第71話 みんなで魔王のケーキ屋に就職した件
石畳には夜の冷気が薄く残っていて、歩くたびに靴底からひんやりとした感触が伝わってくる。空は高く晴れ、昇ったばかりの朝日が屋根の上をやわらかく照らしていた。店の戸板を外す音、荷車の軋む音、遠くのパン屋から流れてくる焼きたての匂い。そうしたものが少しずつ重なって、交易都市の朝は形を作っていく。
そんな通りを、ユウトたちは並んで歩いていた。
向かう先は、魔王のケーキ屋だ。
今ではもう、すっかり朝の習慣になっている。
ユウトにとってあの店は、ただの店ではない。もちろん売り物としてケーキを作っている場所ではある。だがそれ以上に、あそこは修行の場だった。
無限収納を使って材料を出す。
出した材料を完全鑑定を使って確認する。
必要な道具を揃える。
焼き上がったものを安全に保管する。
必要なタイミングで、必要なものを、必要な場所へ出す。
そういうひとつひとつの作業の中で、スキルを使う。
毎朝、魔王と一緒にケーキを作ることそのものが、ユウトの修行になっていた。
もっとも、その修行の結果として出来上がるケーキが、異常なほど美味かった。
それが問題といえば問題だった。
最初に食べた客が驚き、次に知り合いを連れてきて、その知り合いがまた別の誰かを連れてくる。そうして評判は街の中を一気に駆け巡り、気づけば朝から客が押しかける店になっていた。
ガルドがゆっくり歩きながら言う。
「今日も混みそうだな」
レイナがすぐに頷く。
「絶対混みますよ」
ダインも短く言った。
「昼過ぎまでは持たんだろうな」
それは、ここ最近のいつもの流れだった。
魔王とユウトは朝から出来る限界までケーキを作る。焼く。冷やす。飾る。並べる。だが、それでも販売の速度の方が大きく上回る。
結果として、昼過ぎには必ず売り切れる。
しかもユウトには午後から副官との修行がある。
そのため、ユウトと副官の二人が店を離れる時間になると、店はもう回らない。最近は売り切れた時点で営業終了、という形が当たり前になっていた。
マリナが少し苦笑する。
「最初はここまでになるなんて思わなかったわ」
「そうですね」
ユウトも頷いた。
「師匠、最近ずっと朝早いですし」
魔王はもともと朝が弱いわけではない。だが今は、夜明け前から作業を始めることが珍しくなくなっていた。魔王という肩書きから想像される姿とはかなり違うが、本人は案外その生活を楽しんでいるようにも見えた。
だからこそ、店が見えてきた時の違和感はすぐに分かった。
レイナがふと足を止める。
「あれ?」
ユウトも同時に気づく。
いつもなら店の外まで流れているはずの甘い匂いが、今日はほとんど漂ってこない。
マリナも少し首を傾げた。
「まだ作ってないのかしら」
そんなはずはない、とユウトは思う。
今の時間なら、もう何種類ものケーキが焼き上がり始めていて、作業台の上には材料や道具がびっしり並んでいる頃だ。
ユウトは店の扉を押し開けた。
店の中に入る。
そこには、確かに魔王がいた。
「よう、おはようさん」
いつもの調子だった。
だが、魔王はケーキを作っていなかった。
厨房に立っていない。作業台の前にもいない。店の椅子に腰を下ろし、頬杖をつきながらこちらを見ている。
店の中も妙に静かだった。
材料は出ている。道具も揃っている。何かが足りないわけではない。にもかかわらず、作業が始まっていない。
レイナがぽつりと言う。
「……珍しいですね」
ガルドも店の中を見回した。
「どうした?」
ユウトはすぐに魔王へ向き直る。
「師匠、どうしたんですか?」
魔王は頬杖を外し、少しだけ苦笑した。
「ちょっとなぁ」
それにしては歯切れが悪い。
その時だった。
店の奥から、副官さんが静かに姿を現した。
相変わらず無駄のない立ち姿だった。朝だというのに乱れがひとつもなく、淡々とした足取りでこちらへ歩いてくる。副官さんは一同を見回し、それから落ち着いた声で言った。
「ご近所トラブルです」
副官さんの落ち着いた声が、静かな店の中にすっと落ちた。
レイナが目をぱちぱちさせる。
「え?」
魔王は椅子に腰掛けたまま後ろ頭を掻いた。
「いやぁ、商売は難しいなぁ」
困っているような、そうでもないような、妙に力の抜けた言い方だった。
だが、店の中の様子を見る限り、ただ気まぐれで作業を止めているわけではないのは明らかだった。作業台の上には、朝の仕込みに使うはずだった材料がきちんと並んでいる。粉も、砂糖も、果物も、いつものように揃っている。道具も洗われていて、今からでもすぐ作業に入れる状態だ。
なのに、魔王は座っている。
その違和感が、この一言でようやく形になった。
ガルドが腕を組んだ。
「どういうことだ?」
魔王は店の入口の方を親指で示した。
「朝から並びよるやろ」
それだけで、大筋は分かる。
最近の店の前には朝から人がいた。最初はほんの数人だった。だが、美味いものは話が広がるのが早い。一人が驚き、その一人がまた誰かを連れてくる。その繰り返しで、今ではこの店の前に列が出来るのが珍しくなくなっていた。
副官さんが魔王の言葉を引き継ぐように淡々と続ける。
「人が集まります」
「通りが少し詰まります」
「声も増えます」
ひとつずつ、事実を積み上げるような言い方だった。
「近所の方から、やんわりと苦情が来ました」
やんわり、というところがかえって重い。
怒鳴り込まれたわけではない。まだ揉めたわけでもない。だからこそ、ここでこちらがきちんと動かなければならない、ということでもある。
マリナが小さく息を吐いた。
「なるほど……」
その横でレイナも店の外へちらりと視線を向ける。
「確かに、最近すごかったですもんね」
それは本当にそうだった。
朝のまだ静かな時間に、甘い匂いが通りへ流れ出る。すると、列に並んでいる客だけでなく、通りがかった人まで気になって足を止める。誰かが話しかけ、誰かが笑い、別の誰かが『まだ残ってるか』と聞いてくる。朝の商人通りとしては、少し賑やかすぎる。
魔王は肩をすくめる。
「今後も付き合うご近所さんやからな」
「迷惑かけたない」
ガルドが低く頷いた。
「それはそうだ」
ダインも短く言う。
「商売ならなおさらだな」
魔王はそこで、少しだけ視線を落とした。
「ユウトと二人で、出来るだけ作っとるんやけどな」
ユウトは苦笑した。
それも事実だった。
毎朝、かなりの量を作っている。材料を揃え、計量し、生地を混ぜ、焼き、冷やし、飾る。そのあいだ、ユウトは無限収納を使って、必要な道具や材料を手元へ出し、焼き上がったものを安全に保管し、次の作業が止まらないよう流れを作っていた。
この店はただの店ではない。ユウトにとっては、修行の場でもある。
材料の管理。
出し入れの正確さ。
タイミング。
量。
位置。
ケーキ作りの細かな手順のひとつひとつに、スキルを使う場面がある。雑にやれば失敗するし、丁寧にやればその分だけ作業は滑らかになる。魔王はそれを分かっていて、あえて毎日ユウトにやらせている。
だが、それでも。
「客の方が速いんや」
魔王が言うと、ダインが静かに頷いた。
「売れる速度が上回る」
ガルドが鼻で笑う。
「そりゃ、どうしようもないな」
作る速度より、売れる速度の方が速い。
だから結局、最近は決まっていた。
朝、魔王とユウトが出来る限界までケーキを作る。
そして昼過ぎには、必ず売り切れる。
だが営業がそこで終わる理由は、売り切れだけではない。
魔王がユウトの方を見た。
「しかもな」
「ユウトは午後から副官さんとの修行や」
レイナの顔が露骨にしかめられる。
「最近のあれですよね」
ユウトは返事の代わりに、わずかに肩をすくめた。
最近の修行は、明らかに段階が変わっていた。
副官さんとの訓練は、もともと実戦的ではあった。だが今は、さらに露骨に実戦を想定した内容になっている。まず着せられるのが、魔王軍で使っている訓練用の革防具だ。厚く、重く、見た目以上に身体の動きを邪魔する。なのに衝撃を完全には殺してくれない。打たれた場所はしっかり痛いし、むしろ『今どこをどう打たれたのか』を身体がはっきり理解するような作りになっている。
その防具を着けた状態で、副官さんは容赦なく打ち込んでくる。
拳。
蹴り。
肘に膝。
踏み込み。
崩し。
目潰しのような完全な反則を除けば、ほとんど何でもありだ。しかも、急所も普通に狙ってくる。
最初の頃、ユウトはそれにかなり驚いた。訓練でそこまでやるのか、と。
だが副官さんの考えは一貫していた。
急所というのは、決まった一か所を覚えれば済むものではない。打撃の強さ、角度、入る瞬間のタイミング、その時の姿勢や体勢で危険な場所は変わる。だから、知識として知っているだけでは足りない。身体で覚えなければ意味がない。
そのために、打つ。
痛みで覚えさせる。
防御の基本は痛みだと、副官さんは本気で考えている。
痛みを知れば、自然と防御は身につく。
そういう理屈だった。
ユウトの腕や脇腹には、まだ消えきらない青あざがいくつか残っている。革防具の上からでも、嫌な角度で入った一撃はきちんと効く。息が詰まりそうになることもある。そういう痛みを何度も経験するうちに、身体が勝手に危険な線を覚えていく。
ダインがぼそりと言った。
「殴られて覚えろ、だな」
副官さんは否定しなかった。
「そうです」
レイナが半歩ほどユウトから距離を取る。
「黒崎くん、よく生きてますね」
ユウトは苦笑するしかなかった。
「死なないくらいには加減してくれてます」
副官さんは横で何も言わない。
その沈黙が少し怖い。
マリナは心配そうにユウトを見る。
「私は、もう少し穏やかな訓練でもいいと思うけど……」
副官さんは静かに答えた。
「優しい訓練では死にます」
言い切られると、妙な説得力があるから困る。
魔王が笑った。
「まあ、そういうことや」
それから店の中を軽く見回し、話を戻す。
「つまりな」
「ユウトと副官さんが午後に抜けたら、店はもう回らん」
その通りだった。
店の製造を回している中心は、今のところ魔王とユウトの二人だ。もちろん他のみんなも手伝う。だが、製造そのものを一番滑らかに回しているのはその二人であり、その片方が午後に抜ける。さらに、魔王もひとりで延々と回し続ける気はないらしい。
魔王は指を三本立てた。
「せやから、ケーキ屋の営業は週三日にする」
レイナが驚く。
「週三日ですか?」
「せや」
魔王は頷いた。
「今まで毎日営業やったやろ」
「それを半分以下にする」
レイナはすぐに疑問を口にした。
「でも、それだとお客さん、その日に集中しません?」
魔王はあっさり頷く。
「するやろな」
その即答に、レイナが少しだけ面食らう。
魔王は肩をすくめた。
「でもな」
「どのみち作れる量には限界がある」
「キャパは決まっとる」
作業台の方へ顎を向ける。
「今でも昼過ぎには全部売り切れるやろ」
ガルドが低く頷いた。
「確かに」
ダインも続ける。
「客は集中するかもしれんが、営業日そのものは減る」
「そういうことや」
魔王は言った。
「並ぶ日が減るだけでも、今よりはマシになるやろ」
「キャパが決まっとる以上、毎日人だかり出来るよりええ」
マリナも納得したように頷く。
「なるほど」
魔王は少し笑った。
「それに、営業日減ったら新作考える時間も出来るしな」
その一言に、レイナの目がきらりと光る。
だが魔王はすぐに話を切り替えた。
「あと、ええ機会やからな」
「みんなとも正式な労働契約結びたい」
ガルドとダインが揃って首を傾げる。
「労働契約?」
聞き慣れない言葉だったらしい。
マリナが少し考えてから口を開いた。
「えっと……働く条件を話し合って、約束を交わすこと、かな」
ガルドが「ああ」と小さく声を漏らす。
「つまり長期護衛依頼か」
「うん、そんな感じだと思う」
マリナが頷いた。
この街でも、特定の商家や人物と長く契約する冒険者はいる。ただ、それは基本的に指名依頼だ。ある程度名が売れていたり、すでに付き合いがあったりする相手同士で結ばれることが多い。だからユウトたちには、まだあまり馴染みがない。
ダインが低く言う。
「特定の商家と長期護衛契約を結ぶ冒険者はいる」
魔王は頷いた。
「それに近い」
そして、もうひとつ付け加えた。
「意味はそれだけやない」
レイナが首を傾げる。
「他にもあるんですか?」
「休みや」
魔王は言った。
「きちんと休みも取った方がええ」
ユウトは少し意外な気持ちになった。
確かに、ここ最近は忙しい。
朝はケーキ屋。
昼から修行。
その合間に依頼。
休んでいないわけではないが、きちんと『休み』を決めていたわけではなかった。
魔王は笑う。
「最近、お前ら働きすぎや」
ガルドが少し笑った。
「まともな雇い主みたいなこと言うな」
「まともやで」
魔王は肩をすくめる。
それからユウトを見る。
「ユウト」
「はい」
「ついでにスキルを使った戦い方も教えたる」
口元が少しだけ上がる。
「まあ、応用編やな」
その言葉に、ユウトの背筋が自然と伸びる。
同じスキルを持つ相手。
しかも、その完成形のような相手。
そこから教わる機会など、そうあるものではない。
ガルドが店の外へ目をやる。
「ここじゃ無理だな」
「せやな」
魔王も頷いた。
「ご近所トラブルの直後に木ぇ吹っ飛ばしたら、さすがに怒られる」
レイナが吹き出す。
副官さんは無表情のままだったが、否定もしなかった。
魔王は立ち上がる。
「ほな行くか」
「森や」
副官さんが「本日休業」と看板に書き込んだ。
並ぼうとしていた者が数人いたがそれを見て引き上げていった。
少し申し訳ないがここで店を続けるには仕方がないことだ。
そう自分に言い聞かせる。
そうして一行は店を出た。
朝の街は、入ってきた時より少しだけ賑やかになっていた。市場へ向かう商人、荷車を押す男、店先を掃く女。人の流れを縫うように歩き、街の外へ出る。
石畳がやがて土の道へ変わる。建物の数が減り、草の匂いが濃くなる。風も少し冷たくなった。
やがて、街道の先に森が見えた。
魔王は迷いなく道を外れる。
「こっちや」
背の低い草を踏み分けながら進み、木々の間へ入っていく。
葉の匂い。
湿った土の匂い。
枝を揺らす風の音。
街の音が背後へ遠ざかる。
しばらく進んだところで、魔王が振り返った。
少しだけ笑う。
「ほな」
「ここからやな」
森の奥の空気が、わずかに張り詰めた。




