第63話 魔王さんのケーキ修行が想像以上に本格的だった件
翌朝。
夜が明けたばかりの街の空気はまだひんやりとしていた。石畳には夜露が残り、昇り始めた朝日が建物の壁を淡く照らしている。通りの向こうではパン屋の窯が動き始めているらしく、焼きたての香りがゆっくりと広がっていた。
そんな静かな時間に、ユウトたちは昨日と同じ建物の前に立っていた。
元酒場だった建物。
今は魔王が「将来のケーキ屋」と言っていた場所だ。
レイナが軽く伸びをする。
「朝早いですね」
まだ完全に目が覚めていないような声だった。
マリナが苦笑する。
「あなた昨日もあれだけ食べていたのに」
「いやあ」
レイナは頭をかく。
「修行って聞くと気になるじゃないですか」
ガルドが腕を組んだ。
「冒険者の性だな」
ダインが短く言う。
「未知の技術は確認する」
ユウトは建物の扉を見る。
昨日の出来事がまだ現実のようで現実でないような、不思議な感覚だった。
魔王に弟子入り。
言葉にすると簡単だが、普通の人生ではまず起こらない出来事だ。
それでも――
ユウトは扉を叩いた。
コン、コン。
少し間があった。
中から音がする。
何かを混ぜている音だった。
シャカ、シャカ、と泡立て器が器に当たる軽い金属音。
やがて足音が近づく。
扉が開いた。
魔王だった。
昨日と違うのは、エプロンを着けていることだった。
そして片手には泡立て器。
「お」
魔王は少し驚いた顔をした。
「早いやん」
ユウトが頭を下げる。
「おはようございます」
魔王は笑った。
「ええでええで、やる気やん」
軽く手を振る。
「入って」
店の中には、甘い香りが満ちていた。
昨日よりも材料が増えている。
棚には卵の籠。
小麦粉の袋。
砂糖の袋。
果物の箱。
そして作業台の上には、いくつものケーキが並んでいた。
レイナが目を丸くする。
「……増えてません?」
魔王は平然としていた。
「朝練や」
レイナが吹き出す。
「朝練でケーキ作るんですか」
魔王は真顔だった。
「それも修行や」
副官が奥から出てくる。
いつもの落ち着いた表情。
「事実です」
レイナが肩をすくめた。
「便利な言葉ですね」
魔王はボウルを作業台に置いた。
「ほな」
手を叩く。
「今日もケーキ作るで」
レイナが言う。
「それ、やっぱり修行なんですね」
魔王は即答した。
「もちろんや」
魔王は卵の籠をユウトに渡した。
「まず材料見る」
ユウトは卵を手に取る。
そして意識を集中させた。
完全鑑定。
視界の奥に情報が浮かぶ。
鮮度。
保存状態。
魔力反応。
問題なし。
ユウトが言った。
「大丈夫です」
魔王が頷く。
「そうや」
砂糖の袋を軽く叩く。
「これも見てみ」
ユウトは袋を見る。
再び完全鑑定。
結果が浮かぶ。
保存状態。
純度。
そして――
ユウトが言う。
「……少し湿気があります」
レイナが驚く。
「え?」
魔王は笑った。
「正解」
袋を持ち上げる。
「砂糖は湿気吸うとダマになる」
マリナが感心した。
「材料を見るのにも使えるのね」
魔王が頷く。
「完全鑑定は料理にも便利や」
ガルドが小さく笑う。
「冒険者より料理人向きだな」
ダインが言う。
「職人のスキルだ」
魔王は次に果物の箱を指差した。
「ユウト」
「はい」
「これ保存しといて」
ユウトは頷く。
果物に手を触れる。
無限収納。
果物が静かに消える。
レイナが言う。
「倉庫いらないですね」
魔王は笑う。
「動く倉庫や」
ガルドが頷く。
「遠征で便利だ」
ダインも言う。
「補給線が一人で成立する」
魔王は生地を混ぜながら言った。
「ケーキ作りはな」
少し真面目な声になる。
「精度や」
ボウルを軽く回す。
「ちょっとでもズレると味が変わる」
ガルドが呟く。
「鍛冶に似ている」
ダインが頷いた。
「精度の世界だ」
魔王は笑う。
「せや」
そして言った。
「だから修行や」
作業が始まると、店の中の空気はすぐに変わった。
卵を割る音。
泡立て器がボウルに当たる軽い金属音。
粉をふるうさらさらとした音。
さっきまで静かだった室内が、ゆっくりと作業場の空気になっていく。
魔王は生地を混ぜながら言った。
「レイナちゃん」
「はい?」
「その小麦粉」
棚を指差す。
「持ってきて」
レイナが袋を持ってくる。
かなり重い。
「これ全部使うんですか?」
魔王は頷く。
「もちろんや」
レイナが思わず言う。
「ケーキってこんな量作るんですか」
魔王は笑った。
「試作や」
レイナが肩をすくめる。
「やっぱり職人怖い」
魔王は粉を量りながらユウトを見る。
「完全鑑定」
「ちゃんと使っとるか?」
ユウトは頷いた。
「はい」
棚を見る。
完全鑑定。
材料の情報が次々と浮かぶ。
小麦粉の状態。
卵の鮮度。
バターの保存状態。
ユウトが言った。
「このバター」
魔王が見る。
「なんや」
「少し温度が高いです」
魔王は手を止めた。
バターに触れる。
少し考えてから頷いた。
「正解や、分かってきたな」
副官がすぐに言う。
「保管場所を変えます」
副官は棚の位置を少し変えた。
窓からの光が当たらない位置へ移動させる。
レイナが感心した。
「すごい」
魔王は笑った。
「完全鑑定はな」
ユウトを見る。
「戦いだけのスキルちゃう」
「生活にも使える」
ガルドが腕を組む。
「確かに」
ダインが続けた。
「応用範囲が広い」
魔王は窯の前に立った。
中には焼き上がりかけのスポンジが並んでいる。
甘い匂いがさらに強くなる。
レイナが言う。
「いい匂い」
魔王は窯を開けた。
ふわりと湯気が広がる。
焼き上がったスポンジが並んでいた。
黄金色。
表面が綺麗に膨らんでいる。
マリナが言う。
「きれい」
魔王はスポンジを台に置く。
「冷ます」
それからユウトを見る。
「収納や」
ユウトが少し驚く。
「今ですか?」
「せや」
魔王は言う。
「保存や」
ユウトはスポンジに手を触れる。
無限収納。
焼きたてのスポンジが消える。
レイナが言う。
「熱いままでも大丈夫なんですね」
魔王が頷く。
「収納は保存や」
「時間の影響受けへん」
ガルドが言った。
「遠征の食料管理にも使えるな」
ダインも頷く。
「腐敗を防げる」
魔王は笑う。
「せや」
「便利やろ」
作業はどんどん進んでいった。
スポンジを焼く。
クリームを作る。
果物を切る。
ケーキを組み立てる。
レイナが言う。
「……量多くないですか」
作業台を見る。
ケーキが増えている。
棚にも増えている。
魔王は平然としていた。
「試作や」
レイナが笑った。
「やっぱり怖い」
しばらくして。
魔王が言った。
「ユウト」
「はい」
「その箱」
果物の箱を指す。
「全部収納」
ユウトは頷く。
箱に触れる。
無限収納。
箱ごと消える。
レイナが言う。
「便利すぎる」
魔王は肩をすくめた。
「ケーキ屋には最高のスキルやろ」
ユウトは少し考える。
確かにそうだった。
材料。
完成品。
全部保存できる。
魔王は生地を混ぜながら言った。
「無限収納と完全鑑定」
「両方あると強い」
ガルドが頷く。
「確かに」
ダインが言う。
「組み合わせがいい」
その時だった。
レイナが棚を見る。
「……あれ?」
魔王が振り向く。
「なんや」
「ケーキ」
レイナが指差す。
「増えてません?」
棚の上には、昨日より明らかに多くのケーキが並んでいる。
魔王は平然としていた。
「試作や」
レイナが吹き出す。
「それ万能ですね」
魔王は真顔だった。
「修行はずっと終わらへん」
作業は、気づけばかなりの時間続いていた。
窓から差し込んでいた朝の光は、いつの間にか少し高くなり、作業台の上を白く照らしている。
ボウルの数も増えていた。
泡立て器。
木べら。
皿。
そして――
ケーキ。
レイナが棚を見て言った。
「……増えてません?」
魔王は生地を混ぜながら答える。
「もっと増える」
レイナが肩をすくめる。
「ですよね」
棚の上には、さっきより明らかに多くのケーキが並んでいた。
ショートケーキ。
フルーツケーキ。
層になったケーキ。
作業台の横にも箱が置かれ始めている。
マリナが小さく笑った。
「職人の世界ね」
魔王は生地の硬さを確かめながら言う。
「試作は数や」
ガルドが腕を組む。
「鍛冶と同じだな」
ダインが言う。
「完成度を上げるには量が必要だ」
魔王は頷いた。
「せや」
窯が開く。
甘い香りが店の中に広がった。
レイナが言う。
「また焼けました」
魔王はスポンジを取り出す。
湯気が立ち上る。
ふわりと膨らんだ綺麗なスポンジだった。
魔王はユウトを見る。
「収納」
ユウトは頷く。
スポンジに手を触れる。
無限収納。
焼きたてのスポンジが消える。
ガルドが言う。
「便利だな」
ダインも頷く。
「保存能力として優秀だ」
魔王は言う。
「ケーキ屋には最高のスキルや」
作業台では副官が果物を並べていた。
綺麗に洗われた果物。
魔王が言う。
「ユウト」
「はい」
「それも見てみ」
ユウトは果物を見る。
完全鑑定。
果物の情報が浮かぶ。
鮮度。
甘味。
水分量。
ユウトが言った。
「この果物」
魔王が振り向く。
「なんや」
「甘味が強いです」
魔王は笑った。
「当たり」
果物を手に取る。
「完全鑑定はな」
ユウトを見る。
「材料選びに強い」
マリナが感心した。
「確かに」
レイナが言う。
「料理人向きですね」
魔王は肩をすくめる。
「ケーキ屋やからな」
時間が進む。
作業は止まらない。
スポンジ。
クリーム。
果物。
ケーキ。
レイナが椅子に座る。
「……疲れてきました」
マリナが笑う。
「まだ昼前よ」
レイナが言う。
「修行厳しい」
魔王は真顔だった。
「まだまだやで」
ユウトが少しだけ目を閉じる。
無限収納の感覚を確認する。
暗い空間。
そこに並ぶもの。
スポンジ。
果物。
材料。
さっき収納したものが整然と並んでいる。
ユウトが小さく言った。
「……増えてます」
レイナが聞く。
「何がです?」
ユウトは目を開く。
「収納の中」
魔王が言う。
「そら増える」
レイナが笑う。
「どんどんケーキ作ってますもんね」
魔王は生地を混ぜながら言った。
「その感覚覚えとき」
ユウトが頷く。
確かに、昨日より収納の感覚がはっきりしている。
何が入っているか。
どこにあるか。
ぼんやりだが分かる。
魔王が言う。
「慣れてきとるな」
ユウトが少し驚く。
「分かりますか?」
魔王は笑った。
「同じスキルや」
その時だった。
レイナが棚を見る。
「……あれ?」
魔王が振り向く。
「なんや」
「ケーキ」
レイナが指差す。
「増えすぎじゃないですか」
棚。
箱。
作業台。
店の中にはかなりの量のケーキが並んでいた。
魔王は少し考える。
それから言った。
「問題ない」
レイナが聞く。
「どうするんです?」
魔王は肩をすくめる。
「食べる」
レイナが固まる。
「全部?」
魔王は笑った。
「当たり前やん」
店の中には、甘い香りが満ちていた。
窓から差し込む光は、朝の柔らかさをすでに失い、作業台の上を白く照らしている。
時間はかなり過ぎていた。
レイナが椅子に座ったまま言う。
「……疲れました」
正直な声だった。
マリナが小さく笑う。
「あなた途中から試食ばかりしていたでしょう」
「修行です」
レイナは真顔だった。
ガルドが言う。
「甘味の修行か」
ダインが短く言う。
「胃袋の鍛錬だ」
レイナが肩をすくめる。
「思ってた修行と違います」
作業台の上にはケーキが並んでいた。
棚にも並んでいる。
箱の中にも入っている。
魔王は腕を組んでそれを見ていた。
そして満足そうに頷く。
「ええ感じや」
レイナが言う。
「ええ感じなんですか」
「試作としてはな」
魔王は軽く答える。
マリナがケーキを見る。
「本当にたくさん作りましたね」
ガルドが小さく笑う。
「酒場より甘い匂いがする」
ダインが言った。
「この量は保存が必要だ」
魔王がユウトを見る。
「収納」
ユウトは頷く。
棚のケーキに手を近づける。
無限収納。
ケーキが消える。
箱のケーキも収納する。
皿のケーキも収納する。
レイナが言う。
「店がすっきりしました」
魔王は笑った。
「便利やろ」
ユウトは目を閉じる。
収納の中を確認する。
暗い空間。
そこに並ぶケーキ。
スポンジ。
果物。
材料。
さっきまで作っていたものが整然と並んでいる。
ユウトが言う。
「かなり増えました」
レイナが笑う。
「当然です」
魔王は肩をすくめる。
「それが修行や」
レイナが言う。
「また出ました」
ガルドが言った。
「便利な言葉だ」
ダインも頷く。
「万能だ」
作業台の片付けが始まった。
ボウルを洗う。
器具を拭く。
棚を整理する。
副官が道具を整然と並べていく。
レイナが言う。
「副官さん」
「慣れてますね」
副官は静かに答えた。
「魔王さまの趣味ですから」
魔王が笑う。
「ええ趣味しとるやろ」
しばらくして。
作業が終わる。
店の中はようやく静かになった。
甘い香りだけが残っている。
レイナが伸びをする。
「終わりました」
マリナも少し疲れたように息を吐く。
「思っていたより大変だったわ」
ガルドが言う。
「修行らしいな」
ダインが頷く。
「悪くない」
ユウトは作業台を見る。
さっきまでケーキが並んでいた場所。
今は何もない。
収納の中に全部ある。
少し不思議な感覚だった。
魔王が言う。
「今日はここまでや」
レイナがすぐ言う。
「助かりました」
魔王は笑った。
「まだ始まったばっかりや」
レイナが小さく言う。
「怖いこと言わないでください」
その時だった。
魔王が棚から瓶を取り出す。
琥珀色の液体。
レイナが気づく。
「あ」
「それ」
魔王は瓶を軽く振る。
液体がゆっくり揺れる。
「ブランデー」
レイナが言う。
「ケーキに使うんですよね」
魔王はにやりと笑った。
「せや」
そして言う。
「明日はこれ使う」
ユウトが少し首を傾げる。
「お酒のケーキですか?」
魔王は頷いた。
「大人のケーキや」
レイナが小さく笑う。
「なんだか危ない響きですね」
魔王は肩をすくめた。
「大丈夫や」
そして少し楽しそうに言う。
「美味いで」
その時、誰もまだ知らなかった。
このケーキが――
翌日、とんでもない騒ぎを起こすことになるとは。




