第62話 なんだかいつの間にか魔王さんに弟子入りしてた件
朝の空気はまだ少し冷たかった。
石畳の通りには夜露が残り、昇り始めた朝日がそれを淡く照らしている。店の戸板を外す乾いた音が遠くから聞こえ、荷車の車輪が軋む音がゆっくりと街に広がっていた。
そんな静かな時間に、ユウトたちは街の宿屋の前に立っていた。
昨日、魔王が残していった紙。
そこに書かれていた宿の名前を頼りに、ここまで来たのだ。
レイナが小さく息を吐く。
「……本当に来ちゃいましたね」
少しだけ緊張した声だった。
ユウトは頷く。
「はい」
迷いのない声だった。
ガルドが腕を組む。
「気持ちは分かる」
低く言う。
「同じスキル持ちに教わる機会なんて普通はない」
ダインも頷いた。
「理屈としては理解できる」
そして少し間を置く。
「だが相手は魔王だ」
その言葉に、マリナが小さく息を吐く。
「心配は……します」
正直な声だった。
ユウトは少し困ったように笑う。
「でも」
ゆっくり言う。
「同じスキルを持っている人に教えてもらえるなら」
少し考えてから言った。
「それ以上の教師はいないと思います」
レイナが言う。
「それは確かに」
それから少し笑う。
「あとケーキも気になります」
マリナが苦笑する。
「あなたね……」
ガルドが宿の扉を見る。
「とりあえず話を聞く」
「それからだ」
ユウトが扉を叩いた。
コン、コン。
しばらく間があった。
それから、内側で足音が止まる。
次の瞬間。
扉が開いた。
そこに立っていたのは――
魔王だった。
昨日と同じ、気の抜けた笑顔。
「お」
軽く手を振る。
「もう来たんか」
まるで昔からの知り合いを迎えるような口調だった。
ユウトは頭を下げる。
「修行の話を聞きに来ました」
魔王はにやりと笑った。
「ええで」
「はよ入って」
あまりにもあっさりした返事だった。
レイナが思わず小声で言う。
「軽い……」
ユウトたちは部屋の中へ入った。
部屋は旅人用の広めの客室だった。
中央にテーブルがあり、窓際には椅子が置かれている。特別豪華でもなければ、特別狭くもない、どこにでもある宿屋の一室だ。
ただ一つだけ違うのは――
甘い香りが漂っていることだった。
レイナが鼻をひくつかせる。
「……甘い匂い」
魔王は笑った。
「ケーキや」
棚の上には、いくつかの箱が置かれている。
レイナが目を輝かせる。
「まだあるんですか?」
魔王は箱を開けた。
「食べてみ」
レイナが一口食べる。
次の瞬間。
「美味しい!」
マリナも驚く。
「本当に……」
ガルドも頷いた。
「悪くない」
ダインが短く言う。
「甘味として完成している」
魔王は満足そうに笑った。
「やろ」
胸を張る。
「オッチャンが作ってん」
レイナが呟く。
「魔王が作ったケーキ……」
魔王は椅子に腰を下ろした。
「まあそれはええ」
ユウトを見る。
「修行やろ?」
ユウトは頷いた。
「はい」
魔王は少し考える。
それから笑った。
「ええで」
「オッチャンがスキルの使い方教えたる」
ガルドとダインが顔を見合わせる。
あまりにも簡単に話が進む。
魔王は続けた。
「戦い方とかは副官に教わってくれ」
その時、部屋の奥の扉が開いた。
副官だった。
静かな足取りで魔王の後ろに立つ。
魔王は親指で副官を指した。
「一見ほっそりしたお姉さんやけどな」
少し笑う。
「うちの格闘大会無差別級」
「十連覇や」
空気が止まった。
ガルドが副官を見る。
ダインも見る。
副官は静かに言った。
「誇張です」
魔王は笑う。
「ちょっとだけな」
魔王は椅子から立ち上がった。
「ほな、場所見せたるわ」
ガルドが眉を動かす。
「場所?」
「修行場所や」
魔王は軽く言った。
「ここやと狭いやろ」
確かに、この宿屋の客室では修行など出来そうにない。
魔王は扉へ向かう。
「ついてき」
副官が静かに言う。
「魔王さま、本気なんですね」
「せや」
魔王は振り返らずに答えた。
「弟子候補や」
副官は一瞬だけユウトを見る。
その視線は鋭いが、敵意はない。ただ、静かに観察しているだけだった。
「承知しました」
宿を出ると、朝の街は少しずつ目を覚まし始めていた。
パン屋から焼きたての香りが流れ、店の前では店主が掃除をしている。通りには行商人や職人がちらほら見え始めていた。
魔王はその中を気楽な足取りで歩く。
まるでこの街の住人のようだった。
レイナが小声で言う。
「……魔王って、こんな普通に歩いてていいんですか?」
ガルドが低く答える。
「普通じゃないから出来るんだろう」
ダインが言う。
「隠れる必要などないということだ」
確かにそうだった。
魔王は誰の目も気にしていない。
むしろ、少し楽しそうに街を見ている。
やがて、通りを一本曲がる。
そこには少し広めの建物があった。
元は酒場だったのだろう。
大きな扉と広い窓があり、入り口の上には古い看板の跡が残っている。
魔王が扉を開けた。
「ここや」
中に入ると、ほんのりと甘い香りが広がった。
室内は広かった。
元酒場の客席はすべて片付けられ、その代わりに大きな作業台が並んでいる。奥には石窯があり、棚には菓子作りの道具が整然と並べられていた。
そして――
ケーキが並んでいた。
白いクリームのケーキ。
果物が乗ったケーキ。
層になったケーキ。
レイナが目を丸くする。
「わあ……」
魔王は少し胸を張った。
「なかなかええやろ」
ガルドが周囲を見回す。
「ここは」
「居抜きや」
魔王は答える。
「前は酒場やった」
そして腕を広げる。
「将来のオッチャンのケーキ屋や」
レイナが思わず笑う。
「本当にやるつもりなんですね」
「当たり前やん」
魔王は真顔だった。
「夢やからな」
ダインが低く言う。
「魔王の引退後としては珍しいな」
魔王は笑う。
「ええやろ」
それから振り返る。
「まあ、それはそれとして」
ユウトを見る。
「修行の話や」
作業台の前に集まる。
魔王はケーキを一つ持ち上げた。
「ケーキ作りには全部あるんや」
少し真面目な声だった。
「材料を見る」
「混ぜる」
「加工する」
「保存する」
ユウトを見る。
「完全鑑定と収納」
「ぴったりやろ」
レイナが言う。
「確かに……」
魔王は続ける。
「成功したら美味い」
「失敗したらすぐ分かる」
肩をすくめる。
「修行にはちょうどええ」
ガルドが小さく笑う。
「理にはかなっている」
ダインも頷いた。
「合理的だ」
魔王は満足そうに笑う。
「せやろ」
マリナがふと尋ねた。
「でも魔王さん」
魔王が見る。
「なんや」
「こんなところに長くいて大丈夫なんですか?」
魔王はあっさり答えた。
「大丈夫や」
そして胸を張る。
「うちの国は完全週休二日制や」
一瞬、空気が止まった。
レイナが瞬きをする。
「……え?」
魔王は平然としている。
「働きすぎはあかん」
ガルドが呟く。
「魔王国ってそういう国なのか」
「せや」
魔王は頷き、親指で副官を指した。
「しかも副官がおるし」
副官が静かに口を開いた。
「私は転移系スキルを持っています」
ユウトが反応する。
「転移……?」
「はい」
副官は頷く。
「移動系の時空間スキルです」
魔王が言う。
「パッと行って」
「パッと帰ってこれる」
レイナが言う。
「便利すぎません?」
マリナも頷く。
「ちょっと羨ましいです」
魔王は笑った。
「気持ちは分かる」
そして軽く言う。
「ギリギリまで寝て出勤できるしな」
副官が横目で魔王を見る。
「魔王さま」
「なんや」
「……いえ」
それ以上は何も言わなかった。
だが、魔王の言葉の意味を一番理解しているのは、どうやら副官のようだった。
魔王は作業台の上に果物を置いた。
丸い赤い果実だった。
「ほな」
ユウトを見る。
「まずは無限収納の話や」
ユウトは姿勢を正した。
魔王は果物を軽く指で叩く。
「ユウト」
「収納の入り口、どんな感じでイメージしとる?」
ユウトは少し考えた。
「……四角い穴です」
魔王は頷く。
「ほな」
指を軽く振る。
「丸くしたり」
「細くしたりしたらええ」
その瞬間だった。
果物が――
すっと綺麗に切れていた。
包丁を使った様子はない。
だが断面は滑らかで、均等に切り分けられている。
レイナが声を上げる。
「えっ?」
魔王は肩をすくめる。
「今のは」
「細く薄くイメージして収納したんや」
ユウトが驚く。
「そんな使い方が……」
魔王は笑う。
「収納はただの倉庫ちゃう」
果物の断面を指で示す。
「形も大きさも」
「イメージ次第や」
ガルドが小さく息を吐いた。
「……なるほどな」
ダインも言う。
「応用が効く」
魔王は続ける。
「あと、もう一つ」
作業台の上を指す。
「射程や」
レイナが首を傾げる。
「射程?」
魔王は説明する。
「毎回触って収納してたら」
「柔らかいケーキは歪むやろ」
次の瞬間。
作業台の上のケーキが消えた。
ユウトが驚く。
「触ってない……」
魔王は頷く。
「慣れたら遠くからでもいける」
それからユウトを見る。
「ほな」
「やってみ」
ユウトは作業台の前に立った。
そこには小さなケーキが並んでいる。
ティラミスだった。
ユウトは一つに手を伸ばす。
ケーキの手前で手を止める。
収納を意識する。
ぽん。
軽い感覚とともにケーキが消えた。
レイナが言う。
「成功ですね」
魔王は頷いた。
「もう一個」
ユウトはもう一つ収納する。
魔王が言った。
「ほな次や」
「収納の中、イメージしてみ」
ユウトは目を閉じた。
暗い空間。
そこに――
今入れたティラミスが浮かんでいる。
数が分かる。
ユウトが言う。
「……二つです」
魔王は満足そうに頷いた。
「そうや」
そして少し笑う。
「慣れたら」
「もっと多くても分かるようになる」
副官が静かに補足した。
「在庫管理です」
ガルドが笑う。
「商人向きだな」
ダインが頷く。
「兵站にも使える」
魔王が言う。
「せやけど」
にやりと笑う。
「オッチャンはケーキ屋や」
魔王は棚から皿を出した。
ケーキを切り分ける。
甘い香りが店の中に広がった。
「ほな」
「試食や」
レイナが嬉しそうに言う。
「待ってました」
みんなで食べる。
レイナが言う。
「美味しい!」
マリナも頷く。
「本当に……」
ガルドも言った。
「美味いな」
ダインも短く言う。
「完成度が高い」
魔王は満足そうだった。
「やろ」
そして紙を取り出す。
「はい」
レイナが受け取る。
「これ何ですか?」
「アンケートや」
魔王は真顔だった。
「試食したケーキ」
「ちゃんとアンケート書いといてな」
レイナが笑う。
「忖度なしですか?」
魔王は頷く。
「正直な意見で頼む」
ガルドが作業台の材料の量を見る。
そして小さく言った。
「……修行というより」
ダインが続ける。
「ただ働きではないのか」
魔王は笑った。
「修行や」
即答だった。
試食が一段落したころだった。
マリナが作業台の前で、少し考え込むような顔をしていた。
レイナがそれに気づく。
「先生?」
マリナは少し照れたように笑う。
「魔王さん」
魔王が顔を上げる。
「なんや」
「私もケーキ作ってみていいですか?」
レイナが小さく声を上げた。
「お」
ガルドも少し眉を上げる。
魔王は一瞬だけ驚いたような顔をしたが、すぐに笑った。
「おお」
手を軽く叩く。
「当たり前やん」
作業台を指差す。
「先生もケーキ作り趣味にしたらええ」
そして少し笑う。
「ええ花嫁修行になるで」
マリナの顔が一瞬で赤くなった。
「や、やだぁ」
「そんな……」
レイナがにやりと笑う。
「照れてる」
「レイナ!」
マリナは慌てて材料を並べ始めた。
ボウルに卵を割る。
粉を入れる。
砂糖を入れる。
だが途中で手が止まる。
「えっと……」
マリナは少し首を傾げた。
「分量は……」
少し考える。
「だいたいこれくらいかな?」
レイナが小声で言う。
「だいたい」
副官が静かに言った。
「危険な言葉です」
マリナは聞こえないふりをした。
卵を混ぜる。
粉を入れる。
クリームを泡立てる。
しばらくして、焼き上がった。
マリナがケーキを見る。
「あ、あれ?」
レイナが聞く。
「どうしました?」
「どうして膨らまないの?」
副官が即答する。
「分量です」
それでもマリナは笑顔を作る。
「まあ……たぶん大丈夫」
皿を並べる。
「みんな」
「食べてみて」
フォークが動く。
一口。
沈黙。
レイナ
「……」
ガルド
「……」
ダイン
「……」
ユウト
「……」
副官
「……」
魔王がゆっくりもう一口食べた。
しばらく考える。
それから言った。
「これは」
全員が魔王を見る。
魔王は真顔だった。
「新しいジャンルやな」
レイナが吹き出した。
「フォロー雑!」
マリナが不安そうに聞く。
「そんなに変?」
ガルドが言う。
「説明が難しい」
ダインが続ける。
「概念の整理が必要だ」
副官が静かに言った。
「味覚の常識が崩壊しています」
マリナの顔が少しずつ赤くなる。
魔王は腕を組んだ。
ケーキを見ている。
そして少し首を傾げた。
「おかしいな」
呟く。
「毒でもなんでも収納出来るのに」
ケーキを見る。
もう一度見る。
それから言った。
「なんで先生のケーキは収納出来へんねん」
その場の空気が、完全に止まった。




