第 61話 俺たちの拠点に魔王さまと副官さんがやって来た件
朝の光が、借家の窓からゆっくりと差し込んでいた。
夜露の残る庭が、やわらかな光を受けて淡くきらめいている。半開きの窓からは、まだ少し冷たい空気が流れ込んでいた。遠くでは荷車の車輪が石畳をきしませ、どこかの店が戸板を外す乾いた音が、静かな街の中にぽつりぽつりと響いている。
昨日の酒場の騒ぎが、まるで嘘のような朝だった。
ユウトたちが暮らしている借家は、ガルドの家のすぐ隣に建っている。
冒険者向けに貸し出されていた建物らしく、作りは簡素だ。玄関を入ると居間、その奥に小さな台所。二階には寝室がいくつか並んでいる。決して広くはないが、四人で暮らすには十分だった。
居間の中央には、使い込まれた木の食卓がある。
その上に、朝食が並んでいた。
焼いたパン、温かい野菜スープ、薄く切った果物。干し肉を少し乗った皿。豪華ではないが、湯気の立つ鍋と焼きたての匂いがあるだけで、それはきちんとした「家の食事」だった。
台所では、マリナがお茶を鍋で火にかけている。
湯気がゆっくりと立ち上り、薄く淡い香りが広がった。長い髪を軽くまとめ、袖を少しまくって木杓子を動かしている姿は、どこか落ち着いた家庭の朝のようでもある。
その横で、レイナが椅子に座りながらパンをちぎっていた。
「……眠い」
ぽつりと漏れた声は、まだ少し掠れている。
マリナが振り返った。
「昨日遅かったからよ」
「酒場、盛り上がりすぎましたね」
レイナは苦笑する。
その向かいでは、ユウトが真面目な顔でスープを飲んでいた。
木椀を両手で持ったまま、少し首を傾げる。
「昨日、何かありました?」
レイナが一瞬固まり、次の瞬間に吹き出した。
「覚えてないんですか?」
「うーん……」
ユウトは真剣に思い出そうとする。
しばらく考え込んでから、困ったように笑った。
「楽しかった記憶はあります」
レイナが肩を震わせる。
「それだけですか」
「それだけですね」
マリナが木椀を持つ手を止め、小さくため息をついた。
「黒崎くん……」
何か言いかけて、言葉を飲み込む。
昨日の酒場の光景が、頭に浮かんだのだろう。頬にほんのり赤みが差している。
それを見逃すレイナではない。
「先生」
「レイナ」
「はいはい」
レイナは素直に肩をすくめた。
壁際の椅子では、ダインが腕を組んだまま静かに座っている。
しばらく会話を聞いていたが、短く一言だけ言った。
「いつものことだ」
レイナが頷く。
「まあ、そうなんですけどね」
ユウトは少し安心したようだった。
「なら大丈夫ですね」
「何が?」
「いつものことなら、問題ないと思います」
レイナがとうとう声を上げて笑った。
「問題だらけなのに」
だが、こういうやり取りももう珍しくない。
酒場で酔ったユウトがマリナに抱きつき、翌朝きれいに忘れる。レイナがからかい、マリナが困り、ダインが短くまとめる。
最近では、それ自体がこの家の朝の一部になりつつあった。
異世界に来たばかりの頃には、そんな余裕はなかった。
ただ寝る場所だった借家が、いつの間にか「暮らす場所」に変わっていた。
その時だった。
「ユウトー!」
庭の方から元気な声が聞こえた。
ユウトが顔を上げる。
窓の外を見ると、隣の家の庭でガルドの娘が手を振っていた。朝日に照らされた髪が、ぴょこぴょこと揺れている。
「おはよう」
ユウトが手を振り返す。
「おはよー!」
娘は嬉しそうに笑う。
その後ろでは、ガルドの妻が洗濯物を抱えながら苦笑していた。
少し遅れて、庭の奥からガルド本人が顔を出す。
「朝から元気だな」
低い声だった。
だが顔つきは柔らかい。
「おはようございます、ガルドさん」
ユウトが言う。
「おう」
ガルドは庭の境目の柵に腕を乗せた。
この距離感が、最近ではすっかり当たり前になっている。
「今日はどうする」
「依頼受けるなら昼前には出るぞ」
食卓からレイナが答える。
「はいはい、食べ終わったら行きます」
マリナも言った。
「まだ決めてはいないけれど、午前中には動くつもりよ」
ガルドが頷く。
「ならあとで声かける」
そう言った時だった。
コン。
玄関の扉が軽く叩かれた。
家の空気が、ほんの少しだけ変わる。
大きな音ではない。だが妙に耳に残る叩き方だった。
ユウトが立ち上がる。
「ガルドさんじゃないですよね」
「隣にいる」
ダインの返事はもっともだった。
ガルドも庭から玄関の方を見ている。
ユウトは玄関へ向かった。
廊下を歩く足音が、今朝は妙に大きく聞こえた。
扉の前で一瞬だけ立ち止まる。
相手の気配を探る。
だが、うまく掴めなかった。
強いのか弱いのか、輪郭がぼやけているような感覚だった。
ユウトは扉を開ける。
そこに立っていたのは――
見知らぬ男だった。
年齢はよく分からない。
若くも見えるし、年上にも見える。服装は旅人のように気楽で、街の中で見かけてもすぐ忘れてしまいそうな普通の男だった。
ただ一つだけ違うのは。
その口元に浮かんでいる、妙に人懐こい笑みだった。
「朝早くからすんません」
男は頭を掻きながら言った。
その後ろには、細身の女性が静かに立っている。
ユウトは少し首を傾げた。
「どちら様ですか?」
男は楽しそうに目を細める。
「はじめましてやな」
一拍置く。
そして、まるで世間話のような軽さで言った。
「魔王いいます」
朝の借家の空気が、きれいに止まった。
朝の借家の空気が、一瞬で静まり返った。
魔王。
その言葉だけで、この世界の人間なら誰でも体が固くなる。
だが――
目の前に立っている男は、どう見てもそんな存在には見えなかった。
街のどこにでもいそうな、少し人の良さそうな旅人。
それが第一印象だった。
だが、なにかが違う。
ユウトはしばらく男の顔を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……とりあえず」
少し横に体をずらす。
「中へどうぞ」
魔王は嬉しそうに笑った。
「お邪魔します」
「あっ、こっちのおばちゃんもお邪魔してええかな?」
ユウトが頷くと遠慮なく家の中へ入った。
その後ろから、細身の女――副官も静かに続いた。
居間に入ると、魔王は食卓の様子を見て目を細める。
「ええ朝飯やな」
まるで近所の知り合いのような言い方だった。
レイナがぽつりと言う。
「……普通に入ってきましたね」
ダインは腕を組んだまま、無言で魔王を見ている。
ガルドはまだ庭から様子をうかがっていた。
魔王は椅子を一つ引いた。
「座ってええ?」
誰も返事をしていないのに、すでに座っている。
マリナがようやく言った。
「……お茶、いれますか?」
魔王は手を振った。
「いやいや」
「今日はお土産持ってきたんや」
その瞬間だった。
机の上の空間が、ほんのわずかに揺れる。
ぽん。
軽い音がした。
四角い箱が、そこに現れた。
レイナが目を丸くする。
「……え?」
ユウトも机を見ていた。
今、確かに何もなかった場所に箱が現れた。
魔王は箱を指で叩く。
「お土産や」
蓋を開けた。
中に入っていたのは――
ケーキだった。
薄い焼き色の生地が何層にも重なり、その上に白いクリームが滑らかに塗られている。小さく切った果物が彩りを添えていた。
甘い香りが、部屋の中にふわりと広がる。
レイナが思わず言った。
「……これ」
マリナも驚いた顔で覗き込む。
「ケーキ……?」
この世界にも菓子はある。
だが、それは大抵、焼き菓子か砂糖を固めたようなものだ。
こんな菓子は見たことがない。
魔王は満足そうに笑った。
「食べてみ」
レイナが一口食べる。
次の瞬間。
「……!」
目が丸くなる。
「美味しい……!」
マリナも続いた。
一口食べて、思わず息を漏らす。
「すごい……」
柔らかい。
そして甘い。
だが重すぎない。
口の中でほどけるように消える。
今まで食べたことのない甘味だった。
ガルドも庭から家の中に入ってきて、一切れ取る。
しばらく黙って食べてから言った。
「……美味いな」
ダインも同じく口に運ぶ。
咀嚼する。
それから短く言った。
「うむ」
「美味い」
魔王の顔がぱっと明るくなる。
「ほんま?」
身を乗り出す。
「ええやろ」
嬉しそうに笑う。
「ケーキ作り、趣味やねん」
レイナが呟く。
「魔王の趣味がケーキ……」
魔王は満足そうに頷く。
「甘いもんはええで」
「世界平和や」
その時だった。
「あっ」
魔王が思い出したように言う。
「これもあるわ」
再び空間が揺れる。
今度は小さな袋が現れた。
「インスタントコーヒーや」
聞き慣れない言葉だった。
ガルドが首を傾げる。
「インスタント……?」
魔王は袋を軽く振る。
「粉のコーヒーや」
「お湯入れたら飲める」
マリナが驚く。
「こちらにもそんなものがあるんですか?」
魔王は頷いた。
「魔王国産や」
少し得意そうに言う。
「開発、結構大変やったんやで」
ガルドが袋を覗く。
「黒い粉か」
ダインが言う。
「香りは悪くない」
ユウトはその様子を見ていた。
収納。
空間から物を取り出す。
それは自分と同じ能力だ。
だが、扱い方が違う。
あまりにも自然だった。
まるで、長年使い慣れているかのような動きだった。
魔王はそんなユウトを見て笑った。
「どうしたん」
「びっくりしとる顔やな」
ユウトは正直に言った。
「……収納、慣れてますね」
魔王は肩をすくめる。
「そらそうや」
そして言った。
「オッチャンもやねん」
自分の胸を軽く叩く。
「無限収納と完全鑑定」
部屋の空気が、また止まった。
部屋の空気が、もう一度静かに止まった。
無限収納と完全鑑定。
その二つの言葉は、ユウトにとって特別な意味を持つ。
この世界に来て最初に得たスキル。そして、ここまで生き延びてこられた理由の大きな一つでもある。
魔王は、まるで世間話のような口調で言った。
「オッチャンも同じや」
胸を軽く叩く。
「無限収納と完全鑑定の二つ持ち」
レイナが目を見開く。
「……え?」
マリナも言葉を失っている。
ガルドが腕を組んだまま低く言った。
「本当か」
魔王は肩をすくめる。
「嘘ついてもしゃーないやろ」
それからユウトを見る。
「自分」
「オッチャンに収納試してみるか?」
「危ないですよ」
「ええ子やなぁ。大丈夫やからやってみ」
ユウトは少しだけ迷った。
だが、頷く。
魔王の前に立つ。
手を伸ばす。
肩に触れる。
収納を意識する。
だが――
発動しない。
ユウトの眉が少し動いた。
もう一度試す。
やはり反応はない。
「……出来ません」
魔王は楽しそうに笑った。
「そらそうや」
椅子に深く座り直す。
「まだまだ修行不足やな」
嫌味ではない。
むしろ、どこか温かい声だった。
そこで副官が静かに口を開いた。
「昨日」
全員の視線が向く。
「酒場で拝見しました」
その瞬間。
マリナの耳が赤くなる。
レイナが口を押さえる。
ガルドが小さく咳払いをした。
魔王は楽しそうに笑った。
「いやー」
ユウトを見る。
「自分、最高やな」
ユウトは本気で首を傾げている。
「何の話ですか?」
レイナがとうとう笑いをこらえきれなくなる。
「ユウトくん、いつも覚えてないもんね」
「はい」
「……ある意味すごい」
副官は表情を変えない。
「興味深い行動でした」
それだけ言った。
魔王は肩を揺らして笑う。
「まあええ」
そして、少しだけ声を落とした。
「それより」
ユウトを見る。
「自分ら」
「日本から来たんやろ」
空気が変わった。
レイナもマリナも息を止める。
ユウトはゆっくり魔王を見る。
魔王は軽く頷いた。
「オッチャンもや」
「昔な」
ガルドが小さく息を吐いた。
ダインは黙って魔王を見ている。
レイナが恐る恐る聞いた。
「……どれくらい前なんですか?」
魔王は少し考える。
「だいたい、五十年くらいかな」
レイナが思わず声を上げる。
「五十年!?」
魔王は肩をすくめる。
「気づいたら魔王や」
さらっと言った。
その軽さが逆に怖い。
しばらく沈黙が続く。
魔王はふっと笑った。
「まあ」
「そんな難しい話しに来たんちゃう」
ユウトを見る。
「無限収納と完全鑑定の使い方」
「教えたろか?」
ユウトの表情が少し変わる。
同じスキル。
それを長く使ってきた人間。
それ以上の教師はいない。
ガルドが低く言う。
「……考える価値はある」
ダインも頷いた。
「合理的だ」
魔王は楽しそうに笑った。
「やろ?」
懐から紙を取り出す。
さらさらと何かを書いた。
机に置く。
「ここ」
「オッチャンの宿や」
それから椅子から立ち上がる。
「しばらくおるからいつでもおいで」
副官も静かに立つ。
玄関へ向かう。
マリナが声をかけた。
「魔王さん」
魔王が振り返る。
「コーヒー忘れてます」
机の上の袋を指す。
魔王は手を振った。
「ええよ」
笑う。
「先生へのプレゼントや」
マリナが少し驚いた顔をする。
二人はそのまま外へ出た。
扉が閉まる。
静かな朝が戻る。
誰もしばらく言葉を出さなかった。
最初に口を開いたのはレイナだった。
「……今の」
「本当に魔王でしたよね」
ガルドが頷く。
「あの気配」
「あの迫力」
「間違いないだろうな」
ダインも短く言った。
「正直」
「生きた心地がしなかった」
兵として冒険者として長く生きてきた二人の額にはじっとりと汗が滲んでいる。
ユウトはまだ扉を見ていた。
「……なんか」
少し考えて言う。
「普通の人でしたね」
ガルドが苦笑する。
「そう思えるのはお前くらいだ」
朝の空気は、まだ少し冷たかった。
通りには人影もまばらで、開き始めた店から薄く煙が立ち上っている。パンを焼く匂いが、静かな街にゆっくり広がっていた。
魔王は通りを歩きながら、大きく伸びをした。
「いやー」
満足そうに息を吐く。
「ええもん見せてもろたわ」
副官は隣を歩いている。
外套のフードを少し深く被り直した。
「楽しそうでしたね」
「そらそうや」
魔王は笑う。
「久しぶりやで」
「同郷の後輩」
石畳の上に、二人の足音が軽く響く。
少し歩いたところで、副官が口を開いた。
「ところで」
少し間を置く。
「誰がおばちゃんですか」
魔王が横を見る。
副官は真顔だった。
魔王は一瞬きょとんとする。
それから吹き出した。
「怒るん、そこかい」
「そこです」
副官は即答した。
歩く速度は変わらない。
ただ視線だけが魔王に向いている。
魔王は肩をすくめる。
「なあ」
「怖いおばちゃんやろ」
副官の目が細くなる。
「もう一度言いますか?」
魔王は笑いながら手を振る。
「いやいや」
「冗談や冗談」
副官は小さくため息をついた。
そして言う。
「それより」
「本当にいいんですか」
魔王が空を見上げる。
「何が?」
「修行ですよ」
副官は続ける。
「あの子を鍛えるつもりなんですか」
魔王は少し歩きながら考える。
それから肩をすくめた。
「まあな」
「せっかく同じスキルやし」
副官は少し眉を寄せる。
「勇者ではなく?」
魔王は笑った。
「勇者くんはなぁ」
少し手をひらひらさせる。
「真面目すぎる」
「ちょっと硬い」
副官は静かに頷いた。
それは同じ印象と同じだった。
魔王は続ける。
「その点」
少し笑う。
「ああいうアホな子は強いで」
副官が視線を上げる。
魔王は楽しそうに言う。
「酒場で見たやろ」
「酔っ払い勇者」
副官が訂正する。
「勇者ではありません」
魔王はすぐ言う。
「勇者とちゃう」
それから笑う。
「酔っ払い勇者や」
副官は何も言わなかった。
だが口元がほんのわずかに動く。
魔王は続けた。
「でもな」
少し声が低くなる。
「愛は強いんやで」
副官が目を向ける。
魔王は肩をすくめた。
「本人も言うとったやろ」
「愛は無限やって」
副官は小さく息を吐いた。
「確かに」
少し間を置く。
「面白いことは確かですね」
魔王は笑った。
「やろ?」
そして歩きながら言う。
「いやー」
「ほんま」
「おもろい後輩やわ」
朝日が、ゆっくりと街を照らしていく。
魔王と副官の姿は、やがて通りの角を曲がり、静かな街の中へ消えていった。




