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桜屋敷 二 (前半部)

       二


 師走に入るころ、若雪は嵐と共に桜屋敷へと居を移した。

 必要な家財道具、それぞれの私物を運び入れたのち、小雪のちらつく中を、嵐は十分に厚着させた若雪の手を取り、傘を差しかけながらゆっくりとした足取りで桜屋敷まで導いた。嵐は当初、駕籠(かご)に乗るよう若雪に勧めたのだが、桜屋敷までの道のりを、自分の足で歩きたいと若雪が言ったのだ。次にその機会がいつ来るか判らないから、と。

 静々(しずしず)とした道行(みちゆき)は、まるで若雪の嫁入りのようであった。

 小雪の舞う中を、嵐と若雪は無言で進んだ。

 その道のりは、嵐に過ぎた春の日を思い出させた。

 遠い過去の、桜屋敷での遣り取りが脳裏に浮かぶ。

(姉みたいに思うてくれ言われて、手ひどく突っぱねてもうたんやったな……)

 そのくらいの頼み、聞いてやれば良かったのに、と過去の自分に対して思う。

 嵐は苦い笑みを浮かべた。

 三郎の身代わりはごめんだなどと、今考えても酷い言葉をぶつけたものだ。

 それ程までにあのころは幼く、余裕が無かった。突然現れた若雪に脅威を感じ、敵愾心(てきがいしん)を抱いていた。しかし弟と見られることにあれ程反発したのは、恐らくはそれだけが理由ではなかった。

 今、同じことを再び頼まれたとしても、やはり承知することは出来ないだろう。

(…そうか…。もうあのころからか)

 横を歩く若雪をそっと見る。

 ―――――――今にして思えば、ということが、あまりに多い。

 天より降ってくる小雪を見ながら、嵐は痛切にそう感じた。

 諦めないと言った筈なのに、若雪が消える未来を、自ら進んで認めようとしているかのようで、嵐はそんな自分を不甲斐無(ふがいな)く思った。

「―――嵐どの、手が」

 気が付くと若雪の手に添えた右手は、力を籠めて彼女の手を握り締めていた。

「あ、堪忍―――」

 慌てて力を緩める。

 若雪は何ともない、と言うように首を振った。

 納屋から去れ、という宗久よりの通告を、若雪はどう思っただろう、と嵐は考えた。

 彼女の横顔はいつもと変わらず静かだ。

 若雪は、叶うことならずっと、納屋にいたかった筈だ。納屋を自分の生涯の居場所であると、思い定めていた筈だった。

 けれど、兄と父を失くし、納屋も既に若雪の帰る場所ではない。

 兼久の命を繋ごうと、変えられない流れはある。今井家の人間たちは、心情の面においても離散してしまった。

 若雪は家族と居場所を再び失くしたのだ。

 今度こそ守り通そうとしていたものを。

 嵐は若雪が残ればそれで十分だったが、若雪はきっと今、辛く寂しい思いをしているに違いなかった。

「……すまんな、若雪どの。俺しか、傍におらんようになって」

 ぼそぼそと詫びた嵐の顔を、驚いた表情で若雪が見上げた。

 その表情のまま、暫く嵐の顔を見ていたが、前に向き直って口を開いた。

「嵐どのは……………、いつも私が、いてくだされば、と願う時に、傍にいてくださいます。私を助ける言葉を、知らず与えてくれる。そのことで、私がこれまでどれ程救われて来たか、あなたはご存じないのです。―――――――そうして今もこうして、敵地や戦場に赴くでもなく、隣にいてくださいます。…私はそれで、十分です」

 その言葉の全てを本心と受け取ることは出来ず、嵐は黙り込む。

 そんな嵐の目を覗き込んで、若雪が念を押した。

「本当ですよ?」

 目を見れば自分の言が真実と解るだろう、という仕草だった。

 曇りの無い澄んだ目は嵐の疑念を溶かす一途さで、根負けしたように嵐は穏やかに微笑んだ。

「―――ああ………。信じるわ」

 

 桜屋敷には志野も同行していた。

 志野には若雪の傍を離れるつもりは、この先も一切無かった。

 そして納屋から、(よもぎ)という名の若い侍女もついて来た。

 やや大柄で男勝(おとこまさ)り、はきはきした気性の蓬は、かねてより若雪と仲が良かった。納屋では嵐も若雪も人望があり、他にも同行を望む者はいた。だが嵐には大所帯を抱える気は無く、養える人数にも限度があり、納屋の為にも、桜屋敷に伴う人数は極めて少数に絞った。

 共に病と闘う、と言った頼もしい女子衆二人と、嵐が信用出来ると見込んだ下男二人、それに嵐と若雪の合わせて六名が桜屋敷に起居することとなった。


 若雪の部屋は、桜屋敷の桜の大樹が最も良く眺められる部屋に定められた。

 気候が穏やかなものになれば、部屋の障子戸を開けて広縁で過ごすことも出来る。

 しかし師走の、しかも山裾に立つ屋敷では、寒気を入れる隙さえ無いようどこもかしこも閉めきられていた。

 若雪の部屋はとりわけ、(おこた)りなく寒気を遠ざけるべき対処がしてあった。

 火鉢(ひばち)の火により十分に暖められた部屋は暖かく、若雪の眠気を誘った。

 夜具の足元にある、志野が作ってくれたあんかの温もりも、眠気に拍車をかけた。

 嵐は基本的には常日頃から()まり()で通っていたが、自らが必要、と判断した時には使う銭を惜しまなかった。

〝そういう時の為に使うてこその、銭なんや〟

(よく、そう言っておられたな…。炭も、随分と贅沢に使われている……)

 思いながらも、若雪の意識はだんだん、溶けていくようだった。

 誰かが声をかけ、部屋に入ってくる気配がした―――――――――。


 呼んでいる。

 誰かが、自分を。

 ああ、彼だ。ふ、と心が緩む。

 答えなくては――――――――――――。

 目を覚まして、返事をしなくては。


「しろ。おーきーろ。おい、しろ!」

 これまでに呼ばれたことが無いような、乱暴な呼び声がする。

 けれど声音には気安い親しみを感じた。

(私のことか―――――――?)

 思いながら、口は勝手に動いていた。

「……どこの犬…?真白(ましろ)だってば……。ああ、眠かった」

 どうやら剣護を待つ間、教室の机に俯せて寝ていたようだ。

 目をこする。身体がすっかり冷えている。

 今年は暖冬だと言うものの、冬は冬だ。

「――――――剣護、遅過ぎ」

 待たせた当人に向けて、ぼそりと文句を言う。

 剣護はそれを全く相手にしなかった。逆に灰色がかった緑の目を細めて、呆れたように言う。

「おっまえ、このくそ寒い中、良く寝れるなあ。風邪ひくぞ。勉強ってとこだけ見りゃ、馬鹿でもねーし」

 剣護はいつもこうだ。言うことに遠慮が無い。

「どうしてそういう、いちいち引っかかる言い方するかなぁ」

 言葉が言い終わるか終らないかの間に、小さくくしゃみをする。

「ほれ見ろ、馬鹿。帰るぞ」

 慌ててコートを羽織ると鞄を手に、剣護のあとを追いかけた。

 

 目を開けると、格子(こうし)状に組まれた板が見えた。

 桜屋敷の、若雪の居室の天井だ。納屋の邸で自室として使っていた部屋の天井と、似ているがやはり細部は異なる。

 ゆっくりと、(まぶた)を上下させる。

(……。微睡(まどろ)んでいたのか)

 よく思い出せないが、妙な夢を見ていた気がする。

 上半身を起こし、頭を緩く振りながら夢の内容を思い出そうとして、室内に嵐の姿を見て驚いた。

 嵐は八畳程ある部屋の隅に、腕組みして立ち若雪を見ていた。

 なぜ、いつものようにもっと近くに来ないのだろう、と不思議に思う。

「――――嵐どの、いつからそこに?」

「…少し前」

 答える声は、冷たい目をした顔と同じく不穏だった。

「なあ、若雪どの」

「…はい、何でしょうか」

 背筋を正して答えてしまう。今の嵐は、そうせざるを得ないような雰囲気を持っていた。

「けんごって誰や?」

「けんご?」

「目が覚める前に言うてた。待ってよけんご、って」

「――――――すみません、解りません。まるで覚えが無いのです」

 若雪はどこかおろおろする気持ちでそう述べた。

 どうやら嵐は、その名前の為に気分を害しているらしい。

 嵐は横を向いて尚も言った。

「随分親しげな呼びかけやったけど」

「……………」

 責める響きで言われようと、解らないものは解らない――――――――。

(……けんご?)

 どこかで聞いた名前のような気もする。

 記憶の海のどこかで、誰かにもやはり似た指摘を受けたようにも思う。

 けれどやはり、思い出せない。どこか心細い思いで問う。

「…夢違誦文歌を、詠んだがよろしいでしょうか」

「悪夢やったらな。けど、覚えてへん程度の夢なら、詠むこともないやろ」

 嵐は素っ気なくそう言うと、そのまま黙り込んだ。

 特に何か失態をした訳でも無いのだが、若雪はなぜか取り成さねばならないような気がした。

「―――嵐どの、もう少し火鉢に近付かれてはいかがですか。そちらは、冷えるでしょう」

 自らの側近くに置かれた火鉢を指して呼びかける。

 嵐は少し考える素振りを見せたあと、火鉢を挟み、半身を起こした若雪と差し向かう形で座った。それでも若雪からはまだだいぶ間がある。かろうじて、(あや)練絹(ねりぎぬ)の、几帳の内側にはいる。不機嫌な顔だが、必要なことは言う。

「横になり。ならんねやったら紙子(かみこ)を羽織り」

「あ、はい」

 言われて若雪は紙子を白小袖の上に重ねた。紙子とは文字通り(かき)(しぶ)を引いて紙で作られた衣服で、軽くて保温性に優れており、寒い時期には重宝される。今は何時(なんどき)だろう、と思う。夕餉が済んでから寝入ったのなら、もうだいぶ夜も更けたころかもしれない。

 灯りに照らされた嵐の顔をそっと盗み見る。

 整っているな、と思う。

 兄の次郎清晴は端正な女顔だと言われていたが、嵐の顔はそれとはまた違った趣で優しげに整っている。そのぶん、きつい気性との落差の大きさに、驚かされるのだ。


〝若雪。桜屋敷に、行くんや。そうして、もうここには戻って来るんやない。小笠原様との銀の取引は、他の者に引き継がせる〟

 宗久にそう告げられた時、若雪は息が止まる思いだった。

〝私が―――――労咳に罹ったからですか。もう、お役に立てないからですか〟

〝せやない。――――兼久が、儂の息子やからや。あれの親として、そなたの養父として、儂がもうそなたに合わす顔が無いからや〟

〝そんなことは――――――――〟

 宗久は(かぶり)を振った。もう決めた、という顔だった。

〝そなたは織田様の為に働くことも、ほんまはしんどいて思うてたやろ〟

 図星を指され、たじろいだ。

〝儂は、それを知らん振りしてきた。…堪忍な。才覚に反して、そなたは気が優し過ぎる。その才を儂は随分利用させてもろたし、助けてもろたけどな、若雪。もうええんや。…もうええ。………病を治し。そんで自分に辛くないように、これからはただ一人の女子として生きや。――――――――嵐は多分、そなたと一緒に行くやろ〟

〝……養父上…〟

 若雪を見た宗久の目には、慙愧(ざんき)の念と慈愛が混在していた。

 若雪は、再び居場所を失くした、と思った。それが無性(むしょう)に悲しかった。けれどそのことに対して、思った程の打撃を受けずに済んだのは、宗久の最後の言葉があったからだ。


 嵐が自分と共に桜屋敷に来る、ということは若雪にはあまりぴんと来なかったが、事実嵐は当然のように納屋の中で自分の身の回りの整理をし、送るべきものを桜屋敷に送ると、若雪と連れ立って桜屋敷に来た。今もそのまま、住み着く構えを見せている。

 そうして信長の為に立ち働く様子も見せない。若雪は、嵐が桜屋敷に移るということを、宗久と距離を置く為、単に活動の拠点を納屋から桜屋敷に移す、という意味として捉えていたがどうやら違うらしい。

(良いのだろうか…)

 自分は選択の余地も無い立場なので動けずにいるが、嵐はまだ自由に、乱世を駆け抜ける力を持ったままなのに、ここにいる。

 相変わらず、薬湯作りだの延命祈祷法だの、死病を患った自分の看病に明け暮れている。

 自分が何とかしてやる、と言った手前、その言葉を貫くつもりでいるのだ。

(しかし…言った言葉に責任を持つ嵐どのゆえ、いらぬ重荷を背負われているのでは)

 嵐の言葉は、若雪にとっては嬉しくも有り難いことではあったが、このままでは、歴史に爪痕を残したいと言った嵐の願いは叶わなくなるかもしれない。嵐が自分の為に奔走(ほんそう)することを、当初はただ感謝していた若雪だったが、いつまでも現状が続くようではいけない、と思い始めていた。

〝歴史に爪痕(つめあと)を残したほうが、時代の勝者や〟

 彼はそう言っていたではないか。若雪は嵐に望みを成し遂げて欲しかった。

 今では若雪のほうがもどかしいような気持ちで、桜屋敷に泰然(たいぜん)と構える嵐を見ていた。 

「……なんや」

 若雪の視線を嵐が見返す。

「…いえ」

 若雪は視線を逸らして口籠(くちごも)った。

「言いたいことがあんねやったら言えや」

 今は言葉程には、声の調子はきつくない。不機嫌そうだった顔も、ほぼ普段通りに戻っている。

「………今のままで、よろしいのですか」

「は?」

 嵐が、何を問われているのか解らない、という顔をした。

「――――嵐どのは私の病が発覚してからというもの、忍びとしても陰陽師としても、商人としてさえ何の働きもしておられない。ただ、私の為だけにこれまで培われてきた技と知識を使っておられるではないですか。もう織田様のお役にも、立たないでいるおつもりですか?―――――――それでは、何の爪痕も残せません」

 ようやく、若雪の言わんとしていることが解ったらしく、ああ、と嵐は得心が行ったという声を出した。

「――――俺が傍におるんは迷惑か?」

「……いいえ。いいえ、嬉しいです。…とても」

 誤魔化すことなく真っ直ぐな目で答えた若雪を、嵐は少し驚いた目で見た。

「けれど、それゆえ嬉しいと感じる自分が怖いです。あなたが本望を果たせないかもしれないのに、今の在り様をどこかで喜ばしく思っている自分の心が、とても罪深いものに思えてなりません」

 苦しげに、そう告白した若雪の顔を嵐はじっと凝視していたが、ふと視線を宙にずらした。気のせいか、少し顔が赤い。

「――――――――――――爪痕、か」

 どこか苦い笑いの混じった響きで嵐が言った。

「………せやな。うん、そんなんに(こだわ)ってたころも、…あったな」

 遠い昔を思い出すような口調に、若雪は瞬きする。

「―――今は、違うのですか」

「……そもそもは、親父を見返してやりたい気持ちから思たことやった。ろくに俺や母親のこと顧みらんような奴やったけど、忍びとしての腕は確かやったみたいで、名は通ってた。あいつを凌ぐような大物になったろて、子供心に思たんや。叔父上に引き取られてからは、叔父上に自分のことを認めさせたあて仕方無かった」

 冬の夜の静寂(しじま)に、嵐の淡々とした声が響く。

「……歴史に名を刻むくらいの人間にならなあかんと、そう思うた。忍びをしてたら、今、どこの連中が武器を欲しがってるんか、情報も入ってくる。商人としても都合が良かったんや。忍びに商人、陰陽師。三つも生業を掛け持ちしてたら、どれか一つくらいは名が残るんやないかとも思てな。(せわ)しないのは俺の性に合うとるから、別に苦にもならんかったし。…そんで若雪どのと会うて、若雪どのが山陰に行って……、」

 そこで嵐は言葉を切った。目は、夜具の上に置かれた若雪の白い手を見ていた。

「…それからは…俺は、あんたと一緒に歴史に爪痕を残そうて思てた」

 若雪が目を見張る。

「自由に空を舞うように生きながら―――――叶うことなら若雪どのと一緒に、名を刻みたかったんや」

 手を取り合い競い合うようにして、若雪と共に歴史に名を残す。生きた証を残す。

 若雪に囚われることを恐れながらも、それは変わらない嵐の願いだった。

 嵐は微笑みを若雪に向けた。

 静かに明るい微笑みだった。揺るがぬ思いを、確固と胸に抱いた人間の笑みだった。

「今もまだ…、そう思てる。諦めてへん。七忍を使うて情報は集めてるし、いつでも動ける態勢は、一応整えてある。まあ尤も…、もうすぐ乱世そのものが終わるやろけどな。俺や若雪どのの名が残るかどうかは、(のち)の世の人間が決めるやろ。けど、今は若雪どのの労咳を治すんが一番大事や。譲れん」

 若雪が案じる物事くらい、嵐はとうに考慮したあとなのだ。その上で、今は現状の在り様が最善と思い若雪の傍にいる。若雪は己の浅はかさを恥じた。

(私は―――――ここまで嵐どのに思い遣られている)

 知っていたつもりで、本当には解っていなかった。

「――――――申し訳ありません」

「なんで謝るんや」

 笑いながら、嵐は若雪の頭にポン、ポン、と手を置いた。

 合わせる顔が無い、というように両手で顔を覆って若雪は俯いた。

「申し訳ありません…」

 そのまま再度謝る若雪を、嵐は困ったように見つめた。



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