18. 素敵なお別れに悪い知らせはいらない
静かな執務室にドアの開く音が響いた。変装をやめていつもの服装に着替えた皇帝は、宰相に声をかけることもなく一直線に自分の席に向かった。
宰相は、ようやく帰ってきた皇帝の姿を見て安堵した。だが、皇帝は浮かない顔をしている。
「陛下、どうなさったのですか?」
「巫女以外に、黒を体に宿す者など、いると思うか?」
「――――――――――は!?」
帰ってくるなりおかしなことを言い始めた皇帝に、宰相は目を丸くする。
出かけた先でいったい何があったんだ!?
………………確か、誘拐犯の討伐に行ったのではなかったか?
そんな宰相の様子にも気づくことなく、皇帝はさらに言葉を紡ぐ。
「………いたんだ。神に近い色でなく、神の色そのものを持った者が。見間違いでも何でもない。実際に、見た」
皇帝の尋常でない様子に、宰相もただ事ではないと気づく。………最初は気が触れたかと思ったが。
「その者は、少女だったが………俺をも凌ぐ、圧倒的な力を有していた」
それが巫女だとすれば、他を害することはありえないが――――――――――もし、そうでないとしたら。世界を破滅させる存在になりかねない。
「………気になりますね。早急に調べてみます」
「ああ、頼む」
宰相は自分の執務に戻ろうと席に向かい、ペンをインクに浸けた。
「ああ、それから………………俺は、平民から正妃を決めることにする」
インク壺から持ち上げたペンから一滴、インクがぽたりと落ちた。
黒髪の少女発言に続き、皇帝の突拍子もない発言に宰相は絶句する。
この前語っていた高すぎる理想はどこへいったのだ。作法とか教養とか言っていなかっただろうか。
「今日、町へ行ってきた。そこで、一人の女性と街を歩いたのだが、平民の方が愛情を持てそうな気がした」
「王宮へ入れるにしても、作法などはどうする気です?」
「そういったものは、後から教育すれば何とかなるだろう。だが、あの令嬢どもの歪んだ性格だけは教育で何とかなるとも思えない」
確かに、蝶よ花よと育てられ、十年以上かけて完成された歪んだ性格や間違った価値観は、矯正するにはさぞかし骨が折れるだろう。
――――――――妥協、早っ!!!
18歳から結婚について言われ続け、3年間、自分の理想についてどれ一つ譲ろうとしなかったのに。いきなり何故そんなに大幅な妥協を決意したのだか………。
宰相がそう感じたとしても、誰も文句は言うまい。
「もしかして、陛下はその女性のことが………」
「ああ、気に入った」
その瞳は、間違いなく恋する瞳だった。陛下に、そんな日が来るとは。
「そ、それで、その女性は、どんなかたです?」
「見た目は、とても可憐な容姿をしている。明るくて、優しい。いざというときは度胸もある。彼女、俺を守ろうとして、敵に足をかけたんだぞ?」
へ、敵?
「………は、ちょっと待って下さい。陛下、敵に襲われたのですか?」
「そうだが?」
皇帝は宰相の大げさな反応に怪訝な顔をする。
「少女に助けられるほど、陛下は敵に囲まれていた、と?」
「…………………………」
思わぬところで墓穴を掘ってしまった。いつも気を張っているぶん、宰相が相手だとどうしても気を緩めてしまう。
「………………これから外出の際は、ぜ・ひ・と・も護衛を付けさせていただきますね」
「これからは気をつける」
「ダメです」
ナツが来てから妙に宰相が自分に対し強く出るようになったのは気のせいか。最近、自分に対する扱いが変わってきたようなのだが。
「そういえば、ナツはもう少しでいなくなるのでしたね。早く腕の立つものを護衛に置かなければ」
近衛隊長の存在が忘れられている気がしないでもないが、気のせいでなく実際に忘れられている。
最近、ナツの登場でさらに怪しい視線(皇帝への愛)を放つようになった近衛隊長から不穏な空気を読み取った皇帝は、無意識に彼を遠ざけているらしい。王宮内での最低限の護衛以外で彼を側に置いているところを見たことがない。
近衛隊長という地位についているだけあって、その実力は目を瞠るものがあるので………………他の隊にでも回すか?
「まあ、ナツを手放すなんて正直考えたくないのですけれど」
「ああ、そうだな。手放すのは惜しい」
二人の権力を使えば、ナツを無理矢理雇い続けることなど雑作もないことだ。それをしないのは、ナツの意見を尊重したいと思っているからに他ならない。
それほどまでに、二人にとってナツは大切な存在なのだ。
「また働いてもらえないか、ぜひとも打診してみましょう」
「そうだな」
願わくは、これからも一緒にいたいと思う二人であった。
「………そういえば、緊急事態とはなんだったのだ?」
宰相が、思い出したくもなかったとばかりに顔をしかめる。
「先日、陛下が殺した少女のことを、覚えていらっしゃいますか?」
「ああ、あの誘惑しか頭にない馬鹿女か」
思い出したくもない忌まわしい記憶だ。なにしろ、自分があんな馬鹿女の演技にひっかかったのだから。
「…………………………公爵家の令嬢でした」
「……………は?どこの?」
「緊急事態になると言ったら、かの公爵家しかないでしょう」
かの公爵家といえば、皇帝から見てもこの国になくてはならない存在だ。彼らの卓越した能力は、皇帝に匹敵もしくは皇帝を凌ぐほどだ。敵に回してしまったら怖すぎる。
なぜこんなにも最高権力者が気を遣わなければいけないかというと――――――――――――公爵家は、もとは他国の王族の家系であり、この国を追放されても痛くも痒くもない。ただ自分の国に帰ればいいだけの話である。
あの公爵家のことだ、気に入らなかったらさっさと出ていきかねない。いや、たとえ王家の庇護がなくとも、冒険者になってでもどこかに行ってしまうだろう。
「たしか、公爵家には子息殿一人だけしかいなかっだろう?」
皇帝はわずかに震える声で、確認をする。これはいわば、命の保証の確認だ。
「それが………養子を取られていたようでして」
「は?そんな報告、今までなかったぞ」
「それが………社交界デビューもしていないようで、書類上は公爵家の令嬢ですが、姿を見た者は誰もいないとか」
「では、誤って殺してしまっても仕方がなくないか?」
「そもそも後宮に関しては、陛下の管理不行き届きから始まったことですので言い訳は無理です」
「………………どうする?」
「取りあえず、遺体と彼女の私物を公爵家に送りましょう」
今さら取り繕っても結果は目に見えている。誠心誠意謝るしかないだろう。
「出来れば、ナツが帰ってくる前がいい」
――――――ナツとのお別れの前に、こんな最悪な事実は知らせたくない。
こうして二人は、夜中に部屋を訪れたのだが………。
「なぜ、何もない」
「調度品はおろか、遺体すら残っていませんね」
彼女の部屋に残るのは――――――――――彼女が叩きつけられた衝撃で空いた穴と、その周りに飛散する血痕のみ。「………………誰の仕業だ?」
「ここは用意周到な公爵家が回収したと考えるべきでしょう」
「………………では、既に公爵家側に露見しているのだな」
「おそらく」
ナツとの平和で楽しく素敵なお別れのために、ひとまずこの事実を心の奥にしまうことに決めた二人だった。