アリスは兎を追いかけなかった
アリスが目を覚ますと、そこには何やら奇妙奇天烈、というのはいささか大袈裟ではあるが、少なくとも珍妙だとは感じられる光景が広がっていた。
とは言っても、王道的なトリップファンタジーのように、ふと目を覚ましたら自室であるはずの空間が脳裏に思い描いたことしかないような奇妙な世界に変貌を遂げていた、というものではない。事実、アリスが目を覚ましたのは眠りについた時と同じ、心地よい風が吹く丘の上であった。とりわけ空間が歪んでいたりというようなおかしなこともない。
否、おかしなことは、ある。何しろアリスは、その“おかしなこと”を目の前にして、信じられないとでもいうように目を瞬かせていたのである。その人物がアリスでなかったにしても、まず「信じられない」と思うのは確実であろう。
燕尾服に知的な眼鏡、片手には懐中時計。何かを早口で呟きながら二足立ちで走っていくそれは、ご存知白兎である。
アリスは、白兎が目の前を横切っても目を瞬かせていた。寝起きで反射神経が鈍っているのか、口をあんぐり開けていたり、言葉になっていない声を漏らしたりはしていない。ただただ目を瞬かせ、白兎が通り過ぎていくのを見つめているだけである。
それが問題だった。
やがて白兎が例の“穴”に到達した時、アリスは白兎を追って——いなかった。何ということだろうか、アリスは白兎を追いかけるどころか、立ち上がってすらなかったのだ。白兎は焦燥を顔に浮かべ、一瞬アリスの方をちらりと見やる。しかし、アリスがこちらを追いかけてくる気配がないことを察すると、ええい、とやけになって穴に思いっきり、飛び込んだ。
「アリスが来なかっただと!」
その鋭い怒号に、城にいたもの全員がびくっと体を震わせた。白兎は、目の前の人物が放った怒号に思わず尻もちをつき、体を大きくふるわせている。顔色は、まるで白兎改め青兎になったかと錯覚させられるくらいの真っ青だった。目の前の人物——この世界の王女の怒りと焦燥、そして恐怖は、彼女の身につけている仮面越しにでも伝わってきた。
白兎は王女の城内にいた。本来白兎はティーパーティーに参加しているはずなのだが、それは“台本”通りに物事が進んでいればの話、今回は“台本”を続行することが不可能になった、ということになる。
その原因は、無論アリスの不在であった。
本来であれば、この段階では白兎はティーパーティーに、アリスは白兎を追って穴に落ちていなければならないのだが、何が食い違ったのかアリスは白兎を追いかけなかったのである。
王女は、なおも怯えている白兎から視線をそらし、あたりを右往左往した。頭の中では、ある一つの思いが高速で脳を回転させていた。
——嗚呼、このままではストーリーテラーに“抹殺”されてしまうではないか!
ストーリーテラーは、この世界に存在する全ての物語の分岐を操り、その世界を改変する力があると言われている。つまり物語を創ることも出来れば物語の分岐を決めることもできるし、物語ごと“抹殺”してしまうことすら出来るのだ。とはいっても物語に登場する人物の中にはストーリーテラーを疑う者もいる上、読み手にとっては存在自体さえ知らない者が多数なので、その存在は物語の中に生きる者の、更にストーリーテラーを信仰する者でしか語り継がれないという。
「……あの、ストーリーテラーって本当に存在するんでしょうか? だってほら、本当にそういう存在があったらアリスは必ず私を追ってきているはずですし」
白兎は王女の様子から彼女の心情を読み取り、恐る恐る問いかけてみる。その問いはストーリーテラーを信仰し、また恐れていた王女にとっては最も触れてほしくなかったものだったようで、突然怒号の叫びを放った。白兎は「ひいっ」と小さい悲鳴をあげ、頭をかかえて縮こまる。
王女は白兎を数秒ほど睨んでいたが、冷静にならなくてはと、大きく深呼吸を繰り返した。
「ストーリーテラーの存在は十中八九事実だろう。アリスが来なかったのは、どこかで“台本”に障害が生じてしまったということなら説明がつくはずだ。とにかく、なんとしてでもアリスをこの世界に来させるんだ。そして“台本”をに従って動け。もしこれが出来なかったら……」
——“抹殺”される。
彼女が最も恐れていることが頭を駆け巡り、慌てて先の言葉を生唾と共に飲み込む。白兎は最初戸惑った表情をして王女の顔を見つめていたが、王女が再び叫ぼうとしているのを察すると慌てて部屋を出て行ってしまった。
アリスは、未だに先ほどの出来事をよく理解できていないようであった。目を瞬かせるのはやめたものの、まだ手足が思うように動かせない。
ふと我に返り、アリスは後ろを振り返った。視界の中心には先ほどまでもたれていた大木の幹が陣取っており、その外側は芝生が丁度良い高さに刈られた公園の敷地で占められている。数秒間ほど後ろの方を観察して姉の姿が未だに見られないないことを確認すると、安堵とも落胆ともつかない溜息をついた。胸に手を当てると、心臓が普段よりもずっと早いペースで鼓動を刻んでいる。心地よい風がふいた。夢では「感覚」たるものは失われてしまうのだから、風を感じているということはこれはまぎれもない現実だった。
とりあえず落ち着こうとしてアリスが深く息をすった、その時。
「ちょっといいですかな、そちらのお嬢さん」
不意に何者かの声がして、アリスは吸っていた息を悲鳴もろとも吐き出した。何しろ、つい先ほどまでアリスの周りには人影の一つも見当たらなかったのだ。公園の入り口からアリスの周辺にたどり着くルートは一つしかない上、そこを行くには全速力で走っても数分ほどの時間を要する。溜息をつき、胸に手を当て、息をすうという行為の間にアリスの目の前に現れるのはまず不可能であった。
しかし、アリスが悲鳴を漏らした原因は、他にも、ある。目の前に、アリスにとってはとんでもないような存在があったのだ。ここまでくればお分かりだろうが、不可能なことを成し遂げたという先ほどの声の主は、アリスを驚愕に陥れたあの「白兎」なのであった。
「いや、今は説得している場合じゃないんだったな。とにかく、一緒に来て下さい。何、事情はあとで分かることになっている。貴方がいないと私たちは終わりなんだ」
白兎は一息にまくしたてると、答弁させる隙もつかせずアリスの右手を掴んだ。ぽかんとしていたアリスは慌てて木の幹を掴んで体を固定し、右腕を振り回して抵抗した。十四そこらの少女とはいえ、暴れる人間が相手というのは白兎にはどう考えても勝ち目のない話だった。白兎は小さく舌打ちして、懐中時計の出っ張り部分についている金属の小さな輪を捻った。と、アリスの動きが不意に鈍くなる。白兎は、懐中時計でアリスの周りの時間経過の速度を下げたのだ。
抵抗が弱まったアリスを、白兎は必死の形相で引きずっていく(本来は抵抗が弱まっても人間をひきずるのは不可能。今回の件に関しては説明は可能だが、どうしても長文になってしまう為割愛する)。速度に手を加えられた空間を抜け出したらアリスの抵抗も再び強くなるかと思われたが、どうやらその空間は常にアリスの周りに存在するよう創られているらしい。アリスの抵抗が強くなる様子は一向に見られなかった。
やがて、白兎は穴と見つけると迷いもなくそこに飛び込んでいった。無論、手を掴まれていたアリスも道連れとなってゆっくりと飛び込んでいく。それを見かねた白兎は、金属の輪を元に戻した。例の空間は消滅し——といっても空間は目に見えない存在なのでどうなったのかは知れないが——、アリスを元の空間が囲む。アリスは慌てて白兎の手をふりはらったが時は遅し、重力は既にアリスの落下を決定づけていた。アリスは落ちていく。アリスは、“台本”に巻き込まれたのだ。アリスは、かろうじて周りに漂う椅子などが確認できる状態で、白兎の姿を懸命に探した。が、白兎の姿はどこにもない。
そして、アリスは堕ちていった。
王女は、混乱したように辺りを見回していた。周りには最低限渉ることは出来そうな部分を覗き、本が色々な箇所で積まれていた。散らかっていた。本があたりにばらまかれているわけでもない、埃の塊や蜘蛛の巣も見当たらない。しかし、その部屋は、散らかっているという他に表現のしようがないものであった。
私は、彼女の後ろで混乱のしようをじっと眺めていた。別に物陰に隠れていたりしたわけではないのだが、それでも彼女が私の存在に中々気づかないのは、恐らくいきなりの出来事に困惑しているせいだろう。
「そこの仮面王女さん、人間ならここにいるよ……まあ、形だけだがね」
王女を一通り観察した後に、そう声をかけてやる。王女は素早く後ろを振り返り、そして先ほどと同じくらいの速度で後ろに飛び退いた。背後にあった本の山が崩れ、王女も仰向けに倒れていく。彼女は暫く顔をしかめて背中の本を見ていたが、やがて身を起こすとこちらをきっと睨んできた。本をやたら積んである以外はこちらから詫びることもないのだが、彼女は私が全て悪いとでもいうような雰囲気で睨んでくる。なるほど、と私は密かに関心した。彼女の性格は“台本”で創られたものではないのだ。
「私を混乱に陥れた上仮面王女などという人を軽蔑したかのような言動、挙げ句の果てに私に本をぶつけるとは何様のつもりだ? これは重罪に値する」
「残念ながら本をぶつけたっていうのは君の被害妄想にすぎないし、ここは君が中心となる世界じゃない。行ってみれば、君の世界でも中心となるのはストーリーテラーなんじゃないかな?」
彼女はそこで、怒りと恐怖と驚愕が混ぜこぜになった表情をしたのだと思う。何しろ彼女は仮面で目以外を覆い隠しているから、細かな表情は何も分からないのである。しかし、彼女の仮面から漏れだしている雰囲気からは、前述したような「怒りと恐怖と驚愕の表情」しか考えられなかった。悪趣味だと言われるかもしれないが、私は雰囲気で表情を当てるのが得意なのだ。
「ストーリーテラーを——あのストーリーテラーを——知っているのか」
震えた声で呟くように言う。確かに、私はストーリーテラーを知ってはいた。ただ、それをそのまま伝えると、何らかの矛盾がうまれる可能性がある。もしかしたら、鋭い人はもうお分かりなのかもしれない。私は、顔色が恐怖、というよりは怯え一色になったと思われる彼女の顔を改めて見直した。
「勿論知っているよ。何しろ自分のことだからね」
彼女はしきりに口を動かしているように感じられたが、声は少しも聴こえない。どうやら、何も言えなくなってしまったようだ。
私が喋るのには口出しがなくなって助かったくらいなので、とりあえず私は話をつづけた。
「私はストーリーテラーなんだよ。嘘じゃない、本当の話だ。証拠だってある。ついさっき、私は君のいた“不思議の国”を削除したばかりなんだ。見てごらん」
私は押絵のある頁を適当に選び、王女の近くに歩み寄ってソレを見せてやった。以前までは、ニヤニヤと笑う猫が描かれてあった頁だ。彼女は恐る恐るといった様子で押絵を覗き込み、一瞬で顔を背ける。いまにも肩をつかみかかってきそうな怒りが感じられたが、彼女にそれが出来る筈もないので私は大して恐ろしくは思わなかった。
だがしかし、彼女が怒るのも無理はない。むしろ当然なのだ。その押絵に猫の姿はなく、倒れて燃え尽きかけている木や硝子の割れた懐中電灯——無論、白兎の所持物だ——、そして“堕”ちた少女が描かれてあったのだから。否、描かれていたのではない。それは、“不思議の国”で本当に起こった出来事なのだ。
私は本をそっと閉じると、何故だと言いたげな彼女に背を向けた。
「アリスが来なかったのは、この私が“台本”を改変したからだ。私はね、君たちの物語が好きだった。私は今まで数々の世界を創っては抹殺していたけれども、こんな傑作は初めてだった。だから、私は二百五十年弱のも間君たちの世界を活かしておいたんだ。でも、ここに来て君たちにとっては最悪のパターンでもある『飽き』が来た。だから、私は無言で“台本”を改変したんだ。何も知らないのにアリスが来なかったら君たちの世界がどう動くかが楽しみでね」
そうだ——私は瞬時に納得した。私は、アリスに飽きてしまっていた。あのアリスにだ。だが、飽きてしまった以上はその世界を抹殺してしまうしかない。しかし、“不思議の国”は、私にとってはあまりに魅力的で、抹殺するには惜しすぎた。
だから、私はアリスが来ないように仕向けたのだ。世界観や人物は同一のもので、違うストーリーを楽しもうとした。しかし、白兎や王女は、違うストーリーをつくるのではなく、アリスを引き連れることを選んだ。全て私の誤算だったのだ。
しかし、今では、全てが手遅れなのだ。
「もう、“不思議の国”はいらないよ」
そこで、彼女はやっと声を出した。いや、それは断末魔の叫びに近かった。
断末魔の叫びが部屋に響き渡り、本の山がそれぞれ崩れていき、彼女が消滅し、“不思議の国”は——。
「さあ、創るか」
私の呟きは、セカイと共に融けて、消えた。
や……やっと出来た!!三日がかりで……やっと……!!
しかし流石は詠琉、最後が無理矢理なのなんの。
これでも段階を三つほど飛ばしましたからね。
でも、まずまずの出来だとは思います。
ルビがふれなかったのなんだか悲しかったけど。
批評、感想お待ちしております!