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花筏

日本中世史を舞台とした、研究論説を参考に書いた時代劇のフィクションです。

よろしければお楽しみください。

「やめろ、やめるんや、(あらし)!その数珠(じゅず)放せ!」

狂い咲きの桜の下、流れた鮮血が一人の男をも狂わせた。

風花(かざはな)と桜の花びらとが、入り乱れ舞い踊る。

どこまでも。

嵐と呼ばれた若者の腕には若い女が抱かれている。身に(まと)打掛(うちかけ)は血まみれで、眠るように目を閉じている。

女の身体を抱いたまま、天を(あお)ぐ若者の目には、途切れることのない涙が(あふ)れていた。その瞳はまるで(ほら)のように(うつ)ろで、どこも見ていない。

もうどこも見ていない。

何事かを低くぶつぶつ呟いているようだが、内容を聞き取ることはできない。

雷鳴が遠く聞こえる。

彼が手に持つ数珠の糸を引き千切(ちぎ)ると、(つら)なっていた水晶玉が一斉に(はじ)け散った。緋色(ひいろ)を映し花びらや雪片(せっぺん)の舞う中を、踊るように水晶の一粒一粒が、あるいは跳ねて、あるいは転がり、きらきらと輝く。

それは禍々(まがまが)しさを(はら)んでいながら、息を呑むほど美しい光景だった。

(若雪…)

(若雪…)


「やめろ―――――――っ!!」












 


第一章 (はな)(いかだ)


花の降る下

まわるまわる

歯車の音

つないだ手と手に

これからだよと囁く声


     一    


今でも覚えている。

季節は春。

冬の寒さと夏の暑さから(わず)かに逃れ出た、最も人に優しく和やかな表情をさせる、短い時節の出来事だった。

まだ満開を間近に控えながらも、はらはらと舞い踊る気の早い桜の花びらが、人の歩き行く先々の道で衣や髪にまとわりつこうとしていた。

 時は元亀二(1571)年。自治都市・堺。

 腰刀を後ろに差し、大小路(おおしょうじ)通を歩く嵐は弱冠十二歳。

 生成の木綿地に浅葱(あさぎ)色の袴を穿()いた少年の印象は涼しげだ。嵐は着るものにこだわる性質(たち)であった。小姓でも務まりそうな柔和な顔立ちの少年の目は、桜の花ではなくもっと奇妙なものを視界の端に捉えていた。

 大振りの(くし)にくっついた、きょろりとした一対の瞳。

さらには手足がにょっきり生えた異形(いぎょう)のものが、嵐のほうをじっと見ていた。

目玉は絶えずきょろりきょろりと動いているが、しばしば嵐を振り返るので、その様子を見るともなしに見ていた嵐と何度も目があった。

(つく)喪神(もがみ)か…)

 (ぶっ)(しょう)に宿る精霊が、先ほどから嵐を振り返り振り返りしながら、大路の隅をちょこまかと歩いている。

 通りを歩く他の人々が騒がないのは、それが視えていないからだ。常人には視えざる鬼や霊を視る、嵐のような資質を持つ者は「(けん)()」と呼ばれる。

 櫛の付喪神は、嵐に「ついて来い」と言うように立ち止まっては振り返り、嵐がついて来ていることを確認すると、「よし」、と言うかのようにコクリと一つ頷いては、また歩き出すという行為を繰り返している。

 付喪神が率先して人に関わろうとすることは余りない。

 珍しいこともあるものだ、という好奇心から、誘われるままついて行ってみることにした。春の陽気に、嵐の気分もどこかほろ酔い加減であったことは否めない。

不意に追っていた姿が掻き消えた。

同時に声が上がる。

「三郎!」

高く響く女の声に、嵐は振り返った。

周囲を見渡す。

往来の中、男女の供を二人ほどつけて立っている女は確かに自分に呼びかけたようだった。傾斜の浅い市女笠(いちめがさ)に、長い虫垂(むした)(ぎぬ)。白い浄衣(じょうえ)を身に纏っているところからすると、どこかの寺へ参詣の途中か。

遠方から苦難の道を歩んできた、そんな気配が彼女たちにはあった。

この都市は色んな人間が出入りするから、参詣者の姿もよく見かける。乱世だけに探し人は多く溢れ、生き別れた身内を探す挙句(あげく)の人違いも、ままあることだ。とは言えそれが、己が身の上に起こるとなると、嵐には鬱陶(うっとう)しいことでしかない。

女の足元にはいつのまにか、櫛の付喪神がちょこんと立ってこちらを見ている。

相変わらず目玉をきょろきょろ動かしながら、満足げに一つ二つと頷くその様子を見て、嵐はそれが目的を果たしたことを察したが、その思惑通り面倒事に巻き込まれたことが、多少、(しゃく)に障った。

(こいつ)

付喪神が寄り添う女は長い垂れ絹のせいで最初は大人の女性かと思ったが、声や体つきの小柄なことからして、どうもまだ年端もゆかない少女ではないだろうか。

目を凝らして見ると、娘の周りには櫛の付喪神だけでなく、身に着ける種々のものの付喪神の姿が見える。それらはまるで蛍の光の明滅のように、姿を現しては消え、を繰り返していた。

よくよく物精に好まれる性質のようだ。

「視える」人間にとって、それは一種の判断材料となる。往々にして性根の腐った人間は付喪神にも嫌われる。好ましい人柄の人間は、逆に懐かれる。うわべを繕っても誤魔化しようのない人間性がそこに表われるのだ。

また垂れ衣の隙間からちらりと垣間見(かいまみ)えた娘の容貌が、嵐に浮ついた期待を抱かせてぞんざいな態度を控えさせた。

(えらい別嬪(べっぴん)かも)

「お人違いのようやけど」

愛想良く、かつ丁寧に指摘してからにこりと笑ってみせる。

幼女から老婆に至るまでほとんどの女相手に、大体この笑みで好感を得なかった(ためし)はない。自覚してから数えられない程に活用し続けてきた、武器とすら自負する笑顔だ。

他所(よそ)の国から来はったんですか?今からどちらへお出でです?」

 愛想の良い顔のままに言葉を継ぐ。この町で知らぬことなど無い。

叔父の使いを済ませ、今日はもう予定も無い。親切ついでに多少の道案内くらいしてやってもいい、と思った嵐の耳に予想外な言葉が飛び込んできた。

「あ――…、ごめんなさい、失礼を。私共は、今井宗久(いまいそうきゅう)様のお邸へ向かうところなのです」

娘の口から出た言葉に、一瞬嵐の身体がピタリと停まった。

「今井宗久。会合衆(えごうしゅう)の?」

 この町では知らぬ者の無い名前だが、娘の装いから嵐はてっきり神社仏閣の名前が挙がるものと思っていた。

「はい。納屋、という屋号であると伺っておりますが。迎えの方がまだいらっしゃらないのです」

 慎重な口ぶりで娘が続けた。

 嵐は探るような視線で娘の頭から爪先までの全身を改めてじっくり眺める。

「……へえ、なるほど。今井宗久様のお邸に……。…その場所ならよお知ってます。俺もその方向に用がありますし、良ければ共に来はりますか」

年の割に嵐の内面は、その生い立ちなどもからんで非常にませてもひねくれてもいたのだが、あどけなく素直そうな容貌がその内面を見事に覆い隠していたため、大抵の人間はその上辺(うわべ)のほうを信じた。

そしてその上辺はこの場合、娘に、嵐に対する頼りなさを喚起(かんき)させたらしい。

今度は娘が虫垂れ絹越しに、身を乗り出して聞いた。動きに合わせて垂れ絹がサラリと揺れる。

「あなたこそ、迷子ではないのですか?それとも、宗久様のお邸近くにお(うち)があるの?」

(はあ!?この俺が迷子やと?お家やと?)

あどけなく頼りなげな幼な子。自分をそんな子供と見て取り発せられた言葉に、自尊心の高い嵐はひどく鼻白んだ。だがこの育ちの良さそうな娘に悪気はないようで、本気になって案じている気配が、垂れ絹を通しても伝わってくる。

「―――――」

その様子に嵐は腹立ちを霧散させた。やれやれとため息を吐き、続ける。

「迷子やないですよ。ともかく、俺について来てください」

 娘は軽く小首を傾げた。市女笠の動きでそれと分かる。それからまたも嵐にとっては面白くないことに、供の二人を振り返り「この子供に任せて大丈夫だろうか」と伺うように見た。嵐は黙って腕を組み、じっとそれを眺めていた。言うべきことは言った。あとはもう、彼らが決めることだ。僅かな間、一行の間に思案する空気が流れたが、結局は自分を納得させるように娘が軽く頷いた。決まったようだ。

「では、よろしくお願い致します」

(正解や)

 嵐は胸中でにっと笑った。

 初めて娘が市女笠をそっと外し、両手に持った。虫垂れ絹の覆いが消えて、娘の容貌が露わになる。

 漆黒の髪が一房肩に流れ、十四、五歳と見える端麗な容貌の少女がそこにいた。顔の作りは端麗だが、その表情は読みにくい。虫垂れ絹越しのほうが、気配で感情を読みやすかった。

 嵐は少女が頭を下げる間もずっと彼女を観察していた。

 少女の頬はしばらく満足に食べ物を摂っていなかった者のようにこけ、顔は青ざめている。顔形が美しいぶん、その憔悴(しょうすい)ぶりは際立って痛々しかった。今は気力を絞り、ようやっと二の足で立っている状態に見える。

 何か危急の事態が起こったのだろう、ということは嵐にも見当がついた。ともかくも、この少女には一刻も早い休息と静養、栄養が必要だ。しかし彼女はそんな極限状態にあってさえ、案内してもらうことに対する嵐への一礼を惜しむことはなかった。

 ちらちらと桜の花びらが散る中で、まだ幼い少女が丁寧にお辞儀をする所作(しょさ)一つにも、真摯で切迫した思いが感じられた。その動きを嵐は美しいと思った。

 ぜんたい、このいかにもいわくありげな少女は何者なのか。

 少女のお辞儀を目玉をきょろりと動かして見ていた櫛の付喪神が、ちんまりとした手でこりこりと頭を掻いてから、それに(なら)うようにちょっこり、と身を(かが)めた。

少女の流麗なそれとは似ても似つかないが、お辞儀を真似ているらしい。

そうして時の輪が回り始めた。



堺の町は大小路通をはさみ、大きく北荘と南荘にわかれている。

嵐は危なげない足取りで、家屋の密集した南荘にある今井宗久の邸にこの少女の一行を案内した。正直少女がいつ気を失いはしないかと内心で危惧(きぐ)していたのだが、気丈にも彼女は背筋をぴんとのばした姿勢で、粛々と嵐についてきた。

道中の様子から、少女本人は見鬼ではないことが察せられた。自分について歩いている付喪神に、全く頓着しないのだ。そもそもあまり表情を動かさない少女のようではある。

(まるで視えてへん割に、慕われてんけどな)

宗久の邸につき、出迎えの者に「お帰りなさい」と言わせる前に手を振ってそれを遮り、小声で尋ねる。

「叔父上はいてはる?」

「はい、いはります。…お客人ですか?」

「せや。俺は先に説明しに行くさかい、あんたは白湯でも飲んで待っといてや」

 振り向いて告げた嵐に少女はやや(いぶか)しげな顔をしたが、大人しく頷いた。供として付き添っていた男女は別の部屋へと案内されて行く。遠ざかる二人の後ろ姿を見送りながら、少女はそれに向かってしばらく頭を下げたまま動かなかった。

 それから、八畳ほどはあろうかという客室で供された白湯を飲んだ。長旅で困憊(こんぱい)した身体に、白湯のぬくもりは染み入るかのようだった。程無くして嵐が戻ってきた。

 宗久のもとへ案内するのでついて来るように、と言う。

 少女は自身の旅装の汚れを気遣い躊躇(ためら)った。

「かまへんから()い。早う」

そう言ってそのまま広い屋敷の中、無言で迷うことなく進む嵐を、少女は物言いたげに見ていた。説明を欲しがっていることは感じられたが、嵐はそのまま黙っていた。

少女の様子から見ても、話は入り組んだものになりそうだ。

自分が宗久とどのような関係であるかなどといった事柄も含めて、煩雑(はんざつ)な説明は一度きに済ませたほうが効率的だ。

そんな嵐の様子に、一つ溜息を吐いて説明を求めるのを諦めた少女は、何気なく歩いているように見える嵐が、全く足音を立てていないことにその時気づいた。

 その人物は案内された部屋の上座に、文机(ふづくえ)を前に坐していた。

 一見して好々(こうこうや)ぜんとした風貌である。白髪の混じった薙髪(ちはつ)といい、およそ曲がることを知らぬような伸びた背筋といい、身に纏う着物の上質であることを差し引いても、全体に人品卑しからぬ雰囲気を醸し出している。

自治都市・堺を束ねる会合衆の一人であり、千宗易(せんのそうえき)津田宗及(つだそうきゅう)と並び天下の三大茶人と称される今井宗久その人である。その名は広く武将たちの間にも鳴り響き、茶の湯、商いの道において多大な影響力を有している。

 文机のさらに手前前方には、円座(わろうだ)が一枚、敷いてあった。少女の為のものだろう。

嵐は何も言わずに宗久の斜め横の畳に、すとんと胡坐(あぐら)をかいた形で座る。

「若雪どの。よう無事に来はったな。この邸までの案内に(よこ)した者が、出会えんかった言うて戻って来た時には心配したで」

 宗久が目を細めて感慨深げに言った。

(ワカユキ?…若雪、言うんか)

人によっては名前負けしそうなものが、この少女には、音の響きも従順に従うような気がした。まだ若いというのに、そこにいるだけで周囲の人間が思わず背筋を正さずにはいられないような威厳がある。その、凛とした雰囲気によく似合う名だった。

櫛の付喪神は、まだいる。

今は、ちょこちょこと宗久の傍まで行き、その膝にぴょい、と登ると何をするでもなくしげしげと宗久の顔を覗き込んでいる。大きな目は相変わらずきょろきょろと(せわ)しないが、宗久にはそうした一連の様子は全く視えていない。

他の付喪神たちの姿は、今では嵐の目にも視えない。しかし姿無き彼らの醸し出す(うごめ)くような存在感は少女生来の存在感も加わり、確かな厚みをもって嵐に無言の圧を加えていた。

(重いな…)

 それは嵐の鋭敏な感覚でしか捉えられない気配の相違だ。

宗久に声をかけられた少女・若雪は、嵐の存在など忘れたかのように円座の横で居住まいを正した。

「すみません、ご心配をおかけしました。このたび宗久様にはご厚恩を賜り、感謝の言葉もございません」

そう言って宗久の居室に敷かれた畳に額がつくくらい、深々と頭を下げた。

宗久が眉を寄せて手を振る。

「やめてや。そないに言うてもらえるほど大したことも出来なんだのは、この儂が一番よう(わか)っとる。…ご家族のことは残念やった。堪忍してや。―――ところで、既に顔合わせは済んだようやけど、この悪童(あくどう)は嵐と言うてな、儂の甥や。まあこんなんなるんやったら、初めから嵐を遣せば良かったな。十二になるさかい、十四歳にならはる若雪どのより年下やな。ああ、…三郎殿と同じ年頃か」

(三郎)

 最初にこの少女は、嵐に向かってそう呼びかけなかったか。

そこで若雪も宗久もしばし黙った。

 一瞬の沈黙を振り切るように、宗久が嵐に顔を向けた。

「嵐。こちらはな、出雲大社で高位の神官を務めておいでやった小野家のご息女の、若雪どのや」

(ふうん、大社の上級神官の娘か)

そういうことなら、少女から感じられる育ちの良さにも得心がいく。

やたらと付喪神に好まれる理由も、そのあたりに起因しているのかもしれない。

「若雪どの、実はな、そやつは忍びが本業や。いまだ若輩やけど、十二分な働きをしてくれとる。しかし酔狂なことに、なんでか陰陽道にも興味があるようでな。その方面にも手を出しとるんや。一つに絞ればええもんを、あれやこれや忙しい奴よ」

 宗久は嵐が見鬼であることを知らない。

「叔父上は、俺が器用貧乏やと言いたいんや」

 肩を(すく)めた嵐に、若雪は小さく笑う。

「今の時勢ではその両方が重用されます。嵐どのは今後、宗久様の重要な片腕となられるのでは?」

「さあて、そこまで見どころのあるもんかどうか」

腕組みをして首をひねって見せる宗久の言葉に、若雪がふっと微笑した。先程とは異なる冷えた笑みの気配に、嵐は思わずどきりとした。

年齢に十も二十も足したようなひどく冴えた、大人びた笑いだった。

「すでに見どころあり、と思われたから、今お側に置いておられるのでしょう。いくら(わらべ)とは言え、才の欠片(かけら)もないものを側で学ばせるとは思えませんし、宗久様が血縁のみを理由に人を重用(ちょうよう)することもないと存じます」

さらさらと流れる水のように淀みなく、十四歳の少女が発したとも思えない言葉に、嵐はぽかんとした。童と軽んじられた、と怒るのもうっかり忘れる。

その言葉を受け、愉快そうな顔を作り笑ったのち、宗久がおもむろに切り出した。

「そうや、若雪どの。いまそなたが言わはったように、儂は血縁やら身内やらに惑わされ才能の有無を見失いたくはないのや。儂には愚息(ぐそく)がおるが、その愚息の兼久(かねひさ)も茶の道以外に関しては、今ひとつ頼りない。恐らくそなたのほうが、儂の役に立ってくれる資質がある。儂はそう思うとる。他のものの手中におられるのも正直厄介や。――そこでや。そなた、儂の養女にならんか。そうなれば儂はそなたという人間の持つ才覚のほかに、そなたのご両親が築き上げられてきはった、社の御師(おし)としての人脈や地の利をも得ることが出来る」

その言い様は極めて宗久らしく、飾ることのない率直な、露骨と取れるほどのものだった。だがそこに加味される宗久特有の口調の軽やかさが、その露骨な印象を和らげている。

(御師?)

 嵐は宗久の言葉の中でもとりわけ耳が反応した言葉を頭の中で繰り返す。

そういえば先頃、出雲大社の神官一家が、大社の支配権を巡る政争に巻き込まれ命を落としたと聞いた。忍び仲間の間でちょっとした噂になっていたのだ。

(その生き残りか)

それならば身に着けていた白い浄衣や長い虫垂れ絹は、参詣者を装って追跡の手を逃れるための扮装だったということか。

成る程、そうと知ってみれば(なお)(さら)、彼女の気品に加えて、変わらぬ表情に漂う悲壮感も合点がいく。今にも倒れそうな状態に至った理由も。


御師、と言うのは神官の担う特殊な役職の一つである。

とりわけ出雲の御師は神官家の中でも上級の家柄で世襲される。

出雲大社は古来より国造家と呼ばれる家が大社神官を統括してきた。のみならず、大社を含めた杵築地方一帯を実質的に支配もしてきた。

その国造家であった出雲氏が、南北朝期には二つの家に分裂する。

出雲大社では今、大社を総べる二大勢力が覇権争いを繰り広げており、ついにその巻き添えとなる死傷者を出すに至ったという話である。

その被害者一家の生き残りが若雪というわけだ。

「御師は基本的には自らが仕える社への参拝の勧誘と、参拝者への宿泊所の提供、それから地方領主や大名に請われた場合に祈祷を行うのが主な仕事や。出雲大社の御師はそれを名目に出雲のみならず、石見(いわみ)安芸(あき)備後(びんご)の国など広範囲にわたって商いも手掛けとる。関所を自由に行き来できるいうんはほんま便利なもんや。儂も商売を通じて若雪どののご両親とはそれなりに面識があっての。若雪どのはご両親に同伴し、小さいころから様々な領地を巡って来られたんや。まだ若年やけど出雲・石見近辺の地方領主との人脈もある」

宗久との話が一定の終息を迎えるや否や、立ち上がろうとした若雪はその場に昏倒し、気を失った。嵐がとっさに伸ばした手が辛うじてその身を受け留めた。

(無理もない)

 嵐からしてみれば、むしろよく()ったほうだと思う。宗久は驚く様子もなく倒れた若雪を家の若衆に命じて運ばせ、志野という侍女をつけて退出させた。

それから宗久は改めて、出雲大社の御師について語り始めたのである。

嵐も一般に知られている程度以上に、出雲大社の御師について知る訳ではない。出雲大社を巡る政争に関しても深くは知らなかったので、大人しく宗久の話に耳を傾け、語られる知識の吸収に努めた。

ちなみに付喪神は若雪たちのあとをちょこちょこと変わらない足取りでついていった。嵐や宗久には何の執着もない様子だった。

「嵐。お前は若雪どのをどう見る?」

 不意に宗久より投げかけられた問いに、嵐は(あご)に手を遣り、少し考える。

「どうて…。せやな。顔は良いけど頭が固そう。真面目そう。礼儀にうるさそう。気骨はありそう。頭が切れそう。ああ、情に(もろ)そうでもあるな。あれは命取りになるかもなあ。あと、人を童呼ばわりしてむかつくわ」

 とりあえずは、思った端から並べ立ててみた。その口調には遠慮も会釈も無く、最後の一言は完全に恨み節だった。

「………さよか。お前はもう少し歯に衣を着せるということを覚えたがええな。ようそないに遠慮のうぽんぽん言葉が出るもんや。ふん…、まあ今はそれくらい解ってたらええか」

呆れながら嵐に釘をさし、意味ありげな口調で一人頷く宗久を見て、嵐は別のことを考えていた。

(叔父上は、あの娘を手中にすることで、付随する特権や利益を丸ごと吸収するおつもりなんか)

あの倒れ伏した娘を利用して。

 石見とのつながりを宗久が欲しがるのは、銀山のためだろう。宗久は信長により、淀川の通行権や生野銀山(いくのぎんざん)の支配権を与えられている。生野銀山は信長が直轄地として石見から技術を伝えさせて以来、銀の産出額が増量している。その流れから見ても宗久が石見と聞いて欲しがるものと言えば銀山をおいて他にない。

 すなわち石見銀山(いわみぎんざん)――――――――。

(生野銀山だけでは足りんか)

 知らず、背筋がぞわりとした。

 この叔父が恐ろしいのは、実にこうしたところであると嵐は思う。

 情に動かされ知り合いの娘を養女にしたと言えば美談であろう。だが実際のところ、これは宗久が若雪に持ちかけた取引に相違ない。若雪の持つ利権を宗久が利用する代わりに、若雪は宗久の庇護下生きていく場所を得る。先程の遣り取りから、若雪も承知の上であることはわかる。もの知らぬ、利用されるだけの小娘には到底見えなかった。それらの事実は、年の割に物事に対して醒めた目を持つ嵐にさえ、幾何(いくばく)かの痛ましさを感じさせないではなかった。

だが、尽きることの無い野心を秘めた叔父への畏敬の念がそれより勝った。

 口の端でにやりと笑う。

(それでこそ、今井宗久)

商人として、茶人として、今や戦国武将にさえ一目置かれる宗久だが、野心はそれでも貪欲(どんよく)に宗久を追い立てる。

嵐はその後継の座を見据えている。宗久の実子である兼久も眼中にはない。父である宗久が言い切った通り、茶の湯以外は凡庸(ぼんよう)な男だ。宗久の築いた地位を利用して、今築きつつある商売の流れをより拡張させ、いずれ日の本にあまねく商家を成すという野望はいつのころからか嵐の中に根付いていた。そのためにそろばん勘定を覚え、堺を中心に種々の品物の売り買いされる流れも宗久の傍でずっと見てきた。

(兼久には出来ん)

 嵐とは逆に宗久の実子・兼久はそれらの世界より遠ざけて育てられた。

嵐の思い描くものは、言うなれば商売の世界における天下取りである。若雪の持つ中国地方との(つな)がりも、必要があれば北陸にまで出向く忍びとしての自分の活動範囲の広さも、大いにその役に立つだろう。

 必ず成し遂げる。

「…三郎と、呼ばれたと言うたな」

 不意に会話の内容が飛んだ。頭の中で自分の夢想の地図を描いていた嵐は、反応に少し遅れた。

 ああ、と一拍置いて思い出す。

 最初に若雪が呼びかけた名前のことだ。先程会話にも出ていた気がする。

「はい、ご存じの者ですか」

「若雪どのの弟御の名前やな。――――ご両親と二人の兄と共に亡くなった。仲のええ兄弟やったと聞く」

 その死を(いた)むように、宗久が目を細めた。

「…そうやったんですか」

(成る程。身内は本当に一人も残らんかったんやな…。まあ、しかし)

珍しい話でもない。こんなご時世だ。

嵐自身、親を病で亡くし、宗久に養育されている身だ。

 同病相哀れむと言うが、普段は醒めた嵐の胸に柄にもなく若雪に対して憐憫(れんびん)の情が湧いたのも、似た境遇となった彼女に共鳴するものがあったためだろう。


 その晩から、若雪は高熱を出して寝込んだ。

 心身共に憔悴し極限状態であったものが緩み、今は心に受けた打撃を必死で乗り越えようとしているのだろう、と言うのが宗久と医師の共通した見解であった。

 よくここまで辿り着いたものだ、と若雪を診た医師は首を振りながら嘆息していた。

そして次に宗久より下った指示に、嵐は大いに不服を申し立てた。

「それで、何で俺が面倒を見なあかんのですか。志野で事足りる話ですやろ」

「面倒を見ろとは言うてへん。あれは当分寝付くやろ。お前は薬草の知識に長けとるから、薬で若雪の回復を助けてやって欲しいんや」

「―――――」

 両肩に重荷を載せられた心地がして、嵐は辟易(へきえき)した。

あまり関われば情がわく。

なるべく若雪には近づくまいと思っていた矢先だった。

嵐にとって有り難い話とは決して言えなかったが、「手駒」同士を早く馴染ませたいという意図を宗久が持っていることが明白なだけに、断れるものではなかった。止むを得ず薬の調合は請け負ったが調合を終えた薬は必ず志野に渡し、若雪の私室には決して入ろうとしなかった。熱に浮かされる顔を見て、今以上の憐れみを若雪に感じることを嵐は恐れた。

自分たちはこの先、宗久の下で競合相手となるのだろうから。

ともかく早く回復してもらわなければ困る、と嵐は半ば躍起(やっき)になって薬の調合に力を注いだ。来る日も来る日も親の仇のように()(げん)で薬草をすり潰す嵐の部屋からは、ゴリゴリという音が絶えず鳴り響いた。お蔭で嵐の着物にも部屋にも、薬の臭いがすっかり染みついてしまった。薬の原料は入手困難な物も多く、嵐が調合を巧みに行うとは言え、それを可能にしているのは豪商と名高い宗久の存在に依るところが大きかった。

とりわけ強壮に効くということで調合した心身散は、幸いにも若雪の身体と相性が良かったらしい。半月ののちには若雪は快癒し、床上げ出来るまでの状態となった。



最初に気付いたのは、血の匂いだった。

大社神官家の中でも、若雪の家と近しい間柄であった大社国造家上官・佐草(さくさ)氏の館へ、母の言伝とともにゼンマイや(わらび)など春の山菜を届けた帰りだった。

家族は皆家にいるはずなのに、家の戸を開ける前から、建物全体がやけに静まりかえっているように感じて、妙な気がした。

玄関の戸を開けた若雪の嗅覚が血の匂いを捉えると同時に、板の間に(うつぶ)せに寝転がる母の姿が見えた。どんな時であろうと、そんな不作法をする母ではないのに。

訝しむと同時に、若雪の身体に風が横合いからぶつかるような勢いで、見知らぬ女がしがみついてきたのでぎょっとした。

「若雪様ですか!?そうですね?早う、早うお逃げください!今井の旦那様のご指示です、堺へ、旦那様のもとへあなた様をお連れします――――!!」

若雪は、畿内方面と見える(なま)りも強く言い募る、四十がらみの女の顔をぼんやり見つめながら何を言っているのだろう、と思った。

だって、家族を置いていけるわけがないのに。

堺などという遠くへ。

ともかく早く母を起こそう、と思って家の内へ入ろうとした若雪は、玄関にいつも立ててある小さな屏風に、赤い梅の花が描かれているのを目に留め首を傾げた。

この屏風に梅の花など描かれていただろうか?

「母様、母様、」

母の身体を揺り動かし呼びかけるが、なかなか起きてくれない。さらにおかしなことには、抜き身の懐剣を手に母は倒れているのだ。一体何がどうなっているのか。奥にいるであろう父や兄に頼んで、ひとまずは眠る母を運んでもらわねば。

「あきまへん、若雪様!ご家族の皆様は、もう……」

女が必死に止めるのを無視して家に上り込む。

中は血の海だった。

更にはその海に累々と浮かぶ(むくろ)

父が、兄が、刀を手に倒れ伏している。

見知らぬ人間の躯も多く転がっている。

皆、夥しい血を流して。

(ああ)

 これほど多くの血を若雪は見たことが無かった。

これでは血の匂いがしてもなんら不思議ではない、と麻痺(まひ)した頭で妙に納得したのを覚えている。

ほんの少し前まで、今は静かなこの座敷に激しい剣戟(けんげき)の音が満ちていたのだ。

そう理解する。

(父上…。太郎兄(たろうあに)次郎兄(じろうあに)

 若雪、若雪、と名を呼び、慈しみ育んでくれた兄たちの朗らかな笑顔が、やけに鮮明に胸に浮かぶ。余りに鮮やか過ぎて、息が出来なくなる程だ。

頭のどこかがひどく痛んで(しび)れた。

(死んでいる)

ここにいる者は皆、母も含めて死んだ人間なのだ。

ようやくそう悟った瞬間、心臓が早鐘のように鳴り始めた。

どくどくどく、と耳に響くほどに大きく。

「嘘……」

ただ一言、そう言った若雪を、追ってきた女が痛ましい表情で見つめた。

はっとする。

(三郎がいない)

「三郎、あの子はどこ…。あの子は逃げたの?」

女に訊くというよりは独白のように声を上げた若雪に、女がようよう一言答える。

「中庭に…」

それだけを聞くと同時に中庭に駆け込む。

「三郎!」

そこには、父や兄と同じく刀を手にした状態で倒れた弟の姿があった。その背中が、若雪の悲鳴に反応したように微かに動いた。

(生きている!)

若雪は無我夢中で三郎に飛びつき、その半身を抱え起こした。

けれど三郎の目は、既に焦点が合っていなかった。

「あ、ねう…?よかっ…ぶ、じ。に、げ、……」

()(れつ)の回らない舌で、絞り出すように辛うじてそう告げると、三郎の(まぶた)は閉じられた。

その半身を支える手に、ずん、と重みが増したように感じた。

(姉上。良かった、無事で。逃げてください)

今年十二になったばかりの弟の最期(さいご)の言葉だった。

「若雪様、いつまた刺客が戻って来るやわからしまへん。(うち)と、私の夫と共にいらしてください」

若雪の肩に手をかけた女の力は強く、茫然としたままの若雪を三郎から強引に引き()がした。

「皆を置いては行けない…。私もここに残る」

 虚ろな瞳のまま、幽かな声で若雪は囁く。既にその身の半分は黄泉路(よみじ)を追っているような心境だった。

「聞き分けないことを言わんといてください!せっかく拾われたお命を、無駄になさるおつもりですか!」

叱るように叫ぶと、女は不意に若雪を抱きしめた。

「生きてください」

強い力だった。

抱きしめられて、人の温もりを感じた。そのときああ、と()に落ちた。

玄関の間にあった屏風に咲いていた梅の花は、血の飛沫(ひまつ)だったのだと。

(梅ではなかった…。あんなに綺麗だったのに)

そう思った自分は、既に尋常な思考を失っていたのだろう。


それからのことは、あまり覚えていない。

用意された装束に着替え、急かされながらもこれだけは、と思った家族の形見の品をひっつかむようにして荷の中に入れた。

堺までの長い旅路を()()るように連れて行かれた。

身の上に起きた惨事による衝撃の余り、食べ物を口に出来なくなった若雪は、旅の途中で手に入った食糧を半ば強引に食べさせられた。最初は口に無理やり押し込まれた食糧を戻してしまっていたが、旅が続くにつれ、ほんの僅かずつだが胃が食糧を受け容れるようになっていった。

歩いて、食べて、水を飲んで、眠って、また歩いた。

旅の間しばらくはずっと忘我(ぼうが)の心地だった。

逃避行の中、「生きてください」、と何度も何度もしつこいくらいに言われた。

叱咤(しった)され、慰められ、励まされながら旅を続けた。

旅を続けるうちに、若雪は少しずつ正常な思考を取り戻していった。

事前に危難を察した宗久が遣したあの夫婦がいなければ、若雪はきっと今生きて

いなかったに違いない。


それにつけてもこの闇の暗さはどうであろう。

これではまるで何も見えない。ここがどこなのかもわからない。

やはり自分は、討手から逃げきれずに死んだのだろうか。

三郎とよく似た少年と、堺で出会ったのも夢だったのかもしれない。

そう思った時。


姉上、姉上、

呼ぶ声が聞こえた。

懐かしい声。

(三郎だ)

思わず心が弾んだ。

続いて兄たちの声も聴こえてくる。

若雪は大したものだ。

その年齢で、立派に父上たちのお役に立っているな。

そうだそうだ、俺たちも鼻が高いぞ。なあ兄者。

(太郎兄、次郎兄)

二人とも愉快そうに、若雪に向かって笑いかけている。

姉上、また備後のお話を聞かせてください。

今回は、どのような荷を売り買いしたのですか。

目を輝かせながら話をせがむ弟に、若雪は微笑しながら答えてやろうとする。

向こうには笑いながらそんな自分たちを見守る両親の姿が見える。

ああ、先程までのことは夢だったのか。

良かった。

安堵と喜びに、若雪も笑った。

笑いながら泣いた。涙が幾粒もポロポロとこぼれた。

そうでなければおかしいと思った。日頃から鍛錬を欠かさず、武芸の腕に優れた彼らが、そう易々と刺客に殺される筈はないのだ。

それにしても、もう二度と見たくないようなひどい悪夢だった。

若雪が心底思ったその途端、それを待っていたかのように家族の姿が急に遠ざかっていく。

暗闇の向こうに吸い込まれるように消えてしまう。

そんな、と思い手を伸ばす。


待って。

お願い、行かないで。

私を一人で置いて行かないで。

独りは、もう嫌なの。もう嫌なの。


手を伸ばす――――――。


夢は唐突に途切れた。

視界には空を掻く自分の右手があった。

「………」

その手をゆっくり目元にやると、案の定濡れている。

部屋の天井が目に入る。意識が朦朧(もうろう)としているままに、ゆるゆる半身を起こした。

目を細めて見渡す部屋を、まだ明けきらぬ早朝の淡く仄白い光が満たしている。

宗久によりあてがわれた部屋は十畳ほどの広さで、燭台から違い棚、香炉、欄間彫刻に至るまで品よく落ち着いた贅の凝らし方がしてある。出雲で暮らしていた時の部屋より格段に上等の居室を与えられている。

若雪が宗久の屋敷に住まってもう一月になるが、いまだに出雲で起きた出来事の夢を見る。容易に忘れることなど出来ない記憶が見せる、辛く、重い夢だ。そしてその夢から目覚めるたびに、まだ現実を現実として受け入れることが出来ていない自分を思い知る。

(こちらが現実…。夢はただ、夢でしかない)

 握った拳を額に当て、ふ――――っ、と重い息を一つ吐き出す。

 全てを()くした、と思った時の絶望感は今も生々しく胸にある。

だがそれも、最早過ぎた過去として自分の内奥(ないおう)に押し込め、目前の現実を生きなければならない。今は幻想を振り返りながら生きていけるほど優しい時勢ではなく、気を緩めればまた大事な人を亡くすかもしれない。または、今度こそ自分自身の命が損なわれるかもしれないのだ。それらの危機感は常に抱いておくべきだ、と若雪は自戒した。

ふ、と障子に影が差した。

「姫様、お目覚めですか」

部屋の外からの呼びかけに自分は姫様などではない、と苦く思いながらも答える。

「志野ですか?起きています」

「失礼します」

さらり、と障子戸を開けて入ってきた侍女の志野はふっくらとして、見る者に穏やかな母性を感じさせる容貌の女性だ。宗久により、若雪付きの侍女と定められた。若雪の境遇にひどく同情し、何くれとなく気を配ってくれる。若雪が、いつも空が白むころには目を覚ますことも了解している。

「…なんぞ悲しい夢でも見はりましたか」

若雪の目元を見て、志野が気遣わしげにそっと労わるような声をかけた。

「―――どうでしょう、夢の内容を忘れてしまいました」

若雪は解らないと言うように首を振り、笑って見せた。

「……実は、今日は嵐様のお母上のご命日なんです。嵐様のお母上は旦那様の姉上さまでいらしたので、旦那様もご一緒され、明慶寺まで参らはるそうです。若雪さまには特に参る必要はないので、お休みになってて構わないと旦那様は仰せでした。…どうされます?」

宗久の屋敷に来てから随分経ったが、未だに仕事らしきものはさせられていない。

何か役に立てることはないかと若雪から尋ねても、その内に役立ってもらうから今は養生するように、としか言われない。心身がまだ本調子でないのを見抜かれているのかもしれない。

「私も明慶寺に参ります」

若雪はそう宣言した。

 嵐はともかく、宗久の姉となれば、その養女となった自分も供養に同伴するのが道理である。


       四     


「あ、あれ…」

「なんや?」

「嵐やない?」

「ほんまや。今井の旦那さんと一緒や、珍しいな」

「あの連れの子、誰」

「どれ?」

「知らん顔やわ」

「…茜は知ってる?」

「ううん、うちも知らん」

連れだって歩いていた十歳前後の少女たちが、離れた場所から目敏く、宗久と共に歩く嵐を見つけ一斉にざわめきたった。

少女らは皆それなりの商家の娘たちで、一様に明るい色柄の、清潔な着物を着ている。

その様はまるで、春の野原に咲き揃う花々のように愛らしい。

手に持つ風呂敷包みが、彼女らが習い事に向かう途中であることを物語っている。

 少女たちの注目は初めて見る若雪の顔に集まっていた。

「…旦那さんのお身内とかかもしれんな」

「せやなあ」

 そう言いつつ居並ぶ少女たちの顔は、どこか不満げだ。

(綺麗な子)

 皆が同じ感想を抱いたが、誰もがそれに関しては口を(つぐ)み、声に出した者は一人もいなかった。


(同行を申し出ると思っとったわ…)

 若雪も寺へ行く、と宗久から聞いたとき、嵐は別段驚かなかった。

 正直言って嵐自身は、寺特有の抹香臭さが好きではない。母を供養する気持ちはやぶさかではないが、寺に詣でるのはあくまで年中行事の一環としてのことであり、宗久への義理立ての為でもある。宗久とは利用し利用される間柄だと思っているが、宗久の姉であった母の存在は、いなくなった今でも欠かせないものだ。亡き母が宗久と嵐を繋ぐ(かすがい)であるからには、その供養には神妙な顔で参らなければならないのだ。

 しかし、いかにも礼節を重んじそうなあの少女なら、嵐の打算に裏打ちされた行動理由とは別に、宗久の姉の法要を無視できまい。

 弥陀(みだ)釈迦(しゃか)弥勒(みろく)の三世仏に見守られた仏殿に、朗々と読経が響き渡る。

祭壇の中央には霊具膳(りょうぐぜん)として五種盛(ごしゅもり)の野菜などが置かれ、その側には菓子や花、果物が並んでいる。さりげなく揃えられたそれらが、かなりの費用で賄われたことは物を見れば明らかである。宗久は銭を惜しむことなく、姉の供養のための供物をとり揃えたのだ。

 嵐がちらりと横目で見た若雪は、真摯に手を合わせている。

 あまり生真面目やと生きて行きにくいやろうになあ、と他人事ながら思う。

 嵐の目には、楽に呼吸することを忘れている人間は哀れにも愚かにも見えた。


長々と続く読経をようやくやり過ごした嵐は仏殿を出て、さらに山門を通り抜けた先、勅使門よりは境内の内側にある池のほとりの辺りをぶらぶらと歩いていた。

大きく(かたど)られた十六弁の菊の紋章が、常には開かれることのない勅使門を飾っている。

ずっと暗い仏殿の中にいたため、肌に当たる外気の柔らかさと日の暖かさが心地良い。

解放感に浸る嵐のそばを、少し遅れて若雪が歩いていた。

法要ということもあって控えめな薄墨色の小袖を着ている。

顔をまともに見たのは久しぶりだが、初めて会ったときよりずっと血色が良く、健康な顔色になっていた。細面ながらほどよく頬にも肉がつき、若雪の整った顔立ちを柔らかに見せる。

嵐は心の隅で、自分の薬湯作りの腕を密かに誇らしく思った。

 若雪は嵐に付き添って歩いているように見えるが、特にこちらから声をかけたわけでもない。一人歩く嵐に、年長者としての責任を感じたのかもしれなかった。

「あれ程の供物をご用意なさるとは。養父上(ちちうえ)は、嵐どののお母上を大事に思っていらっしゃったのですね」

「…………」

 若雪が何気なく口にした賛辞に何と答えるか考え、結局嵐は沈黙で通した。

「薬湯を、」

「え?」

「私が伏せている間、薬湯を調合してくださったのは嵐どのだと聞きました。毎日のように励んでくださったとか。ありがとうございました。…いつぞやは、童と言ってすみませんでした」

「―――――ああ、うん。…もうええ」

 薬湯作りは確かに骨の折れる作業だったが、童と呼ばれたことなど当の嵐は今まで忘れていた。感謝したり謝ったり忙しい女だと嵐は思った。

(やっぱり頭が固うて真面目や)

 若雪を窮屈そうな性分だと再認識する反面、彼女の素直な感謝と謝罪の言葉を、純粋に喜ばしく思う自分がいるのも事実だった。

 池の面を、境内の桜から散ったのであろう花びらが白一色で覆うかのように浮かんで、(はな)(いかだ)の様相を呈していた。若雪が堺に着いたばかりのころには満開の手前であった桜も、今では惜しげもなく散り急いでいる。それでもこの春は花びらを散らす雨が少なかった為、花の盛りは長かったほうだ。

鳥の鳴く声が方々に植わる木々から甲高く響く。

 時折鯉がはね、花びら混じりの水を()き散らした。池のほとりに屈みこんだ若雪は小袖の右の(たもと)を左手でそっと抑え、跳ねる水の飛沫に軽く右手を伸べた。手にかかる水飛沫(みずしぶき)の感覚を楽しんでいるようだ。

「若雪どのは、まだご家族のことを夢に見るんか?」

 池の面を見たまま、嵐はポツリと尋ねた。自然に口を吐いて出た問いだった。

「なぜです」

 軽やかに池に差し伸べていた右手がぎこちなく揺れた。

 嵐は、強張った横顔を見せる若雪を見つめて、淡々と言う。

「志野が心配しとったから」

「ああ……」

 どこか後ろめたそうな表情で若雪は呻くように嘆息した。伸べていた右手がそのまま額に向かう。平静な面持ちを崩すことのないこの少女の、ごく僅かな表情の動きから、嵐は以前に比べて若雪の感情を読み取れるようになっていた。

そんな若雪に、少し逡巡(しゅんじゅん)してから尋ねる。

「ご家族の亡骸(なきがら)はどちらに葬られたん?」

「……家の者が…襲われたのは本当に突然のことでしたので、」

 そこで若雪は緩やかに立ち上がった。言葉をちょっと区切り、唇を湿してから再び語り始めた。目はどことも定まらない遠くを見ている。

「私はたまたま留守にしていて、家に帰り着いたときにはもう、誰も…。宗久さ、…養父上の使いの者の助けを借りてその場を離れるのが精いっぱいでした。父母はおろか、兄弟一人の亡骸さえ、埋葬することは叶いませんでした」

せめてまともな弔いをしてやりたかった――――。

 語りながら若雪は、身体のどこかがひどく痛むかのように、顔を歪めた。

「そんなら、なおさら当分の間夢に見てもしゃあない…。普通なら故人の埋葬やら供養やらを経ながら少しずつ気持ちの整理をつけていくもんやろ。せやけど、あんたにはそれが無かった。引き摺るなというほうが無理な話や。一人で我慢されるより、素直に泣きつかれたほうが周りのもんとしては救われるものやで。思い切って吐き出したらええ。辛い思いして泣く人間を、誰も責めたりせんやろ」

 十二歳の少年が大真面目に言うのは過分に大人びた慰めの言葉だった。だが紛れようのない労わりの気持ちがそこには確かに感じられた。この少年もきっと深い喪失を乗り越え、今ここに立っているのだ。若雪はそう思った。

 胸に大きく穿(うが)たれた空洞が(きし)むようなこの痛みを、解る者は解る。解らない者は解らない。それは単に経験の有無による違い、と言えばそうなのだが。

若雪は嵐が自分の悲嘆を理解してくれて嬉しかった。

同時に、悲嘆を理解してしまう嵐を悲しいとも感じた。

「嵐どのはしっかりしているのですね。とても…、」

 そこでふと口を覆って不自然に若雪が言葉を切ったが、嵐には続きの予測がついた。

「とても三郎どのと同じ年には思えん、か?」

「……はい」

「よう可愛がっててんなあ。俺と似てた?」

若雪は拳を口元に当て、少し考えるように空に目をやった。

 白い綿のような雲が一つ二つ浮かぶ(うら)らかな春の空に、彼女の目は亡き弟の面影を描いているのだろうか。

「顔立ちや背格好は、似ているように思います。あの子は母様似の、優しい顔立ちをしていましたから。けれど性格はあまり。嵐どののように大人びた物言いはしませんでした。まだこの世の広さも、美しさも、人の醜さも…、よく知らない無邪気な子供でした。――――結局、知ることの叶わぬままに逝ってしまいましたが」

「…若雪どの」

 気遣うように呼びかけた嵐を気にせず、若雪は続けた。

「嵐どのは腕が立つと伺いました。三郎はその点も似ています。…似ていたと思います。父様も母様も、兄様たちも、幼年とはいえ三郎も、手練れと呼んで遜色(そんしょく)ない腕の持ち主でした。本当に。だからあんな風に…皆殺されるなんて、私は夢にも思わなかったのです」

 それは少し妙な話だと嵐は思った。

神官を務める家の人間がそろって武芸を(たしな)むというのはあまり聞く話ではないが、家風というものだったのかもしれない。そして身内の贔屓目(ひいきめ)で、若雪が家族の力量を見誤っていたとは考えにくい。

 ならばそれほど腕が優れた人間を殺すのには、少なくはない人手が必要だったはずだ。

 戦という荒事(あらごと)を本業とするわけでもない大社の人間が、一体何人腕に覚えある者を用意出来るだろうか。確かに今は乱世で浪人もあふれているが、家来衆以外の人間も使ったとすれば、雇う金も相応に必要となる。仮にも神事に関わる者が、公に刺客を用意することは出来まい。人知れず集めるにも骨が折れよう。

(金はかかるし自分のほうの人死にも出る)

 それだけの犠牲を払ってでも、若雪とその家族を殺さねばならなかったのか。

 大社の支配権争いのために?出雲国一宮、この日の本に知らぬ者の無い権威を誇る出雲大社とは言え、その主権の掌握はそこまでの無理無法を冒すほど、旨味のあるものなのだろうか。

(確かに荘園やら寄進地やらの利益は大きいやろうけど……)

 ぐるぐると思考を巡らせる嵐を横に、若雪は語り続ける。

「私の家は社のためのお勤めがあり、忙しい母に代わってよく三郎の世話をしました。そのせいか、あの子も私に懐いてくれて、私が御師としての旅に同行する前日にはまとわりついて離れませんでした。旅から戻ったら戻ったで、まだ荷解(にほど)きも終わらぬ内から、道中に何を見たのか、聞いたのか、話をせがまれて困らされたものです」

 抱え込んでいたものを一旦話し始めると、それまで行き場を失っていた言葉が胸中で膨れ上がり、堰を切ったかのように若雪の口から溢れ出た。感情を封じ込めていた心の底のほうから、ひどく熱い塊がせり上がってくるように感じた。

 溜りに溜まった悲しみの嘔吐(おうと)だ。

 嵐はそう思った。

 不意にぼやけた視界に若雪は戸惑った。

「…涙、出たな」

嵐に小さな声で指摘され、ようやく自分が泣いていることを知る。気づけばそれは幾粒も溢れてとめどなく若雪の頬をすべり、ポタリ、ポタリ、と緩慢にこぼれ落ちていった。

自分より年少の嵐の前で泣くことを強い抵抗感と共に若雪は恥じた。

 だが、(こら)えることは出来そうもなかった。

次の瞬間、嵐の目には若雪の身体の輪郭がくしゃりと歪んで崩れ落ちたように見えた。

(―――失くしたくなかった。失くしたくなかった)

 あれほど大事な家族であったのに。大切な居場所であったのに。なぜ、ああも突然に奪われなければならなかったのか。しかもあんな無残な形で。

今更ながら強い憤りと共にそんな思いが込み上げてきた。

「…どうして………?」

 悲痛に震える声が、誰にも答えられない問いを紡ぐ。両手で顔を覆いそのまま(うずくま)ってしまった若雪の細い肩が震えている。

嵐は少し迷ったが、この誇り高い少女が心のまま泣けるように、静かにその場を離れた。

 

家族を一人残らず喪った悲しみに浸る間もなく、若雪は出雲から堺まで、強行軍で逃亡の旅を続けなければならなかった。

 自分より年上とはいえ、まだ十四の少女だ。今ようやく、手放しで嘆く余裕が生まれたというところか。

 嵐は分別臭く、そう解釈した。

(幸せな記憶があるならあるで、辛いもんか…)

宗久はいわゆる名家の出であったが、その姉である嵐の母は一度は親に言われるままに嫁いだものの、その相手が亡くなった暫く後、駆け落ちの末に嵐を生んだ。もう若くはなかった母のどこにそんな情熱が残っていたのか、嵐には知る由もない。実の父親の顔さえ記憶に無いのだ。

叔父である宗久は、母亡きあとの嵐を保護はしたが、とうとう母が亡くなるその時まで、助けの手を差し伸べるでもなく、直接訪ねてくることもなかった。

 自らが入り婿であったので、立場上婚家を(おもんぱか)ったのかもしれない。母が亡くなった後になってから宗久が行う供養の手厚さは、一種の罪悪感もあってのことかと思えた。

 そう思うと法要に対する嵐の見方も自然複雑なものとなった。 

母の生前中、嵐は生計を少しでも支えようと、出来る仕事はなんでもやった。元々器用だったこともあって、今では料理から着物の仕立てから馬の世話まで大抵の仕事はこなすことが出来るようになった。そして顔も知らない父が甲賀近辺の忍びの出だと聞いてからは、その技を体得して生業(なりわい)とするためわざわざ里まで赴き、下働きを三年こなす代わりに技を仕込んでもらった。その間冗談でなく死にかけた回数は、片手の指の数ではきかない。

後ろ手にそっと触れた腰刀は飾りではない。美麗な装飾とは無縁の、実戦仕様の刀だ。宗久はあまり良い顔をしないが、法要のときでさえ手放すことはない。

 今はこの刀と、陰陽の技が、宗久の下で生きる上で大いに役立っている。見鬼の資質も使いようによっては役立つ。

(若雪どのと俺と、今の立場は近いかもしれん。でも、育ってきた土台はまるで違うものなんやな)

 胸のどこかに、小さな(とげ)が刺さったかのような不快な痛みが生じた。

「嵐やんか」

 不意に声をかけられ、なんとなく総門のほうへ向かって歩いていた嵐は内心驚いた。

 そこには褐色の木綿の上衣に、淡い若草色の袴を穿いた少年が立っていた。

 まだ剃髪することなく後ろで短く一つに束ねられた髪は、柔らかそうな緩い癖毛で、黒よりもやや色が明るい。切れ長の目は穏やかな知性の光を宿している。

「おお、()(しん)

「今日はお母上のご命日やったな。今井の旦那さんはどないしたんや。―――?、なんかお前、薬草臭いぞ」

粉骨砕身(ふんこつさいしん)の結果や、ほっとけ。叔父上は今そちらの和尚さんと何ぞ話しとるわ。ところでお前…、今から庫裡(くり)へ行くんか?」

 切妻造本瓦葺(きりづまづくりほんかわらぶき)の総門の下を、たった今くぐり抜けて来たところと見える智真が手に持つざるには、まだ土の付いた筍が盛ってある。恐らく檀那衆からもらった春の若竹だろう。

「そうや。これを今日の夕餉(ゆうげ)の主菜に使うのや」

 智真は朗らかに笑いながら軽くざるを掲げて見せた。

 「若年と(いへど)も学識・仏画の才人明慶寺に之あり」、と(うた)われる智真もいまだ喝食(かっしき)の身、食事の支度などの雑用も仕事のうちであり、庫裡には他の喝食と共に頻繁(ひんぱん)に出入りする。

 広い境内の中、庫裡に至るまでの道のりは遠く、山門や仏殿の更に向こう、唐門を通り抜け方丈の横手に回らなければならない。今いる総門の近くからは少し歩けば池が見える。そして今、その池のほとりには―――――。

(まだ泣いてるやろな)

「ああ成る程。………けど、今は行かんほうがええわ」

「なんでや」

「目つきの悪い野犬が、さっき池のあたりをうろついてたんや」

 多少心苦しいが、嘘をつくことにした。若雪が落ち着くまで、もうしばらくはかかるだろう。今を逃せば、思うさま泣くことのできる機会を、彼女は逸してしまうように嵐には感じられた。

(心に(こご)りは、残さんがええ)

「ほんまか。そら危ないな。檀那さんらが怪我でもしたらえらいことや。今のうちに追い出したろ」

 逆効果を奏して池に向かおうとする智真に内心舌打ちしながら、させじと嵐は言葉を重ねた。褐色の袖をはっしと掴む。

「いやいやいや、相当危なそうな面構えしてたで。自分から出て行くのを待ったがええやろ」

「そない悠長なこと言うてる場合か」

「お前が怪我したら元も子もないやないか!」

 言うほどに嵐は自分が滑稽な真似をしている気がしてならなかった。


嵐たちが()めているころ、若雪は収まらぬ涙をどうにかすべく苦戦していた。夢の中なら知らず、今までは上手くやれていたことだった。これまでは、もっと感情の制御が上手く出来ていたのだ。生きる為に、耐えられない哀しみから巧みに目を逸らして。

それが今に至ってまるでたがが外れたかのように、涙は若雪の意志を無視して溢れ続けた。嵐の言葉は、若雪が心に被せていた重い蓋を取り払ってしまったようだった。

嵐が立ち去る気配を感じた時、一人にしてくれた彼の気遣いに感謝してほっとしたのと同時に、一抹の淋しさを感じた。

 まるで三郎が傍から離れたような気がしたからかもしれない。

 涙が途絶えない目元を押さえて苦笑する若雪の耳に、嵐と、もう一人知らない少年の声が言い争いながら近づいてくるのが聴こえた。親しい間柄なのだろうか、まるで遠慮の無い遣り取りが繰り広げられている。

「せやから、まだおるかどうか俺が先に確認するて!お前はここにおれや!」

「そんなわけにもいかんやろ、一人より二人や。襲いかかって来たらどうすんねん!」

 若雪の耳が「襲う」という物騒な単語に敏感に反応した。

我が身に起きた惨劇の記憶が蘇る―――。

「何が襲ってくるのですか?」

とっさに息を詰め、目に溜めた涙を拭うのも忘れて若雪は低く尋ねた。

 その途端、言い争いの声がぴたりと止み少年二人が同時にぱっと若雪を見た。内一人は知らない顔で、筍が盛られたざるを抱えている。

「え、」

若雪は彼らの反応にたじろいだ。何か見当違いなことを言ってしまっただろうか、と考える。嵐は無表情を装い視線をはるか遠くに逸らした。智真は目を見開いたままだ。

「……………」

 目に雅な花筏を浮かべた池のほとりは奇妙な沈黙に包まれた。

(たまに仏心を出すと、こういう面倒な羽目になる)

 半ば自分が引き起こした状況とは言え、嵐は(さじ)を投げたい思いに駆られた。若雪が泣こうがどうしようが、放っておけば良かったのだと後悔する。

「…このへんに、性質の悪そうな野犬がおったそうです。見はりませんでした?」

 そこはかとなく事情を察した智真が、穏やかに若雪に問いかける。嵐へのあてつけが過分に混じった問いかけである。

「いえ、私は見ませんでした。…」

「そうですか、そんなら、どっかに行ってしもうたんでしょうねえ。どこに消えたんでしょうねえ。お前はどう思う、嵐?」

 皮肉な口調で追及してくる智真に対し、嵐の対応は自棄(やけ)混じりの、実に開き直ったものだった。

「へえ、そう。野犬がおったんか。知らんかったわ。物騒やなあ」

「………」

前言の数々をまるで無かったかのように(うそぶ)く嵐を、智真がじろりと睨んだ。

「よう言うわ。しょうもない嘘つきおって。寺の境内で女子を泣かすとはええ度胸やな」

 睨んだまま溜め息を吐く。

「俺が泣かせたんとちゃうわ、阿呆」

「…お寺の方ですか?」

問う若雪に智真がこれには笑顔で答えた。

「私は智真と申します。喝食としてこの寺で世話になっとります。……失礼を承知でお聞きしますけど、なんぞ悲しいことでもありましたか。この嵐が人払いしようとしたくらいや。それともやっぱり、こいつに泣かされたんですか」

「違う言うてるやろ。くどいわ!―――この嵐が、とはどういう意味や?」

嵐が発言の最後、不服そうにぼそりと呟いた突っ込みはこの場合、誰にも相手をされず風に乗って流された。若雪は泣いていたと知られたことが恥ずかしく、慌てて顔を伏せて頬に残っていた涙を手荒く(ぬぐ)った。さんざん泣きはらしたのできっとひどい顔になっていると思うと、猶更(なおさら)恥ずかしかった。

「いいえ、いいえ、そういうことは…ありません。大丈夫です。―――もう大丈夫なのです。嵐どのはただ、私の心配をしてくれただけです。名乗るのが遅れましたが、私は今井若雪と申します。先頃、今井宗久の養女となった者です」

 首を振った勢いで、若雪の髪にくっついていた桜の花びらが一枚はらりと落ちた。

「………」

 嵐は無表情で傍観を貫いている。他に何を出来ようもない。

 智真は傷ついた者を労わる表情で、言い募る若雪を静かに見つめていた。

「…若雪どの、雷に遭うて怖い思いをしたことはおありですか」

「は?…いえ」

脈絡のない智真の質問に、若雪は戸惑った。

「それは良かった」

 智真がにっこり微笑む。

何の話かさっぱりわからない若雪の目の前で、智真は「ちょっと持っといてな」と言って筍の盛られたざるをさっさと嵐に押し付けた。

「おい……!!」

嵐の抗議の声を無視して自分の右手を、(てのひら)が天を向くように差し出した。

その手首を空いている手で素早く嵐が掴む。

「…放せ、嵐」

「やめとけ、何考えとるんや。それは、そんな簡単に披露できるもんちゃうやろ」

「せやけどお前は以前私に、女子は泣いたり怒ったりしても、綺麗なもんや可愛いもん見せたら喜ぶ言うてたやんか」

 嵐がここで軽く咳払(せきばら)いする。

「……いつの話や。とにかくそれとは話がちゃう。やめとき」

「大丈夫やろ、嵐?この人やったら見せても。―――お前も本当は、そう思うてるんちゃうんか」

険しい顔つきで制止の声を上げる嵐に、その目を覗き込むようにして智真が問うた。

「………どうなっても知らんぞ俺は」

嵐はしばらくの間穏やかな智真の顔を睨みつけるように凝視していたが、やがてぷいと顔をそむけた。

「ああ」

若雪は表面上静かな表情を保っていたが、二人の(いさか)いの内容が解らず止めようも無いまま、内心ではかなり狼狽えていた。

そんな若雪の目の前に、智真が再び掌を差し出した。それに対して横を向いたまま、嵐も今度は止める気配が無い。

「―――智真どの?」

その両目を一度閉じて、また開き、智真は掌の上の虚空を見つめる。空気にぴん、と糸を張ったような緊張感が生じた。一切の音が遮断されたように消えた。

チリリ、と鈴のような音が鳴る。

瞬間、ごく小さな、雷のような光が、その掌の上に顕現(けんげん)した。

それはパリパリと小さく爆ぜるような音を立て、青く、白く、果ては金にも銀にも輝いた。まるで光で出来た小さな龍が身をよじっているようにも見える。

瞬きのたびに、光が弾けては消えゆく。

(雷に道を譲り、開いてゆく(そら)が見える。―――儚い。けれど。…美しい光だ)

若雪は酩酊(めいてい)したような気分の中、自分が今どこにいるのか解らなくなった。奇妙な浮遊感が、自分の身体をどこか遠くへ運んでいくように感じた。

けれど実際はその間もずっと、目は小さな輝きに吸い寄せられて魅入られたように離せないでいた。

不意に智真が右手を握りこむと、その輝きは一瞬で収束して消え失せた。するとそれまで沈黙していたかのようだった木々のざわめきや鳥の声が突如として耳に戻って来た。夢から現へ唐突に舞い戻った気分だ。目の前にはそれまでと変わらず、春の青空のもと静かな境内が広がっている。

「…何だったのですか、今のは。智真どのの操るまやかしですか」

若雪は陶然とした余韻(よいん)に浸りながら尋ねた。束の間、眼前に見た現象の浮世離れした美しさに悲しみを忘れた。

筍を手にした嵐が渋い顔をして立っている。

智真はその顔を見遣り、若干の間を置いたのち微笑して答えた。

「そうですね…。そう、言わはる通り、これはまやかしです。なりこそ小ぶりですが、本物の雷によう似てたでしょう。…私は雷神様との(よしみ)が若干ありまして。それでこうした奇妙な芸当もできるんですわ。雷は多くの人に恐れられ、忌み嫌われもしますが、こない小さな…幻影なら、ただその美しさを愛でるだけですみますやろ」

 同意と讃嘆の意を込めて、若雪はこくりと頷いた。

 一体この少年は何者なのか。雷神とのよしみとは何なのか。

 それだけで人を幻惑するような事象を生み出せるものなのか。

 頷きながらも疑問は次々にわいた。頭の中がそうした疑問で占められていた為、嵐がひどく不穏な表情をしていることに気づくのが遅れた。

 あくまで朗らかで穏やかな笑顔を絶やさない智真とは反対に嵐の顔は渋さを増して、今や不機嫌であることをはっきりと露呈している。

「お寺の喝食が、女子の気を引くために、ちゃらちゃらした幻惑なぞひけらかしていいんか?」

 筍の盛られたざるを手荒く智真に突き返しながら吐く言葉には、明らかな棘がある。

「何言うてんねん。女子の涙を止めるんも、立派な功徳や。神も仏もお許しになるわ」

 さらりとそれを受け流す智真には、慣れと余裕が感じられる。気兼ねない言葉の応酬は二人の付き合いの長さを物語るようでもあった。

また若雪は若雪で嵐の不機嫌な様は気になるものの、学問的な興味も手伝い、智真の生み出した美しい幻影について色々と尋ねたいという思いに駆られていた。図らずも智真の言の通り涙は知らぬ間に止まっている。

「雷神との誼、と仰いましたね。それは…」

「待たせたな、若雪、嵐。帰るで」

三人三様口を開いていた丁度その時、絶妙の間合いで砂利の音を響かせながら鷹揚(おうよう)な笑みを浮かべた宗久の声が割って入った。その為三人は些か中途半端な状態で会話を切り上げざるを得なくなった。

温雅な面立ちの明慶寺住持が、そっと宗久の後ろに(かしこ)まるようにつき従っている。

それはまさに豪商の帰依(きえ)を受けた寺院が立ち並び、仏教が栄える堺の様を表した「泉南(せんなん)(ぶっ)(こく)」という言葉を象徴するような構図であった。泉南(せんなん)とは堺をさす地名である。禅宗様式である明慶寺は古くからの名刹であるが会合衆の、とりわけ今井宗久の権威はそれを軽く上回った。

宗久と嵐、供の人間らに遅れぬよう総門へと向かう若雪は、ちらりと後ろを振り向いた。

成り行き上住持と一緒に彼らを見送っていた智真がそれに気づき、笑顔でひらひらと手を振る。それに対して軽く頭を下げる若雪を、しらじらとした目で嵐が見ていた。

帰る道すがら、仏頂面で歩く嵐の手には一本の筍があった。ぽーん、と弧を描くようにそれを宙に放り投げては受け止める行為を嵐は繰り返していた。

「嵐どの。その、筍は」

「智真からくすねた。一つくらいええやろ。俺に預けたんが悪いわ。今年の初物は俺もまだ食うてへんのや」

恐る恐る訊いた若雪に嵐が平然として答えた。

その答えに若雪は、時折嵐が邸の厨にふらりと現われては旬の魚だの野菜だのを持ち込んで調理法を指示して行くという話の謎が解けたような気がした。厨の都合や手順が乱れて困る、と志野が愚痴をこぼしていたのだ。似たような要領でもらったりくすねたりした戦果を持ち込んでいるのだろう。調理法まで指示するあたり、嵐の食い意地は相当なものだ。或いは美食家とでも称するべきか。

「智真どのとのお付き合いは長いのですか。随分打ち解けておられましたが」

昔馴染(むかしなじ)みや」

「雷神というのは、菅公(かんこう)北野(きたの)大臣(おとど)のことでしょうか」

(嵐どのは智真どのがまやかしを操るのを止めようとしていた)

 そう思い出しながら若雪は問いを重ねる。正確には、それを自分に見せるのを止めようとしていた。

「さあ。今度自分で訊かはったら?」

 にべもない。

 これでは何も話してもらえそうにない、と思い若雪は口を閉ざした。思えば嵐には訊いても明確な返答をしてもらえない、ということがままある気がする。若雪には解らない何かが嵐を頑なにさせているようにも見える。こちらを労わる深い気遣いを見せるかと思えば、時に敵視するかのような警戒の姿勢を見せる。その所以(ゆえん)を知りたい、と若雪は思った。

 ――――嵐は実際腹を立てていた。

 智真は正真正銘、若雪の言う北野の大臣・菅原道真(すがわらのみちざね)後裔(こうえい)にあたる。平安の昔、政争に敗れ遠く大宰の地へと配流(はいる)された学識(がくしき)大臣(おとど)の。智真の名は道真から一文字貰ったものだ。とは言え、道真は最早はるか昔の物語の人物である。数百年を経た今になって、細々と伝わったその血を引くことが定かな原因なのかどうか、こればかりは当人にも解らない。だが先程、若雪に見せた程度の雷ならいつでも生じさせることができる。更には後の消耗を覚悟するならば、雷雲を呼び、小規模ながら雨を降らせる事さえ出来る。

確かにあっさりと説明するには突拍子(とっぴょうし)も無い話ではあるが、ただのまやかしと言うのは、出鱈目(でたらめ)もいいところだ。

 まだ智真が幼いころ、気の向くまま雷を招来しては遊ぶ我が子の様子を見た両親はこれを恐れ、前世よりの智真の業が深い為にこのようなことが起きるのだと考えた。そうして思い悩んだ末、智真に功徳を積ませようと明慶寺の住持に預けた。御仏に仕えさせることで、呪いのような力を封じさせようとしたのだ。

智真がまだ三歳のころの話である。それから実に十二年が経つが、両親の祈りも虚しく、智真の力が消える気配は無く、むしろ幼児のころよりも強まっているようだ。或いは秘されているだけなのかもしれないが、智真の血縁で、他に同じ芸当が出来る者の話は聞かない。

このことを知る人間は、今のところ智真の両親を除けば明慶寺住持と嵐だけだ。宗久にさえ伏せてある。

 もしどこかの武将、戦国大名が知れば騒ぎになるどころの話ではない。躍起(やっき)になって智真を欲しがるだろう。最悪の場合は争奪戦さえ起こりかねない。

 本人の人柄は至って温和で、戦と関わる気は全く無い。稀有(けう)な力を人には通常隠している為、若雪にあれ程たやすく披露してやるとは予想していなかった。

()に恐ろしきは女の涙、か)

 この少女が露わにした、激しく深い悲嘆は傍らで見ているだけでも胸が痛むものがあった。若雪が経験したのは、それ程の惨事であったのだ。彼女の嘆きに引き摺られ心動かされる、その心情がなまじ解らなくもないだけに余計腹立たしいのだということは、嵐も自覚していた。

智真は、嵐がたまたま手にした極めて貴重な人材の一人だ。その能力を秘しているのは、何も智真の為を思ってのことばかりではない。

 いずれは自分の役に立ってもらおうという腹積もりがそこにはある。利用しようと思えば幾らでもその手立ては思いつく。例え智真がそれを受け容れず自分の役に立たないとしても、自分と敵対する可能性のあるような他人の役に立たせることは避けたい。

 他人――――例えば若雪のような。

(―――それをあいつ、自分からほいほい正体を晒しおって。あいつはまだ、自分の操る能力がどれだけ危ういもんなんか、まるで解ってへん!)

幼馴染(おさななじみ)として単純に友誼(ゆうぎ)を感じる他に、嵐が自分に利用価値を見出していることは智真も気付いている。かといって、易々と思惑通りに動いてくれる男ではない。物腰こそ穏やかで柔らかだが、自分の良しとしないことには、決して首を縦に振らない頑固な一面も持っている。

それでも先程は、嵐への配慮から内情を正直に晒すことは控えたようだった。

(せやけど)

再び若雪からまやかしについて問われれば、あっさり事実を話してしまいそうだ。菅公と結び付けて考えたなら既に答えは近い。忌々しいことだが若雪は遠からず、智真がまやかしなどでなく本物の雷雲を操ることを知るだろう。口止めは効を奏すまい。

「…………」

(情報をさりげのう、それが難しいんやったら露骨にでも遮断するか)

嵐にとって、若雪はいつまでももの知らぬ少女であったほうが、断然都合が良かった。

 無力で無知で、ただ美しいだけの競合相手になら、幾らでも優しくしてやれるのだ。

しかし若雪は。

(無力とも無知ともほど遠い)

ふう、と息を吐く。

 多くの時間接したわけではないが、大方の人と為りは把握した。若雪は自分の無力をそうと知りつつそのまま放置しておく人間ではないだろう。加えて聡明かつ堅実。努力を惜しむようにも見えない。他人であればおよそ美徳とされる性質が、共に宗久の下で過ごす今の嵐には、疎ましくて仕方なかった。その人柄を知ったからこそ、猶更、自分の手の内は知られたくなかったのだ。

(厄介やな…)

 嵐の思惑など知らずに、話しかけることを断念した若雪は静かに俯き隣を歩いている。


       五


「嵐、若雪に桜屋敷の桜を見せて来たり。あそこはまだ見頃のはずや。屋敷の中までは管理人の手を煩わせるさかい、まだ入れてやれんが。あの桜だけでも見る価値はあるやろ」

 不意に宗久からお達しが下ったのは、それから数日後のことだった。

「ついでに茶でも団子でも、好きなもんを食べて来るとええわ。若雪への褒美や」

 ほれ、と金子(きんす)を気前よく嵐の手に渡しながら、にこにこと言う宗久は上機嫌だ。

 若雪は知らぬことであるが、嵐はここ数か月にわたり、本願寺衆徒や、戦国大名三好氏(みよしし)が拠点とする諸城の内偵に明け暮れていた。無論、宗久の指示によるものである。

 今日はその息抜きを兼ねて一日遊び歩くつもりだったのだが。

目算が狂った嵐はぐったりと脱力した。何でやねん、という愚痴(ぐち)が小さく口をついて出る。薬湯を作っただけではまだ足りないと言うのか。

(―――褒美ねえ。何をしたんやあの(ひと)。全く…今日はずっとお姫さんのお守りか)

 こんなことが続くようなら、いっそどこかの家中にでも勤めたほうがまだましという気さえする。

誰かのために束縛されるのは嵐が最も嫌うところだった。

 桜屋敷は名の通り、老齢の桜の大樹が近隣でも知られた、宗久の別邸の一つだ。桜の時期にはその屋敷を、商談を兼ねた茶会や話し合いの場に使うことが多い。

(ほんまに内幕全部をさらす気か。叔父上)

 分かってはいたが反発するような思いを抑えきれないまま、若雪の私室まで出向く。声をかけてから障子戸を開ける。そこには、桜色の小袖を着た若雪が既に出かける支度を整えて待っていた。

 桜色の絹に、控えめな金糸の刺繍が施してある。柔らかな華やぎがありながら、華美に過ぎない。むしろ可憐な小袖だ。

「嵐どの。今日はお手数をかけます」

 そう言いながら折り目正しく頭を下げる。相変わらず流れるような動きだ。

 その姿を見て嵐の眉間に寄っていた(しわ)が消えた。半開きに開いた口を、また閉じる。

「…………」

目の前の装った若雪を見て、たまにはこういうのも悪くないかと思い直した。

 

道を行きすがら、往来を行く、特に男どもの視線が若雪に集中する。

 鬱陶しい、と思い嵐は苛々したが若雪に気にするそぶりはない。

いわゆる高貴と呼ばれるところの人種には衆目の視線を浴びることに慣れがあり、まるで人などいないかのように振る舞う者もいるが若雪はそれとは事情が異なる。

(これはあれや…。単に鈍いだけやな)

嵐は呆れ交じりに結論を導き出した。

あれだけの付喪神に付き従われながら、その存在に皆目気付かないのも案外にその為ではないだろうか。人の気配や感情の動きには聡い若雪が、自分への好意や賞賛混じりの注目に関しては驚くほど感度が低い。

(或いは昔から見られすぎて無意識に自分への視線を流す癖がついたか。どっちにしたかて嫌味やけど。……このお姫さんは案外、同じ女子衆から嫌われる性質かもしれんわ)

そんな考えを巡らせつつ、こんなことなら打掛か市女笠でも被らせてくれば良かったと軽く悔いた。

 それにしても、今日の往来の人波はいつにも増して多い。

「若雪どの。手、繋いでもええか」

 人混みに閉口した嵐は少しの思案の末そう尋ねた。

 ここで迷子にでもなられた日には、宗久からどんな叱責を受けるかしれない。若雪は一瞬真顔になり、それから嵐の差し伸べた手に、自らの白い手を重ねた。

 そのとき感じた違和感に嵐は思わずまじまじと握り合わせた手を見たが、何も言わなかった。


「ここが桜屋敷ですか。大きなお屋敷ですね」

 往来を通り抜け、たどり着いた閑静な屋敷の並ぶ一画、山を後ろに従える形でその屋敷は建っていた。

「若雪どの、こっちや」

 桜屋敷には常時管理人がいて、屋敷を使わないときでも見回りの人間を配しているが、山とつながる庭まで、完全な警備体制を敷くのは難しい。

万一にも庭に無頼の輩や凶暴な野犬が入り込んでいないか、先に確認してきた嵐が、来い来い、と手招きする。建物の横手を大きく迂回(うかい)して、庭に回る。

そこには大きな花の天蓋(てんがい)が待ち構えていた。

樹齢三百年とも言われる桜の樹が、嵐と若雪を見降ろしている。町中の桜はとうに盛りを過ぎたが、ここの桜は山裾にあるせいか未だ盛んに咲き誇っている。

堺の北荘には富裕な家が多く集まるが、これほどの桜の大樹を有する家は他にあるまい。

花の隙間から漏れ来る光が地面に出来た桜の花びらの敷物のそこかしこにあたり、蝶が舞い遊ぶ。一本の大樹の存在が、この世ならぬ華やぎの空間を作り出していた。

若雪は感嘆の吐息をもらした。

「さすがは、養父上の別邸ですね」

「この眺めを見られた商人は、堺での地位を約束されたようなもの、とも言われとる」

広縁に腰かけた嵐は、頬杖を突きながらそう説明した。

無邪気に桜の下に佇み感心している若雪を見ながら、嵐は何となく得意げな気分になった。悪くない眺めだと思う。

だがそれはそれとして、若雪に訊いておかねばならないことがあった。

「叔父上は褒美と言わはったが、若雪どの、一体どんなお働きをしたんや?」

「働きという程のものでは、……御師として私が両親と回った活動範囲の地図を作製したのです」

 そろりと慎重に切り出した嵐に対して、若雪は何の頓着することも無くあっさり答えた。

 彼女はまだ、花の天蓋を仰け反るように見上げたままの姿勢だ。

 そうしていると、まるで桜の樹に話しかけているようにも見える。

「もちろん精密なものではありませんが。どこに何という地方領主がいて、何を売り買いしたか、石見銀山の周囲で、今最も所有者に近いのは誰か、鉄を欲しがっていたのはどのあたりにいる領主か、そういったことなども加えて、私の知るところを記したものと一緒にお渡ししました。知る全てを書き尽くすことは出来ませんでしたから、あとは言葉で直に補っていくこととなるのですが」

「……その情報と地図を、たった数日間で作り上げたんか?」

「二日もあれば、そのくらいのことは出来ます。自分の頭の中にあるものを、紙面に表すだけですから」

 さらりと言う。

 それだけの情報量を頭に入れて把握していた、ということか。嵐は目を細めて若雪を凝視した。さらにそれを二日という、極めて短い日数で紙面に書き付け終える作業には、並外れた集中力が必要なはずだ。

 目の前にいるのは桜色の着物を着た、年端もいかない儚げな少女だ。

 だというのに、その秘められた才知の片鱗(へんりん)を窺わせる言い様には、多くの才識人と接する機会のあった嵐でさえ、言葉を失うものがあった。

一瞬、背中をひんやりした風に撫でられた心地がした。

「若雪どのには武芸の心得もおありやな?」

 続いて低い声で尋ねた嵐の言葉に、手をひらりと動かしながら若雪が微笑んだ。

 何気なく握ったその(てのひら)は、白い甲の印象と裏腹に固く、いくつものまめのあとや、年月を経て出来たのであろうたこでがさついていた。何度もまめがつぶれて、掌の皮が固くなるまで修練を積んだ証だ。

 雅な美しさや滑らかさとは無縁の、武芸者のような掌。

 若雪は以前、亡くなった親兄弟の手練(てだ)れであったことを話したが、それは恐らく若雪にも当てはまることだったのだ。考えてみれば若雪の所作は万事において優美だが隙がない。

「…十になった年に、両親からこれを渡されました」

 若雪が懐から取り出し、嵐に差し出した。

 受け取って見ると、それは漆塗りの施された、美しい懐剣だった。

「自分たちの仕事は旅を基本とするので、自衛のために身につけなさい、と。これだけではなく刀から槍、薙刀(なぎなた)や弓に至るまで、武芸の一通りを幼少より教え込まれたのです」

(そこまでする必要性があるんか)

 御師という職をこなすためには。

 嵐にはまだぴんとこないが、生半可で出来る勤めではないらしい。

 だがわかったことがある。

 姿形のみを見るなら、若雪はさながら美しく愛らしい猫のようだ。

 しかしこの猫は、安易に手を伸ばせばたちまち虎に変じて本性を現す、化け猫の(たぐい)だ。

(牙を()かれた時に思い知るんやろな…)

 若雪をどう見るかと宗久に訊かれた時には、まだ嵐はそれを知らなかった。宗久は恐らく解っていたのだ。虎を虎と知りつつ懐に招き入れることを選んだ宗久の豪胆さに、嵐は改めて感服した。

 嵐は自らの手に渡された懐剣の、螺鈿(らでん)蒔絵(まきえ)で描かれた、笹の葉と雪の意匠を眺めた。

「手にする得物(えもの)は長いほうがより有利であることは知っています。けれど、私にはやはりこの懐剣が最も手に馴染みます。母も懐剣の名手でした。懐剣を手にした母様には、父様でさえ敵わなかった……」

 若雪は楽しいことを思い出したかのように、くすくす笑った。それは珍しいことだった。

 よく見れば懐剣のそこかしこには、漆が線状に剝がれた痕が無数にある。鋭利な刃物によりつけられたと思しき(きず)(あと)だ。研鑚(けんさん)を積む過程で受けた疵だろう。

もしかすると実戦によってついた疵もあるのかもしれない。いずれにせよそれらの疵は、この懐剣が実用として使われ得る事実の重みを増しこそすれ、それ自体の美しさをなんら損なうものではなかった。

若雪がこの美しい得物を振るい相対する敵と戦う姿は、一幅の絵のように見映えがするだろうとも嵐は思った。

「養父上に銘を訊かれました。特にそういったものは無いと申し上げると、養父上が、雪華(せっか)と名付けてくれました。清浄で華があるから、と仰って」

(刀一つとっても、随分な違いやな)

 若雪の言葉を聞いた嵐はどこか苦々しい気分で、自分の腰刀の柄に触れた。それを視界の隅に捉えた若雪が、思いもかけないことを言った。

「嵐どのの腰刀を、見せてはいただけませんか」

一瞬、躊躇(ちゅうちょ)する。片時も離さず手に馴染んだ得物を預けることは、自分の命を預けるに等しい。

だが、若雪も自分の得物を嵐に差し出したのだ。それも、ただの武器である以上に、今では両親の形見となったものを。

無言で腰刀を差し出す。

丁重な手つきでそれを受け取り、抜いてもいいか、と目線で問いかける若雪に軽く頷いて見せた。

スラリと白刃が光る。

 手入れの行き届いたそれは刃こぼれ一つない。

「…美しい刀ですね。私の懐剣と違って、無駄がない」

 しみじみと静かな口調で言われた言葉は、世辞には聞こえなかった。

 思ってもみなかった言葉に嵐は虚を突かれた気持ちで、あらためて自分の刀と若雪の「雪華」を見比べた。

(――そうや。装飾こそないけど、俺が一番と見込んだ刀鍛冶に打たせたものや。なんにも負けてへん筈やないか)

 先ほどまで胸にあった苦いものが、するりと氷解(ひょうかい)していく心地がした。春の陽の光を弾く自分の刀が、今までになく輝いて見える。

 その輝きは若雪がくれたものだと思った。

「その刀に、銘をつけたってくれんか若雪どの」

 気が付けば、そう口にしていた。

 驚いたように嵐の顔を見た若雪は、少しの思案顔ののち、静かに首を振った。

「……この刀は、銘などに囚われないほうが良いと思います。使い手である嵐どのが、誰より自由であることを貴ぶご気性ですから」

 これ以上は無い、的を得た指摘だった。けれど嵐は尚も食い下がった。

「今思い浮かばないんやったら、今でなくてええ。いつか若雪どのがこいつに相応しい名前を思いついたら、そんときつけたってくれ」

「…わかりました」

 若雪は嵐の顔をしばらく凝視したが、その頼みを一つ頷くことで請け負った。

「約束やぞ」

 さらに念を押す嵐の手に、若雪が笑いながら腰刀を返して言った。

「今はともかく―――。私はそのうち嵐どのに抜かれそうですね」

「…武術の腕前の話?」

「そうです」

「……」

(今はともかくて)

 まるで現段階では若雪のほうが、嵐より上であることを当然と捉えているかのような物言いだ。それとも若雪はそう見切っているのか。

反論しようとして口を開けたものの、彼女の手を握った時の感触を改めて思い出す。若雪の掌はこれまで彼女が積み重ねた鍛錬のほどを、何より雄弁に物語っていた。

 負けることは想定に無い。―――だが勝てる確信も無い。

(ほんまもんの武芸者は、己の技量をよう(わきま)えなあかん)

迂闊(うかつ)なことは言わないほうが賢明だった。

「嵐どの、私は宗久様の養女になりました」

「知っとるけど」

 急に話を変え、周知の事実を言う若雪に面食らって嵐は答えた。

「嵐どのは、養父上の甥ごですよね」

「うん」

 これまた周知の事実だが、若雪は真面目な面持ちを崩さない。

 その面持ちのまま一息に言い継ぐ。

「ならば私たちは家族のようなものだと思いませんか?」

「は?…うん、まあ」

「それで。あの。血の繋がりこそありませんが、私たちは、実の兄弟のようにはなれないものでしょうか。私のような姉では頼りないかもしれませんが」

「…………」

 よほど思い切って言ったのだろう。平生は白い顔が、今は明らかな赤みを帯びている。

 若雪がここまで感情露わな表情をするのを見たのは、明慶寺で彼女が泣いた時以来だ。

(姉……)

 嵐の返答を待って、若雪はじっとこちらを見ている。期待のこもった眼差しだ。

 ――――――この女、俺の上に立ちたい言うんか―――――――。

 咄嗟(とっさ)に口が動いた。

「三郎の身代わりになるんはごめんや!」

 さっと若雪の顔が青ざめた。

言った瞬間、しまった、と思った。

手から滑り落ちた玻璃(はり)の器が、粉々に割れる音を聴いたような心地がした。

「――――……」

「…団子でも食うて帰ろ」

 どう悔やんでも、一度砕けた玻璃は元に戻らない。

 唇を噛み締めて俯いてしまった若雪にそう声をかけ、嵐は広縁から降りて立ち上がった。

 先程まで二人の間に流れていた和やかな空気が、一瞬で暗く寒々としたものに変わってしまったと嵐は感じていた。恐らくそれは若雪も同様であろう。

 そしてその変化を招いたのは他でもない嵐自身だ。

 胸の内は苦い後悔で満ちていた。あそこまではねのけるように、きつい言い方をすることはなかったのだ。

(なんで拒否してしまったんやろ…。受け入れたほうが、楽に若雪どのを懐柔できる。家族を欲しがってるんやったら、そこにつけこんで、情でからめて操れるようにすれば良かったもんを。競合相手に回すより取り込んだほうが、はるかに無難な相手やと解った筈やのに。―――虎を飼い馴らす機会を、みすみす自分でふいにしてしもうた)

 ただ、姉という言葉はひどく嵐の気に食わなかった。

 自分より上に立つことを誇示されたように感じたからだ。

 気まずい沈黙のうちに、嵐と若雪は屋敷を後にした。

 これより十余年の歳月を経て、思わぬ形で二人は桜屋敷を再訪することとなる。

 

「あ…、」

「なに?」

「今、(つづみ)の音が聴こえませんでしたか?」

 桜屋敷を出て以来、一言も喋らなかった若雪が言った。若雪が消沈(しょうちん)してしまったので、団子を買って食べるでもなく、まっすぐ帰路をたどる途中のことだった。相変わらずの人波だったが、手は繋いでいない。嵐はどうにも気まずくて、若雪に手を差し伸べることが出来なかったのだ。―――差し伸べた手を拒否されるのも怖い。一定の距離を保ち、二人は辛うじて共に歩んでいると言える状態だった。

「鼓?」

 耳を澄ませる。

 カポン、

 ポン、ポン、

 カポン、…

 確かに鼓を打つ音だ。

 人々の声が行き交う中、その独特の音色が嵐の耳にも届いた。

「…聴こえるな」

 そこは宗久の屋敷も近づいてきた十字路、人々の行き交う中に、一人ぽつねんと座る老婆がいた。鹿皮を敷いた上に座り、皺だらけの首に長い数珠をかけ、鼓を手にしている。

 病平癒の祈祷などを主な役割とする、典型的な口寄せ巫女の様相だ。あまり珍しいものでもない。

「そちらにいらっしゃるのは、出雲からいらしたお姫さんと、忍びの若様ですか」

 視力を失っているように見える老婆が、しわがれた声で唐突に問いかけてきた。

 さっさと通り過ぎようとしていた嵐は、ぎょっとして足を止めた。十字路には他にも幾人かの人間が行き来しているが、これは、若雪と嵐に言っているのだろう。そうとしか思えない内容だった。

 問題はなぜそれが解るのか、ということだ。

 相手にしたものかどうか嵐が逡巡しているうちに、若雪が老婆に歩み寄った。

「巫女さま。今のお言葉、私たちに対する問いかけですか」

(あわれ)むべし――」

 巫女が言った。

 発せられた声には、思わず胸を打つような重々しさと悲しみが内在していた。

 若雪が目を見張る。

「え?」

「何という…。(まがつ)(ぼし)の下にお生まれか」

 巫女が蓬髪(ほうはつ)の頭を振りながら嘆くように呻いた。耳に届いたその言葉に、背後の嵐が眉を(ひそ)める。

「あなた様の行く先、闇が、見えまするぞ。それも底の見えぬほどに、深い、深い」

 年老いた盲目の巫女が突如語りだした言葉に、若雪は面食らった。

 いきなり何を言うのか。ただの託宣(たくせん)と言うには、剣呑(けんのん)に過ぎる内容だ。

「行くで、若雪どの」

 今度は躊躇(ちゅうちょ)なく若雪の手を取り、通り過ぎようとした嵐だが、巫女の言葉は続き、若雪が動かなかった。否、動けなくなった。

「遠い先、困難が避けようもなく降りかかるでしょう。絶望につぐ絶望が、あなた様を襲いまする。その様は、さながら打ち寄せる波のごとくでありましょう。お身内は凶刃に(たお)れられましたが、あなた様は病をえ、」

 これでもかと不吉な予言を並べ立てる巫女の言葉が、唐突に途切れた。華奢に見える嵐の右腕が軽々と老巫女の胸倉(むなぐら)を捕え、引き寄せたからだ。勢い、巫女の首にかかる数珠がざらりと音を立てた。

「お前が三好か紅屋(べにや)か、どこの者かしらん。せやけどな、それ以上、世迷言(よまいごと)ぬかすようなら、女でも年寄りでも容赦せんぞ」

優しげな面立ちを巫女の真正面に据えた少年が、目を底光りさせながら低い声で言いきる。殊更大きくもない、むしろ静かな声に籠る迫力に巫女はもちろん若雪も固唾(かたず)を呑んだ。その顔は、まだ(よわい)十二の子供のするそれではない。

見えずとも気配は十分に伝わったのだろう、年老いた巫女は泣き出しそうな顔でおどおどとしながらも(わめ)いた。

「わ、わたくしは、見えたものを言うだけ。天の(しもべ)に過ぎませぬ。婆めは嘘偽りなく、見える先の世を申しているだけでございますよう。されど、されど、若様。あなた様は、どうぞご安堵なされませ、あなた様も、今生は絶望の闇の中で終焉(しゅうえん)を迎えられますが、更に先の世、来世におかれましては、平穏と幸福がきっと約束されましょうゆえに…」

 嵐も若雪も二の句が継げなかった。

 思わず嵐が胸倉から手を放すと、巫女は両袖で頭を庇うようにして、震えながら縮こまってしまった。

 来世まで見通す占者など、聞いたこともない。

 しかも内容が内容だ。これでは小銭も稼げまい。それどころか、下手したら袋叩きだ。

「ばあさん、もう少し穏便なこと言わんと商売にならんで」

 嵐が、立ちすくんだ若雪の手を引っ張って、荒々しく(きびす)を返した。

(あわれ)むべし…」

 老巫女は再びつぶやく。ただの物狂いの老婆の声が、こうも胸を打つものだろうか。

 思わず振り返ろうとした若雪の手を、制するように嵐がきつく掴む。

「見んなや。付け込まれる。あの婆さんは変や。――――知りすぎてる」

「今一度」

 巫女は身震いしながらも、嵐の声に被さるように言葉を続けた。

「今一度、お会いすることになりまするぞ、…忍びの若様」

 嵐たちが遠ざかる気配を感じているだろうに、老巫女が震える声で重ねて言うのが聞こえた。

 その声はそれほど大きい訳でもないのに、不思議と背中に響き、耳を打つ。

(叔父上の邸も近いっちゅうのに、こんな胡乱(うろん)な輩が徘徊(はいかい)するとは)

 見回りの強化を宗久に進言するべきかもしれない。



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