逝く花 一 (前半部)
軽いユリ要素があります。苦手な方はご注意ください。
第八章 逝く花
はらり花びらと共に
去りし人
みるみると
溢れゆく水
面影の沈む底
一
ざらざらと耳触りな笹の葉擦れが光秀の耳を打つ。
よもや秀吉があれ程の大軍で、信じられぬ速さで中国より取って帰すとは。
大きな誤算だった。
目前に立つ、自分とは親子程も年の離れた若い男の顔を、光秀はよく見知っていた。今は野良着だが、常には品の良い上衣と袴姿で信長のもと、働いていた。卑しい身分の癖に涼やかで有能で、光秀には何とも目障りで仕方無かった男。あの若雪と言う美しい女に近付こうとした時、さりげなくそれを阻んだ男。にこやかな顔の中で、目だけが笑わずに光秀を牽制していたことを今でも覚えている。なんと無礼な。なんと小癪な。自分はただ、あの女と言葉を交わしてみたかっただけなのに。
表向きの顔は商人だが、その実の顔は――――――――――。
夜の闇に混じった、黒に近いような緑の竹藪に立つ嵐は、冷ややかな目をして光秀を見下ろしていた。嘲笑混じりの声で、光秀を揶揄する。
「残念やったなぁ、光秀。所詮、秀吉とは器が違うたようや。――――俺としてはあんたを傀儡にする、いう手もあったんやけどな。せやかて、あんたにはでかい貸しが二、三、ある。やっぱりそっちの支払いを、きっちりしてもらうことにするわ」
錯乱状態にある光秀に、嵐の言葉は届いていない。
ただ目の前に嵐がいる、という事実だけが頭にあった。嵐下七忍を殲滅する為、桜屋敷を襲撃させたことも、今や彼には忘却の彼方だ。
優秀な忍びの顔をも持つ嵐の助力があれば、命拾いすることも有り得るかもしれない。
この窮地を脱することが出来るかもしれない。
都合の良過ぎるその考えに、光秀は縋りついた。
そんな光秀の思惑にはお構いなしに、嵐は無造作に白刃を抜く。光秀にはそれすらも目に入っていない。とにかく命を繋ぐには、ここでこの男の力を借りねば―――――――。
「後生じゃ、助け―――――」
紺地の空と対のような濃緑の竹藪が一際大きくざわめいた。
「暑い―――――――」
嵐が、若雪の部屋の内、最も温度の低そうな隅でうだっている。
その手がはたはたと動かす団扇の風は、自分にではなく若雪へと向けられている。しかし、鈍色の生絹の几帳を隔てた風が、どの程度若雪に涼を運んでいるかは甚だ疑問だった。もっと若雪に近付けば良いのだが、室内で最もひんやりとした箇所を動きたくはない。自分の涼も若雪の涼もとろうと両方欲張るあまり、どちらも功を奏さないという状況を呈している。
「御自分を仰いでください、嵐どの」
献身的なのかどうか、今一つ判じかねる行動を見かねて言う若雪の額には、汗一つ浮かんでいない。白い顔は見るからに涼しげだが、若雪は明らかに暑さに体力をへずられていた。それは食欲の無さに顕著に表れている。
嵐は若雪の言葉に顔を上げる。その右頬にはまだ火傷の為の膏薬が貼ってある。最近は治りかけたその火傷がかゆいらしくて、よく右頬を掻いている。
結局嵐は観念したように、生絹の几帳を過ぎ若雪の近くに座ると、改めてはたはたと若雪に向かい団扇を動かした。―――――――若雪の涼を優先する覚悟を決めたようだ。
「本能寺の変からこっち、急に暑うなりよったさかいな。信長公の怨念ちゃうか」
「……聞けば明智様は、落ち武者狩りの百姓に襲われて落命されたとか」
若雪は言いながら嵐を見る。
本当は誰が光秀を殺害したのか。そう問いかける目つきだった。
「ああ。まあ、因果応報っちゅう奴やろ」
嵐は全く意に介さない風に答えた。気付いていないのか無視しているだけか―――――。
「―――――けど、当面は、猿やな」
「猿…、」と呟いてから若雪が応じた。
「そうですね」
本能寺の変から嵐が帰還したあと、若雪らと話し合った末、彼らは当分の間事態を静観することに決めた。斑鳩を除き堺を離れている他の七忍には、その場を動かず次なる命を下すまで待機せよ、との命令を伝えた。その際、兵庫と片郡の訃報も同時に伝えた。
明智光秀の謀反には、緻密な計画性が感じられなかった。この先天下の形勢がどう動くものか、迂闊に動くのは命取りになると考えられた。
要らぬ世話かとも思ったが、納屋の宗久にも、その旨を書状をもって進言しておいた。
果たして天下を手中にしたかに見えた光秀は、味方すると踏んでいた細川忠興・筒井順慶等諸将がこの予想を裏切り、羽柴秀吉の中国大返しによって、呆気なく天下人の座から転がり落ちたのであった。
主君・織田信長に謀反を起こした大悪党・明智光秀を見事討ち取った羽柴秀吉――――。
しばらくは、大義名分のもと上手く立ち回った彼が政局の主権を握ることであろう。
そよとも風の吹かない中、嵐が何の気なしに口ずさんだ。
「心しらぬ 人は何とも 言はばいへ 身をも惜まじ 名をも惜まじ」
「……信念に生きた方の歌、と見受けられますが。どなたの歌ですか?」
若雪が心動かされた様子で訊いて来た。
「明智光秀の、辞世の句やと。大層なもんやないか?どうやら歌と人柄が一致するとは、限らへんようやな」
畳に指を滑らせ、付いた埃をふっと一吹きしながら嵐が答える。眉間に皺を寄せ、掃除がなってへんな、とぶつぶつ言っている。
「…………」
なぜそれを知っているのか、とは若雪は訊かなかった。
文月に入って、市が桜屋敷を訪れた。
虫の鳴く音の聞こえる、夕暮れ時のことだった。
本能寺の変ののちも市の無事であることは確認していたものの、その姿を見るとまた改めて若雪の胸に安堵が込み上げた。市は淡い浅葱色の小袖に、滅紫の絽の打掛を纏っていた。涼しげで、加えて市にしてはやや控えめな装束だった。
「お市どの……、御無事で。息災の御様子、何よりです。このたびは…」
頬を緩ませてまず安堵を示し、次いで単衣姿のまま、両手を慎ましくついて悔やみの言葉を述べようとした若雪に、手に持った扇を振ってそれを制した。
几帳の内に、悠然と脇息にもたれる姿は以前と何ら変わりない。
「ああ、良い、良い。若雪。それよりも今日はな、鰻を持って参ったのじゃ。そなたが、この暑さでやつれておるのではないかと思うての。思うた通りじゃ。志野やら嵐やらが、良きように料理してくれよう程に」
そう言って、華やかな顔に優しげな笑みを浮かべた。
嵐は遠慮して席を外している。今頃、厨で鰻と格闘しているのかもしれない。
そうして二人して虫のすだく音色にしばらく聴き入った。
若雪は真っ白な単衣のみを身に着け、半身を起こして障子戸の開け放たれた外を見遣っていた。元々清かな顔立ちの若雪である。本人はどうか解らないが、見る者の目には非常に涼しげな光景であった。
そんな若雪を見ながら市は、まこと白の似合う女子よ、と目を細めて思った。名に相応しい。
「若雪…。兄上はな、あれで良かったのよ」
市が広縁のほうに目を遣り、ぽつりと言った。若雪が市を見る。
「―――――あれで良かったのよ」
繰り返して市が言い、若雪の顔に向け、笑みの欠片らしきものを見せた。
「世の者はあれこれと、信長兄上の無念を言い立てよう。悪行の報いよと、口さがなく申す者も数多おろうて。致し方あるまい、兄上が選ばれたはそういう生き方じゃ。じゃが、周りが憶測する程には、兄上に無念の思いは薄かったであろうよ。お好きなだけ、生き抜かれたゆえにな……」
そうかもしれない、と若雪は思った。故人が死の直前に何を思ったかは、結局のところ本人以外には解らない。
「―――されどそなたらにはすまなんだな。あれ程の助勢を受けながら、最後の最後で報いてやることが出来なんだ。世は再び…乱世の坩堝へと逆戻りじゃ」
「…………果ての見えぬ、世の中でございますれば」
若雪は辛うじてこれだけ言った。自分や嵐の受けた痛手を、市が理解してくれていることが有り難かった。自らも兄を亡くした中で、自分たちの心情を察してくれることに、感謝の念を抱いた。
「のう、若雪」
「はい」
「妾は、柴田勝家に嫁ぐこととなった」
「―――――――」
口を開いたまま言葉の出て来ない若雪を、市は深い色の瞳で見た。
「御家中の方々に、無理を言われたのですか。よもや御本意では、ありますまい」
「誰に何を強いられた訳でもない。妾が、選んだことじゃ。知っておるか?若雪。勝家の北ノ庄は、天下に誇る名城だそうな。彼の信長兄上の、安土城にも勝ると聞くぞ」
「――――納得致しかねます」
気楽そうに、他人事のように話す市に、低い声で、若雪にしては強い口調で言った。市がどう言おうと、ゆくゆくは信長の後釜を狙う者たちの意図したことであるのは明白だった。私心の為に市を利用しようとする輩に、若雪は強い憤りを感じた。
「詮無いことよ」
市が微笑んだ。大輪の花ではなく、風に揺れる野の花のような微笑だった。
その微笑みに、若雪は何も言えなくなった。
ただ言うことを思いついた訳でもなく、お市どの、と呼びかけようとする若雪の視界が、広縁のほうから飛び込む小さな光を捉えた。淡く、小さな幽けき光。それは若雪の部屋の中で、心許無くふわりふわりと飛び回った。
「おや、蛍かえ。かような時分に」
市が意外そうな声を上げる。蛍が飛ぶには随分と遅い時節である。
若雪の部屋に飛んで来たのは、季節外れの一匹の蛍だった。
外は既に日が落ちて暗くなっており、部屋には灯がともされているが、たった一匹、迷い込んできた小さな蛍の灯は、それとは異なる情趣を部屋にもたらした。
市が、つと手を伸ばす。彼女の伸ばした白い人差し指の先に、魅かれるように小さな灯がポツリと止まった。
光っては闇に沈み、沈んではまた光る。
市の指先に繰り返される、淡い、命の明滅。
「迷い違えた小さき命よ。妾に慰めは不要ぞ?」
蛍が発する光の明滅と共に、市の華やかな顔が照らされて輝いては沈んだ。
絵のように美しく、けれど胸が締め付けられるような儚い光景だった。
(この、痛いような切なさは)
どこから来るのだろう。
その光景を見ていた若雪は理由も無く不安を覚えたが、それを呑み込むように強いて気を鎮め、平静を装って言った。
「お市どのが虫愛ずる姫君とは存じ上げませんでした」
市がククッと笑った。
「たまにはの。妾とて、小さき命を愛でたい心持ちにもなるものじゃ。その、儚さを慈しんでやりたい思いにもなるものよ。――――そら、お行き」
市が宙の高いところに手を伸べると、淡い光は再び飛び立ち、開け放たれた障子戸の向こうへと微かな光跡を残して去った。
若雪はそれを見送り、なぜかしら胸がホッとした。
「若雪…」
灯がともるのみに戻った室内に、市の声が優しく響いた。その響きの優しさに、若雪の胸が再びざわりと騒ぐ。
「そなたはまさに雪よ、汚れ無き白よ。妾がこの現にて見えた、唯一、清浄の華よ。されば今生にては叶わずとも、妾はその華を手に入れたい。この、手に」
熱情の籠った言葉の羅列に、若雪が目を見張る。
市の白い手が若雪に伸びる。
「お市どの…」
市がそっと若雪の片頬に手を添える。
「男であろうと女子であろうと。嵐や、他の輩と競い、争いて妾の清浄を必ずやこの手にし、共に添い遂げてみせようぞ。ゆめ忘れるな、若雪。それが妾の、来世にまでかけた願いじゃ。良いな。………忘れてくれるなよ」
市の手が添えられた若雪の頬の目から、一筋の涙が伝い落ちた。
「来世などと……………なぜそのような。今生の別れのようなことを仰るのです」
市は答えず更に深く微笑むと、若雪の涙の一粒を、含むように口づけた。小鳥が花の蜜をついばむような、そんな仕草だった。
「若雪。そなたに、これをやろう」
そう言って市が差し出したのは、彼女が常に手にしていた扇だった。
金地に、雪中に咲く大輪の牡丹が描かれている、市愛用の品だ。
「この雪洞(扇)を、でございますか?」
「うむ。妾はそれに、百花と銘をつけた。牡丹は百花の王と申すゆえ。妾に近く接したことのある者は、それが妾の物と知っておる。知る者が見れば、それを持つそなたを、あだやおろそかにすることもそうはあるまいて。持っておおき」
まるで形見の品のように渡された扇を、若雪は複雑な表情で胸に抱いた。
若雪との対面ののち、市は桜屋敷にある客室の一つで、嵐を前に脇息にもたれていた。
脇息に上半身の体重を預け斜めに横座りして、足を乱暴に投げ出した市の眉は険しく顰められていた。若雪に見せていた優しげな顔とは真反対だ。嵐は黙って座している。
「……いつにもまして白い顔であった」
「…はい」
「病は、いか程に進んでおるのじゃ。腹蔵無く申せ」
嵐は市を見た。それから、その斜め後ろの床の間にある桔梗の花を見た。
志野か蓬が活けたものだろう。
嵐は意を決した。
「―――――お市様やから、率直に申し上げます。少しずつ、せやけど確実に悪うなってます。薬が、その悪化を若干緩める役割しか出来てません」
市は険しい顔のままそれを聞いていたが、聞き終わると長い溜息を吐いた。
「延命の、呪法のほうはいかがなのじゃ」
「…密教修法による護摩法で、如来を招請した息災法を行いましたが、効果はありませんでした」
「他には」
「……同様に密教系の、大歓喜天による命続祈祷法も行いましたが、これも同じく、……」
「さても、修法と申すはかほど頼りなきものか。嵐。そなた、陰陽師としても有能なのではなかったのかえ。それが若雪一人救えぬとは、どうしたことじゃ」
虫の音の響く中、嵐は市の勘気を甘んじて受けるようにしばらく沈黙した。
「…俺も、ここまで祈祷がなんら効果を発揮せんいうんは初めてのことなんです、お市様。特に大歓喜天の命続祈祷は、寿命の尽きた人間の延命さえこれに縋る、言う程の利益があるもんです。―――今まで何度か修してきたことがありますけど、いずれも延命は叶いました」
「では若雪に限ってはなにゆえにそれが叶わぬ」
睨みつけるようにして言う市に、嵐は大きく溜め息を吐きながら首を横に振った。
「それが解ったら苦労しませんわ」
少し黙ってから、市が、嵐を斜め下から掬い取るように見遣り、言った。
心持ち、声を潜めて。
「蘇生法……は、どうなのじゃ、嵐」
しかし嵐はこれにも首を振った。
「呪術の方面で、確たる蘇生法、いうもんは存在しません。まがいもんばっかしで信用出来る文献も無いんです。お市様。完全な死人を生き返らせる、ということは出来ひんのですよ。どんな陰陽師にも高僧にでもね。それこそ、神さんでもないと無理でしょうね」
それからまた沈黙が続いた。
ちなみに、若雪が労咳に罹ったことに兼久が関与したことは、市にも茜にも伏せてある。
言えば余計な騒動が起きることは目に見えているからだ。
「ああ、そうじゃ。嵐。妾は柴田勝家に嫁ぐぞ」
物のついでのように言った不意の市の言葉に、嵐は目を丸くしたが、納得したように頷いた。
「さよですか。…御家中のご存念ですね」
「ふん…。妾の意思で、嫁いでやるのよ」
些か痛ましい思いで言った嵐に、市は勝気な言葉で返した。
「お市様らしいですね」
笑ってしまった。この高慢な姫君の、愛すべき小気味良さだ。
思えば嵐にとって、市の第一印象は最悪だった。
初めて会った時、市が嵐にかけた第一声は、
〝これ、そこな小童。若雪のおる部屋はいずこじゃ〟
と、いうものであった。気位の高い嵐が内心憤慨したことは、言うまでも無い。
市は市で、若雪の周りをうろついている嵐が目障りだったらしい。
今となっては笑い話だ。
「のう、嵐。――――若雪を頼むぞ」
唐突に言った市に、嵐は驚いた。しかもその言葉は、宗久が嵐に言った言葉と酷似していた。何だか気付けば去り行く周囲の人間に、嵐は若雪を託されていっている気がする。嵐としては他の人間に若雪を任せるつもりなど全く無く、望むところではあった。
言われずとも、という思いである。
「そない遺命みたいなこと仰らんかて」
「遺命じゃ」
苦笑交じりの嵐の声に、ピシリと市が切って捨てるように言った。
「嵐。今後妾がどうなろうと、少なくともそなたは、妾の今申した言葉を遺命と心得よ。若雪を守れよ。良いな?」
市が、これ以上ない程真剣な目と声で告げた。
嵐は言葉を返せず、市の面を凝視した。
すると市が、一瞬後にはその真剣さをあっさり霧散させて、思い出した、という顔で「おお、」と声を上げた。
「そうじゃ。忘れるところであったわ。嵐。〝雪に嵐では吹雪となろう。吹雪となれば、荷が重かろう〟。この言葉の意味をな、信長兄上の生前、問うてみたのじゃ。兄上は、ただこう申された。〝天女の頼みを、聴いてやったのよ〟とな」




