の精神は次第に追い詰められようとしていた。
長く猛るような暑さをしのぎ、月の美しい長月になった。
やっと風が涼しさを思い出したように、季節は若雪の身体に優しく接するころとなった。
若雪の食欲も少しずつ回復していた。それでも、咳き込む回数、微熱の出る日数などは呆れるような律儀さで、病は緩やかに進行することを忘れなかった。
皓々と月の照る晩、屋敷の廊下を歩いていた嵐は、美しく幽けき歌声を耳にした。
声は若雪の部屋のあたりからだった。
歌声に導かれるように足を向けると、白い単衣を着た若雪が自室前の広縁に座り、月明かりを浴びながら、童歌と思しき旋律を細く高い声で口ずさんでいた。童女のように無垢な横顔をしている。
回れば廻る
廻れば逢える
回る輪の内出でぬなら
輪の内回ってまた逢える
雪と光は姉妹
金銀砂子の見守りて
廻りを待てとや歌いけり
廻りを待てとや笑いけり
ずっと聴いていたくなるような、優しく、柔らかい声だった。
紡がれる音色は美しいが、嵐に聞き覚えは無かった。
(……輪廻転生を歌うた童歌か?)
今の若雪が歌うには、些か洒落にならない。
それでも体力を損なう程の歌い方ではなかったので、嵐は黙って聴き入っていた。若雪の歌声はまるで、聴く者を深く包み込み、慰撫するかのようだった。気付けば腕組みをして目を閉じ、全身をその旋律に委ねていた。
「嵐どの…」
気付いた若雪が歌うのを止め、旋律は途切れた。微笑を浮かべたのが気配で解った。
我に返った嵐は、歌が途切れたことを惜しいと思いつつ、彼女の微笑みに何かを許された気がした。広縁の、若雪の座るその横に、自分も無言で座る。
座った隣に、互いの体温を感じた。
生きている温もりを。
嵐は、若雪の着る単衣の奥に、彼女の微熱を持った素肌が隠されているのだと思うと、妙に落ち着かなかった。
若雪の白い肌の全てに、隅々まで、直に触れたいと思う欲望が溢れて、処置に困った。
このような欲望はたまに前触れも無く嵐を襲い、彼を悩ませていた。
流されて我を忘れないよう、嵐は下ろした腰を少しずらして、若雪から距離を空けた。
聖人君子とは程遠いことを自認する嵐だが、常に清浄な気配を纏う若雪に対して、そんな欲求を感じる自分が罪深い俗人であるように思え、気が咎めた。
「単衣を羽織らんで大丈夫か?」
重ね着してくれたら、自分への予防線にもなる。
「大丈夫です。今日は、丁度良い風の心地です」
嵐の心中など知る由も無く、そう言う若雪は実際気持ち良さげだ。言葉を証し立てるように、さらりと一陣の風が若雪の黒髪の一房を流した。
「―――今の歌はなんや?」
「ああ…」
問われた若雪が、遠い昔を懐かしむ顔をした。
「…出雲で、小さなころ、母が子守唄によく歌ってくれたものです。あのころは輪廻のことなど解りもせぬ子供でしたが…。母が、私には意味が解っていないながらも、例え母と離れることがあっても、必ずまた逢えるから、時を経ても逢えるから、とまるで念じるように教えながら………歌ってくれたのです。けれど離れる、という言葉が死を意味するものと知るまでには、少しばかり時がかかりました」
それではその歌は、若雪の母が亡くなったのち、きっと若雪の心の慰めとなったのだろう。今生では無理でも、いつかまた逢える、と。その話は微かな痛みを嵐の胸に与えた。
「ふうん…」
「由来については母も詳しくは知らないようでした。ただ、古くから伝わる歌だとだけ言っていました」
嵐も知らない歌だった。一体、いつごろから歌い継がれて来たものだろう。
そのまま、二人は並んで月を見ていた。
「――――俺とも、また逢いたい?」
「え?」
月光の下、突然尋ねた嵐に、若雪がびっくりしたように訊き返した。
「若雪どのは、もし死に別れても、俺と、また逢いたいか?」
言葉を明確に区切りながら、嵐は再び言った。
現状でこの問いを投げかけるのは、自分にとっても若雪にとっても酷なことかもしれない、と思いながら、それでも訊いた。現に死が一歩一歩と近付きつつある若雪にとって、それは決してただの例え話では済まされないからだ。
それを聞いた若雪の顔はやや青ざめ目は悲しそうだったが、その唇には、滲むような笑みが刻まれた。
そして目を閉じ、静かに首肯した。
「――――はい。きっとまた私は色々と至らず、怒られてばかりで、嵐どのにはご迷惑をおかけするでしょうが―――――――私は、また、お逢いしたく存じます」
〝私は、また、お逢いしたく存じます〟
若雪ははっきりそう言った。
それを聴いた嵐の胸に、じわりと喜びが湧いた。
再び逢いたいと、彼女もまた思ってくれている。――――――自分と同じように。
――――――――――それが叶うか叶わないかは別として。
喜びをそうとは悟られないように、懐から何かを取り出す。
「さよか…。なら、これやるわ」
この言い方では交換条件のような渡し方だ、とそう思いながらもトン、と広縁に置いていた若雪の指先に押しやられたのは、蛤だった。
中身は訊くまでも無く、紅だろう。しかしなぜ。
「―――――そろそろ、注してくれてもええんやないかと思て。前のは―――――、もう随分時間が経ってもうたやろ?まだ使えるか判らんさかい、新しゅう買うてきたんや」
あっさり言うが、ひどく高価な買い物だった筈だ。
しかもおよそ五年もの月日が、かつて嵐に貰った紅を若雪が注すこと無く、経過していた。
それは、若雪も実は気詰りに思っていたことだった。
それらの事情を鑑みると、〝そろそろ〟という嵐の表現は非常に寛容だ。
若雪は恐る恐るその蛤を手に取る。貝殻は掌に心地良い冷たさで、以前貰った物と同じように光沢が艶やかだった。
若雪が病となってから、嵐も色々と腹が決まった。若雪が自分を縛るものになるのでは、と恐れるくらいなら、所詮自分はそこまでの男だ。枷となるかもしれないと思うなら、その枷ごとひっくるめて共に空を舞えば良いのだ。その枷が、愛しいものであればこそ、自分にはそれだけ飛翔する力があると信じて。若雪は、自分が枷となったままで良しとする女ではない。嵐の想いに想いを返し、必ずや共に羽ばたいてくれるだろう。
「あ、――――ありがとうございます。実は、あの、以前いただいた紅は、つ、使えなくなってしまっていたので………注したくとも、注せなかったのです」
真っ赤になって、若雪は珍しく口籠りながら言った。後半の声は小さ過ぎて、嵐は聴き取る為に、耳を若雪の口元近くまで寄せなければならなかった。
「―――ん?使えなくなった?」
聴き取った言葉に、嵐は怪訝な顔をする。
若雪の眉尻が、情けなさそうに下がる。
「はい…。あの、実はあの紅をいただいてから、注す日を楽しみに、時折貝の蓋を開けて紅を眺めていたのです。男装のままでは使えませんから。…そうしたら。そうしたらある日――――――……」
「………………黴が生えてた?」
「お恥ずかしい話です。まことに…、あいすみません。私の不注意で」
嵐の指摘に、若雪が小さく頷いた。申し訳なさそうに肩を竦めている。
(――――――――そういう落ちか)
度々外気にさらすことで紅に湿気が付き、黴が生えてしまったのだ。
これでは注したくとも注せない筈である。嵐にも言いにくかったことだろう。
長らく謎だったことが一つ解明され、嵐の心は少し軽くなった。自分への拒絶の思いから注さずにいた訳ではなかったのだ、ということも、猶更嵐の心を軽くした。
「そんなら、近い内紅を注したところ、見せてくれるか?」
長年待たされたのだ。ここでしっかり言質を取って置かなければならない。
こうした催促も、やっと素直に出来るようになった。
やっとだ。
「はい―――――」
月光に照らされた頬をこちらに向け、恥じらうようにしながらも、若雪はこっくりと頷いた。
文章能力等の評価をしていただけると、今後の自分の指針にもなり、とてもありがたいです。どうぞよろしくお願いいたします。




