灯が消えたあと
短編です
「七月 十八日 十一時 五十分 三十秒。ご臨終です」
医師が静かにそう告げた。
父が死んだ。七十二歳。死因は心筋梗塞。なんというか、父らしい、実によくある死因だった。俺は母と妹と三人でベッドに横たわる冷たくなった父を眺めていた。
「うぅ……」
「もう、そんなに泣かないの」
母が、妹をなだめる。妹はずっと泣いている。何というか、妹は家族思いだ。
それに気づいたのは俺が大人になってからだ。わざとらしいほどのそれは偽善にも見えるが、間違いなく本心なのだ。容態が急変してから最初に妹から電話がかかってきた。
「お兄はなんとも思わないのぉ!?」
そして、妹は激情的だ。さすが、あいつの娘なだけはある。そしてその全く違う一部は、確かに息子でもある俺にも引き継がれているのだった。
「色んなことがあったけどさぁ!お父さんが死んじゃったんだよぉ!?」
「ああ、うん」
久しぶりに見たみんなの顔は、やっぱり老けていた。
同い年で結婚した母は72歳。
母は年の割には歩ける方だが、長年の無理と蓄積された酒が祟って、少しよろついている。
昔は白髪をよく気にして一本一本丁寧に抜いていたが、今はその必要もなくなっていた。
俺も妹ももう四十半ば。
かつては街で歩けば振り向かれるようなスタイルの良さで、多数言い寄られていた妹も、今ではその高さがうっとうしい。
号泣するには、適さない年齢だろ、とそう俺は思った。
「……まあ、あいつにしては長生きだったろ。ほら、大往生ってやつ?泣くより笑った方があいつも喜ぶよ」
眠い。徹夜の仕事からたたき起こされるように呼び出された俺は、眠すぎて、ついあくびをかましてしまった。
「あ、ごめん、眠くて」
ごめんでは許されなかったらしい。
それを見た妹がギリッと歯ぎしりをした。涙で眼が腫れ、怒りで顔を紅潮させた妹はひどい顔をしていた。
「そうやっていつもいつも!!」
がっ、という鈍い音がした。
「気にしなくていいわよ。あの子は昔からああなんだから」
母は仏壇に父の遺影をコトリと置いた。
このタンスも古い。俺が子供の頃からある木製のタンスだ。
「痛てて……」
俺の頬が赤らんでいる。怒った妹にバッグをぶつけられたのだ。
妹は昼食をとると何事もなかったかのようにさっさと新幹線に乗り、夫と子供たちが待つ大阪の家まで帰ってしまった。
熱しやすく冷めやすい。それが妹の特徴だ。
母は家に帰って遺品整理の準備を始めようとしていた。一人では手続きをこなし切れそうにない母に代わって書類を片づけるため、自分が来たのだった。
久々に帰る実家はひどく様変わりしていた。
「これ、とりあえず市役所の人に見せといて」
俺は仕上がった書類をファイルに入れた。
「たすかるわぁ、ケンジがいてくれて」
母は父が残した上着類や、Tシャツなんかを畳んでいた。
俺はかつて書類が入っていた箱にそれをしまおうとした。だが、あるはずの所にその箱はなかった。
右往左往してると母が、
「ああ、それ。ええっとね、右の三番目のとこだったかしら。そうそう、リビングの」
よく見ると、書類と書かれたシールの貼られた棚が見える。だがそこは、かつて父の趣味を入れておく棚だった。
最近模様替えしたのよ。と笑っている。
……そういえば、いつもの鳴き声を今日は聞かない気がする。
「猫はもう飼ってないのか?」
「うん。死んじゃうと悲しいからね」
いつもリビングにあったあの派手なピアノもない。
「あれ?ピアノは?」
「指動かなくてさ。もう年だし」
リビングで毎日弾いて父と喧嘩をするほど弾いていた趣味のピアノ。老後にはピアノを極めるのが夢だった母親。だが、今ではもう居ない。
気づくと母はもう、自分の知っている人間ではなくなっていた。
「仕事の方はどうなの?」
母が遺品整理をしながらつぶやく。
「ああ」
仕事……と言えば、一番記憶に残っているのはあの二十五の夏。俺は散々嫌がっていた地元の工場をやめた。夢を見て、上京して、そして今がこんな感じだ。
「ぼちぼちって感じだな」
俺は投げ捨てるようにそう答えた。だが、実はそれほどうまくいかなかったわけでもない。
「あら、あんなに意気込んで入った会社じゃない」
母が笑っている。そうなのだ。俺は掲げた大きな夢さえ叶わなかったものの、結局その少し近い業種に就職した。そこからなんとなく生きて、まあそれなりに子供も出来て、
今、そこそこの暮らしをしている。
「なんだかさ、実感がわかないんだよな」
俺は死んだ父の遺影を眺める。
「あんた、お父さん嫌ってたじゃない」
「まあね」
確かに父とはあまり仲は良くなかったし嫌いだった。父は機嫌を損ねることがあればすぐに手を出すし、口を開けば自慢話と他人の悪口。
『誰のおかげで飯が食えてるんだ』が口癖の男。
正直、金を稼ぐこと以外は最低の人間だと思う。俺の上京にもあまりいい顔をしていなかった。思い通りにならないことはとことん背後からあざ笑う。それが奴の行動パターンなのだ。
「まあ、お父さんはあんたのことしょっちゅう気にしてたけどね」
「知ってるよ」
だがその実、父は俺を嫌っていた訳ではない。困ったことにむしろ好いているという感情に近い。
「あれを見りゃ誰だってそう思うよ」
俺は窓から見える一つの陰を指し示す。外にあるさび付いたバッティングネット。
これは父が俺の誕生日に勝手に建てたやつだ。あいつだって下手くそなくせに、むりやり少年団にねじ込む形で参加させて。散々ダメだしして、散々めちゃくちゃに引っかき回して。
散々な記憶しか無い少年時代だった。
そして十一歳の誕生日の日、急に連れられたのはスポーツ用品店。
最新のゲームが欲しかった俺の意見をむりやり説得させる形で、父は突如、家の庭に建て始めたのだった。
でも、最近俺は思う。嫌っているのであればそんな面倒くさいことするだろうか。
その行動は愛故に野球がうまくなって欲しいからそうしたのではないか。と。
それこそ父の変なところなのだ。好かれようと思えば普通にゲームを買えばよいだろう。だが、息子に野球がうまくなって欲しい、という自らの欲求を捨てきれない。
それが父なのだ。
「ふふっ」
口から乾いた笑みがこぼれる。
「ほら、差し入れ。親父と一緒に食えよ」
俺が差し出したのは徳用のまんじゅう。
「あら、気が利くじゃない」
「お父さん甘いものも好きだったものね」
「……違えよ」
実は、スーパーに寄って最初に手に取ったのはまんじゅうではない。
チー鱈だ。
父と母の好物で最初に思い浮かぶもの、と来ればこれしかなかった。
しかし俺は思い出した。
母は酒をやめたんだった、ということを。
家に帰ったらすでに缶が二つおいてあるほどの酒豪だったのに、母は六十の歳を迎えるやいなや、きっぱりと飲むのをやめた。
父の仏壇にまんじゅうを添えると、
「ありがとね。これ食べながらお茶でも読むよ」
と、母は笑っていた。
母の周りをみると、よく膨らんだ大量のゴミ袋が並んでいる。
母はそういう人だ。何も嫌いでやっているわけではない。ただ、衣服がカビてたから捨てた。それだけのことだろう。
昔より今。母はそういう人間だ。
俺はそれを見てまた、ふふっと笑った。
俺だけがあの時から少しも変われていない。
小説家を目指して上京した俺の書斎には未だに自室に大量の酒と小説がある。似たような職業をしているのだって、夢を諦めない証左だ。
野球だって見ないこともない。父に怒鳴られながらあれだけ練習した野球だ。
見れば嫌な記憶はある程度よみがえるが、父と同じくらいの年齢に達した今、それを見ると、なるほど。そこそこに楽しく観戦できる。今日も昔もテレビの中では選手たちが燦々と輝いている。
もちろん父のように息子に押しつけたりは、当然しないが。
俺は夢をおっさんになっても諦めきれずにいた。父も同じような気分だったのだろうか。
自分が果たせなかった夢を息子に託したのだろうか。
俺は仏壇を見ながら父の仏頂面を眺める。
「母さんみたいにはなれねえな」
そうつぶやいた。
この写真も、いつか母に捨てられてしまうのだろう。妹の感情だって、一過性のもので消費してどこかへやってしまうだろう。
だが、俺は忘れられない。少年時代を俺は永久に忘れることは出来ないだろう。父の暴言を、そして味わってきた苦悩の数々を。
すると、気のせいだろうか。
父の遺影は少しだけ笑っているように見えた。
終




