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クラスごと異世界転移したモブの俺、ハズレスキル【無限収納】が覚醒したので異世界で無双します  作者: よるねこ
第一章

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第81話 ケーキ屋さんで真面目に契約してたらなんだか色々決まっていた件


 月曜の朝の酒場は、昨夜の熱がすっかり抜けているはずなのに、妙なところだけがまだ冷めきっていなかった。


 扉は開いている。朝の光が床板の上を斜めに走り、拭き上げられた卓の縁を白く浮かせている。酒の匂いは薄い。代わりに、焼きたてではないがまだ温かさの残る黒パンの匂いと、鍋で温め直している豆の煮込みの匂いが、ゆるく店の中に広がっていた。


 それでも完全に静かではない。


 奥の席には、すでに何人かの常連が陣取っていた。朝から酒を飲んでいる者もいれば、木の皿に乗ったパンをちぎっては口へ運んでいる者もいる。誰も大声は出していない。だが視線だけは落ち着きなくこちらへ流れてきていて、話が始まるのを待っているのがありありと分かった。


 昨日、あれだけ盛り上がったのだ。続きを気にするなという方が無理だろう。


 店主はカウンターの内側に立ち、腕を組んだまま入口近くの卓を見ていた。その卓には、マリナとレイナ、高田さん、相沢くん、ガルド、ダインがすでに集まっている。椅子を引く音も、卓に肘を置く音も、朝の店内では妙にはっきり聞こえた。


 マリナは座ったまま、まだ少し落ち着かない様子で指先を揃えている。昨夜のことを思い出しているのか、耳の先がわずかに赤い。レイナはその横で、いかにも面白そうな顔を隠そうともしなかった。ガルドは背もたれに深くもたれ、ダインは肘をつかずにまっすぐ座っている。高田さんは朝から巻き込まれている自覚があるらしく、どこか諦めたような目をしていた。


 その中で、相沢くんだけが妙にいつも通りだった。


 卓の上に置かれた紙切れも、空いた皿も、店の広さも、酒場の奥で耳をそばだてている常連たちの気配も、全部まとめて計算に入れているような落ち着いた目で、彼は一度だけ店内を見回した。


「で、昨日の続きですが」


 最初の言葉が、それだった。


 朝の空気にそぐわないくらい落ち着いた、よく通る声だった。


 マリナが小さく息を吐く。


「本当にやるのね……」


 嫌そうに聞こえるようでいて、席を立つ気配はない。その半端さを見逃すほど、レイナは優しくなかった。


「ここまで来てやらない方がおかしいでしょ」


「おかしいの基準があなたの中でおかしくなってるのよ」


「昨日の時点でもう遅いよ、先生」


 さらりと返されて、マリナは口をつぐむ。否定したいのに言い返す言葉が出てこないらしい。そういうところを突かれると弱い。


 店主が喉を鳴らすようにして口を開いた。


「問題は一つだ」


 その声だけで、奥の席の常連たちの会話が自然と止まる。


「昨夜は大当たりだった。そりゃもう文句なしにな」


 その言い方に、奥から「当たりだったな」「大当たりだろ」と小さな声が飛ぶ。店主はちらりとそちらを見ただけで、追い払おうとはしない。むしろ聞かせている。


「だが、当たりの日とそうでねえ日がある。先生がいる日は沸く。いない日は普通の酒場だ」


「運任せだな」


 ガルドが短く言った。


「再現性がない」


 ダインも続ける。


 その二人の言葉には余計な感想がない。ただ事実をそのまま置いていくから、余計に重く聞こえた。


 レイナが肩をすくめる。


「そもそも再現するものじゃないでしょ。あれ」


「でも商売として考えるなら、再現性は必要です」


 間を置かず、相沢くんが言った。


 その言葉が落ちた瞬間、場の中心がずれた気がした。誰が仕切るのかを、空気が勝手に決めたような感じだった。


 相沢くんは椅子から少し身を乗り出す。声を張り上げているわけではない。むしろ淡々としているのに、話が自然と耳に入ってくる。


「黒崎たちは月曜が休みです」


 その一言で、マリナがぴくりと反応する。


「毎週、月曜開催にしましょう」


「勝手に決めるな」


 レイナがすぐに突っ込んだ。


 だが頬は緩んでいる。本気で止める気がある顔ではない。


 マリナは卓の縁に置いた指先をきゅっと揃えた。


「毎週はちょっと……」


 自分で言いながらも、声に勢いがない。嫌だと言い切れないときの言い方だった。


 相沢くんは一度も表情を変えない。


「期間を空け過ぎると、客の熱は冷めます。反対に、定期開催にすれば待つ理由が出来る。さらに、黒崎も満足して落ち着くと思います」


 マリナが目を瞬かせる。


「そ、そうかしら……」


「先生だまされてます」


 レイナが即座に言った。


 その返しの早さに、奥の席からくすくすと笑いが漏れる。マリナは耳まで赤くなってレイナを睨むが、迫力が足りない。


 店主が腕を組んだまま口元を上げた。


「いいじゃねえか。固定でやろう」


 決断が早い。商売の匂いを嗅ぐと、この店主は本当に迷わない。


 ガルドが椅子の脚を少しきしませながら背もたれに体を預ける。


「荒れるな」


「毎週か」


 ダインも短く言った。


 二人とも止めはしない。ただ先の騒がしさを思っているだけだ。そういう温度が、この場には逆にちょうどよかった。


 相沢くんは、もう次の話へ移っている。


「それと、昨夜のあれは見るだけで終わらせるにはもったいない」


 店主の目が細くなる。


「どうする」


「体験を増やします」


 そう言ってから、相沢くんは店の奥へ視線を流した。樽や使っていない椅子が寄せられている、少し余った空間だ。普段なら誰も気にしない場所なのに、彼に見られた途端、そこが別の意味を持ちはじめる。


「店内にフィッティングルームを作りましょう」


 しん、とまではいかないが、それに近い間が落ちた。


 最初に声を出したのはレイナだった。


「……酒場で?」


「はい」


 相沢くんは即答する。


「愛の劇場で客の気持ちが一番動いた直後に、行動へ繋げるべきです。興味が最大になった瞬間を逃すのは損です」


 その言い方があまりにも迷いなく商売人で、ガルドが思わず鼻で笑った。


「繋げるのか」


「無駄がない」


 ダインの短い感想も同じ方向だった。


 マリナは少しだけ眉を寄せる。


「ちょっと待って。下着の話よね。なんでそんなに自然な流れみたいに言えるの」


「自然です」


 相沢くんはきっぱり言った。


「昨夜の客の視線を見れば分かります。恋愛に気持ちを動かされた女性は、自分を飾る方向へ意識が向きやすい」


 奥の席から「おお……」と妙に感心した声が上がる。聞いていたのか、と言いたくなるが、最初から丸聞こえだ。


 相沢くんはそんな声にも動じず、そのまま高田さんへ視線を向けた。


「こちらの高田さんは王都では少しは名の知られたデザイナーです」


 店主の顔つきが変わった。


「ほう……」


 商売の顔だった。高田さんはその視線を正面から受けて、引きつった笑みを浮かべる。


「ちょっと、なんで今さらそんな紹介を」


「オーダーメイドの下着を受注しましょう」


 高田さんの言葉は最後まで続かなかった。


「採寸、設計、注文。ここまでをこの店で受ける。受け渡しも営業中に行えば、再来店の理由が生まれます」


 店主の指が、無意識みたいにカウンターをとんとんと叩く。頭の中で算盤を弾いている顔だった。


「……来る理由になるな」


「確実に来ます」


 相沢くんはそこで初めて、ほんの少しだけ満足そうな顔をした。


「昨夜みたいな熱がある場なら、なおさらです」


 奥の席の常連たちがざわつく。


「また何か始めるのか」

「今夜やるなら女房に言っとくか」

「いや、その前に相談って何だよ」


 勝手な声が飛び交う。だが邪魔ではない。むしろ店の中が生きている感じが強くなって、話そのものに現実味が出ていた。


 高田さんは額に手を当てた。


「私も商品にされてる?」


「されてるね」


 レイナがにやりと笑う。


「完全にされてるわね」


 マリナまで苦笑しながら続ける。


「価値を最大化しているだけです」


 相沢くんの返しが、あまりにも真面目すぎて、かえって笑いを誘った。奥の席からも吹き出す声が上がる。高田さんは呆れたように天井を見たが、その口元には笑いが浮いていた。嫌だと言いながら、完全には降りるつもりがない顔だった。


 その空気の中で、レイナがふいに相沢くんを見た。


「相沢くん、お酒無しでもキャラ変わってる」


「元からですが?」


「いや、昨日よりひどい」


 言われた本人は心外そうに眉を寄せるだけだ。その真面目さが余計におかしい。


 マリナが少しだけ首を傾げる。


「もしかして……」


 その言い方に、みんなが自然と続きを待った。


「黒崎くんと同系統?」


 一拍遅れて、奥の席から誰かが思いきり吹き出した。


「やめろ」


 ガルドが即座に言う。


「増やすな」


 ダインも珍しく間髪入れずに続ける。


「ちょっと分かるのやめてほしい」


 高田さんが肩を震わせながら言うと、レイナが大きく頷いた。


「方向性が違うだけで本質は同じだよね」


「心外です」


 相沢くんは本気で不服そうだった。だがその不服の言い方までどこか理屈っぽくて、ますます似て見えてしまう。


 店主がついに声を上げて笑った。


「いいじゃねえか。片方は愛で暴走、片方は商売で暴走だ」


 そのまとめ方が妙にしっくり来て、誰も強く否定できなかった。


 そして、相沢くんはそんな笑いの波を待っていたみたいに、さらりと次の言葉を置いた。


「では、さっそく今夜からやりましょう」


 今度こそ、店内がはっきり揺れた。


「今夜?」


 マリナの声が上ずる。


 それより早く、奥の席から声が飛ぶ。


「今夜かよ」

「またやるのか」

「先生も来るのか」


 さっきまで朝飯を食っていただけの常連たちが、一斉に身を乗り出してくる。もはや隠しもしない。


 店主がにやりとした。


「聞いたな、お前ら」


「おう!」


「今夜だ。席、空けとけよ」


 返事が早い。どっと笑いが起こる。


「女連れてくるか」

「お前は一人で来い、相談あるんだろ」

「恋愛相談ってのは本気か?」


 宣伝は一瞬で済んだ。わざわざ看板を書き足すまでもない。いつもこの店にいる連中が、一番早く、一番面白がって広める。


 そのざわめきの中で、マリナだけが本気で慌てていた。


「今夜って、早すぎないかしら?」


「こういう事はスピード感が大事です」


 相沢くんは少しも揺れない。


「とりあえず今夜はお試しという事で」


「えー……今夜も?」


 嫌そうに言っているのに、完全に断る声ではない。そこを聞き逃すレイナではない。


「先生、ちょっと喜んでますね」


「してない!」


 すぐに返ってくるが、弱い。昨夜のことを思い出しているのか、頬がまた赤くなっていた。


 相沢くんはそこでさらに追い打ちをかけた。


「なんなら先生と桐谷さんには、オーダーメイドの最高級下着を格安で提供します」


 一瞬、場が止まる。


 次の瞬間。


「やります!」


 マリナとレイナの声が、ぴたりと重なった。


 店の奥が爆発したみたいに笑いに包まれる。


「早いな」

「即決だ」

「迷いがねえ」


 ガルドとダインまで、ほとんど同じようなことを短く言った。マリナはしまったという顔になったが、もう遅い。レイナは腹を抱えて笑っている。


「先生、今のは速かった」


「う、うるさいわよ。だって最高級で格安って言われたら……」


 言い切ったところで、自分で何を言っているのかに気づいたらしい。マリナはさらに顔を赤くし、黙り込んだ。


 店主が満足そうに卓を叩く。


「よし。話は早え」


 それを合図みたいに、店の中が急に動き出した。


 使っていない椅子が運ばれる。奥の樽が脇へ寄せられる。仕切りに使えそうな布はあるか、鏡はどこから調達するか、採寸のときに人目をどう切るか。話しているうちに終わるのではなく、本当にその場で形が変わり始める。


 相沢くんが立ち上がって奥の空間へ歩いていく。歩幅に迷いがない。ここに仕切りを立てれば人の流れがこう動く、この卓をずらせば視線が切れる、そういう線がもう彼の目には見えているらしい。


「入口から見えすぎない方がいいですね。ただ、完全に奥へ追い込みすぎると入りにくい」


「じゃあこの卓を一つ外すか」


 店主がすぐに応じる。


「この柱の間に布を張れば、形にはなるわね」


 高田さんも、気づけば普通に参加していた。さっきまで商品にされてると文句を言っていたのに、いざ形にする段になると声が真面目になる。そういう仕事人の顔があるから、相沢くんも平然と巻き込んだのだろう。


 レイナが奥へ歩いていって、そこでくるりと振り返る。


「ここ、思ったより広いね」


「普段は使わねえだけだ」


 店主が言う。


「使い方が決まれば、店は勝手に広がる」


 それは商売の話でもあり、この酒場そのものの話でもあるように聞こえた。


 マリナも結局、立ち上がっていた。顔はまだ赤いままだが、じっとしていられないらしい。布の長さを見て、視線の抜け方を気にして、高田さんの横で「ここはこうした方がいいんじゃないかしら」と小さく意見を出している。


 その様子を見ながら、奥の席の常連の一人がしみじみと呟いた。


「本当に今夜やるんだな」


「やるだろ。あの顔だ」


 別の常連が顎で相沢くんを示す。


「それより先生も乗ってるぞ」


「そっちは昨日からだ」


 また笑いが広がる。


 騒がしいのに、不思議と朝の空気は壊れない。酒場が昼へ向かってゆっくり熱を持ち始めている。その中で、昨夜の余韻が今日の企てに変わり、企てがもう現実へ足を突っ込んでいた。


 そうして酒場の形が少しずつ変わっていく頃。


 同じ交易都市の別の通りでは、まったく違う種類の静けさが満ちていた。


 魔王のケーキ屋は休みの日らしい静けさに包まれていた。


 営業日の華やかさはない。扉の向こうの通りには人の気配も音もあるのに、店の中へ入るとそれが一枚薄い布を隔てた向こう側の出来事みたいに遠くなる。棚は整えられ、作業台の上もきれいに片づけられていた。焼き菓子の甘い匂いが、木の棚や布巾の奥にうっすら残っている。


 ユウトはその店の前で、山本さんを振り返った。


「緊張してます?」


 聞き方が軽い。いつものユウトだ。


 山本さんは苦笑する。


「してるわよ」


「大丈夫ですよ」


 根拠があるのかないのか分からない声で、ユウトはあっさり言った。


「師匠も副官さんも、そういうところちゃんとしてるんで」


 その言い方が妙に信用できてしまうから不思議だった。山本さんは一度だけ息を吐いてから頷く。


「……行きましょう」


 扉を開ける。


 店の中の空気はひんやりとしていた。外の朝より冷たいわけではない。整えられているからそう感じるのだろう。動きの無駄が少ない場所は、空気まで引き締まって見える。


 魔王はすでに中にいた。いつものように肩の力の抜けた姿で椅子に座っているが、その目は眠そうではない。副官さんは机の端に書類を揃えていて、こちらが入ってきた瞬間、もう準備が終わっていることが分かる。


 山本さんはそこで、背筋を伸ばした。


「やってみたいです」


 昨日から胸の内に溜めていたものを、ようやく口に出した声だった。迷いを消してから出した声は、思ったよりまっすぐだった。


 ユウトがすぐに頷く。


「いいと思います!」


 あまりにも早い賛成に、山本さんの肩の力が少しだけ抜ける。


 魔王が視線を向ける。


「ほう」


 短い一言だった。


 だが、その一言で場の空気がほんの少し締まる。ふざけた話ではないのだと、自然に分かる。


 副官さんが一歩前へ出た。


「では、こちらがあなたとの契約書です」


 机の上へ置かれた紙が、静かな店の中でやけにはっきり音を立てた。


 山本さんは思わず目を丸くする。


「……もうあるんですか?」


「想定済みです」


 副官さんの返事には一切の迷いがない。そう言いながら、書類の向きを山本さんの方へ滑らせる動きも無駄がなかった。


 山本さんは紙に視線を落とす。


 月火水は休み。木曜は準備。金土日が営業日。


 勤務の時間帯、担当の範囲、店の規律、報酬のこと。必要なことだけが整然と並んでいる。回りくどい言い回しはないのに、曖昧さもない。読んでいるうちに、この店が人気店である前に、きちんとした働く場所なのだと伝わってくる。


 魔王が椅子に座ったまま言う。


「難しいことはない。ちゃんとやればええ」


 その言い方は軽い。だが軽いまま責任を曖昧にしない声だった。


 ユウトが横から嬉しそうに覗き込む。


「一緒にやりましょう!」


 まるで新しい遊びに誘うみたいな顔をしている。けれど、その明るさが不思議と心強い。


 山本さんは契約書から目を上げる。魔王はいつも通り力が抜けて見えるのに、こちらを値踏みするような冷たさはない。副官さんは厳しそうだが、その厳しさが店を守るためのものだと分かる。ユウトは言うまでもなく、喜んでいる。


 この店で働くことが、怖いことではなく、ちゃんと一歩先へ進むことなのだと、その場に立っているだけで分かった。


「……はい」


 自然に、そう言えた。


 副官さんがペンを差し出す。


 山本さんはそれを受け取り、紙の上に名前を書く。先端が紙を擦る音が、静かな店内に細く響いた。たったそれだけのことなのに、線を引くたびに気持ちがはっきりしていく。


 書き終える。


 副官さんが受け取って、目を通す。指先が文字の上を一度なぞり、それから小さく頷いた。


「これで契約成立です」


 その一言で、何かがきちんと定まった感じがした。


 山本さんはその言葉を聞いてから、ようやく少し肩の力を抜いた。


 そして、そこでふと、さっきから引っかかっていたことを口にする。


「あの」


 魔王が顔を向ける。


「店長のことは、なんて呼べばいいんでしょうか?」


 魔王は肩の力の抜けたまま答えた。


「店長でも魔王さんでも、どっちでもええで」


 軽い。


 あまりにも軽い。


 山本さんは一瞬ためらってから、本音を口にした。


「はあ……でも、魔王なんて名乗って大丈夫なんですか?」

「もし本物の魔王に知られたら、怒られません?」


 一拍。


 魔王はまったく気にした様子もなく言う。


「いや、ホンマもんやし大丈夫やで」


 山本さんの思考が止まる。


「……へ?」


 間の抜けた声がそのまま出た。


 ユウトは横で普通に頷いている。頷くな、と言いたくなるのを山本さんはかろうじて飲み込んだ。


 その前に、副官さんが静かに口を開く。


「契約しましたよね」


 言われて、山本さんは反射的に机の上の書類を見る。


「はい?」


「下段です」


 落ち着いた声だった。


 山本さんは紙を持ち上げ、言われた通り下の方へ目を凝らした。


 そこには、さっき流し読みしたときには気にも留めなかった細い文字が、びっしりと並んでいた。


 小さい。とにかく小さい。


 店内情報の秘匿、業務上知り得た事項の外部漏洩禁止、店主および関係者の身元や素性に関する不用意な言及の制限、そのほか細かい項目が容赦なく続いている。


「いや」


 山本さんは思わず顔を上げた。


「だって、こんな小さな文字なんて読めないじゃないですか」


「契約は契約です」


 副官さんは一歩も引かない。


 声も強くない。表情も変わらない。


 なのに、逃がす気がまるでない。


 その静かさがかえって怖い。


 山本さんは書類と副官さんの顔を見比べた。


「え、今からでも確認とか」


「すでに契約は成立しています」


 ぴしゃり、とまではいかない。


 けれど、それ以上ないほどきれいに道を塞がれた。


 山本さんは口を開きかけて、閉じた。


 その様子を見て、魔王がくくっと笑う。


「まあまあ」


 片手を軽く上げる。


「そんな怖い話ちゃうから」


 ユウトもすぐに乗る。


「大丈夫ですよ」


 それだけならまだよかった。


 だが、ユウトは真面目な顔で続けた。


「副官さんは優しくて厳しくて容赦ないだけですから」


 一瞬、店の中が静まる。


 山本さんはゆっくりユウトを見た。


「だから、フォローになってないって」


 思わずそのまま口に出る。


 魔王が声を出して笑い、副官さんはほんのわずかに目を細めただけだった。


 否定もしない。肯定もしない。ただ、そのまま逃がす気のない空気だけが残る。


「誤解のないように言っておきますが」


 副官さんが静かに言う。


「必要なことは守っていただきます」


「はい」


 山本さんは反射的に背筋を伸ばした。


 怖いのか怖くないのか、もうよく分からない。ただ一つ分かるのは、この人は契約した相手を絶対にふわっと逃がしたりしない、ということだった。


 魔王が面白そうに肩を揺らす。


「安心せえ。副官は有能なだけや」


「その有能さが今ちょっと怖いんですけど」


「慣れる慣れる」


 あっさり言われて、山本さんはますます不安になる。


 ユウトはそんなやり取りを見ながら、なぜか嬉しそうだった。


「ほんとに大丈夫ですよ」


「だからその言い方が不安なんだってば」


 山本さんがそう返すと、今度はユウトまで笑った。


 張っていた空気が少しだけ緩む。


 それでも、机の上の契約書はもう元には戻らない。


 副官さんが書類をきれいに揃える。


「では、木曜から詳細を詰めます」


「教育計画、調整しとくわ」


 魔王が気楽に言う。


「楽しみですね」


 ユウトが本気で嬉しそうに笑う。


 山本さんはそこでようやく、深く息を吐いた。


 真面目に契約したはずだった。


 そのはずなのに、気づけば店長の正体がどうとか、読めない小さい文字がどうとか、変なところまできっちり決まっている。


 しかも、もう逃げられない。


 逃げられないのに、不思議と嫌な気はしなかった。


 店を出ると、外の光はもう朝の色から昼の手前へ変わっていた。


 通りには人が増えている。荷車の音が近づき、遠ざかる。パン屋の前には列ができ、雑貨屋では店先に並べた布が風に揺れている。交易都市の月曜は、休みの日であっても止まらない。


 ユウトは歩きながら、どこか嬉しそうだった。


「よかったですね」


「うん」


 山本さんは頷く。


「ほんとに、よかった」


 言葉にしてみると、少し胸が熱くなった。


 ケーキ屋へ入ることが決まった。その事実はもちろん大きい。だが、それだけではない。その話をきちんと受け取って、形にしてくれる人たちがいることがうれしかった。


 ユウトはそんな山本さんの顔を見て、安心したように笑う。


「今夜、酒場の方も見に来ます?」


「行く流れになる気しかしないんだけど」


「ですよね」


 妙に納得した顔で頷かれて、また笑ってしまう。


 結局その日、交易都市の空気は朝からずっとどこか浮ついていた。


 酒場では今夜の準備が進み、常連たちが勝手に宣伝し、聞きつけた者たちがまた別の誰かに話していく。ケーキ屋では一人の契約が静かにまとまり、新しい働き手を迎える準備が始まる。


 別々の話のはずなのに、どこかでちゃんと繋がっている。


 夕方、再び酒場へ顔を出したときには、もう店の空気は朝とは別物になっていた。


 奥の空間には布が張られ、即席ながら人目を切れる形が出来ている。卓の並びも変わり、普段なら通れないような角度で椅子が置かれていた。店主が満足そうに眺め、相沢くんはまだ細かい位置を直している。高田さんは完全に仕事の顔で布の皺を伸ばし、レイナはそれを見て楽しそうに笑っていた。マリナは赤い顔のまま、それでも真面目に手を動かしている。


 ガルドがその様子を眺めながら、ぽつりと呟く。


「始まるな」


 ダインが隣で短く返す。


「毎週か」


 それは呆れでもあり、確認でもあった。


 レイナが振り返る。


「黒崎くん、今日もやるんだろうね」


 ユウトはきょとんとする。


「何がですか?」


「そういうとこだよ」


 レイナが笑い、奥の席の常連たちまでつられて笑った。


 マリナだけが、一瞬だけ目を伏せる。


「……やるでしょうね」


 小さな声だった。


 困っているような、諦めているような、でもそれだけではない声だった。


 今夜また何が起こるのか、きっと自分でも分かっているのだろう。


 酒場の中では灯りの準備が進み、扉の外では夕暮れがゆっくり色を深めていく。笑い声と、椅子を引く音と、布の擦れる音が混ざる。


 真面目に契約していたはずの一日なのに、気づけば別のことまでしっかり決まっている。


 しかも、そのどれもがもう止まりそうにない。


 月曜の交易都市は、休みの日の顔をしながら、妙に忙しく次の夜へ向かっていた。



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