第80話 いつもの酒場に行った翌日何故か友人たちがよそよそしかった件
夜の交易都市は、昼の熱を石畳の上へ薄く残したまま、別の顔で息づいていた。屋台からは焼いた肉の脂が落ちる音がして、炭火の匂いに香草と酒の気配が重なる。人の流れはまだ途切れず、笑い声や呼び込みの声が通りの上を行き交っていた。
山本さんは、そんな夜の空気の中を歩きながら、隣の高田さんと顔を見合わせた。
先生とレイナがいて、ユウトと相沢もいて、少し前まで店の片付けをしていたはずなのに、気づけばみんなで酒場へ向かっている。その流れ自体は自然だったが、酒場へ近づくにつれて、前を歩くガルドさんとダインさんの顔つきがわずかに変わっていくのが気になった。
「どうしたの?」
高田さんが小声で訊くと、レイナが横からにやりと笑う。
「そのうち分かるよ」
「その言い方、不安になるんだけど」
先生が小さく息を吐いた。
「私もそう思うわ」
そう言いながらも、先生の耳は少し赤い。夜風に冷やされているだけではない色だった。
酒場の前へ着く。
木の扉の横には、小さな看板が立てかけられていた。相沢が最初にそれを見つけて足を止める。
「……なんだ、これ?」
看板の黒板には白い字で、でかでかと書かれていた。
本日愛の劇場公演有り
恋愛相談受けられます
山本さんは思わず瞬きをした。高田さんも目を丸くしている。
「愛の劇場?」
「公演?」
相沢が眉をひそめる。
「酒場だよな、ここ」
レイナが肩をすくめた。
「もう看板出してる」
その言い方に慣れがありすぎて、山本さんは逆に怖くなった。ちょうどその時、扉が内側から開いて店主が顔を出す。
「おっ、来たか」
それから一行を見渡し、先生の姿を確認した途端、口元を大きく緩めた。
「先生もいるぞ」
その声に、店の奥で飲んでいた常連たちが一斉に振り向く。
「ほんとだ!」
「今日は当たりだな!」
「いや、先生もいるなら大当たりだ!」
店の中の熱が、扉の外までどっと押し出してくる。笑い声と酒の匂いが混ざって、皮膚の表面にぺたりと張りつくようだった。
山本さんは高田さんともう一度だけ顔を見合わせる。
「何これ」
「分かんない」
相沢だけが、店先の看板と店内の反応を見比べながら、妙に静かな目をしていた。
中へ入る。
暖かいというより、熱い。人の体温と酒の匂い、焼いた肉と煮込みの湯気、木の卓に染み込んだ古い酒の匂いまで混ざっていて、呼吸をするたびに胸の中へ店の空気が流れ込んできた。
席はほとんど出来上がっていた。
「先生こっち!」
「先生席空いてるぞ!」
常連が勝手に椅子を引く。先生が「ちょっと待って」と言う間もなく、レイナが背中を押した。
「はい先生、いつもの席」
「いつものじゃないでしょ!」
「いや、完全にいつもの席ですね」
結局、席はきれいに収まった。
先生の隣にユウト。その逆隣にダインさん。向かいにレイナとガルドさん。少しずれた位置に山本さんと高田さん、相沢が並ぶ形になった。
相沢が小さく呟く。
「先生席ってそういう意味か」
高田さんが吹き出しそうになるのをこらえる。
「もう仕組みになってる」
注文した料理はすぐ運ばれてきた。焼いた肉に、豆の煮込み、固めのパン、香草の効いたスープ。魔王のケーキ屋の甘い匂いとはまるで違う、塩気と油の匂いが卓いっぱいに広がる。
最初の会話は、拍子抜けするくらい普通だった。
「今日もすごかったよね」
高田さんが言うと、レイナが頷く。
「うん。昼前でほぼ終わりだったし」
「ほんとにあんなに売れるんだね」
山本さんが言うと、先生も小さく笑う。
「売れるのよ。毎回ああだから、準備日も結構大変なの」
ユウトが素直な顔で言った。
「今日は生クリームもぎりぎりでしたからね」
「ほんとにあそこが一番きついんだな」
相沢がすぐに反応する。その目はすでに商人のものだった。
ガルドさんが肉を切りながら言う。
「他はどうにでもなるが、あれだけは簡単に増えん」
「質もですけど、鮮度がね」
先生が受ける。
「せっかく良い材料があっても、あれだけは別問題なのよ」
山本さんはそこで、昼間に試食したケーキの味を思い出した。口へ入れた瞬間の軽さと、そのあとに残る濃さ。あれを作るには、たしかに誤魔化しのきかない材料が必要なのだろう。
「でも、あのケーキはすごかった」
山本さんが言うと、ユウトが少しだけ嬉しそうな顔になった。
「師匠がすごいんです」
「いや、黒崎くんもだいぶ手際よかったわよ」
先生がそう言うと、ユウトが少しだけ照れたように頭をかく。
その空気は良かった。穏やかで、楽しくて、酒場の喧騒の中に自然に馴染んでいた。
だからこそ、その流れが変わる瞬間はよく分かった。
店主が、酒瓶を持ってきたのだ。
卓の上に置かれるときの、木に触れる乾いた音が妙にはっきり響く。
「店からだ」
その一言と一緒に、空気がきゅっと締まった。
レイナの手が止まる。ガルドさんが半眼になる。ダインさんは短く息を吐いた。先生は、ほんの一瞬だけ肩に力を入れた。
山本さんは、その変化を見てようやく理解した。
これだ。
常連がざわつく。見ていないふりをしていた顔が、少しずつこちらへ向く。
「来るか?」
「今日はどうだ?」
店主がとくとくと酒を注ぐ。透明な酒が杯の内側を滑り、灯りを受けて揺れた。
「黒崎くん」
先生が真面目な顔で言う。
「一口だけよ」
レイナが即座に言う。
「先生、それが駄目なんです」
ユウトは困ったように笑った。
「そんなにですか?」
だが、止める者は誰もいない。止めても無駄だと知っている顔だった。
ユウトが杯を持つ。
口元へ運ぶ。
ひと口。
喉が動く。
杯が卓へ戻る。
その数秒の静けさが、山本さんにはやけに長く感じられた。
それから、ユウトがゆっくり顔を上げた。
目が変わっていた。
酔って焦点が曖昧になるのではない。むしろ逆だ。視界の中の余計なものが全部消えて、たった一つだけが鮮やかに浮かび上がったような目だった。
その視線の先にいるのは、先生だった。
「先生」
低い声が落ちる。
次の瞬間、ユウトは椅子を寄せるどころではなく、身体ごと先生へもたれかかった。腕が回る。肩と腰を同時に抱え込むように引き寄せ、逃がさない重さで密着する。
「く、黒崎くん……!」
先生の呼吸が一瞬詰まる。体勢を崩しきるほど乱暴ではない。だが、離れようとするとそのぶんだけぴたりとついてくる重さだった。
ユウトは先生の肩口へ頬を寄せる。髪が触れ、衣擦れの音が小さく鳴る。
「先生、いい匂いがします」
先生の耳まで一気に赤くなる。
「ちょっと、離れて……!」
「いやです」
真顔だった。
常連たちがどっと沸く。
「始まった!」
「今日は早いな!」
「やっぱりこれだ!」
店主は腕を組んでうんうんと頷いていた。ガルドさんが「始まるな」と低く言い、ダインさんが「早い」と短く返す。レイナはもう笑いをこらえる気がない。
だがユウトは周囲など見ていなかった。
見ているのは先生だけだった。
「愛は!」
声が熱を持つ。
「自然に魂から生まれるんだ!」
酒場のざわめきが、そこだけ少し引いた。
「理由なんかどうでもいい」
抱き寄せる腕に迷いがない。先生が身じろぎしても、その動きに合わせて距離を詰め、胸と肩の位置をずらして逃げ道を塞ぐ。
「ただ俺の魂と肉体が先生を愛しているんだ!」
先生の肩がびくっと揺れる。
「な、なに言ってるのよ……!」
「真実です」
即答だった。
山本さんは、そこで息を飲んだ。
馬鹿げているはずなのに、笑い飛ばせない。言葉が妙に真っ直ぐで、本人だけが完全に本気だと分かってしまうからだ。
「先生、世界中のだれよりも愛してます!」
拍手が起こる。
「いいぞ!」
「もっと言え!」
先生は真っ赤なまま、ユウトの胸を押す。
「ちょっと、みんな見てるから!」
「問題ありません」
押されても離れない。むしろその手を包むように自分の方へ引き寄せる。
「先生も俺を愛しています!」
酒場がさらに沸いた。
「言い切った!」
「すげえな!」
先生の口がぱくぱくする。
「し、してないとは言ってないけどそういう意味じゃ……!」
言った瞬間、レイナが机を叩いた。
「先生、今すごいこと言いましたよ!」
「違う、違うから!」
言い訳する声まで震えている。
ユウトは満足そうに目を細めた。
「やっぱりそうです」
「違う!」
「先生は照れているだけです」
「違う!」
だが否定の勢いとは裏腹に、腕の中から本気で逃げようとはしていない。顔は真っ赤で、耳まで熱を持っているのに、振りほどくほど強くは出られない。その曖昧さが、余計に酒場の熱を上げていた。
「俺は先生を世界中のだれよりも愛している自信がある!」
どん、と誰かが机を叩く。
「名言だ!」
「それだ!」
「俺は先生に世界中のだれよりも愛されている自信がある!」
「強い!」
「そこまで言うか!」
先生はとうとう顔を両手で覆いかけたが、その手をユウトが掴んだ。指先を包むように取って、下ろさせる。
「先生、結婚しましょう!」
酒場が揺れるほど笑いが起こる。
「きた!」
「本題だ!」
店主が腹を抱えている。レイナはもう涙目だ。高田さんも笑いをこらえきれず肩を震わせ、山本さんも息が苦しくなるのを感じながら、それでも視線を逸らせない。
先生は必死だった。
「だからそういうのを大声で言わないの!」
「いや、形式なんてどうでもいい!」
ユウトは先生をさらに引き寄せた。腰へ回った腕の位置が少し下がり、先生がびくりと跳ねる。
「ちょ、ちょっと今変なとこ触ったでしょ!」
「先生の全部を愛しているので問題ありません」
「問題大ありよ!」
レイナが横から腹を抱えて言う。
「ユウトくん、今日は触る方も積極的ですね!」
「愛を捧げています」
真顔で返ってきた。
そして、今度は先生の肩へ額を押しつけるように寄り、熱のこもった声で言い切った。
「俺と先生は魂で結ばれている!」
酒場がしんとする。
次の言葉を待っている空気が、はっきり分かった。
「つまり、魂の夫婦!」
爆発した。
「出た!」
「魂の夫婦だ!」
「新しいな!」
先生はもう何が何だか分からない顔で、真っ赤になったままユウトの腕の中にいるしかない。
「永遠の夫婦なんだ!」
誰かが口笛を吹く。
店主が「いいねえ」と感心したように唸る。
「だれにも、神であろうとも魔王であろうとも俺と先生を引き離す事は絶対に出来ない!」
その瞬間、少し離れた席で見ていた魔王が、杯を持ったまま淡々と言った。
「せえへんよ」
一拍遅れて、副官さんが肩を揺らす。
酒場がまたどっと沸いた。
「魔王さんまで!」
「否定せんのか!」
魔王は呆れたようにユウトを見る。
「よう言うな、ほんま」
副官さんは目を細めたまま、小さく頷いた。
「いい言葉です」
「言わんでも分かるやろ、は甘えかな?」
魔王が半ば独り言みたいに言うと、副官さんはすぐに答えた。
「はい、甘えです」
「厳しいなあ」
そう言いながらも、魔王の口元は少し笑っていた。
相沢はそこまでの流れを、騒ぎの内側からではなく、もう商人の目で見ていた。看板、客の反応、女性客の視線、店主の表情、その全部を一度に見ている顔だった。
「店主さん」
相沢が呼ぶと、店主が楽しそうに振り向く。
「なんだ」
「目の付け所が素晴らしい」
店主が眉を上げる。
「ほう?」
「集客、公演、相談」
順に指で数えるみたいに言っていく。
「ここまではもう出来てる」
常連が笑う。
「もう売ってるぞ!」
「物じゃなく愛だけどな!」
相沢は頷く。
「そう、今この店に」
「足りないのは物販だ」
店主の目が細くなる。
「具体的に言え」
相沢は、視線だけで店の中の女性客を示した。笑っている顔、頬を染めている顔、聞き入っている顔。酒場なのに、そこにはたしかに別種の熱が生まれていた。
「愛を求める女性は、おしゃれでかわいい下着を欲しがるはずだ」
一瞬、静まる。
その次の瞬間には、常連たちが一斉に沸いた。
「分かってるじゃねえか!」
「見どころあるな!」
店主がにやりと笑う。
「いいな、それ」
相沢は真顔のままだ。
「どうです。僕とコラボしませんか?」
「要求に答えられる下着はこちらがご用意出来ます」
「早いな!」
「商人だ!」
高田さんが呆れ半分で笑う。
「相沢くん、本気なんだ」
「商機は逃さない」
短く言い切る声には冗談がなかった。
その横で、ユウトはまだ先生を抱き寄せたままだった。
「先生」
「な、なによ……!」
「愛してます」
「分かったから!」
「先生、俺の愛を受け取ってください」
「受け取ってるでしょ、もう十分!」
その返しに、酒場がまた揺れる。
「先生認めた!」
「大進展だ!」
先生はもう耳まで真っ赤で、ユウトの胸を押す手にも力が入りきらない。押しているのに、本気で離すための押し方ではない。だからユウトはますます安心した顔になる。
「やっぱり両想いです」
「ちが……!」
「先生、声が震えてます。可愛いです」
先生はとうとう片手で顔を覆った。
だが、覆いきれない頬の赤さと、口元の緩みまでは隠せていない。
山本さんはその顔を見て、胸の奥が変なふうに熱くなるのを感じた。
愛は自然に魂から生まれる。
理由なんかどうでもいい。
馬鹿みたいな言葉のはずなのに、あの場では不思議と笑いだけでは終わらなかった。みっともないほど真っ直ぐで、迷いがなくて、だから少しだけ羨ましくなる。
高田さんも同じだったらしい。笑いながらも、どこか目が真面目だった。
結局、その夜の酒場は、最後までその調子で沸き続けた。
常連は笑い、店主は満足そうに何度も頷き、レイナは一番近くで先生をいじり続けた。ガルドさんとダインさんは呆れ顔のまま酒を飲み、魔王と副官さんは少し離れた席でそれを眺めていた。
帰る頃、店主は看板をひっくり返し、さっさと書き足していた。
愛の下着取り扱い予定
「仕事が早いな!」
常連が笑う。
店主は胸を張った。
「商売だからな」
相沢がその字を見て、静かに頷く。
「明日にでも詳しく詰めましょう」
本気だった。
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朝。
山本さんはようやく器へ口をつけた。ぬるくなりかけた茶が喉へ落ちていく。
「……あれ見たあとだと、そりゃこうなるよね」
高田さんが頷く。
「距離の取り方分からない」
相沢が腕を組んだまま言う。
「でも、商売としてはかなり強い」
レイナが吹き出す。
「相沢くん、完全にそっちですね」
先生が言う。
「やめなさい」
だが声が弱い。
ユウトが本気で分からない顔をする。
「だから何の話だ」
誰も答えない。
ただ一つ。
先生だけが一瞬、ユウトを見た。
すぐに逸らす。
けれど、その頬にはまだ赤みが残っていて、口元だけはどうしても少し緩んでいた。
困っている。
恥ずかしがっている。
でも、それだけではない。
少しだけ。
嬉しそうだった。




