いなかったでしょ ~児童館のせんせー番外
児童館とは、児童福祉法第40条に基づき、18歳未満の子供が自由に利用できる児童福祉施設である。
専門の職員・・・児童厚生員が配置され、遊びを通じて子供達の健やかな成長を支えている。
また、施設によっては学童保育(放課後児童クラブ)が併設されている事もある。
これは、そんな場所でのある日の出来事である。
通常の開館時間が終わると、児童館は急に空っぽの形になる。
さっきまで子供がいたはずの空間は、物だけが残っている。積み木は乱雑に入れたせいで箱からはみ出し、カードは棚の端に引っかかってる。名札は壁に一応整列している。
人の気配だけが、すっと引いている。
匠は閉館後、一度館を離れて、近所の定食屋で夕食を済ませていた。温かい味噌汁と、焼き魚と、白いご飯。そういう普通の時間を一回挟むと、夜の業務に入るスイッチが切り替わる・・・はずだった。
戻ってきた時、館の前はまだ薄暗い。
街灯がつき始めて、空は完全に夜にはなりきっていない。
星見の会が始まるまで、まだ少し時間がある。星見の会は、昔から続いている行事らしい。本来は夜空を見上げて星を楽しむためのものだ。
けれど住宅街が広がった今では星はほとんど見えず、どこでも簡単にできなくなった手持ち花火を目当てに来る親子が多くなっているようだ。
それでも名前だけは変わらず、夜に集まる理由として、親子で同じ時間を過ごすきっかけとして、今も静かに残り続けている。
玄関の前で鍵を取り出したところで、背後から声がした。
「匠せんせー、早いですね」
振り向くと、森もっちゃんが、いつものゆるい調子で立っている。
「あたしも、近所で食べてましたから~」
どこか気の抜けた言い方。けれど、その声があるだけで、ほんの少し場の密度が上がる気がする。
「そうですか」
短く返して鍵を差し込む。金属の感触がやけに冷たい。カチャと音がして、扉が開く。
匠はそのまま、一歩踏み込んだ。
その瞬間。
声が、した。
誰かが、館内で喋っているような。はっきり言葉が聞き取れるわけじゃない。
けれど、いるはずのない誰かの会話みたいな、曖昧なざわつき。
背筋に、ぞわっとしたものが走る。
無理だろ、と即座に打ち消す。
ほとんど反射だった。
こういう類いの話は、正直苦手だ。
子供相手なら、多少の暗がりも、変な音も、全部大丈夫に変えられる。けれど、自分一人で受け止めるとなると、話は別だ。
誰もいなかったら帰る、という選択肢が、現実的なものとして頭に浮かぶ。体調が悪いので、今夜はもう無理です・・・そう言って、鍵を閉めて帰る。それでもいいと本気で思う。
ただ。
後ろに人がいる。
視線だけで、森もっちゃんを見る。
少しだけ怪訝そうな顔。けれど特別驚いている様子はない。その温度差に逆に足が止まらなくなる。
「この星見の会って、やるようになってから、長いのでしたよね」
全く関係のない話を、口が勝手に選ぶ。沈黙に耐えられないというより、何か喋っていないと、今にも変な声が出そうになる。
「昔は、もう少しは星も見えてましたけどぉ」
森もっちゃんが、いつもの調子で返す。
その声に、かぶさるように赤ん坊の泣き声が響いた。
今度ははっきりと館内の奥から、まっすぐ届く。
空気が一瞬で冷える。
さっきの、言葉にならないざわつきとは違う。誰かの存在感を持った音。
背筋に冷たいものが這い上がる。匠の視線が、無意識に奥へ向く。
「まあ、夜集まって楽しむってだけでもいいんじゃないですかねぇ」
森もっちゃんは変わらない調子で続ける。そのまま、匠の視線を追うように、館内へ目を向ける。
玄関から見える範囲には、当然誰もいない。いたら困る。
廊下はまっすぐ伸びて、非常灯だけ点いている。遊戯室へ続く引き戸は閉まっていて、ガラス越しに見える中は暗い。
整然としている。
だからこそ、おかしい。
人の気配だけが、そこに混ざっている。
次の瞬間。
森もっちゃんが、ぐいっと匠を押しのけるようにして前に出た。
「ちょっ・・・」
止める間もない。
そのまま、玄関の中へ踏み込んでいく。
また、泣き声。今度はさっきよりも、はっきり近く感じる。
「遊戯室から、響いて聞こえますねぇ」
呑気に言う。
その一言で、匠はようやく息を吐いた。聞こえているのは、自分だけではない。それだけで、だいぶ違う。
怖さが消えたわけじゃない。けれど、現実の中の出来事に引き戻される。
今だけは、その温度のズレた声が、妙に頼もしい。
「確認しなくちゃねぇ」
森もっちゃんが、いつもの調子で言う。
軽い。あまりにも軽い。その一言に押されるように、匠はゆっくりと靴を脱いだ。焦っているのに、動きだけが妙に慎重になる。靴のかかとが床に触れる音が、やけに大きく感じる。
その間に。
森もっちゃんが、ふっと後ろを振り返った。
そして・・・そのまま一歩、玄関の外へ出る。
ええっという声が、喉の奥で引っかかる。今、この状況で外に出るという選択が全く理解できない。
外はさっきよりも暗くなっている。街灯の明かりが届く範囲の外は、ほとんど影だ。その中に、わざわざ視界を向けに行く。
匠の中で、嫌な想像が一気に膨らむ。もし、外に何かいたら。もし、さっきの声の元が、館内じゃなかったら。
呼吸が浅くなる。
止めた方がいい、と言うべきなのに、声が出ない。
森もっちゃんは首を少し傾げて、周りを見回している。暗闇を、ゆっくりと、確認するみたいに。
やめてくれ、と思う。何もいないと断定できない方向を、わざわざ見るな。何かを見つけたとしたら・・・。
数秒が、やけに長い。
やがて何事もなかったように、森もっちゃんは玄関の中に戻ってきた。
その瞬間、胸の奥に溜まっていたものが、少しだけほどける。ほっとしたのが、自分でもわかる。
と同時に。
また、声。今度は、さっきよりも近い。誰かが何かを喋っているみたいな、断片的な音。
匠の背中が、無意識に強張る。
「あたし、確認しますかぁ?」
森もっちゃんが言う。その言葉に、ほとんど反射で答えていた。
「えっ、いえ、俺がしてきますっ」
声が少し上ずる。そのまま、玄関横の電気のスイッチに手を伸ばす。
パチンと音がして、廊下と事務室の電気が一気に灯った。白い光が広がる。影がくっきりと後ろに伸びる。
「二人で手分けした方が早いですよぉ?」
森もっちゃんの声は変わらない。
けれど電気がついても、怖いものは怖い。さっき、確かに声が聞こえたのだから。
「森もせんせっ、あのっ」
言葉がうまく続かない。
森もっちゃんは館内を見回して、それから、ちらっとこちらを見る。表情は変わらない。驚きも、不安も、読み取れない。ただ、いつも通りの顔。
「見落としがあると困るので、一緒に行きますかぁ」
「はいっ」
思ったより大きな声が出た。自分でも驚くくらいの即答。反射的に出た声の大きさに、しまったと思う。気づかれていないといいな、と一瞬願う。声の上ずりも、手の力の入り方も、どう考えても平常じゃない。
さっきからずっと、落ち着かない。電気がついても、廊下を見ても、何もいないとわかっても、消えない感覚がある。
さっきの泣き声がまだ耳の奥に残っている。何もないはずの空間に、何かがいるかもしれないという想像だけが消えない。
こういうのは苦手だ。自覚している。できれば関わりたくないし、できれば見たくもない。
それでも、ここで引くわけにはいかない。
森もっちゃんの方を見る。
表情は、やはり変わらない。本当にいつもの通り。
自分だけが過剰に反応しているみたいで、余計に落ち着かなくなる。
「もし、ほんとーに誰か潜んでいたら、気をつけなくちゃいけませんしねぇ」
さらっと言う。
その一言で、別の種類の怖さが加わる。そっちの可能性もあるのか、と思ってしまう。さっきまでの得体の知れないものに加えて、現実的にあり得る危険が重なる。
余計に逃げ場がなくなる。
「さすまた、事務室から、持ってきます?」
思わず口に出す。
何か、手に持っていないと落ち着かない。
森もっちゃんは一瞬だけ考えるそぶりをして、
「もしほんとーに事務室にいたら、手遅れになるのでぇ。そこの忘れ物の傘でも持って行ったらどうですかぁ?」
と、玄関脇の傘立てを指した。
そこには、何本かの忘れ物の傘が立てかけてある。大人用のビニール傘。頼りない。けれど、ないよりはましだ。
匠はそれを一本掴む。
軽い。
その軽さが、逆に不安を強める。
「・・・行きます」
小さく言って足を踏み出す。
まずは、遊戯室の方へ。
廊下の奥が、やけに遠く見えた。廊下を進む足音が、やけに響く。さっき点けたばかりの蛍光灯は白すぎるくらいに明るい。影ははっきりしているのに、奥行きだけが曖昧に見える。
匠はビニール傘を握り直す。
森もっちゃんは、少し後ろを歩いている。足音はほとんどしない。
気づくと、距離が変わっている。
近いのか遠いのか、時々わからなくなる。
まずは遊戯室。
引き戸に手をかける。
一瞬、ためらう。
中から、さっきの泣き声が聞こえてくるんじゃないか。
開けた瞬間に、何かがいるんじゃないか。
そんな想像が、勝手に浮かぶ。
「開けますよぉ」
背後から、森もっちゃんの声。
その一言で、逃げ場がなくなる。
匠は戸を引いた。ガラと乾いた音。中は、そこまで暗くはない。廊下の光がそのまま差し込んでいる。入り口近くの壁のスイッチを押す。電気はすぐに灯る。
遊具は、昼のまま置かれている。
ボール、マット、平均台。
どれも動いた気配はない。
匠は一歩中に入る。
足裏に伝わる床の感触が、やけに現実的だ。
視線を巡らせる。
遊具の陰。
マットの裏。
壁際。
何もいない。
音も、ない。
さっきの泣き声が嘘みたいに、静かだ。
「いませんねぇ」
森もっちゃんが、当たり前のように言う。
匠は頷くだけで、言葉が出ない。
窓の鍵も全てかかっている。
次は倉庫。
小さな扉を開けると、むっとした空気が流れ出る。使いかけの段ボール、予備の遊具、季節物の装飾。
狭い。人が隠れるなら、ここだと思う。だからこそ見たくない。
匠は傘の先で、段ボールの陰を軽く押す。がさ、と音がする。
それだけ。
誰もいない。
森もっちゃんは、特に警戒する様子もなく、中を一通り見て、
「大丈夫そうですねぇ」
と、あっさり言う。
トイレも同じだった。
個室を一つずつ開ける。ドアの陰も確認する。
カチャ、カチャ、と規則的な音。
白いタイル。
無機質な明るさ。
誰もいない。
鏡に映る自分の顔が、少し強張っているのが見える。
最後に、事務室。
鍵はかかっている。
開けて、中を確認する。
机の上は整っている。
書類もそのまま。
椅子も動いていない。
ここにも、誰もいない。
館内を一通り回り終えて、玄関に戻る。
さっきと同じ場所。
同じ光。
何も変わっていないはずなのに、どこか違って見える。
「いなかったでしょ~」
森もっちゃんが、先に言った。
軽い。最初からわかっていたみたいな言い方。
「いませんでした。おばけも出ませんでした・・・」
言いかけて、言葉が止まる。
いなかったでしょ、という言い方。確認できてよかったですね、ではなくて、いないのは当然でしょという響き。最初から、いないとわかっていた?
じゃあ、さっきの声は。
あの泣き声は。
あれ?
頭の中に、小さな違和感が浮かぶ。
何かが、噛み合っていない。
うまく言葉にできないまま、その感覚だけが残る。
その時。
外から、足音と声。
「遅くなったわ」
京子の落ち着いた声。そのすぐ横で、もう一つ、少し柔らかい足音が重なる。
振り向くと、玄関の外に人影が見える。京子の隣には、悠子。二人並んで立っている。
その後ろから、
「匠せんせー」
子供の声。親子連れが続いて入ってくる。
一気に、空気が変わる。
人の気配がはっきりと流れ込んでくる。
さっきまでの静けさが、嘘みたいに薄れる。
匠は、ほんの一瞬だけ迷ってから、
「お疲れさまです」
いつもの声で、そう言った。
胸の奥に残っている違和感を、ひとまず奥に押し込む。今は、仕事の時間だ。そうやって区切りをつけながらも、さっきの言葉が、引っかかったままだった。
・・・いなかったでしょ。
その当然さが、妙に気に残る。
ふと、視線を横にやる。
森もっちゃんは、来た親子の方を見ている。いつもの、気の抜けた顔。けれど一瞬だけ、玄関の外の方へ視線をやった。確かめるでもなく、探すでもなく、知っている場所を見たみたいな、短い視線。
すぐに何事もなかったように、親子へ向き直る。
「花火、楽しみですねぇ」
「もりも~、打ち上げ花火やるぅ?」
「5mくらいは噴き出すんじゃないかなぁ」
「こらっ、もりもせんせーでしょっ、いつもすみません・・・」
そのやり取りに重なるように、また別の足音が玄関に近づいてくる。
「こんばんはー」
少し弾んだ声。別の親子連れが顔を出す。
「あ、もう始まってます?」
「まだですよぉ、今ちょうど集まってきたところです~」
森もっちゃんが、するりと受ける。
「よかったぁ、間に合ったね」
「ねー!」
子供の声が重なって、玄関の中が一気に賑やかになる。
さっきまでの静けさが、押し出されるみたいに薄れていく。
匠は、その横顔を見ながら、さっきの違和感の形が、少しだけ変わった気がした。
読んでくださってありがとうございます(*_ _)
ポイントを入れてもらえると、嬉しいです。




