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桜屋敷 一 (後半部)

「摂理の壁は既にして、赤色しか示さぬ」

()はなんとしたことぞ」

「まさに。いやまさに――――なんとしたことか…」

「ことここに至っては青を取り戻すこと、最早叶うまいて」

「いや。…まだ、理の姫は諦めておられぬご様子」

「どうであろうな。―――実のところは、望み通りになったと、お思いではないのか」

「滅多なことを言うものではない」

「しかし、雪と嵐が」

「然り」

「――――――吹雪となってしまうのか」

「恐らくは」


 そして神命(しんめい)は下される。

「明臣。人界(じんかい)へと、行ってくれないか。人の世へと。あなたも、もう彼の地で現身(うつしみ)を取れるだろう。―――――嵐に、会って来て欲しい」

「はい、承知しました」

 たおやかな風情で、背を向けたまま言う彼女に明臣は答える。

 (なび)く黒髪が、その背を覆っている。

 上方を仰いで、呟くように彼女は続けた。

「頼む。私も、そう遠くない内に(おもむ)くから」

 その眼差しが向かう先を、明臣は知らない。

「―――――御自(おんみずか)ら、降りられるのですか」

「そう………。私にはそうするだけの、(せき)がある」

 その言葉に籠る悲しみに、明臣はつい声を上げる。

「姫様に、何の罪科(つみとが)があるというのです」

 緩く、彼女は首を横に振る。解っているだろう、と言う様子だった。

「力が及ばなかった。神の身なれば、それは十分な罪悪となる筈」

「ですが」

「…明臣。あなたでも、思ったことはあるだろう。―――――なぜ、もっと早く、富が亡くなる前に救いの手を伸べなかったのかと。荒ぶる御霊となったあなたを、そうなる前に救おうとしなかったのか、と。…私に対して。また、他の神々に対して。そう思っただろう。当然だ。当然の憤りなのだ。人の、思いとして」

 その声は柔らかく、己以外の誰を責めるものでもなかった。

「―――しかしそれは、摂理の壁ゆえに―――――」

「そう。けれどまだ、それを言ってはならない。明臣。後手(ごて)にしか回ることの出来ない私たちに、変革の時が訪れるまで」

「……降臨(こうりん)は、水臣も承知のことですか」

 くるり、と彼女が初めて振り向く。悲しげに微笑んだ。濡れた花のように。

「言っていない…。だから、あなたも言わないで」

「――――はい」

 逡巡(しゅんじゅん)ののち、明臣は承諾した。


 次第に日が傾いてきた。

 冬の昼間は少しずつ、だが確実に短くなっている。

 若雪は床に半身を起こした状態で、固く両手を組んで祈っていた。

 兵庫が、智真が、嵐を止めてくれるように。

 嵐が、兼久を殺さないように。

 兵庫が指摘した通り、若雪の祈りはその大半が情から来るものであった。

 あとから加えて考えた理屈で、何とか兵庫を動かすことが出来た。兵庫の示した兼久への憤りが、若雪の為のものだということは解っていた。怒鳴りつけたことを済まないとは思うが、あの場では何としても彼を()()せねばならなかった。感情に理屈がついていったのは、今考えても幸いだった。ここに来て宗久と嵐が対立するのは避けるべき事態と思ったのは事実だが、若雪はただ単純に兼久の命を救いたかったのだ。

 例え、殺したい程に彼が自分を憎んでいたのだとしても―――――――。

 例えこれより先、嵐と共にいられたのかもしれない時間を奪われたのだとしても。理由の解らない兼久の自分に対する殺意に、深く傷つかずにはいられなかったけれども、それでも兼久という存在の哀しさを知っていればこそ、むざむざと殺させたくはなかった。

 障子戸が開き、閉まる音にはっとする。静かで速やかな気配だった。

 若雪の顔を見ようとせず、面を伏せた嵐がそこに立っていた。

 若雪はその着物に返り血が無いか、一瞬、その全身に忙しく目を走らせた。

 だが、着物の色合いが色合いの為、よく判別出来ない。

「――――嵐どの」

 室内に座った嵐は、若雪の固い呼びかけに顔を上げた。

 彼女の、きつく組まれた白い両手に目を遣る。

 そのまま目を逸らし、言う。

「…殺してへん」

 若雪の身体から、目に見えて力が抜けた。

 微かな安堵の吐息が嵐の怒りを刺激した。

「―――――なんで兵庫を遣した?――――納屋が分裂するとまで言うて。そこまでして、兼久を死なせたくなかったんか。自分を労咳になるよう仕組んだ奴を」

 最後の言葉は、切っ先の鋭い刃のように、改めて若雪の胸を突いた。けれど、努めてそれを感じないように自分を律し、若雪は言った。

「――――――兼久どのは、私の兄です。養父上のお子で、嵐どのの、従兄弟です」

 しかしその言い分は、嵐の怒りを助長させただけのようだった。

「それがなんや。いつまであんたはそんな繋がりにしがみついとる。身内言うたかて、一つの(かたまり)やない。それぞれが別個(べっこ)の人間で、それぞれの思惑で動いとる。若雪どのはそれを、無理やり一つに(くく)って考えてんねや。俺も叔父上も、自分の考えに従うて生きとる。例え意見が割れて違う道を辿ることになっても、それはもうしゃあないんや。少しも、おかしなことやない。それが俺らの人生で、生きる道筋や。家族一つと(こだわ)るばっかりで―――――いつになったら、そんな当たり前のことが解る?」

 嵐の滔々とした理屈に、若雪はそれでも一歩も退くまいとした。

「各々の信念のもとで、いずれ異なる道に離れ行くことがあるのなら、それは確かに詮無いことでしょう。最早、私の口出すところではありますまい。…………けれど道をただ(たが)えることと、互いに反目し憎み合うことでは、全く話が異なります。納屋は、私の居場所である前に、嵐どのの居場所でもあるのではないのですか」

「……………………解ってへんな。若雪どのは、いっこも解ってへん。今では、この邸は若雪どのがおるからこその、俺の居場所や。あんたがおらんようになったら俺の居場所は――――――――、この世のどこにも()うなる」

 横を向いたまま、嵐は一息に言った。

 かつて嵐は実際にその絶望を、身を以て経験した。

母が死んだ時。

子供心に、これで天も地も消えてしまった、と確かに感じた。

 その時は何とか()(とど)まって生きた。

 そして今がある。

 しかし、次の絶望には耐えきれる自信が無かった。

 若雪は、嵐の言葉に衝撃を受けた。狼狽(うろた)えながら口を開く。

「そのような―――――そのようなことはありません。嵐どのは、強いお方です」

 嵐が若雪を見た。

 嵐はそれまでに見たことの無いような、哀しみに歪んだ顔をしていた。

 濃い、悲嘆の色がその目にはあった。

 その顔を見て、若雪は言葉を失った。

 何か言わねばと思い、しかしどんな言葉も、ついに口にすることは出来なかった。


 翌日の晩、嵐は宗久に呼ばれた。

 いつもの宗久の居室ではなく、釈迦(しゃか)如来(にょらい)立像(りゅうぞう)を安置してある小部屋に来るように、とのことだった。

「――――叔父上、嵐です」

「入り」

 灯明(とうみょう)だけが照らす室内に、宗久が釈迦如来立像に向かって座っていた。目を(つむ)り、静かに合掌(がっしょう)している。

 釈迦が座る蓮華(れんげ)を模した蓮台(れんだい)を含め、身の丈十寸程の釈迦如来立像は、右掌を前に向けた施無畏印(せむいいん)、左掌を前に向けた()願印(がんいん)という立ち姿で右腕は上を、左腕は下を向いている。施無畏印は人々の恐れを取り除き(やわ)らぎの心をもたらす印、与願印は人々に慈悲を注ぎ、願いを叶え成就させる印とされる。金色の釈迦如来は、光背のみならずその全体が灯明の明かりを受け、柔らかな金色に輝いている。

 横目にそれを見遣った嵐は、静かに中に入り戸を閉めた。

 祈ることで報われるものなら、幾らでも祈ってやる。肝心な時に神仏が、結局はどんな救いをもたらしてくれると言うのだ。

 若雪が労咳に罹るのを、ただ安穏と見過ごした癖に。

 仏像が目に入った瞬間、嵐自身さえ思いも寄らなかった強い反発心が、唐突に嵐の中に沸き起こった。今となっては、陰陽の道を修した嵐であっても、そんな疑念や腹立ちを覚えずにはいられないものがあった。

 板張りの床に、宗久と嵐の二つの影が揺らめき、静まった。

 時折、こうして宗久が一人この部屋で仏と向き合うことを、嵐も家の人間も知っている。

 それゆえ宗久もまた、自分と同じく己の罪業を自覚する人間なのだと、嵐は思っていた。何の痛痒(つうよう)も感じずに嵐の母を救わずにいた訳でもなく、人を殺す武器の多くを売り捌いている訳でもないのだ。

御仏に(すが)ろうとする気持ちも、人並みに持ち合わせている一人の人間だ。

(――――老いたな)

 唐突に、嵐は思った。畏敬する叔父を、突き放した目で見ている自分にも驚いていた。

 いつの間にか、宗久は随分と白髪が増えた。

 目の前の背中からはいつもの覇気(はき)が感じられず、どこか力無い印象を受ける。

 宗久が合掌していた手を()き、口を開く気配がした。

「……嵐」

「はい」

 呼びかけのあと暫く、宗久は沈黙した。言うべき言葉を、探しているようでもあった。

「………………お前は。お前は、儂の期待する以上の男に育った。お前の才覚は、若雪に比べてもいっこも引けをとらんと儂は思う。儂の自慢の甥や。……もう、納屋を離れても、十分に生きていけるやろ」

 宗久が普段より(しわが)れた声でそう語るのを聴いて、嵐は察するものがあった。

「兼久どのが、来たんですね」

 宗久は背中を向けたまま答えた。

「ああ………。――――――――話は、全部聴いた」

 宗久の背中が、より小さくなったように見えた。

「………………さいですか」

「嵐。お前と若雪に、桜屋敷をやる。今までそなたらが働いたぶんの、まとまった銭も支度して渡す。これまでそなたらにしてもろたことの、それに見合う報酬になるか解らんが―――――――。儂はもう十二分に、そなたらに助けてもろうた。せやから、もうこれ以上はええ。――――――この邸を、去れ。そして二度と、納屋に関わるんやない」

「……………」

 それが宗久なりの(つぐな)いなのだ、と嵐は悟った。

 嵐も若雪も、今では宗久の(ふところ)(がたな)と呼ばれる程に、会合衆の間にもその名は知れ渡っていた。二人を同時に手放すことで納屋が受ける痛手は、小さなものではないだろう。しかし宗久は決断した。そうすることで、兼久の父としてのけじめをつけようとしている。

「納屋にも今井の名にも縛られんと、好きに生きや。そなたらやったら、出来るやろ」

 半ばこの展開を予想していた嵐は、取り乱すこともなく話を受け容れた。

「……はい…。叔父上…………これまで長らく、ありがとうございました。俺を納屋に置いてくれたこと、感謝しとります」

 嵐は宗久の背に、深く頭を下げた。

 母への仕打ちを恨んだこともあったが、思えばこの叔父には、実に多くのことを教わったのだ。商いのいろは、駆け引きや交渉のこつ、情報を握ることの重要性、洞察力の磨き方など、数え上げればきりが無い。納屋にいたからこそ、若雪にも出会えた。

 宗久の意向に沿って動くことが、喜びの全てと感じた時期もあったと、嵐は懐かしく思い返していた。

 けれど、これで別れだ。

「…儂も感謝しとる。嵐。お前が、……兼久を殺さんといてくれたことに」

 宗久の言葉に、譲れない一線を匂わせる声音で、嵐がはっきりと言った。

「若雪どのは、まだ生きてはりますから」

「………………」

 嵐が言葉に籠めた意味に気付かなかった訳ではないだろうが、宗久は何も言わなかった。

 部屋を出ようとした嵐に宗久が、これだけは、と言うように声をかけた。

「嵐、若雪を―――――――――――、頼む」

 苦渋(くじゅう)の中から絞り出された声だった。

 嵐は当然という口調で答えた。

「はい、解ってます。俺がついとります」

「必要なもんや、手に入らんもんがあったら知らせえ。儂が、何とかする。必ず」

「はい」

 兼久は若雪を失い、若雪は兄を失い、宗久は甥と娘を失った。

 嵐もまた納屋と叔父を失ったのかもしれないが、若雪は残った。

 まだ、残っている。

 それで良い、と思った。

 宗久は最後まで背を向けたまま、一度も嵐の顔を見ようとはしなかった。

 


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