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雪の朝

日本中世戦国時代を舞台にした時代劇です。様々な研究論説等参考に書いたフィクションです。よろしければお楽しみください。

第二章  雪の朝


雪の舞う

笑顔で去った

寒空を

飛翔し続ける

鷹は独り

       

       一      


 今井宗久の広大な邸の中、宗久の起居する部屋に至る手前に、細い渡殿(わたどの)がある。

 その柱に寄りかかり、腕組みをして庭の一点を見つめる青年がいた。

 今井兼久(いまいかねひさ)、年が改まり、二十歳となった今井宗久の実子である。

 その印象は柳のようで、武人とはほど遠い体つきをしている。小豆色(あずきいろ)の袴に、上には朱の横縞が二本入った木綿の生成地を着こんでいる。茶人にふさわしく物腰は柔らかで、邸に長く勤める者でさえ、兼久の荒げた声を耳にしたことは無い。

 にも関わらず、「何を考えているのかわからない」と多くの人間に言われ、人望は薄かった。

 嵐もその例に漏れず、宗久の呼び出しを受けて向かう途中、渡殿に兼久の姿を見た時には回れ右をしようかと考えた。

 そもそも、兼久の考えが読めない以前に、覇気がなく、茶の湯以外には何かに打ち込む様子もまるで見受けられないこの人物が、嵐は嫌いだった。宗久の実子ならば、努力次第でおよそ人の羨む様々な利益を得ることが出来る筈だ。なのに、彼にそうしたものを望む気配は微塵(みじん)も感じられない。

 相対すれば苛々させられるのが常だった。

 血縁上では従兄弟となる間柄だが、兼久も嵐が抱く苦手意識を感じ取っているのか、自分から嵐に話しかけたことはごく僅か、数える程しかない。

 だから彼の前を無言の会釈と共に通り過ぎようとして、話しかけられたときには些か驚いた。

「父上のお呼びか、由風(よしかぜ)

「そうですけど」

 何か用があるなら早く言え、こちらは急いでいるのだ、言外にそういう雰囲気を匂わせて嵐は仕方無く顔を向けた。知る者も呼ぶ者も少ない名だが、嵐の正式な姓名は望月由風(もちづきよしかぜ)と言う。望月は亡き父の名乗っていた姓であり、由風は年が改まり新たに与えられた名だった。だが、相変わらず周囲のほとんどの人間は彼を嵐、とこれまでと同じ名で呼ぶ。ほぼ(あざな)となっていると言っても良い。兼久は嵐を由風と呼ぶ極めて少ない人間の一人だった。その理由は兼久曰はく「そのほうが(みやび)やから」、ということである。呼ばれる嵐当人はそのたびに苛立つのだが。

(相変わらず気骨(きこつ)がまるで感じられん、柔そうな(つら)や)

 どちらかと言えば整った顔立ちと言える兼久だが、まるで覇気がないせいか、どうにも軟弱、という印象の烙印が押されてしまいがちだ。

「若雪もさっき呼ばれてたけど、銀山の件か」

「そうですよ、石見のほうのね。織田様と去年から話し合うてきたやつです。去年、毛利元就様が死去して、また色々と細かな状況の変化があったようですさかい、仕入れた情報をまとめなあかんのです」

 だから忙しいのだ、と言いたい嵐の思惑はまるで伝わっていないようだ。

 そもそも最初から、嵐の意を汲もうという気が全く無い顔をしている。

 自分から尋ねておいて、ああそう、と大して興味も無さそうに返事する。

「……先程から、何を見てはるんですか」

 兼久は嵐に声をかけ、問いかけたりする間もずっと同じ体勢で庭のどこかを見つめている。

「あのあたりにな、」

 そう言って、兼久は右の人差し指でくるり、と宙に円を描く。その先には見事な細工が施された大きな石灯籠がある。

「昔、私が生まれたときに植えられた松の木があったんや。見事な枝ぶりやった。そうしたらそれが、この邸を訪れた信長公のお目に留まり、父上はお褒めの言葉をいただいた。 翌日、その松は文字通り根こそぎ消えてた。父上が、信長公に献上したんや。信長公はその松も父の献身もえらくお気に召して、松の代わりとして今あそこにある石灯籠を下賜された。今でもあれは、父の自慢や」

「………」

 初耳だった。

 それは嵐のよく知る宗久らしい行動ではあったが、兼久の身になってみれば少なからず複雑な話だ。

「何でそんな話を俺に聞かせたんですか」

 兼久はそこで初めて嵐の顔をまともに見た。小首を傾げる。

「私にもようわからん。ただ、信長公は若雪をえらくお気に入りのご様子や」

 ついで嵐の耳の真横で、ささやくように言った。

「献上されんかったらええけどな」

 思わず上目で睨みつけた兼久の顔には、うっすらと笑みが浮かんでいた。

 そうかと思えば何かに気付いたように、不意に真顔になる。

「ああ、お前にはそっちのほうが、都合がええか」

 そう言うと兼久は、すぐに嵐にも自分の言葉にも興味を失くしたように、渡殿から歩み去って行った。

 

元亀三(1572)年、若雪が堺に来て、初めての正月を迎えていた。

 前年の長月においては織田信長が比叡山延暦寺の焼き討ちを行い、僧俗(そうぞく)の多くを殺傷するに至った。信長家中においてすら、これを非難する声は多く上がっていた。

そのように、相も変わらず血と硝煙(しょうえん)の匂い漂う、平らかならぬ世情の中迎えられた正月であった。

嵐は十三、若雪は十五の歳を数えた。

 十三にもなれば、そろそろ元服(げんぷく)の儀の話が出てもおかしくはない。

 しかし、元服の儀を執り行うには、嵐の身分も立場も些か複雑であった。

 宗久は、歴とした武家の子でもなく、公家の子供でもない嵐にその儀礼は不要、との結論を下した。それに対し珍しく若雪が宗久に反論したが、結論は覆らなかった。

 その代わりのように、一振りの太刀と脇差が嵐に与えられた。

 忍びはそもそも半透明の存在。あってなきがごとき存在、ということを考えれば納得するしかない。

 与えられた太刀は、(つば)に凝った細工が施され、黒塗りの鞘に入った逸品だった。刃を打ったのは嵐が腰刀を作らせたのと同じ刀鍛冶ということで、切れ味も申し分ないものに見える。そこには宗久なりの心遣いが偲ばれた。

 ただ、大人になる為の公の通過儀礼と引き換えに与えられた物である、という事実が太刀を受け取った嵐の心に翳りを落とした。

 折しも去年の暮れに開かれた会合衆の茶会の席で、若雪が披露されたばかりである。

 若雪は茶道に関するいくつかの質問に如才なく答え、居並ぶ者の賞賛を得たという。

身内の醜聞に関わる存在という要素もあり、嵐にはそのような機会が与えられたことは無い。

〝お前には、そっちのほうが都合がええか〟

若雪が信長に召し出されて、目の前から消えたほうが?

 兼久の忌々しい言葉が、嵐の胸に木霊(こだま)した。


「ではこの、島津屋関(しまづやのせき)温泉津(ゆのつ)を押さえることができたら、だいぶ銀山に近づけるわけやな」

「そうです。温泉津は佐摩銀の重要な搬出港です。また鵜丸(うのまる)城を含めた諸城の重要性は言うべくもありませんが、それだけではなく、波根(はね)刺鹿(さつか)も重視すべき土地です。私の知る限り、出雲国と石見国の国境である島津屋関は、以前は尼子氏の支配下でした。今は恐らく毛利氏の支配下へと移っているでしょう」

 静かだがよく響く声で、若雪は(よど)みなく言葉を紡いでいく。

「ですが、島津屋関のみならず、毛利元就様が亡くなったとなると、毛利氏が押さえていた銀山そのものの支配権にも多少の揺らぎがあるやもしれません。ただ、銀山を支配するとは言っても、尼子氏や毛利氏が直接鉱山経営に携わるわけではありません。安全が確保されるやり方ではないのですが、直接鉱山経営を仕切っている者たちとの(よしみ)を得ることができれば、毛利氏の目を盗んで銀を買い付けることも可能かと存じます」

「成る程。正攻法が無理なら、小笠原を懐柔(かいじゅう)するのも手やな」

 宗久の居室の中、嵐、若雪、宗久が車座となり、一枚の地図を中心にそれぞれ意見を交わしている。

 と言っても、三人の中では若雪が最も出雲石見の情勢に詳しいので、自然、主な発言も若雪のものとなる。

「毛利なあ。元就様が亡くなったとはいえ、すぐにその屋台骨がぐらつくとも思えん。あそこは後継がしっかりしとると聞くしな。織田様は今、足利公方様と三好の関係の調整に忙しい。中国遠征はまだ先の話になるやろう。その前に現地のありようを掴んでおきたいところやが…」

 (あご)を頻りに撫でつつ思案する宗久に、嵐が言う。

「俺は出雲より前に、三好の監視を続けたがええと思います。今の三好家と信長公、そして足利義昭公の関係は薄氷の上を歩いとるようなもんや。遠からず瓦解(がかい)するでしょう」

 足利将軍家と、近畿を実質支配下に置く三好家は、京の支配者の座を争う因縁の間柄であった。

 そこに勢力を拡張し続ける織田信長が間に入り、現足利十五代将軍義昭の妹姫を、若き三好の当主に嫁がせることで和睦(わぼく)の形に持ち込んだ。半ば強引なやり方ではある。

 しかしいまだに、信長と足利将軍、そして三好家はそれぞれの思惑で動いており、三者間の均衡は常に危うさを(はら)んでいた。

 足利義昭の茶頭をも務める宗久としては、織田信長と足利将軍の不和は避けたい事態と言えた。

「織田さまが出雲を総べられるならば、養父上にとって最も望ましい形で銀山経営の支配権は手に入れられると思います。けれど私も、今はまだ三好家の動きを、嵐どのに引き続き探っていただいたほうが良いと思います。三好家にしろ将軍家にしろ、織田様にもし逆らう動きを見せるなら、織田様は躊躇(ちゅうちょ)せず相手を叩くでしょう。いえむしろ、そうなるのを待っておられるのかもしれません。遠い中国よりも今はこの畿内に視点を据えておくべきと存じます」

 嵐に同調した若雪の言に、宗久も頷く。

「ふむ。動けるか、嵐?」

「明日にでも。せやけど、三好に信長公への叛意(はんい)があるのは、俺が調べるまでもないことやないですか?」

「叛意の有無を探るんやない。叛意を行動に移す、確たる気配が今の三好家にあるかどうか、それを調べるんや」

「承知。兵と、武器の動きに目を光らせときます。本願寺はどないします」

「ああ、放っといてええ。あそこは織田様を潰す機会をずっと窺っとる。三好らが動く時を好機と見て動かん筈がない。それこそ調べるまでもないわ」

 そのまま腰を上げようとした嵐は、思い出して宗久に告げた。

「兼久どのにそこの渡殿で会いましたよ」

「さよか。あれには、初釜の湯の準備を命じてある。そないに暇でもないはずやけどな」

 途端に渋面(じゅうめん)になった宗久の居室を共に辞した嵐と若雪は、しばらく長い廊下を連れ立って歩いた。

 嵐の胸には、まだ先ほどの兼久の言葉が鳴り響いていた。

「…嵐どの。どう思われますか?」

「何が」

 不意に尋ねてきた若雪に内心狼狽えて聞き返す。

織田弾正忠信長様(おだだんじょうのちゅうのぶながさま)のことです」

「どうって…。今では誰もが天下に最も近いと思うとるお人やろ」

 宗久は会合衆の中でもいち早く信長の資質を見ぬき、進んで近く接することを選んだ。

 その手始めとして、入京間もない信長に、世に名物との誉も高い茶入れである、「松嶋の壺」と「紹鷗茄子(じょうおうなす)」を献上した。

 それはただの茶器ではない。

戦国武将にとっては自らの威勢や権力をも誇示できる道具であった。

名物の中でも最高峰の逸品を惜しげもなく手放す宗久の気前の良さに、当時十になるやならずやであった嵐は瞠目(どうもく)したものだが、今の情勢を鑑みればそれは宗久の英断であったと思わざるを得ない。

無論、会合衆の中には信長に反発する者も少なからずいたが、宗久は彼らと信長との間を巧みに立ち回ってみせた。

「養父上もそう思われているようですね」

「若雪どのの見立てはちゃうんか?」

 この少女の目には何が見えているのか、興味深く思った嵐は水を向けてみた。

「…あまり急に(のぼ)りつめる人に対して、人は危機感を感じないものでしょうか。織田様の勢いは今や対抗する者もいないほどですが…。早すぎる上昇には、少なからず歪みやねじれが生じてしまうものです。主に人と人との関わりの中において。それは御家中においても変わらないでしょう。武を以て権力を得る者はそれと同時に、譜代でない大勢の御家来衆を抱え込むこととなります。そして戦で勝利するたびに、その数は膨らみ続ける。彼らの間に生まれる反発や憤懣(ふんまん)を、目配りしたところで果たしてどれほど抑え込めるものでしょうか。叡山の焼き討ちにおいても諸将の反対の声があったとか…。まして織田様は、御自分より下と見なした者の心情を理解するという点に関して、細やかさを欠いておられるようにお見受けします。あの方は御自身の価値観を何より第一とし、それに照らし合わせて人をご覧になります。そうして人をふるいにかけた末に無用、無能と判じた相手へのなさりようは…極めて冷淡です。―――ご家中には、それに耐えられぬ方もおいででしょう」

不敬と咎められてもおかしくはない発言だった。

けれど言葉を紡ぐ若雪の眼差しは、神を降ろした巫女のように透徹として、まるで人の咎める隙を許さぬもののようであった。

 そして嵐は指摘されて初めて気づく。

 自分が織田信長に感じる危機感の正体を。

 それと同時に思う。

 目の前の少女は、混乱の坩堝(るつぼ)とも言えるこの戦国の世の末を、一体どこまで見通しているのだろうか、と。

「若雪どのは信長公の身を案じてんのか」

 探るように尋ねると若雪は静かな目で嵐を見返した。

「案じています。覇者という存在は、なるべく長く定まってくれなければ、世が安らぎませんから」

 深く、澄んだ双眸(そうぼう)からは何の表情も読み取れない。

「ふうん」

 若雪と話していると、考え方の規模が、自分より、宗久よりはるかに大きいような気がする。

 自分を凡庸(ぼんよう)と思ったことはない。

 むしろ、若年にしてそこらの大人顔負けの頭脳、洞察力を持っている自負が嵐にはある。しかし若雪と話していると、そのさらに上の境地に、いともたやすく達している存在がいることを嫌というほど思い知らされる。それはまるで人界を遙か眼下に見下ろしながら、軽々と雲に乗る神仙のように。自分のことを卑小に感じられさえするのだ。比べる相手より歳が二つばかり若いことは言い訳になるまい。

「…負けたないな」

 嵐の呟きに、若雪が虚を突かれた表情で訊き返した。

「どなたにですか。織田様?それとも三好家ですか」

「あんたにや」

 真っ向から若雪を見据えて言い放つ。

 その言葉をよく吟味するものかのように、若雪がゆるりと瞬きした。

「……私。―――私は、嵐どのにとって敵ですか?…ずっと、そう思われていたのですか」

 ひどく悲しげな微笑を浮かべている。

言葉ではなくその表情に、嵐はぐっと詰まる。若雪は日頃から淡々とした冷静な面持ちを崩さない。それだけに一層、時折表情らしい表情を見せるとそれに心が揺さぶられてしまうのだ。廊下を通る家人が、二人の間に張り詰める空気に目を丸くしながら、足早に通り過ぎていく。

「―――敵とちゃうけど、競争相手や。俺から見たら」

「競争。何の?」

 若雪が静かに問いを重ねる。

 何の?

 何の競争相手か?

 問われて嵐は考えた。

(叔父上の後継を巡っての…、いや、ちゃう)

 初めはそう捉えていたが、よく考えれば、自分も若雪も今井宗久の公の跡継ぎになれる立場ではない。

若雪は宗久の養女となったが、嵐は養子とされなかった。

そのことを(ひが)んだ時期もあったが、それはつまり、血縁の男子たる嵐を養子に迎えることで、宗久の跡目を決める際に起きる混乱を防ぐ為だろう。女子である若雪なら、養女としても宗久の跡目と(もく)する者は恐らく現われまい。

 能力でどれほど自分たちに劣っていようと、宗久の跡目を正式に継ぐのは、あの無気力な宗久の実子、兼久である。宗久は既にそう決めているのだ。

 それでも宗久を補佐し、役立つことに躊躇はない。それがずっと自分の存在意義だったから。

 けれど若雪が現われてからこちら、自分は彼女に勝つこと、能力において彼女を凌ぐこと、気づくとそればかりを念頭に動いている。

 自分のほうが、より宗久の役に立つのだ、優れた人間なのだ、と。

 手を伸ばしても届かないほどに有能な存在というものを初めて知り、恐らく自分はそれより勝ろうとして躍起になっていたのだ。

 そのことに確たる理由などない、強いて言えば男として生まれた者の持つ闘争心に、若雪が火をつけるほどの存在だった、それだけの話だ。

 そして。

(俺がこの先もずっと若雪どのに挑み続けることは、きっと悪いことやない)

 それは嵐一人が心に思うだけの勝負で、若雪に勝ったと思える日は来ないかもしれない。自分はどんなに挑んでも叶わない才能の差に苦しみ続けるかもしれないけれど。

 嵐は昂然(こうぜん)と顔を上げた。

(それでも俺は、挑むことを諦めるわけにはいかん)

しのぎを削るとまでいかずとも、自分たち二人の才覚が共に成長していけば、その先を阻める脅威などきっといなくなるだろう。どんな武将や商人が相手だろうと。それを共に実現できる相手として、自分は若雪を認める。

若雪とならばそれが出来る。この美しい女が相手で良かった、と嵐は思った。初めて若雪の存在を素直に喜ばしく思う自分を認めた。

爪痕(つめあと)や」

「爪痕?」

「せや。俺と若雪どのと、どちらの名がこの乱世に――歴史に爪痕を残せるか、それを競おうやないか。残せたほうが、時代の勝者や」

思いがけずきょとんとした顔の若雪に、嵐はたどり着いた本音とは少しばかりずらした言葉を、尤もらしく口にする。今思い巡らせた思考をそのまま素直に口に出すことを、嵐の中に残る依怙地(いこじ)な何かがまだ阻んでいた。

「…嵐どの。一つお聞きして良いですか」

 尋ねる若雪は、今は湖面のように静かな顔に戻っている。いつも波一つ立たない静けさを保ち、揺らぐことのない湖。ほんの束の間揺らいだと思えばすぐ元に戻る。思えば嵐の知る限り、明慶寺と桜屋敷を訪れた時を除いて、彼女は常にそのようであった。嵐はその湖を、時折無性にかき乱したくなる。自分にはそれが出来ないだろうと思うからこそ余計に。

「私がこちらに来たことで、嵐どのに辛い思いをさせてしまいましたか」

揺らぐことのない湖が今は哀しみの色を(たた)えて嵐を見つめた。

思いもよらない問いかけだった。

「…そんなことは、」

ない、と言い切る言葉を発することができず、嵐は逃げるようにその場を立ち去った。

残された若雪はしばらくの間、項垂(うなだ)れたまま動かなかった。


       二       


 その夜、遅くまで若雪の部屋には灯りがともっていた。

 日が暮れてのちの冬の冷え込みは容赦なく、若雪の部屋まで浸食したが、炭火をおこすでもなく、部屋の主は静かに坐して輝く灯心を見つめていた。

 家族を残らず亡くしたあの春の日から、追手を振り切るように逃げて、逃げて、逃げて、―――――ここ、堺に辿り着いた。

(生き延びる為に、私は養父上の庇護の下、この家の人間となった)

 時が経つにつれ、実の家族を喪った痛手が和らいでいくと共に、新しい居場所を得られた安堵感が胸に少しずつ満ちてきたのを覚えている。

 嵐の気持ちを慮ることもせずに。

 名前が示すように奔放(ほんぽう)で、空を自由に舞う鷹のようなあの少年が、若雪と宗久が話す際に時折見せる悔しげな、或いは苦しげな顔を目の端にとらえながら、若雪は気づかぬ振りをしてきた。それが嵐の矜持を傷つけぬために必要なことと思いながら、そのくせ本音では今の居場所に固執する自分の想いが強かったからだとわかっていた。見ぬ振りをしたのは、単に自分の打算だった。嵐が自分に抱く敵愾心(てきがいしん)の理由がわからない、と当惑する一方で彼がこの邸での、また宗久に対しての、自分の領分を守ろうと必死になっているのだということに心のどこかでは気づいていた気がする。

(私も必死だった…。そうして必死であればある程、嵐どのを追いつめた)

 まだ出雲にいたころ。

 武術でも、学問でも、何をさせても若雪は他の兄弟たちより秀でていた。

 若雪が今の嵐と同じくらいの年の話だ。

 いつになく厳しい剣の稽古を終えて、父が兄の次郎を叱責した。

「妹にさえ勝てぬ己の未熟が悔しくはないのか」、と。

(誰よりも努力を惜しまぬ次郎兄であったのに。あのあと次郎兄は(けやき)の大樹の陰で、誰にも見られぬよう泣いておられた。私は…、声をかけることも出来ずに立ち尽くしていた)

 恐らく長兄であった太郎にも同様なことはあったに違いない。

兄弟は常に自分に優しく接してくれたが、とりわけ兄たちは心中に複雑なものが何も無かった筈がない。自分より年下の妹に、何においても叶わないという事実を受け容れるのは耐え難いものがあったはずだ。自分は彼らの培った自制心に、妹を思い遣る心にどれだけ甘え、もたれかかっていたのだろう。

そして今度は、家族に執着するあまり、他ならぬ家族の心を(ないがし)ろにした。

人知れず泣いていた兄の背中と、黙って拳を握りしめる嵐の背中が重なる。

「―――――――、」

ポタタ、と熱い雫が若雪の手の甲を濡らした。

(私は、常に人を追いつめるのか…)

 自嘲の笑いと涙が同時に込み上げてくる。

 それほどに自分はなりふり構わず、孤独であることから逃れたかったのかと気づいた時、若雪は己の心の弱さと醜さに愕然とした。

 亡き兄たちには、もう謝ることはできない。

 優しくしてくれた礼を伝えることもできない。

 だが嵐は生きている。

 これからも自由に生き続けなければならない。

(自分がこの家に居続けるために、私は嵐どのの苦悩を見て見ぬふりをしてきたのだ……。けれど)

 もう見ないふりをしてはいけない。

あの日、桜散る明慶寺で嵐は、泣いてもいいのだと若雪に言ってくれた。あの時、存分に流した涙が無ければ、自分の心は今頃きっと壊れていた。

 若雪は目を閉じた。凛とした冷気の満ちた部屋の中で思考する。

 鷹の飛翔を(さまた)げるものがあってはならない。


 翌日、まだ夜も明けやらぬころ、若雪の部屋に面する中庭で、縁の下付近を静かに移動する影があった。あまりに速やかな動きであったため、危うく見落とすところだった。

「そこにいるのは誰か」

 あたりは鶏鳴(けいめい)の声も聞こえぬ闇に包まれている。

 いつの間にか降り出した粉雪が、視界に白く小さな残像を残しては消える。

 浅い眠りしか得られぬまま部屋を出た若雪は、白い息と共に厳しい誰何(すいか)の声を上げた。

「若雪どのに見つかるとは…」

 少しの間の後、闇に響いた声は意外にも嵐のものだった。

しかし若雪の眼前に歩み出たのは、およそ普段の嵐とはかけ離れた風体(ふうてい)の人間だった。

身に纏うものは柿色の、どう言い繕っても「襤褸(ぼろ)切れ」としかみえない代物で、髪は結いもせず蓬髪の状態、ご丁寧に顔には炭まで塗り付けてある。優しげに整った顔立ちの面影は見事に消えていた。

 どこから見ても乞食の出で立ちだ。嵐本人は平然としているのだが、雪のちらつく中で布を一枚纏っただけに等しい状態は見ているだけでも寒々しい。

「その恰好は…」

「化けたものやろう。三好の床下に入るには、この姿が一番いい。見つかった時にも多少の言い訳がきくからな」

 今、炭を塗り終えて、三好家に出向くところだったと言う。廊下を使わずに床下を経由して邸の裏門から外へ出るつもりだったらしい。

 日頃は身なりを気遣い洒落者で通っている嵐も、忍びの任務に際しては、恰好など顧みるものではないのだ。

「あの腰刀は持って行かれないのですか」

「今回はな。あくまで偵察が本分やから、あれは邪魔になる」

「では万一のときは…」

「運が悪ければその場で斬られる。けど、万一にも気づかれはせん」

「…私は嵐どのを見つけましたが?」

 嵐は顔を(しか)めた。

「それは俺がまだ自分の邸内におったからや。潜伏した先で気を抜くことは無い。ほとんどの忍びは、その存在に気づかれんこと。まずこれに全てが懸かっとると思てええ。存在が発覚した忍びの多くは、本物の武人と立ち合って生き延びることは出来ん。せやけど俺は、自分の姿をさらした後かて生き延びる自信がある」

 嵐がこれから行うことの、危険性の高さに今更ながら(おのの)く若雪に、対する嵐は恐れる様子も見せずはきはきと答える。粉雪が相変わらずちらつくまま、空は次第に白んできた。

「大丈夫や。戦場に出るのとはちゃう。そう簡単に殺されたりはせん。偵察に出るんは俺だけやないし、叔父上の配下の忍びもおる。俺にも下に使う奴らがいてるしな。三好と将軍家の動きを探るだけやから、一月もすれば戻って来る。叔父上と若雪どのには仔細を報告するさかい、」

 嵐は若雪を安心させるように笑った。その口から垣間見える白い歯が、炭の塗られた黒々しい顔の中で目に鮮やかに映えた。襤褸をまとい、今から命懸けの任務に赴くというのに、嵐は普段よりも活き活きとして見える。

(これが武人(もののふ)…、いや、(おのこ)というものなのだろうか)

 いかにも嵐らしいと言える一面を垣間見て、若雪はやや呆れるようにそう思った。

「そしたらまた三人で、夜が明けるまで話し合いやな」

「―――そうですね。では…、私は嵐どのをお待ちしていますね」

 若雪は白い面に(にじ)むような微笑を浮かべて答えた。

 それは今までに見たことのない、咲き初めの花のような笑みだった。

 こんな風に笑う女だっただろうか、と嵐は思った。


       三


 それから一月近くを経た、如月も初旬の頃。

 嵐は堺の大路を馬で駆け抜けていた。乞食の扮装のまま騎乗するわけにもいかず、適当に見繕った着物に着替えた格好である。

 宗久に急ぎ知らせることがあり、日が落ちる手前の黄昏時に、嵐は懸命に馬を飛ばして宗久の邸へと向かっていた。馬がどれほど苦しがろうと、鞭を振るう手を緩めるわけにはいかない。たまにすれ違う徒歩の通行人が、何事かという驚きの表情で馬と嵐を見送った。

 三好が室町幕府将軍・足利義昭を擁立する。

 両者結託して信長に刃向うつもりだ。義昭は信長の力添えあって将軍職に就いた身だが、将軍を軽んじる信長の振る舞いが重なり、その恩義も今や忘れたらしい。

 彼の武田信玄も上洛の準備をしていると聞く。信玄は義昭につくだろう。

石山本願寺はさらに考えるまでもない。武田、浅井、朝倉、毛利、そして畿内の三好や本願寺。天下統一の前に、信長に立ちはだかる敵の面々は多い。

しかしこれで当面の戦相手は三好と本願寺衆に定まった。

(畿内で再び戦が起こる…!)

 織田信長は、今や宗久にとってなくてはならない存在だ。

 その逆鱗に触れないためにも、早々に足利義昭の茶頭としての立場を、宗久は退くべきだ。さりげなく、かつ素早い対応が必要とされる。

(信玄公の上洛は間に合わん)

 嵐はそう見ている。折しも信玄に病の気配あり、という情報が配下の忍びから寄せられていた。

 恐らく今回の戦は、信長の勝利に終わる。

 信長は自分に刃向った足利将軍を、誰はばかることなく断罪するだろう。

 十五代まで続いた足利将軍家も、当代をもって終焉を迎えることになるかもしれない。

(――――――――足利将軍家が滅ぶ。何ちゅう男や、織田信長)

 

馬を飛ばして届けた報告を受けた宗久の、しかしその顔に驚愕の色はなかった。

「会合衆の面々を通してな、儂のほうに、甲冑やら鉄砲やらを買いたい言う申し入れがあったんや」

椀に二杯の水を飲み干したのち、まだ息を弾ませている嵐に、眉間に皺を刻んだ宗久が苦々しげに言う。

宗久は皮革を使った甲冑を売りさばいて身を起こした商人だ。加えて近年では鉄砲や火薬制作にも携わっている。会合衆は三好とのつながりが深い。宗久は武器商人としての役割を請われたのだ。無駄に馬を乗り潰したか、と嵐は軽く唇を噛んだ。

「依頼したのは三好ですか、将軍家ですか」

「解らんが、どちらでも事態は変わらん。今、この状況下で織田様の認可なく、武具の類を儂が都合することは出来へん。……能登屋や紅屋、油屋あたりは、三好に軍資金を出しておるやろうがな」

宗久と同じ会合衆の中でも、思惑はそれぞれだ。

「断れますか」

「できれば穏便に断りたいけどな」

「…次の戦には俺も出ます」

「そうやな」

ここまで話が進んだところで、ようやく嵐は若雪の不在に気づいた。

報告すると約束していたのに。

若雪は嵐の身を案じていた。五体無事なところを見せれば安心するに違いない。

「若雪どのはどちらですか」

「石見や」

「は?」

一瞬、自分の耳を疑う。聞き間違えただろうか。

しかし宗久が繰り返して言った。

「若雪は石見に向かった。お前が三好に向かったすぐあとや」

「―――――」

嵐の手から空の椀がこぼれ落ち、ころりと畳に転がった。

「なんで」

「織田さまが中国まで手を伸ばす前に、あちらの情勢を調べておくためや。お前は畿内の動きを掴むので手一杯やから、身が空いている自分が行くのがいいと、若雪が言うたんや」

「馬鹿な。叔父上の命を聞く忍びは俺だけやないでしょう。俺の配下に行かせても良かった。まだ出雲の辺りには、若雪どのの命を狙うた輩がおるかもしれんのに!」

「儂もそう言うた。せやけど若雪は、出雲や石見近辺の事情に通じている自分が行くんがええ、言うて聴かんかった。心配すな嵐、儂の部下でもとりわけ腕の立つのを十人ばかりつけた。本人も護身の心得があるようやし、そうそう危険な事態にはならんやろう」

言いながらも、他ならぬ宗久自身が自分の言葉を信じかねている様子が見て取れた。それを表すように眉間の皺がこれまでより更に深い。

なぜそう悠長なことが言い切れるのか、と食ってかかりそうになる自分の衝動をなんとか宥めながら気を落ち着けて尋ねる。

「どんくらいで戻るんですか。三月?それとも半年ですか?」

「三年はかかるかもしれんと言うていたな」

(三年――――――)

 容易(たやす)く口にするには長い月日だ。

 お待ちしています、と言ったときの若雪の顔が浮かんだ。花のような微笑とともに。

 あの時にはもう、静かな決意が彼女の中にはあったのだ。

「それに織田様のこともある」

「信長公がなんですか」

「若雪にご執心なんや。随分前から。そうは言うても、年齢はひとまわり以上離れとるし、女子として、というよりあの才覚に惚れ込んでおられるらしいんやが。若雪のことを、上等な頭脳を持った美しい茶道具のようや、と言われたわ。前々から手元に置きたいと儂に言うていらしてな。石見に発ったと知れば、そのうちお忘れになるんやないかとも思うんや」

 いつかの兼久の言葉が胸に蘇る。

(若雪どのは、少なくとも心ない松の木とは違った、いうことか)

 宗久は信長に望まれようと、若雪を黙って差し出したりはしなかったのだ。その事実だけは、事態についていけず波立つ嵐の心に安堵の光を灯した。

「嵐、織田様が欲しがっておられたんは若雪だけやないで。お前もや」

「え、」

 思わぬ話の展開に嵐は目を瞬かせた。

「嵐と若雪、この二人を織田に寄越すなら、以前儂が献上した銘物を返しても良い、とまで仰せでな」

「以前差し上げた…って、まさか、『松嶋の壺』と…」

「せや、『紹鷗茄子』や。儂はそれらを献上した時の織田様の喜ばれようを今でも覚えとる。それを手放してでも、と仰るとは。よほどそなたらを見込まれたもんと見える」

「松嶋の壺」も「紹鷗茄子」も、下手をすればそれ一つで城が建つ代物だ。

 信長は本気で、若雪と嵐を所望する姿勢を宗久に示したのだ。

「人は生きた財や。織田様はそのことをようご存じやな。あの方の慧眼(けいがん)は、まだ年端もいかぬそなた達の才覚を見抜いたのや」

 ふと息を詰めた嵐は宗久の様子を目だけで密かに窺う。

「―――そなたらを手放す気は無いで。いくら『紹鷗茄子』らが返ってきてもな」

 嵐の胸にわいた不安を一吹きする勢いで宗久が言い切った。

「嵐、そなたや若雪が自ら進んで望まん限りは、儂はそなたらを手放したりはせん。そなた達二人は儂にとって財でもあるが、…大事な身内でもあるんや」

怜悧(れいり)な面の他に現われた宗久の顔は、意外なほど血の通った温かなものであった。

(まるで阿修羅神のように、叔父上にも様々な顔がある…)

「若雪がこれを知ればいらん気を回しそうなんで、あれには特に黙ってたんや。……いっそ石見か備後かで縁づくのなら、そのほうが若雪のためかもしれんな」

「………叔父上は、若雪どのの才覚を誰より惜しく思ってはると思てました」

 宗久がちらりと嵐を見やる。

「無論、惜しい。惜しいけどな…、嵐。儂は惜しいと思うのと同じくらいにあれが可愛い。実の娘のように。儂としたことが思ってもみんかった。情が湧いたんやな。……歳を取った、ということかもしれん」

嘆息とともに心情を吐露(とろ)する宗久の口調はどこか淋しげで、嵐をいたたまれない気持ちにさせた。

「そう言えば、」

 思い出したように宗久が言った。

「そなたらを手放す気はない、と申し上げた儂に、織田様は面妖(めんよう)なことを仰せやったな」

「面妖なこと?」

「そうや。確か…、」

〈  雪に嵐では吹雪となろう。

     吹雪となれば、荷が重かろう。 〉

「そう仰せやった。そのときの織田様は、どこかつかみどころのない笑みを浮かべておいでやった。どうもあの方は、儂のような凡夫にはわからんことを時々仰る。或いは、儂ごときではそなたらみたいな逸材を使いこなせんやろ、という揶揄のような意味やったのかもしれん」

宗久がやや自嘲気味に笑った。

「吹雪となれば、荷が重かろう…」

 嵐はその言葉を繰り返して呟いた。

 そのとき何かが嵐の中で引っ掛かった。信長の言わんとしたことは、本当に宗久が言うようなことだったのだろうか。

 嵐には何か他に信長が自分と若雪、二人の行く末に関して見えていたものがあった気がしてならなかった。


       四


(理想的な展開やないか)

 宗久の部屋を辞した嵐の心のどこかが、不意にそう(うそぶ)くのが聴こえた気がした。

(若雪は消えた。もしかするともう戻らんかもしれん。宗久に重用されるのは、お前だけになるんや)

 声は続いて嵐に囁きかけたが、それを聴く嵐の心は茫洋(ぼうよう)として、ひんやりした虚無感に全身が浸されたようだった。

 来たるべき戦に向けて高揚していた筈の胸が、嘘のように沈んでいく。

 自分が本当は何を思っているのか、感じているのか、どうしたいのか、今の嵐にはまるで測りかねた。

(私がこちらに来たことで、嵐どのに辛い思いをさせてしまいましたか)

ふと、若雪の言葉が蘇った。

(せや、三好に赴く前、そんなことを聞かれたな)

あのときの若雪は哀しそうな顔をしていた。

自分はその問いを否定してやれぬまま、逃げたのだ。

(―――俺の為か)

 まさか。

 思い当って嵐は愕然とした。

(若雪どのは、俺が彼女の才識に嫉妬してたことに気づいてた。自分の存在が、俺を穏やかやない状態にすることもわかってたんや。せやから俺の為に、俺の前から姿を消した……)

 では若雪は、もう本当に堺には戻らないかもしれない。自分が離れることで嵐の心の安寧を図ろうとしたのなら。

(…こんな成り行きで俺の心が晴れるとでも思たんか。あの女。―――あの女は、)

 出来ないことなど何も無いように見えて、その実、本当には何も出来ないのではないか。それはまるで闇を貫く一筋の閃光のように、嵐の中に突如として芽生えた考えだった。自分の心の欲するままに生きるという極めて単純で根本的なことが出来ない。それは周囲の目に完璧と映る若雪の、著しく致命的な欠陥と言えた。

 何でも出来て何も出来ない―――――心のままには。

なまじ天稟(てんぴん)に恵まれているため、人はそればかりに目を奪われ若雪の実情に気づかない。

 事実彼女は泣いてもいいのだと言われるまで、泣くことさえ出来ないでいたではないか。

 嵐は若雪が消えた今になって初めて彼女という人間の核心に触れた気がした。

同時に、若雪は馬鹿げた選択をしたが、それをさせたのは結局自分自身なのだとも思った。

―――こんなことは望んでなかった。

自らの心を探り、改めて嵐はそう感じた。たとえ勝てない勝負の連続になったとしても、近しく競い合う相手として、宗久のもとで歳月を重ね、共に成長していく。

 ようやく若雪とのそんな折り合いのつけ方を見つけ出したと思っていたところだったのに。競争云々について問われた時それをきちんと口に出していれば、若雪も堺を離れようとは思わなかったに違いない。

 自分の度量の広さがほんの少し及ばなかったばかりに、若雪の問いへの本当の答えを喉の奥に潜ませたまま、取り返しのつかない事態を招いてしまったのだ。

(今からすぐにでも石見に発って…いや、無理や。今、俺が畿内を離れることは出来ん)自分の考えにすぐかぶりを振る。しかし畿内の情勢が一応の決着を見るまで待っていては何年かかるものかわからない。

(―――それも見越しての三年か?)

 思考の渦に囚われる嵐の足に、小さな衝撃があった。

 ふと足もとを見下ろせば、初めて若雪に会った日、彼女にくっついていた櫛の付喪神が懸命に嵐の足を蹴っている。その姿を見るのは久しぶりだ。

「…なんや、お前。なんでここにおる?」

 その小さな付喪神の身体をつまみあげて、嵐は訊いた。付喪神は「放せ」と言わんばかりに短い手足をしゃにむに振り回している。

「お前も置いて行かれたんか?」

 付喪神はぴたりと動きを止めて、そっぽを向いた。小さな人差し指を嵐に突きつける。

 お前のせいだ、と言わんばかりだ。

(こいつがおるということは…)

 嵐はふと思い立って櫛の付喪神を懐に抱いたまま、厨に足を向けた。

「志野、志野はおるか」

 邸の厨で働く者たちに、忙しく夕飯の支度の差配をしていた志野が、穏やかな笑みを浮かべ駆け寄ってくる。

「嵐様、無事にお戻りやったのですね。何か御用ですか?」

「お前、若雪どのから櫛をもらうか預かるかせんかったか。桜の彫り込みのある、柘植(つげ)の櫛や」

 志野は怪訝な表情で答える。

「確かに、若雪様が石見へ発たれる前に、お預かりしました。…もし自分が戻らないときは、そのまま私にくださると言うてはりました。せやけど私はいつまでも、若雪様が戻らはるまで、あくまで一時お預かりするだけのつもりです」

 懐の付喪神が、どこかしょんぼりしている。

「……その櫛、俺が預かってたらあかんやろか」

 断られるかもしれないと思いながら慎重な口ぶりで切り出した嵐に、志野はあっさりと承諾した。

「よろしおます。夕餉のあとでお持ちしますわ。それではいずれ姫様が戻らはったとき、嵐様からお返ししたげてください」


 宗久の邸の者は皆、若雪のことを「姫様」、もしくは「若雪様」と呼んだ。

 姫様と呼ばれるような身分ではない、と若雪が再三言ってもそれが改まる気配は無かった。生まれ育ちではなく、彼女生来の気品が人にそう呼ばせていたということを、若雪だけが知らなかった。

 若雪の、そうした己への評価に対する無頓着さは、得難い美徳であるとともに時にひどく性質の悪い短所でもあった。

そんなことを思い返しながらその夜半、懐紙に置いた櫛を嵐は眺めていた。

 繊細な桜模様が施されている柘植櫛はしっとりとした飴色の艶を放ち、その櫛が長年にわたって大切に手入れされながら使われてきたことを物語っている。良品であることは一目でわかる。もしかすると若雪の母の持ち物だったのかもしれない。家族を殺害された混乱の中でも持ち出した程の品だ、よほど大事なものに違いない。

若雪は志野に母親を重ねていたようだった。二度と会えぬかもしれないという思いが、せめてもの手向けにと、大事な品を贈らせたのだろうか。

(櫛が無ければ旅先で難儀するやろうに)

 櫛の付喪神も神妙な様子で、自分の本体であるそれを覗き込んでいる。その小さな姿に向かって言う。

「俺が預かって、若雪どのの手に返せばええんやな?」

 嵐が穏やかに問いかけると、付喪神は大きく一つ頷いた。

「三年が過ぎても戻らんようなら、俺が若雪どのを迎えに行く」

 付喪神がまた一つ大きく頷いた。

 嵐は思い出していた。

 若雪と最後に会ったとき。三好に向かおうとする前、若雪が口にした別れの言葉を。

(では…、私は嵐どのをお待ちしていますね)

 よく考えれば不自然な言葉遣いだ。常日頃、言葉を慎重に、正確に操ろうとしていた若雪らしくない。

三好からの帰りを待つ、でもなく、嵐の無事を祈る、でもない。

実はそれらの背景とは一切無縁の言葉だったとしたら?

出雲石見まで出向くことを、すでに若雪が決めた後発せられた言葉であれば。

「若雪は、嵐を待つ」

それのみが主眼の文章だったのではないか。

 ならばきっと若雪は、自分を迎えに嵐が赴くことを望んでいる。

 その先が出雲でも、備後でも、石見でも。

嵐に、迎えに来てくれと言ったのだ。

三年と若雪が言ったのなら、確かに三年の間若雪は嵐を待っていてくれるはずだ。宗久が言うようにどこかへ嫁ぐということも恐らくない。

 都合の良い思い込みかもしれないとは思う。しかしそれは今の嵐にとって祈りに近い確信であり、希望だった。

 若雪のことだ、宗久に対して律儀に定期連絡を入れるに違いない。その内容はきっと銀山の領有権に関わることに終始するだろうが、彼女が息災であることを知るよすがにはなる。

 もしも今、嵐が考えたことがすべて一人合点であったとしても、堺から遠い道のりを経て迎えに出向いた嵐を、若雪が笑うことは無いだろう。

(くそ真面目やからな。…三年の間に、畿内は大きく荒れる。俺は叔父上を支えなあかん。三年という区切りは、きっとそういうことやろ。その猶予の間に、若雪どのと張れるくらい、せめてもっと大人にならんと)

 今のままではいられない。能力がどうこうと言う以前に、今の自分はあまりに子供だ。

心配で見ていられなくなった若雪が距離を置かざるを得ないほど。

(心配させるあまり女に離れられるとは情けない話や)

 三年後、十六の歳を数えるまで、漫然と過ごしていてはどんな望ましい変貌(へんぼう)も遂げることは叶わないだろう。

 櫛の付喪神が、依然きょろりとした目で嵐を見ていた。

 ふと弱気になって尋ねる。自分達は、確たる約束の一つも交わしたわけではないのだ。

「…待っててくれると思うか?」

 誰が、とも、誰を、とも言わなかったが確かに嵐の意図は通じたようで、付喪神はまたも躊躇いなく頷いた。

「おおきに」

 口元に笑みが浮かぶのを感じながら、その身体を人差し指でちょん、と小突く。とにかく今は、自分に出来る限りの手を打っておかなければならない。

嵐の眼が強い色を(たた)えた。

(出雲石見は堺から見て西北や。「(ごん)生水(しょうすい)」、か)

 陰陽の世界において白は金を表し、黒は水を表すとされる。

「白王丸、黒王丸」

 続いて密かに呼ばわった嵐の声に、眩しいような純白の毛並の犬と、反対に闇のように黒い毛並の犬が優美な姿を現した。炯々と光る双眼は金色で、その体躯は嵐の背に迫るほど大きく堂々としている。

 嵐の使う式神だ。付喪神とは異なり、姿を具現化した状態だとほとんどの人間に見える。

陰陽の理に基づいて、毛並の色合いから西北に相性の良い二頭を選んだのだ。

 大柄な二頭の式神の出現に、付喪神が滑稽なほど大きく飛び上がった。奇声のようなものを発してから、嵐の懐に飛び込む。

 嵐は小さく笑って式神たちに櫛を指し示した。

「望月由風が命じる。この櫛の主の後を追い、危難あれば救けよ」

式神らはしばらくふんふんと柘植櫛の匂いを嗅いでいたが、途中からは嵐の懐の付喪神のほうに興味が移ったらしくしきりとその鼻面(はなづら)を近づけた。付喪神は必死の様子で嵐にしがみついている。

「こら、食うたらあかんぞ。早よ行け」

苦笑しながら言うと、些か名残惜しそうに二頭は付喪神から離れて姿を消した。命を聞き届けた式神を見送り、嵐は一つ息を吐いた。彼らがいれば、万が一若雪が襲撃を受けるような事が起こっても最悪の事態は避けられる筈だ。つくづく諸芸には通じておくものである。嵐にとっては宗久が若雪につけたと言う護衛よりも余程信頼できた。

(――――三年か)

 長いな、と改めて思った。



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