第82話 月曜の夜の酒場は愛の炎で燃えていた件
昼間のうちに動かした卓の位置は、そのまま店の空気まで変えている。入口からまっすぐ奥まで抜けていた視線は、今は途中でやわらかく折れていた。布で仕切られた一角が、店の奥にひっそりと影を作っている。即席のはずなのに、そこだけ妙に意味ありげに見えるのは、昼の準備を見ていた者たちが、もう頭の中で今夜の騒ぎを始めているからだろう。
常連たちは早い時間から席を埋めていた。
いつも通りに酒を飲んでいるようで、落ち着かない。杯を口に運んでは、ちらりと布の方を見る。隣と小声で何か話しては、また入口へ目を向ける。見ていないふりが下手だった。
「ほんとに使うのか、あれ」
「使うから作ったんだろ」
「相談も受けるんだよな」
「どっちを楽しみにしてんだ、お前は」
押し殺した声が、押し殺しきれずに漏れている。
店主はカウンターの内側で腕を組み、その様子を面白そうに見ていた。口では平静を装っているが、こういう時の目は完全に商売人の目だ。
「今日はお試しだぞ」
少し低い声で言う。
「騒ぎすぎるなよ」
その一言のあとで、奥の席から笑いが起こる。
「お前が一番楽しみにしてる顔だろ」
「違いねえ」
店主は鼻で笑っただけだった。否定しない。
その空気の中で扉が開く。
外の夜気が一瞬だけ流れ込み、それに続いてユウトたちが入ってきた。
店の奥が、わっと沸いた。
「来たぞ!」
「先生もいる!」
「今日は当たりだ!」
「いや、大当たりだ!」
声があちこちから飛ぶ。
マリナは、そうなるのを分かっていたみたいに、入った瞬間に小さく肩をすくめた。逃げ出すほどではない。だが、真正面から浴びる歓声に慣れきっているとも言えない顔だった。耳が、もう少しだけ赤くなる。
その横でレイナは最初から笑っている。
「まだ何も始まってないのにね」
「始まるのが分かってるからだろ」
ガルドが呆れたように言う。
ダインはいつものように短い。
「早い」
店主が顎で席を示す。
「ほら、座れ」
席は自然に決まった。
マリナの隣にユウト。その向かいにレイナとガルド。ダインはマリナの逆隣に座る。少しずれた位置に山本さんと高田さん。相沢くんは最初から席に深く座るより、店全体が見える位置に立つ方を選んでいた。
動きに無駄がない。座る前からもう何か数えている顔だった。
山本さんは店の中を見回して、昼間とは違う熱に少し目を丸くしていた。布の仕切りも、昼間に見た時よりちゃんとそれらしく見える。酒場の喧騒と一緒になると、ただの布のはずなのに妙な説得力があった。
「ほんとにやるのね」
山本さんが呟くと、高田さんが肩をすくめる。
「もう止まらないわね」
「止める気あった?」
「私は最初から巻き込まれてるだけなんだけど」
そう言いながら、高田さんの視線は自然と布の皺や位置に向いている。仕事の目だ。本人がどう言おうと、もう関わる側に立っていた。
店主が酒瓶を持って卓へ来る。
卓に置く音が、やけにはっきり聞こえた。
「店からだ」
その一言で、空気が変わる。
ざわめきの質が変わった。期待が音になる前の、喉の奥で鳴るようなざわつきだ。常連たちが自然と身を乗り出し、初めて来たらしい女客たちは周囲の顔色を窺う。
マリナの指先が、卓の縁で揃う。
レイナはもう隠そうともしない。
「はい、きた」
「先生、それが駄目なんですって」
山本さんが小さく笑う。
マリナはすぐ横から飛んできたレイナの声に、ちらりと睨むような目を向けた。
「私は何もしてないわよ」
「存在が駄目です」
「失礼ね」
ユウトだけが困ったように笑っていた。
「そんなにですか?」
だが止める者は誰もいない。
止めても無駄だと知っている顔だった。
ユウトが杯を持つ。
一口。
喉が動く。
杯が卓へ戻る。
その短い数秒が、妙に長かった。
それから、ユウトがゆっくりと顔を上げる。
視線が、まっすぐマリナに落ちた。
「先生……」
声が変わる。
柔らかいのに、熱を持っている。その一言だけで、マリナの肩がぴくりと揺れた。
「く、黒崎くん?」
呼んだ瞬間には、もう距離が消えていた。
椅子が擦れる音。ユウトの身体がマリナの方へ傾き、そのまま腕が回る。肩を抱き、腰を引き寄せ、逃がさない形でぴたりと密着する。乱暴ではない。だが、離れようとした分だけついてくる重さがある。
「ちょっと、離れて……!」
「無理です」
真顔だった。
店の奥がどっと沸く。
「始まった!」
「今日は早いな!」
「もう火がついたぞ!」
ユウトは周囲など見ていなかった。
見ているのはマリナだけだ。
「俺と先生は永遠に一つだ!」
宣言みたいに言い切る。
その勢いのまま、マリナの肩口へ頬を寄せる。髪が触れ、衣擦れの音が小さく鳴る。マリナの身体が固まる。
「俺と先生の愛の炎は、だれにも消す事は出来ない!」
常連の一人が机を叩いた。
「きた! 愛の炎だ!」
「今日はその言い回しか!」
マリナは真っ赤な顔でユウトの胸を押した。
「だから、そういうのを大声で言わないの!」
「どうしてですか」
ユウトは少し不思議そうにさえ見える。
「愛は素晴らしいんです」
さらに抱く腕に力が入る。
「俺は先生を愛している! いつでもどこでも、先生を愛しているんだ!」
酒場のざわめきが、そこだけ少し引く。
聞き入ってしまうからだ。
馬鹿げているはずなのに、言い方が本気すぎる。誰もが一度くらい笑いそびれる。
「愛は恥ずかしいものじゃない!」
ユウトの声が熱を持つ。
「だれに見られても恥ずかしいなど無い!」
そこで、唐突に周囲へ顔を向けた。
「むしろ、見ろ!」
酒場が一瞬しんとする。
「俺と先生の愛の炎を!」
爆発したみたいに笑いと歓声が上がった。
「見てる見てる!」
「見せつける気満々だな!」
「先生、頑張れ!」
マリナは耳まで赤い。ユウトの胸を押す手に力を込めるが、本気で突き放す押し方ではない。離れたいのに離しきれない。恥ずかしいのに、逃げるほど強くは出られない。その半端さが、余計に空気を熱くする。
「先生は美しい!」
ユウトは言い切った。
「この世の全ての宝石より光り輝いている!」
マリナの顔が一段赤くなる。
「ちょ、ちょっと……!」
「真実です」
即答だった。
レイナはもう涙目で笑っている。
「先生、今日すごい褒められてますね」
「黙りなさい!」
「でも否定してない」
「そういう問題じゃないの!」
山本さんは呆れながらも、目を逸らせないでいた。もちろん昨日も話は聞いていた。けれど、実際に目の前で見ると、やっぱりずっと熱い。高田さんが小さく笑いながら言う。
「これは……看板になるわね」
「なるでしょ」
レイナが言う。
「本人は無自覚だけど」
相沢くんはその騒ぎの内側にいながら、少しだけ外側の目をしていた。
見ているのはユウトではない。周囲の反応だ。
頬の染まり方。
女性客の視線。
笑っていた顔が、途中から見入っていること。
呼吸の変化。
ほんの少し、自分も綺麗になれたらという気持ちが顔に出る、その瞬間。
そこで、相沢くんが口を開く。
「黒崎」
ユウトが即座に顔を向ける。
「なんだ!」
熱が高い。声にも目にも勢いがある。
相沢くんはそこへ迷わず入った。
「先生が、おしゃれで可愛い下着を着ると嬉しくないか?」
一瞬だけ、空気が止まる。
ユウトの目が細くなる。
「先生をこれ以上美しくするなど不可能だ!」
その返しに奥がまた湧く。
「強い!」
「絶対評価だ!」
だが相沢くんは一歩も引かなかった。
「いや」
静かに言う。
「ここなら出来る」
ユウトがマリナを抱いたまま前のめりになる。
「ならば証明せよ!」
常連たちがどっと笑う。
「乗った!」
「話が早い!」
相沢くんはそのまま布の方へ案内しようとする。
「ではこちらへ」
だが。
ユウトは動かない。
いや、動かないのではない。動けないのでもない。ただ、離さない。
マリナを抱いたまま、そこから先の一歩を別の意味に変えてしまう。
「愛し合う俺と先生が離れる事など無い!」
ぴたりと、場が止まる。
レイナが目を見開いた。
「うわ、そこでそう来るんだ」
マリナは慌てる。
「ちょっと待って! 私は離れたいんだけど!?」
「先生は照れているだけです」
「違う!」
相沢くんは一瞬だけ黙った。
ユウトの熱量を見誤った、とその顔には出ない。だが、ごく短い間の取り方が、それを物語っていた。
ここで言い合っても無駄だ。
それだけではない。
ここで流れを止めれば、周囲の熱も冷める。
女客の頬に乗り始めた熱は、議論が始まった瞬間にただの見世物へ戻る。そうなれば終わりだ。
相沢くんはそこで、即座に切り替えた。
「……そうだな」
否定しない。
レイナが吹き出す。
「諦めた!」
相沢くんはマリナの抗議も、ユウトの熱も、一度まとめて流れへ乗せたまま言う。
「まあまあ、いい体験になりますよ」
「ちょっと!」
マリナが本気で抗議する。
顔が赤い。耳も首筋も赤い。羞恥で潤んだ目のまま、ユウトの腕の中で身じろぎする。その身じろぎに合わせてユウトがさらにぴったりつくから、余計に逃げられない。
「今の流れなら、なおさらです」
相沢くんは落ち着いた声で言い切った。
押しつけるようでいて、妙にさらりとしている。その軽さが、かえって止めづらい。
「ではそのままで」
そのまま、ユウトとマリナをまとめて布の向こうへ押し込んだ。
布が揺れる。
奥がざわめく。
「判断が早いな」
「止めなかった」
「冷やさなかった」
ダインの短い言葉に、ガルドが低く笑う。
「悟ったんだろ。酔ったユウトと議論しても無駄だってな」
「悟ってる」
レイナが腹を抱えたまま頷く。
店主はその様子を見て、目を細めた。
「悪くねえ」
呟くように言う。
布の向こうで、マリナの抗議がくぐもって聞こえる。
「ちょ、待って、ほんとに何する気なのよ……!」
「先生」
ユウトの声がやけに近い。
「問題ありません。俺がいます」
「それが一番問題なのよ!」
奥でまた笑いが起こる。
だが、その笑いの中で、相沢くんの視線は止まっていなかった。
熱は高い。だが、高すぎる。
ユウトとマリナの間に燃えているものが強すぎて、他の客がそこへ自分を重ねにくい。見て盛り上がることは出来る。けれど、同じ流れへ入るには少し敷居が高い。
誤算だった。
黒崎の熱量が、想定以上に高い。
他の女性客との差がありすぎる。
このままでは、ただ二人の世界を見せつけるだけで終わる。
相沢くんは一度だけ呼吸を浅くした。
焦りは長く置かない。
目だけが動く。
客席。
女客の表情。
高田さんの位置。
店主の視線。
そして。
山本さんで止まった。
山本さんはまだ杯を持っていない。だが、完全に外側にもいない顔をしていた。少し赤くなったマリナを見て、少し笑って、少し戸惑っている。今なら、乗れる。
その時だった。
布が揺れて、二人が出てくる。
先に出たのはユウトだった。顔が明るい。というより、さらに燃え上がっている。続いてマリナが出てくる。顔が真っ赤だ。さっきまででも十分赤かったのに、今は耳どころか首まで熱を持っている。
ユウトが叫ぶ。
「相沢!」
店の全員がそちらを見る。
「素晴らしい!」
大絶賛だった。
「先生の全てが輝いている!」
マリナが両手で顔を覆いかける。だが、ユウトがすぐその手を取る。
「先生の愛の炎が、さらに燃え上がっている!!」
酒場が爆発した。
「出た!」
「強化された!」
「そこに繋がるのか!」
ユウトは止まらない。
「素晴らしいぞ、これは!」
「やめて黒崎くん! みんな見てる!」
「問題ありません!」
「大問題よ!」
それでも、ユウトの声はまっすぐだった。
「先生は美しい!」
「可愛い!」
「輝いている!」
「この愛の炎は、今さらに高まった!」
言葉の一つ一つが大げさなのに、熱量で押し切ってくる。マリナは恥ずかしさで真っ赤になりながら、本気で逃げられない。レイナがもう腹を押さえて笑っている。
「先生、今のは強いですね」
「うるさい!」
だが。
その光景で空気がまた一段動いた。
見ていた女性客の顔が、はっきり変わる。
「……そんなに変わるの?」
「ちょっと、気になるかも」
そこで相沢くんが動く。
「山本さん」
山本さんがびくりとする。
「はい?」
「今日は私も飲む、でしたよね」
一瞬、山本さんの顔に驚きが走る。
「言ってない!」
「今言う流れです」
「何その決め方」
だが、酒場の空気がその冗談を冗談のまま終わらせない。
常連が囃す。
「飲め飲め!」
「就職祝いだろ!」
「今日はあんたも主役側だ!」
高田さんが笑いながら山本さんの背を軽く押す。
「行きなさいよ」
「高田さんまで……!」
山本さんは少しだけ視線を泳がせる。
昼間の契約書。
魔王。
副官さん。
読めない小さな文字。
逃げられない感覚。
そこへ目の前のこの騒ぎだ。
真面目に新しい一歩を踏み出したはずなのに、夜にはもうこんな場所にいる。自分でもおかしいと思う。けれど、悪い気はしない。
山本さんは卓の上の杯を見て、そして決めた。
「……今日は私も飲む!」
店の奥が沸く。
「言った!」
「よしきた!」
店主がすぐに酒を注ぐ。
「いい顔になったな」
「店主さんまで煽らないでください」
言いながらも、山本さんは杯を受け取った。
一口飲む。
喉が熱くなる。
それだけで、さっきまでの迷いが少しだけほどけた。
相沢くんが、ここしかないという顔で口を開く。
「就職したんなら、自分へのご褒美にオーダーメイドの下着なんてどうです」
山本さんが目を瞬かせる。
「え、今?」
「今です」
相沢くんは平然としている。
「今なら友達価格にしときますよ」
「軽いなあ!」
レイナが笑う。
「でもうまい」
高田さんが呆れ半分に言った。
山本さんは、赤くなりながらも空気に押されていくのが分かる。ユウトとマリナの熱を見たあとだ。さっきまでだったら無理だと思った一歩が、今は少しだけ近い。
「……やる!」
決まった。
店主が感心したように口元を上げる。
「回し方が上手えな」
相沢くんはもう山本さんを布の方へ案内していた。
「こちらへ」
今度は滑らかだった。
山本さんは多少足元が怪しい。だが酔いすぎてはいない。ちょうどいい。照れているのは分かるが、拒絶してはいない。高田さんが布の向こうへ一緒に入り、仕事の顔で動き出す。
その姿を見て、見ていた女性客の表情がまた変わった。
「あれ、普通に入っていったよね」
「ちょっと見てみたいかも」
「友達価格って言った?」
ここでようやく、本当の意味で流れが出来る。
一人が動き、もう一人が続く。
店主がその様子を眺めながら、しみじみと言った。
「感心するな」
誰にともなく落ちた言葉だったが、相沢くんには届いたらしい。ほんの少しだけ顎を引く。
ユウトはまだマリナを離していなかった。
「先生」
「何よ……!」
「綺麗です」
「分かったから!」
「分かってません」
「分かってるわよ!」
「なら、もっと受け止めてください」
「受け止めてるでしょ、もう十分!」
その返しに、店の奥がまた揺れる。
「先生、完全に受け止めてますね」
レイナが追い打ちをかける。
「してない!」
マリナは否定する。だが声が弱い。顔の赤さと、逃げきれない体勢が全部を裏切っていた。
ガルドが短く息を吐く。
「強いな」
ダインが続ける。
「今日は特に」
その時、入口の方で小さな笑い声がした。
視線を向けると、いつの間にか魔王と副官さんが店の端に立っていた。目立つように入ってきたわけではない。様子を見に来たという顔だ。魔王は腕を組んで店の中を見回し、副官さんは布の向こうと客席の動きを静かに追っている。
山本さんがまだ向こうにいるのを見て、魔王が少しだけ目を細めた。
「うまいこと回っとるな」
「はい」
副官さんが答える。
「初回としては十分です」
魔王の視線が、客の間を抜けるように動く。相沢くんが女客へ声をかけ、高田さんが受け、店主が酒場全体を回し、ユウトがマリナへ愛を叫ぶ。その全部が一つの流れになっている。
魔王はそこで、ぽつりと呟いた。
「あいつの方が魔王みたいやな」
副官さんは一拍も置かずに答える。
「優秀です」
それだけだった。
だが、その返しがあまりにも真面目で、魔王が肩を揺らす。近くにいた店主まで吹き出した。
「否定しねえのかよ」
「評価です」
副官さんは平然としている。
布の向こうで、山本さんの声が少し上ずる。
「ちょ、これ思ったよりちゃんとしてる!」
「ちゃんとしてるに決まってるでしょ」
高田さんの声が返る。
「誰の仕事だと思ってるの」
それを聞いた女客が、もう一歩踏み出した。
「……私も見てみようかな」
「見るだけでも」
相沢くんがすぐに拾う。
「どうぞ」
そこに迷いはない。押しすぎない。だが逃さない。
店主はカウンターの内側で腕を組み、しみじみと頷いた。
「完成したな」
その言葉に、ガルドが低く笑う。
「まだ初日だろ」
「初日でこれなら十分だ」
店主は言い切った。
確かな手応えが、もうあった。
酒場の中で、
愛の炎が燃えていて、
先生は真っ赤になっていて、
常連は笑っていて、
女客は動き始めていて、
相沢くんは場の熱を冷まさないまま客を流し、
高田さんは仕事をし、
山本さんは新しい場所へ足を踏み入れた勢いのまま、今度は別の扉までくぐっている。
真面目に始めた商売のはずなのに、笑いと熱と酒が混ざると、全部が妙に生き物みたいに動き出す。
その中心で、ユウトがまた言い切った。
「先生! 俺と先生の愛の炎は永遠です!」
マリナは真っ赤なまま目を逸らし、けれど完全には振りほどけずに、小さく息を吐いた。
「……ほんと、もう」
呆れている。
困っている。
恥ずかしい。
それでも、それだけではない顔だった。
月曜の夜の酒場は、昼間に決めた企てを、もうきちんと現実にしていた。




