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桜屋敷 一 (前半部)

第七章    桜屋敷


桜よおまえ

咲き誇れよ

このまなこが消えても

残酷なほど健やかな

ことわりのもとに



 嵐の顔はひどく静かだった。

 身体のどこにも力みが感じられず、手にした腰刀が無ければ、いっそ和やかとさえ言える程の立ち姿だ。

 凪いだ海のような嵐の目は、これまでに智真が一度も見たことの無いものだった。

 しかしその凪ぎは、今からまさに荒れ狂わんとする海を思わせ、智真の背には戦慄(せんりつ)が走った。

 耳を打つ緩やかな雨音が、どこか遠い世界のもののようだ。

 嵐が身に纏った上衣は蘇芳の赤で、袴は墨染をやや薄めたような色合いだった。

 妙に派手なその色合わせは、返り血が飛んでも目立たないように、予め計算して選ばれたもののように智真には感じられた。ぞくり、と背中に再び嫌なものが走る。

「嵐―――――、いつから、聞いてた?」

 嵐の凪いだ瞳が智真を捉えた。

「小雨がこの家の庭に入り込んでた、っちゅうあたりくらいから。…お前がおるとは思わんかったわ」

 あっさりと答える。

 それでは話のほとんどを聴いていたも同じだ。

 気が付けば智真は、嵐から兼久を庇うように両者の間に身を割り込ませていた。

「どき、智真」

 言ったのは嵐ではなく、兼久だった。

「私は由風と話さなあかんことがある。…私に色々、訊きたいこともあるんやろ。そうやな、由風?」

 嵐は変わらぬ静かな表情で、兼久を見た。

 それから右手で懐から何かを取り出すと、無造作(むぞうさ)に畳の上に放り投げた。

 カチャン、という音を立てて畳に落ちたそれは、白い(ひも)で括られた二つの鍵だった。

「……嵐、これは?」

「ああ、智真は見たこと無いやろな。納屋の裏口の門の、外にかけられた錠前(じょうまえ)を開ける鍵や。叔父上が随分前に、阿波(あわ)の職人に特別に作らせた、からくり錠を開ける鍵がこれなんや。この二つの鍵を使わな、開かん仕組みになってんねや。尤もそれ以前に、普段は見えへんようになっとる錠前の鍵穴を見つける為の、面倒なこつがいるんやけど。納屋が扱う商品は手広いし、中には危険な武器の類も多い。そういう品を仕入れるとこは、あまり人目につかんほうがええ。そんな時の為の裏口なんや。その門の守りは頑丈(がんじょう)なんに越したことない。普段は外から錠前がかかっとるさかい、裏口を使うこた無い。どうしても裏口と外を出入りしたり、なんかを出し入れしたりする必要がある場合は、予め外から錠前を(はず)しとく、ちゅう手間をかけなあかん。まあ俺なんかは、手傷でも負うてなければ裏口の塀を超えるくらい出来るけどな。裏門のからくり錠の鍵を持つ人間は、納屋でも限られとる。叔父上、俺、若雪どの、そして―――――兼久どの」

 智真が振り返って兼久の顔を見る。

 名指しされても、兼久の表情は相変わらず穏やかだ。

「これは、俺の鍵やのうて、兼久どのが小雨の亡骸(なきがら)を明慶寺で弔ったあと、住持に預けたもんや。さっき、小雨の墓を確認したあとに、借りて来た」

 それでは明慶寺に行くという言葉そのものは、偽りではなかったのだ。

 智真は思った。

 嵐はそれから少し首を傾けて兼久に尋ねた。()せない、という顔をしている。

「なあ、兼久どの。あんた俺に、殺されたかったんか?」

 兼久はじっと嵐の話を聴いていた。

 口元には笑みが浮かんでいるが、目は笑っていない。

「―――――あらかたの見当は、もうついてるんやないか。この上私に、何を訊く」

 首を傾けたまま、嵐は続けた。

「……小雨が、若雪どのに病をうつしたんやないか。そう思うた俺は、考えた。小雨は気付けば中庭にいたんやと、若雪どのは言うとった。表の入口にはいつも店の誰かがいてる。そんなら小雨は、どないして中庭まで入り込んだ?裏門を通って来たとしか思えん。なら裏門の錠前は、どないして開けた?鍵を、小雨は持ってたんや、最初から―――――――――兼久どのから渡された、鍵を。どこの鍵やと解ったとしても、たまたま拾っただけで開けられる代物(しろもん)とちゃう。開けるこつを教わらな、あの錠前の相手は無理や」

 嵐は畳の上の鍵に視線を落とし、そこに小雨がいるかのように言った。

「…小雨は頭のええ子やったんやな。七歳やそこらの子供に、なかなか理解出来る仕組みの錠前やない。よう教え込みましたね、兼久どの。…誰にも見咎められることの無いよう、錠前を開けて邸内に入り、出る時にまた錠前をかける。門の内側から錠前をかけることは出来ん。けど、錠前を開けたままにしとる間に、納屋の誰かが裏門を使おうとせん限りは、その出入りに気付かれることも無い」

 謎解きと言う程でもない、嵐にとっては簡単に行き着く答えだ。

 若雪もまた、この答えに(なん)()く行き着いたであろう。

 行き着いて、そして、口を(つぐ)むことを選んだ―――――――――。

 兼久の表情も、嵐の表情も変わらない。

 表向きは、極めて穏やかに話をしているように見える。

 しかし、それは本当に表向きだけだと知る智真は、固唾(かたず)()んで二人を見守っていた。

 嵐の左手に握られた腰刀は、いつ(さや)から抜かれてもおかしくはなかった。

「明慶寺の和尚さんに、言ったそうですね。もう自分はこの鍵を使うことは無いやろうから、寺に置いといてくれと。納屋との縁を切る覚悟、いや、死ぬ覚悟が出来てたいうことですか?」

 兼久は何も言わない。口元の笑みも、そのままだ。

「――――答えろや。望み通りに、殺したるさかい」

 抑えていた嵐の、赤黒い殺気が噴出(ふんしゅつ)した。

 ただ表情だけが、変わらない。

 瞳には爛々(らんらん)とした光が宿っていた。

「あの子…小雨は、なんで私のとこに戻って来たんやろな……」

 兼久は嵐の問いには答えず、独り言のように言った。

 嵐の片眉が跳ね上がる。右手は今にも刀の柄に伸びそうだった。

「若雪のところに、行ったっきりでええて言うたんや。母親と慕う人間の傍で死んだほうが、小雨も幸せやろ。けどなんでかうちに戻ってきてそのまま寝付いて、………血を仰山(ぎょうさん)吐いて死んだ」

 嵐が刀を抜いた。

「あかん、嵐!」

「どけ」

 短く言うと、嵐は智真を加減の無い力で押し退けた。体勢を崩した智真は吹っ飛び、障子に背中から倒れ込んだ。紙が破れ、障子の(さん)が折れて派手な音を立てる。

「……なあ、由風。なんでや?」

 その成り行きに頓着することなく、兼久が問いかけた。

「なんでお前は、若雪を満たそうとした。…稀なるやつしの美を、壊そうとした?」

 嵐が眉を険しく顰めた。

 兼久は、何の話をしている?

「昔の若雪は、私の理想とする美をそのまま(あらわ)してた。心に傷を負い、頑なで、清らかで、(いびつ)で。痛々しい程に、美しかった。そのままの美を、ずっと(たも)ってゆくもんやと、私は思うてた。その姿をずっと()でてゆけるもんやと。それを眺めてられるだけで、私は満足やった。――――私のものにならんでも、良かったんや。けど――――、若雪は変わった。次第に、満ちていった。……私には、それが解った。そんな若雪は望んでなかった。不足の美、欠けた美を備えた若雪を、――――お前が台無しにした。若雪を変えてしもうたんは、お前や。由風」

「―――――あんた、自分が何言うてんのか、解ってんのか?」

 兼久の言葉は、嵐には狂人の独白(どくはく)にしか聞こえなかった。

 倒れた障子戸から起き上がった智真も、唖然(あぜん)とした表情で兼久の語る声を聴いていた。

 確かに若雪は変わった。

 昔は凍てついたようにほとんど動かなかった表情が、次第に豊かになった。

 温かな湯に浸かった氷が溶けるように、喜怒哀楽が顔に(にじ)み出るようになり、何よりよく笑うようになった。静かだが、こぼれるような笑みを見せるようになった。

 それらの表情は常人よりは控えめだったが、明らかな変化だった。

 更に若雪は、以前よりも自分の望みを少しずつながら、口に出せるようになってもいた。

 小袖姿に戻り、茜や市と笑いながら言葉を交わす姿は、一人の若い女子そのものだった。

 兼久が口にした「満ちる」という言葉が、それらのことを言い指しているのだとしたら。

 それが、兼久には許せなかったというのか――――――――。

(話にならん…)

 歪だったのは兼久の目のほうだ。

 嵐には、兼久の身勝手な理屈としか思えなかった。

 兼久は答えずに続けた。

「若雪の変化が、私ゆえのもんならまだ許せた。けど、そうやなかった。――――――なんでや?父上の信頼も、若雪の心も、なんでお前にばかり向かう!」

 初めて、兼久が怒鳴った。

 その叫びは痛手を負った獣の叫びのように、智真の耳を打った。

(兼久どの…。あなたもまた、傷の痛みに耐えてはったんですか―――長いこと、独りで)

 癒す(すべ)も知らぬまま、(うずくま)っていた。

 なんと不器用で悲しい心か、と智真は思った。

(納屋を離れるべきやなかったんや―――――――)

 兼久自身は、恐らく納屋と距離を置くことで、自らの心の均衡(きんこう)を図ろうと試みたのだろう。けれどむしろ若雪たちから遠ざかることで、兼久は一層の孤独と狂気に(さいな)まれてしまった。彼が愛した孤独が、彼を追い詰めた。

 誰かが兼久を、振り向いてやらねばならなかったのだ――――――――。

「父上は、私を茶の道以外に関わらせなんだ。私には、それだけしか才が無いと見切ったからや。お前や若雪に父が寄せる信頼が、(ねた)ましかった。お前に傾いてく若雪の心が、耐えられんかった。若雪を死に追いやって、お前が私を殺したら、父上はお前を憎むやもしれん。そう思うた。――――お前から、全てを奪うてやりたかった」

 兼久の内に籠められていた憎悪が、今、嵐に向けて()き出しになっていた。

 嵐は微動(びどう)だにしなかった。

「………せやから、若雪どのを殺そうと?…そうして俺に、殺されようとした言うんか」

「―――――麝香(じゃこう)の香りも、もう消えた……。この上、やつしの美から遠ざかる若雪を見続けるくらいなら、いっそ、私の手で壊してしもうたほうがええ………」

 兼久は微笑みながらそう言い、緩々(ゆるゆる)と畳に座した。

 嵐の刃が、その身を斬るのを待つかのように。

 嵐はその姿を見て少しの間黙ったが、小さく言った。

「あんた、思い違いしとるわ」

 兼久が顔を上げる。

「……叔父上はな、俺より若雪どのより、兼久どの。あんたがいっとう大事なんや。昔っからな。せやから、俺らが関わる血生臭(ちなまぐさ)俗事(ぞくじ)から、あんただけは遠ざけておこうとした。世相(せそう)から切り離された、静寂に満ちた茶室に押し込めることで、あんたを守ろうとしたんや。――――――――――――――賢いあんたに、なんでそれが解らんかった?」

 一瞬だけ、嵐はひどく苦しそうに顔を歪めた。

「…若雪どのについてあんたが言うてることは、俺にはよう解らん。俺が関わっても関わらんでも、若雪どのはいずれ自力で満ちていったやろう。切り開く強さを―――――元々持っとるお人や。あんたの言う通り、あんたを斬ったら叔父上は俺を許さんやろけど、俺もあんたを許せん。……若雪どのの望みはな、ただ家族を守ることやった。あの、才覚の(かたまり)みたいな若雪どのが望んだんは、(ほまれ)でも身分でも銭でも無い。…ただそれだけやったんや。信長公の為に働いて、乱世を鎮めて――…、そうやって俺らを、守ろうとしてた。そないまでして守りたい家族にはあんたかて―――」

「―――――――――兄と慕われて、何が嬉しい」

 嵐の言葉を遮るように兼久が低い声で言い捨てた言葉の意味は、嵐にも解った。

 歪んだ形ではあったが、決してまっとうとも言えないものでもあったが、兼久は確かに、若雪に狂おしい程焦()がれていたのだ。


「……もうええやろ、嵐」

 ずっと二人の傍らに立っていた智真が言った。

 ひどくやるせない表情をしていた。左の目からは堪え切れなかったもののように、涙が一筋流れ落ちている。墨染の袖でぐい、とそれを(ぬぐ)った。

 しかし嵐は構わなかった。

「智真、見たないなら外におれ」

 智真が止める間も無く、嵐が白刃を振り上げた。

 そこに、一つの影が躍り込んだ。

 ガキンッという金属の打ちつけ合う音が鳴った。

 場違いな程、明るい火花がパッと散る。

 左右の手にそれぞれ持った鎌で、ギリギリと嵐の刀を押し戻そうとして、兵庫が歯を食いしばっていた。

「どういうことや、兵庫」

 刀に籠めた力を緩めずに嵐が険しい顔つきで問う。

「……若雪様の、命令です」

 嵐の刃を渾身の力で押し返しながら、兵庫が答えた。

 一見、拮抗(きっこう)しているような力の押し合いに見えたが、実際は兵庫より細身に見える嵐のほうが優勢であることは、傍目(はため)にも明らかだった。

 嵐は冷たい目で兵庫を睨んだ。

「ほだされたか」

「―――いえ、兼久どのを嵐様が殺めれば、納屋が分裂する、と若雪様に言われました。それは嵐様の為にならないと。その(ことわり)に、納得しただけです。あの身体で、俺が行かなければ自分が行くとまで言い張られては、動かざるを得ませんでしたしね」

「言いくるめられたな。…ええからどけ。―――お前かて、殺すぞ」

 ぎらりとした目で()め付ける嵐の言葉は、誇張には聞こえなかった。兵庫は我知らず唾を飲む。背中をつう、と汗が流れた。それでも、鎌を握る手には渾身の力を籠めたままだ。例え殺されようと譲れない一線の上に、兵庫は今、立っていた。兵庫を怒鳴りつけた若雪の黒い瞳の輝きが、兵庫の脳裏を支配していた。

「―――――退()けません。……若雪様が、泣きますよ。あなたの為に。いいんですか」

 嵐の表情が変わった。眉が歪む。

 ギリ、という歯軋(はぎし)りの音がその唇から洩れ聞こえた。

 兵庫が全身で受け止めていた力の圧迫が、ふっと緩んだ。

 すかさず兵庫は後ずさり、兼久を後ろに庇う体勢で、再び鎌を構えた。

 嵐は追撃することをせず、暫くの間静止していた。

 その場にいる誰にとっても、永遠のように感じる沈黙の時が過ぎた。

 長い、長い沈黙ののち、誰の目も見ずに、嵐は口を開いた。

「――――俺は、絶対に諦めん。若雪どのを、必ず治してみせる。けど、それでも万一若雪どのが死ぬようなことになったら、兼久どのを殺す。今度こそ、誰にも止めさせん。止める奴に手加減する気も無い」

 そう言い放つと、一切振り返ることなくその場から立ち去った。


 嵐が去ったあと、智真は全身の力が抜けて、その場に膝をついた。

 激しい動悸はまだ治まらず、こめかみからは汗が伝い落ちている。

 当面の、最悪の危機は去ったのだ、とようやくの思いでそれだけ認識した。

 さすがに消耗した様子の兵庫が、無言でその腕を取り、支え起こす。

 そんな二人の耳に、座り込んだ兼久の声が聞こえた。

「…由風も、存外に甘いな…………」


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