桜屋敷 三 (前半部)
三
若雪と嵐が桜屋敷に居を移した話は智真にも届いていたが、年の暮れは何かと忙しく過ごしており、屋敷に足を向ける暇も無かった。やっとのことで智真が桜屋敷を訪れたのは、年が明けた天正十(1582)年の、睦月に入ったころだった。
「智真どの」
床から半身のみを起こし白小袖の上に紙子を羽織り、嬉しそうな笑顔で彼を出迎えた若雪の笑顔は、以前と何ら変わり無いものだった。
ただその輪郭には若干の変化が見られた。
(…痩せはった……)
智真は軽く眉根を寄せた。
去年会った時よりも、僅かだが線が細くなっている。あまり良くない兆候だと思えた。
「……若雪どの、お久しぶりです。お加減はどうですか。…ちゃんと食べてはりますか?」
開口一番の智真の問いかけに、若雪が少し笑った。
「膳に乗ったものを全て食べ終わるまで、嵐どのにじっと見張られているのです。食べない訳には参りません」
その光景がありありと目に浮かぶようで、智真の頬も少し緩んだ。
「さよですか。…うん、そんならええんです」
一人頷く智真を、若雪が見る。
「…?どないしはりました?」
思うところのありそうなその視線の意味を、尋ねる。
「…智真どの」
「はい」
「小雨は、亡くなったのですか?」
突如として尋ねられ、智真はすぐには何も言えなかった。
その様子を若雪が、これまでに見たことのないような深い瞳で、ひたと見ていた。
「………やはり、そうなのですね」
智真の反応に確信を得た様子で、下を向いてぽつりと言った。
「…―――――私と和尚さんで弔い、経を上げました。……兼久どのに、頼まれて」
最早隠し立ても出来す、智真が告げた言葉の最後に、若雪は軽く目を見開いた。
「そうでしたか…。嵐どのからは、遠い親戚に引き取られて、快方に向かっていると聞いておりました。……けれど私には、それが本当のこととは思えなかった。私を気遣って、偽りを仰っているように感じてなりませんでした。…………可哀そうに。小さな身体で、きっとひどく苦しんだ筈です。――――――私が気付いてやらねばならなかった。あんなに近くにいたというのに」
若雪の目はいつになく澄んで、ここではないどこかを見ていた。
涙も無く、平淡な表情だったが、それでも若雪の悲しみと後悔は、智真に切々(せつせつ)として伝わってきた。
その時智真の胸に、若雪は既に生を望んでいないのではないか、という疑念が湧いた。
艶やかな黒髪に縁取られた、いつにも増して儚い面立ちは、忍び寄る死の影を従容として受け容れているようにも見える。
死んだ小雨に呼ばれ、若雪もまた彼岸に惹かれているとしたら―――――――――。
(このまま失うんか。私も、嵐も―――――――)
若雪を。
ざ、と世界が墨で塗り潰されたような気がした。
矢も楯もたまらぬ思いで、智真は若雪の両手を握り締めた。白い手はひんやりと冷たい。
それを額に押し戴くようにして、焦る思いが高じるままに、口を開く。
「――――若雪どの、生きてください。どうか」
何かを悟り、もう生も諦めているかのように見える若雪に、堪らなくなって智真は言った。前置きも何も無い、半ば叫ぶような懇願の声だった。
「…死なんといてください。嵐の為にも、……」
私の為にも。
その一言は、口に出来なかった。
「智真どの…」
常に朗らかで動じない智真の、取り乱すような激しさに若雪は驚いた。
智真は震える右手で顔を覆った。
「…嵐の―――――――嵐のお母上は、労咳で亡くなってはるんです。この上あなたまで同じ病で亡うなったら、――――――――」
声は涙で途切れ、最後まで言うことが出来なかった。
若雪は愕然とし、腑に落ちた。
(そうだったのか)
〝俺の居場所は、この世のどこにも無うなる〟
嵐にとっては、既に一度味わった絶望なのだ。
必死の思いで、若雪は智真の肩に自由なほうの左手を添える。右手はまだ智真の左手に囚われたままだ。いつも穏やかな智真をこれ程嘆かせる自分が、酷い仕打ちをしているような気がした。
胸が痛み、自分のほうが泣きたくなった。
「智真どの…。どうか、そのように泣かないでください、智真どの……。私はこれでも、ひどく往生際が悪いのです。まだまだ諦めてなどおりません。…私は死にません。必ずや生きるように、そう努めます。生を諦めたりは、致しません。―――だから泣かないでください」
言いながら優しく、智真の肩を揺する。
智真は顔を伏せたまま、何も答えなかった。何を否定したいのか自分でも解らず、ただ首だけを横に振り続けている。自分が今、若雪の為に泣いているのか、嵐の為に泣いているのか、それとも自分自身の為に泣いているのかさえも解らなかった。
そうして何も言葉にすること無く、涙を落としていた。
若雪の部屋の手前、広縁で茶を載せた盆を手に立っていた嵐は、静かに踵を返した。
その夜、微熱にぼんやりとした頭で若雪は考えに耽っていた。
(嵐どのにも、智真どのにも――――…、私はひどく申し訳ないことをしている気がする)
病に罹ったことが若雪の本意ではないとは言え、彼らに要らない苦悩を与えているのは事実だ。気を遣わせ、振り回している。彼らの歩むべき人生の、足を引っ張っている。
(…解っている。私に何一つ非が無いとは、とても言えないということは………)
誰が悪かったのか。
兼久か。小雨か。
(違う。それが全てなどではない。こうなる前に、こんなことになる前に、成り行きを喰い止める選択をする余裕が、私にはある筈だった。私はそれを見過ごしにしてしまった)
感傷に流されて注意を怠った、自分の落ち度だ。
兼久が心底から、確実に若雪を殺そうと考えたなら、他に幾らでもやりようがあっただろう。
彼の抱いた淡い目論見を、最後の一石を積むことで成し遂げさせたのは、他ならぬ若雪自身の手だ。
自分がもっと用心していれば小雨の病に気付き、救うことも出来たかもしれない。兼久に罪を犯させることもなく、済んだかもしれない。ほんの一時、小雨の母親代わりになったつもりで一人満足して、肝心なことには何も察してやれなかったのだ。
(そんなことで――――――仮初めにでも母親のつもりになど)
よくもなれたものだ、と思う。
(なぜ、気を抜いた。油断すれば容易く平穏は崩れ去るものと、知っていた筈なのに――――――――――)
穏やかに過ぎて行く日々に、いつの間にか危機感を麻痺させてしまっていたのではないか。
(気を緩めてはならないと、次は自分の命さえ損なうことも有り得るのだと、昔はあれ程強く戒めていたというのに)
その自戒を忘れた結果が、今の状態である。
若雪はそう思い、激しく自分を責めた。
けれど今更どう思おうと、ことここに至って若雪に出来ることは、極めて限られている。
もどかしくて仕方無かった。
剣を振るって病を断ち切れるものなら、幾らでも振るっただろう。
手の皮が剥け、血が流れ出してでも振るっただろう。
〝焦るんやないで。焦って自分を追い込むんは、病に一番良うない。余計なことを考えんと、食うて、寝ろ〟
嵐は若雪の心情を先回りするように、ばっさりとそう言い切った。
(仰ることが正しいのは解る。けれど――――)
目を閉じて、一つ息を吐く。
それを実行するのは、至難の業だ。
そんなことを考えながらも、いつの間にか若雪は苦悶の渦の中、眠りに落ちていった。
荒れた波の音がする。
打ち寄せては引き、うねっている。
まるで泣いているかのような波音だ。
海そのものが、激しい悲嘆に暮れているようだ。
見上げれば、暗く、こちらを圧するような天がそこにある。
(……そうか。ここには人はいない。一人も。存在出来る筈も無い場所なのだから、ここは―――)
誰に教えられるでもなく、若雪はそう悟っていた。
(―――――けれども。それでは、今、ここに立つ私は一体何なのだろう……)
目の前には、大きな巌が聳えている。
不可解なことにその全体が、赤い光に覆われていた。
(これは………?)
天の果て、地の果てとも思える荒涼とした景色の中、その赤だけが妙に明確で、不吉だった。
気配を感じて若雪が振り向くと、そこには若い男の姿があった。
変わった着物を身に纏い、長い、青味を帯びても見える黒髪を、後ろで一つに束ねている。
いかにも思慮深そうな面立ちだ。
驚愕に見開かれた双眼は、うっすらと青い。
その唇が、動いた。
「なぜ、あなたがここに」
問いかける声は水のように涼やかだ。
しかし答える言葉を、若雪は持たなかった。
そこで目が覚めた。