第83話 酒場と物流と盗賊の件(一)
ユウトの腕は、まだマリナの肩に回ったままだった。
抱きしめるというほど乱暴ではないのに、離れようとするとその分だけぴたりとついてくる。背もたれに預けた体が半歩分だけ沈み、その重さが肩から腕へ、腕から腰のあたりへとじわりと伝わってくる。酒の匂いを含んだ温い呼気が頬に触れるたび、マリナの呼吸は思うように整わなかった。
「先生は何を着ても美しい」
耳のすぐ近くで、ユウトが真面目に言う。
その声に、さっきまで面白がっていた常連たちがまた揃って身を乗り出した。杯を持つ手が止まり、木の卓の上で酒の表面がかすかに揺れる。
一拍。
「先生は何も着なくても美しい」
酒場の空気が、そこで一度止まった。
次の瞬間、どこかの卓で誰かが吹き出し、別の卓では喉の奥で笑いを噛み殺す音が重なる。
「……酔ってなかったら許されないですね。多分」
レイナがさらりと落とした言葉に、止まっていた空気がやっと動いた。
「な、何を言ってるんですか黒崎くんは……!」
顔が熱い。耳まで熱い。押し返そうとした手のひらに、ユウトの服越しの体温が残る。ぐっと押しても、相手の重心が崩れない。椅子に深く腰を落としたまま、腕の位置だけでうまく支えているからだ。下手に力を入れるほど、こちらの呼吸ばかり乱れる。
「真実です」
ユウトは迷いなく言い切った。
「先生は美しい。何を着ていても美しいし、何も着ていなくても美しい」
「繰り返さないでください!」
悲鳴に近い声が出る。だが、それがまた酒場の笑いを呼んだ。
「今日は切れ味がいいな」
「先生の赤さもいいぞ」
「大当たりだな、こりゃ」
店主はカウンターの内側で酒瓶を拭きながら、呆れたような、面白がっているような顔でこちらを見ている。すでに何度も見た光景のはずなのに、飽きる様子がない。
「黒崎くん、ほんとに離れてください……」
「嫌です」
「嫌ですじゃありません」
「先生から離れる理由がありません」
即答だった。
マリナは押し返す手にもう一度力を込めるが、ユウトはその力を正面から受けず、肩の向きをわずかにずらして流してしまう。押した分だけこちらの体が前へ倒れ、結局また近くなる。抱きつかれているのに、こちらの方が体勢を崩されているのが悔しい。
その時だった。
少し離れた卓から、酒の勢いで大きくなった声が混じる。
「そういや、冒険者ギルドが騒いでたぞ」
いつものような雑談の調子だった。だからこそ、その場にするりと入り込んだ。
「何の話だ?」
「王都からの荷が、最近まともに届かねえことが多いらしい」
ざわめきの質が少し変わる。
笑い混じりだった空気に、別の種類の重さが落ちる。酒場のあちこちで、杯を置く音が小さく重なった。
「街道で魔物か盗賊でも暴れてんのかね」
「護衛つきでも遅れるって聞いたぞ」
「遅れるどころじゃねえ、戻ってこねえ荷もあるって話だ」
さっきまで愛の劇場を囃していた声に、現実のざらつきが混じる。木の卓に落ちた酒の雫が、灯りを受けて鈍く光った。
ガルドがゆっくりと杯を置いた。
「……確かに、ここのところ耳に入るな」
低い声は短いが、酒場のざわめきの上からでもはっきり届く。
「街道で何か起きてるなら、放っとく話じゃねえ」
ダインも腕を組んだまま頷いた。
「王都からこっちへの流れだな」
その一言で、問題の向きが定まる。
マリナの胸の奥で、別の意味のざわめきが立った。
王都からの流れ。
そこに、自分には無関係ではいられない事情がある。頬に残っている熱とは別の熱が、胸の奥でじわりと広がる。
来なかったら困る。
あれだけ恥ずかしい思いをして、そのまま何も届きませんでしたでは済まない。自分のことを考えてそう思ってしまった瞬間、余計に顔が熱くなるのが分かった。
レイナがその横顔を見て、口元を持ち上げる。
「先生、それ、結構困りますよね」
「な、何が」
声が少し上ずる。
「何が、じゃないですよ。物流が止まると困るもの、ありますよね」
分かっていて言っている顔だった。
マリナは言い返そうとして、一瞬だけ詰まる。さっきまでの騒ぎがまだ皮膚の上に残っているせいで、余計に言葉が出しづらい。
「それは……まあ……」
「ありますよね」
「あるけど!」
思わず強く返すと、レイナが楽しそうに笑った。
「じゃあ、なおさら確認しないと」
正論なのが腹立たしい。
そのやり取りを聞いていた常連の一人が、にやりとする。
「何だ先生、欲しい荷でもあるのか」
「あるなら余計に大事だな」
「王都の便が止まると困るのはみんな同じだ」
からかう調子ではあるが、完全に外れた話でもないから厄介だ。マリナは肩を竦めてごまかそうとするが、その動きに合わせてユウトの腕も少し動き、結局また近くなる。
「黒崎くん」
「はい」
「近いです」
「先生が遠いのが悪いです」
「意味が分かりません」
真顔で返してくるのが一番困る。
店主が苦笑しながら、布巾を肩に掛け直した。
「最近、街道が少し騒がしいってのは俺も聞いた」
さっきまでこちらを面白がっていた目が、今は少しだけ細い。
「王都の酒も布も、いつも通りに来るのが一番なんだがな。遅れが続くと、店だって困る」
商売人の声だった。
軽口のようでいて、その奥に現実の重みがある。酒場の棚に並んだ瓶を見れば、それが冗談でないのはすぐ分かる。いつもなら当然そこにあるものが、欠け始めれば店の空気そのものが変わる。
相沢が、その話に自然な顔で乗った。
「王都から共和国への流れが崩れると、品の回り方も値の付き方も変わります」
普段の静かな口調だが、言葉の芯ははっきりしていた。
「欲しいものが欲しい時に来るとは限らなくなる。それだけで、十分面倒です」
女客の何人かが顔を見合わせる。布、化粧品、装飾品、日用品。言葉にしなくても、思い当たるものは多いのだろう。
「嫌だねえ」
「それは困るわ」
「欲しい時に無いのが一番困るのよ」
小さな不満が、ぽつぽつと漏れる。
相沢は頷いた。
「だから流れが止まる前に、原因は潰した方がいいんです」
言いながらも、声を張り上げることはしない。酒場の空気を壊さず、しかしきちんと届く声だった。
マリナはようやく深く息を吸った。
酒と木と人の熱が混じった空気が肺に入る。胸の中に残っていた羞恥の熱と、現実の焦りが少しずつ整理されていく。
ここで流されるわけにはいかない。
頬はまだ熱い。だが、それとこれとは別だ。
「……明日、ギルドで確認しましょう」
声を落ち着けて言う。
自分でも分かる。さっきまでとは違う声だ。教師として、生徒たちに話を通す時の声に近い。
酒場の空気が、そこでまた一つ切り替わった。
ガルドが頷く。
「それがいい」
ダインも短く言う。
「まず確認だ」
ユウトはすぐ横で、素直に頷いた。
「分かりました」
さっきまでの熱を引きずりながらも、返事は真面目だった。その切り替えの早さに、レイナが呆れたように笑う。
「こういうとこだけは本当に素直なんですよね」
「こういうとこだけとは何ですか」
ユウトが不満そうに言い返す。
「いつも素直です」
「先生への愛だけは、ですね」
「愛は大事です」
「否定してませんけど」
そのやり取りに笑いが戻る。だが、もうさっきまでの笑いとは少し違う。次に何をするかが見えている時の笑いだ。
マリナはようやくユウトの腕を軽く外し、そのまま肩で息を整えた。離れた分だけ、さっきまで触れていた場所が妙に涼しい。だが、その代わりに自分の鼓動がはっきり分かる。
「先生」
また呼ばれて、反射的に身構える。
「何ですか」
「王都からの流れは大事です」
「そうですね」
「先生の欲しいものも来なくなるかもしれません」
「だからそういう言い方をしないでください!」
思わず声が上がり、酒場がどっと笑う。
店主が腹を抱えるように肩を揺らした。
「いいなあ、先生は忙しくて」
「忙しくしてるのはそっちでしょう!」
「俺は酒出してるだけだ」
「楽しんでますよね!?」
「そりゃまあな」
否定しない。
マリナは額に手を当てて息を吐いた。熱い。視界の端で、レイナがまだ笑っている。相沢は静かな顔のままだが、目だけはしっかりと場の流れを拾っている。ガルドとダインはもう明日の話へ頭を切り替えている顔だ。
その全部を見て、マリナはもう一度だけ背筋を伸ばした。
「明日、朝一番でギルドに行きます」
今度は誰に向けても分かるように、はっきり言う。
「依頼になっているのか、どの街道なのか、遅れだけなのか未帰還まで出ているのか。そこまで確認して、それから動きましょう」
言葉を重ねるごとに、自分の中の軸が戻ってくる。さっきまで乱れていた呼吸も落ち着いてくる。
ガルドが満足そうに息を吐いた。
「そうこなくちゃな」
「遅かったけどな」
ダインがつけ足す。
「うるさいです」
返しながらも、マリナの口元にはわずかに苦笑が混じる。
酒場の中では、まだ笑いが残っている。だがその底には、明日の話が沈んでいる。王都からの荷、街道の異変、止まりかけた物流。その現実が、さっきまでの騒ぎの中にきちんと差し込まれた。
そして、その現実はマリナにとっても他人事ではない。
それが余計に悔しい。
レイナが、その顔を見てまたにやりとする。
「先生、私も明日一緒に確認しますから」
「当然でしょ」
「あと、あれも来ないと困るので」
「それは今言わなくていいです」
「大事ですよ」
「知ってます!」
また笑いが起きる。
その笑いの中で、ユウトだけは妙に真剣な顔で頷いた。
「先生とレイナの困ることは、早く片づけるべきです」
「黒崎くんは黙っててください」
「嫌です」
即答だった。
マリナは思わず目を閉じる。だが、次の瞬間には口元が少し緩んでいた。困る。恥ずかしい。調子は狂う。けれど、それでも明日の動きはもう決まった。
酒場の灯りが、揺れる酒の面に映る。笑い声の残響が木の壁に柔らかく返り、外の夜気は扉の向こうで薄く待っているだけだ。
明日はギルドだ。
そこから先は、笑っているだけでは済まない。
マリナは杯には手をつけず、卓の上に置いた指先を静かに揃えた。木の感触は少しざらついていて、そこに落ちた小さな酒の冷たさが指先に触れる。さっきまで頬に上っていた熱とは違う冷たさが、ようやく頭をはっきりさせてくれた。
その横で、ユウトがまだこちらを見ている気配がある。
「……何ですか」
「先生は考えている顔も美しいです」
「もういいです」
返す声に、酒場の笑いがもう一度だけ小さく広がった。
⸻
(続く)




