隣室
―ドンッ
深夜二時。この頃、毎日の様に隣室から聞こえるこの音で起こされる。ただでさえ不眠症で悩まされているというのに……。
この状況が約一ヶ月続き、温厚な俺もとうとう反抗した。今の世の中は何が起こるか分からない。もし、文句を言いに行って、さらに悪化したらどうしよう……。最近見たニュースでは隣人同士のいざこざから殺人事件にまで……。
古きよき日本のお醤油貸し借り時代も、いつの間にか消えていった。俺は次の日の朝、大家に苦情の電話をかけた。その日のうちに、大家からは、隣の方は連絡が取れないので……とポストに手紙を出しときましたと電話があった。
これで大丈夫かな?
少しだけ安心して眠りについた。
―ドンッ
ドンドンと音が鳴り響く中、俺も殴り返したかったが我慢した。
次の日、俺は友人に相談をした。友人は、やり返せばいいと促した。俺はもう一度大家に電話したが返事は、この前と一緒だった。
このままではノイローゼになる……。こんな事で精神をおかしくされてたまるものか。
俺は今夜、徹夜を覚悟で隣室からの音を待つ事にした。深夜二時が過ぎた頃、そろそろかな?と壁を見るとドンッと鳴った。
―ドンッドンッドン
今日は、いつもと違ってやけに激しい。
俺は壁に耳を当て、ふと横に置いてある全身が写る鏡を見て、自分の目を疑った。
腰まである真っ黒な髪で、白っぽい服を着た女が鏡に写っている。鏡の中で俺の髪の毛を片手で鷲掴みにし、壁に頭を叩きつけている。その度にドンッと音が鳴っている……。
鏡の中の俺はグッタリしている。
何なんだこれは?
俺は思わず鏡に布を被せた。何が何だか訳が分からず、俺はそのまま家を飛び出し、近くの友人の家に駆け込んだ。友人は、俺の青ざめた顔を見て、眠たい目をこすりながらも家に入れてくれた。
「どうした?」
「頼む! 俺の家に今すぐ来てくれ」
「また隣の奴がうるさいのか?」
「とにかく見てほしいものがあるんだ」
俺は無理やり友人を家に連れて行った。部屋の電気は点けっぱなしで少し散乱していた。そして、すぐさま俺は友人に鏡を見せた。何も写ってない。俺と友人がこちらを見ているだけだ……。
「何があった?」
友人はすごく眠そうだった。俺は鏡に写っていた女性の話をした。
友人は、多分、疲れているだけだ……。もう寝た方がいいと言って、そのまま泊まってくれた。
―ドンッ
俺と友人はその一瞬で目を覚ました。
「隣に言ってきてやろうか?」
友人は、いらついていた。
「そ、そうじゃないんだ」
「…………?」
友人は首を傾げた。
「そこの鏡を見てくれよ」
友人は鏡を見たが何も写ってないと言った。俺が鏡を見ると写っている。
友人には見えないのか?
鏡の中の俺は頭から血を流して、首の骨が折れているのかグニャグニャになっている。それでも、その髪の長い女は壁に俺の頭を叩き続けていた。
俺は嘔吐した。
気持ちが悪くて吐き気がおさまらない。友人は何かを悟って鏡を床に伏せた。激しく音が鳴り響く。友人は隣の部屋に勢いよく走って行った。
―ドンッドンッ…ドッ……。
音が鳴り止んだ。
俺は恐る恐る鏡を見た。
友人と黒髪の女が写っている。
意味が分からない……。
女は友人の首を絞めながら笑っている。
友人の口からは舌が根元まで飛び出し、顔色がジワジワと紫色に変わっていく。
女は友人の頭を壁に叩きつけた。
―ドンッ
―ドンッ
―ドンッ
女は俺の方を見ながら、笑って叩き続けている。
体が動かない。
金縛りとかではなく、恐怖のあまりに動けない……。女は叩きつけるのを止め、俺の方をじっと見ている。俺は目を反らすだけで精一杯だった。その恐ろしい形相は想像の世界で勝手に膨らんでいく。
俺も殺されるのか?
あの鏡の中の俺は何なんだ?
友人は死んだのか?
なぜ鏡の中に?
隣室?
俺は隣室へと向かった。鍵が開いている。部屋に入ると友人が倒れていた。
「おい! 大丈夫か?」
友人はただ気を失っているだけだった。安心したのも束の間、俺はある異変に気がついた。何もない。窓からの月明かりだけが部屋に入り込んでいた。
この部屋の住人は?
俺はとりあえず友人と一緒に自分の部屋に戻った。友人は頭をさすりながら、全く記憶がないと言っている。
「部屋の鍵が開いていて入る所までは覚えているけど……」
友人の全身は小刻みに震えていた。
俺は鏡に写っていた出来事は友人に話さなかった。しばらくしてから俺は落ち着きを取り戻し、嘔吐の後始末を始めた。
友人はまだ震えている。
「寒いか?」
「いや、なぜ震えるのか分からないんだ」
―ドンッ
鏡を見ると女が友人の頭を叩きつけている。叩きつけていくうちに、鏡の中の友人も隣にいる友人もグッタリしていく。
「もう、やめてくれ!」
俺は大声で叫んだ。
しばらく叫び続けると、俺の目からは涙が大量に溢れ出てきた。鏡の中の女は笑いながら、叩きつけるのを止めようとしない。
友人の顔が粘土で作られたみたいにどんどんと変形していく。これ以上続くと死んでしまう。俺は鏡を床に思い切り叩きつけた。
―ドンッドンッドンッ
無我夢中に叩きつけ、気がつくと割れた破片があちこちに散らばっていた。鏡を見ると蜘蛛の巣が張ったような状態になり、自分の顔がたくさん写っていた。俺は疲れ果て、その場に座り込んだ。
友人の顔は紫色で口から舌が根元まで飛び出して死んでいる。
とてつもない寒気がする。俺の後ろに誰かがいる。振り向くと髪の長い女が笑いながら突っ立っていた。
―ドンッ…ドンッ…ドンッ
「何? この音?」
彼女は隣の壁を見て、不愉快そうに言った。
「最近、隣のこの音で寝られないんだ」
「注意して来たら?」
「さらに悪化するのも嫌だしな。今の世の中、何が起こるか分からないから……」
「女の人の声がするけど……隣の人は女性なの?」
「隣の人間なんて知らないし、誰が住んでいるのかも興味ないよ。へたに関わらない方がいい」
「そうよね。隣で何が起こっていても別に関係ないしね……。でも、隣の人が誰か分からない今の時代って何か少し悲しいよね」
「しかし一体何の音なんだ?」
―ドンッ
完
昔と比べて、近所付き合いは確実に少なくなっています。
物があふれて経済的に豊かになった分、精神的には昔と比べて豊かなのでしょうか…。