第54話 酒場に行くたび人が増えていくんですが、常連たちが完全に商売を始めた件
(本編とは少ししか関係してません)
翌朝。
ユウトはいつも通り、妙にすっきりした顔で目を覚ました。
昨夜はよく眠れた気がする。体も軽い。頭痛もない。口の中もさほど乾いていない。つまり、本人の感覚としてはとても健康的な朝だった。
寝台から起き上がり、軽く肩を回してから部屋を出る。
「おはようございます」
居間にはすでに三人いた。
マリナは卓の上に朝食を並べている。レイナは椅子に座って湯気の立つ椀を覗き込み、ダインはいつも通り静かに杯を手にしていた。
レイナが言う。
「おはようございます、ユウトくん」
マリナも振り向く。
「おはよう、黒崎くん」
ダインは短く頷いた。
「起きたか」
ユウトは何の疑いもなく席に着く。
「よく寝ました」
その一言で、居間に短い沈黙が落ちた。
ユウトは首を傾げる。
「?」
レイナが言った。
「覚えてませんね」
「何をです?」
マリナは何でもない顔でパンを置く。
「別に」
ユウトは少しだけ不思議そうにしたが、すぐに朝食へ意識を向けた。
「いい匂いですね」
レイナが肩をすくめる。
「幸せそうで何よりです」
朝食は普通だった。
焼いたパン。薄く塩を振った卵。残り物の煮込みを温め直したもの。派手ではないが、きちんとした朝食だ。こういう朝の食卓が、借家での生活にもだいぶ馴染んできた。
ユウトはパンをちぎりながら言う。
「昨日は楽しかったですね」
マリナの手が一瞬だけ止まる。
レイナが言う。
「楽しかったのはそうでしょうね」
ダインは無言で煮込みを口に運んだ。
ユウトはまだ首を傾げている。
「?」
「なんかありました?」
マリナが視線を合わせずに答える。
「いろいろあったわ」
「覚えてないんですね」
レイナが付け足す。
「その言い方だと、俺が何かしたみたいじゃないですか」
三人が同時にユウトを見る。
ユウトは少しだけたじろいだ。
「……え、本当に何かしたんですか?」
マリナはパンをちぎる。
「別に」
レイナが言う。
「別に、って便利な言葉ですよね」
ダインが短く言った。
「便利だ」
ユウトは完全に納得していなかったが、それ以上は聞かなかった。聞いたところで曖昧に流されるのは、もう何となく分かっていたからだ。
その時、扉が叩かれた。
こん、こん。
ダインが椅子を引く。
「たぶんガルドだな」
扉を開けると、予想通りガルドが立っていた。
「入るぞ」
「どうぞ」
ガルドは中に入るなり、居間の空気を見て少しだけ眉を動かした。
「食い終わったか」
マリナが頷く。
「ええ、ちょうど今」
ガルドは壁際に立ったまま言った。
「少し話がある」
レイナが首を傾げる。
「どうしました?」
ガルドは一拍置いた。
「酒場の前に看板が出てた」
少し沈黙。
レイナが言う。
「……看板?」
ダインが視線を上げる。
「なんて書いてあった」
ガルドは淡々と答えた。
「本日の公演」
マリナが顔を上げた。
「やめて」
レイナが吹き出す。
「はやっ」
ユウトだけが本気で意味が分からない顔をしていた。
「?」
「何の公演です?」
ガルドがユウトを見る。
「お前が聞くな」
「えっ」
レイナは肩を震わせながら言う。
「ちょっと見に行きません?」
マリナ
「行かない」
ダイン
「見には行くか」
マリナが振り向く。
「ダインさん?」
「確認は必要だ」
ガルドも頷いた。
「放っておくと余計なことを始める」
レイナがにやにやしている。
「もう始まってる気がしますけど」
ユウトは本当に事情を呑み込めていない。
「だから何の話なんですか」
マリナが立ち上がりながら言った。
「行けば分かるわよ」
そう言った時点で、少なくとも平穏な一日にはならないことだけは、もう誰の目にも明らかだった。
⸻
昼前の街は、昨日の夕方とはまた違う賑わいがある。
露店が並び、商人の声が飛び、荷車が行き交う。交易都市らしく、人の流れは絶えない。ユウトたち四人とガルドが酒場の方へ向かって歩いていると、やはり今日も妙な反応が返ってきた。
「あ」
通りの向こうから、パンを抱えた男がユウトたちを見つけて足を止める。
「今日はやるのか?」
ユウトが言う。
「え?」
レイナが即座に返す。
「やりません」
男は本気で残念そうだった。
「そうか……」
また別の場所。
八百屋の前のおばさんが言う。
「先生いるわね」
「じゃあ安心ね」
マリナ
「何がですか」
おばさんは笑うだけだ。
「もう街の楽しみになってるのよ」
マリナは答えずに足を速めた。
ユウトは横を歩きながら聞く。
「先生、何の話です?」
「あとで分かるわ」
「またそれですか」
レイナが小声で言う。
「街の人、完全に期待してますね」
ダインが頷く。
「昨日見た連中が広めたな」
ガルド
「店主もだろう」
少し歩くと、今度は見覚えのある常連が向こうからやってきた。
酒場の常連だ。
こちらを見るなり顔を輝かせた。
「おっ!」
「今日は早いな!」
レイナがぴたりと足を止める。
「いや、まだ行くと決まったわけじゃ」
常連はそんな言葉など聞いていない。
「店主に言ってくる!」
走っていった。
レイナが頭を抱える。
「最悪だ」
ユウト
「だから何なんですか……」
マリナは深く息を吐く。
「黒崎くん」
「はい」
「今日は絶対に飲まないで」
「そんなにですか?」
四人が同時に言った。
「そんなに」
ユウトは少しだけ引いた。
「……俺、何したんだろう」
⸻
酒場の前に着くと、そこには本当に看板が立っていた。
入口の横。かなり見やすい位置。小さな黒板に白い字で、店主らしい癖のある文字が書かれている。
本日も公演予定
恋愛相談付き
先生席完備
レイナが指差す。
「なんですかこれ!」
店主がちょうど中から顔を出した。
「おっ、来たか」
マリナが言う。
「ちょっと何これ」
店主は悪びれもせず答える。
「宣伝だ」
ガルドが低く言う。
「宣伝するな」
店主
「いや、昨日の売上すごかったからな」
奥から常連が顔を出す。
「立ち見も出たしな」
「恋愛相談の予約まで入ったぞ」
ユウトが本気で困惑した顔になった。
「予約?」
レイナが指をさした。
「ほら、やっぱり分かってなかった」
マリナが額を押さえる。
「当たり前でしょ。本人は何も覚えてないんだから」
店主は看板を軽く叩いた。
「今日は昨日より早めに客が集まりそうだ」
ダインが言う。
「もう商売だな」
ガルドも言う。
「完全に始めてる」
店主は誇らしげだった。
「小さくても、愛と笑いに満ちた店を作るのが夢なんだよ」
レイナが一瞬黙る。
「……」
「思ったより崇高な目的だった」
ダインが小さく頷く。
「確かに、愛と笑いには満ちてるな」
ガルドは看板を見る。
「最近は満ちすぎてる」
店主は胸を張った。
「立ち見も出た」
レイナが遠い目をした。
「原因ほぼ一人ですよね」
ユウトだけがまだ話についていけていない。
「?」
「俺、何なんですか?」
常連が肩を叩く。
「大丈夫だ」
「お前は今、この街で一番面白い」
ユウト
「大丈夫じゃない気がするんですけど」
⸻
結局、そのまま店に入ることになった。
入った瞬間、昨日より明らかに多い視線が向いてくる。
「あ、来た」
「先生もいる」
「今日は早いぞ」
「席空けろ」
店主が手際よく案内する。
「先生席こっち」
マリナ
「その言い方やめて」
だが席の配置はもう完全に固定されていた。
マリナ
ユウト
ダイン
向かいに
レイナ
ガルド
周囲の常連たちは、微妙に距離を取りつつも、見やすい位置へ移動していく。
ユウトが小声で聞く。
「なんで先生の隣が固定なんですか?」
レイナが言う。
「一番安全だからです」
「何に対してです?」
「街に対してです」
ユウトはますます混乱した。
料理が運ばれてくる。
今日は昼なので、軽めの食事だ。肉の挟まったパン、薄いスープ、芋の焼いたもの。酒場だが昼の顔という感じだった。
最初の数分は本当に平和だった。
ユウトがパンを食べる。
レイナが芋をつつく。
ガルドがスープを飲む。
ダインが静かに食べる。
マリナは周囲の視線を気にしつつも、何とか平静を装っている。
だが、その平和は店主が当然のように酒瓶を卓上へ置いた瞬間に終わる。
「まあ、まずは一杯だな」
空気が変わる。
酒場中が、じわ、と静かになる。
ユウトが言う。
「ありがとうございます」
レイナが即座に手を伸ばした。
「待ってください」
店主
「なんだ?」
「なんだ、じゃないです」
ガルドも低く言う。
「今日はやめておけ」
ダイン
「飲むな」
マリナも真面目な顔だった。
「黒崎くん、本当にやめて」
ユウトは四人の顔を見回した。
「……そんなに?」
四人が同時に頷く。
「そんなに」
しばし沈黙。
ユウトは真剣に考える。
酒場中が見守っていた。
常連の一人が小声で言う。
「飲むな」
別の常連も頷く。
「今日は俺が標的になりそうなんだよ」
「俺もだ」
店主が言う。
「でもちょっと見たいな」
レイナが即座に返す。
「本音出てますよ」
ユウトは酒瓶と四人の顔を交互に見た。
「……」
「そんなに危ないなら」
四人の視線が集まる。
「やめておきます」
その瞬間。
酒場中から本気の落胆の声が漏れた。
「ええーっ!」
「そこは飲めよ!」
「なんでだよ!」
レイナが呆れたように言う。
「なんで客の方が残念がってるんですか」
ユウトは少しだけ胸を張った。
「学習しました」
マリナが言う。
「偉い」
ダインも頷く。
「正しい」
ガルド
「それでいい」
店主は看板を見た。
「……困るな」
レイナ
「困るな、じゃないです」
常連が頭を抱える。
「恋愛相談料でも取ろうと思ってたのに」
レイナ
「取るな」
しばらくの沈黙のあと。
ユウトは少しだけ困った顔で言った。
「そんなに期待されると逆に飲みにくいんですけど」
その時だった。
奥の席から、見知らぬ男が立ち上がった。
「あの」
全員がそちらを見る。
男は緊張した顔で言った。
「昨日、ここで」
「酔った冒険者が、恋愛の相談に乗ってくれるって聞いて……」
酒場中がざわつく。
店主がゆっくりユウトを見る。
常連たちも見る。
レイナが言う。
「来た」
ユウトは指を自分に向けた。
「俺ですか?」
男は真剣だった。
「はい」
「好きな相手がいるんですけど」
「どう言えばいいのか分からなくて」
ユウトは少しだけ考えた。
酔っていない。
当然だ。
だが、答えた。
「好きなら、好きって言えばいいんじゃないですか」
酒場が静まり返る。
男も固まる。
「えっ」
ユウトは本気で不思議そうだった。
「いや、だって好きなんですよね?」
「はい」
「じゃあ言った方がよくないですか?」
男はさらに固まる。
常連の一人が呟いた。
「……しらふでも方向性は同じなんだな」
ダイン
「芯がある」
ガルド
「ぶれないな」
レイナが吹き出した。
「ユウトくん、そこだけは一貫してますね」
マリナも少しだけ口元を押さえる。
男は真剣に悩み始めた。
「で、でも」
「嫌われたら」
ユウトは首を傾げた。
「言わないまま終わるより、いいんじゃないですか?」
店主が腕を組む。
「……」
「酔ってなくても成立するな」
常連も頷く。
「まさかの通常営業」
レイナが言う。
「いや、公演じゃないですからね」
男は深く頭を下げた。
「ありがとうございます!」
その勢いで、別の席の女が立ち上がる。
「じゃあ私も!」
レイナ
「いや、並ぶな」
だが止まらない。
「夫が最近何考えてるか分からなくて」
「娘が言うこと聞かなくて」
「告白ってどうすればいい」
あっという間に卓の周りに人が集まり始めた。
ユウトは本気で困惑していた。
「えっ」
「なんでですか?」
店主が満足そうに頷く。
「方向性は正しかったな」
ガルド
「何がだ」
「恋愛相談付きってやつだ」
レイナが頭を抱える。
「冗談だったのに」
ダインは静かに言う。
「現実になったな」
マリナはユウトを見る。
ユウトは本気で戸惑っていたが、それでも一人一人の話を聞いていた。
そして出てくる答えは、驚くほど単純だった。
「ちゃんと話した方がいいと思います」
「好きなら言えばいいんじゃないですか」
「寂しいなら寂しいって言った方がいいです」
「相手も多分分かってないですよ」
どれもこれも、凝ったことは何一つ言っていない。
だが、不思議と真っ直ぐだった。
常連が小さく言う。
「だから刺さるんだよな……」
別の常連も頷く。
「妙に」
レイナがマリナを見る。
「先生」
「なによ」
「ユウトくん、しらふでもだいぶ危ないですね」
マリナは少し考えてから言った。
「……そうね」
ほんの少しだけ、嬉しそうだった。
レイナはもちろん見逃さない。
「先生、今ちょっと嬉しかったでしょ」
「うるさい」
店主がその様子を見て、静かに黒板をひっくり返した。
裏面には新しく書き足された文字がある。
本日も営業中
公演ではありません
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レイナ
「結局営業してるじゃないですか!」
店主
「看板は大事だ」
ガルドが低く言う。
「護衛依頼減るぞ」
店主は真顔だった。
「いや、店主から週に三回は来てくれと頼みたいくらいだ」
レイナが思わず振り向く。
「週三は多いでしょう」
ダインが言う。
「だが俺たちクラスになると」
「護衛なら最低五日。往復で十日はないと報酬的に厳しい」
レイナ
「店主さんには悪いけど、週三は断りましょう」
その時、ユウトがこちらを振り返った。
「先生」
マリナがびくっとする。
「な、なに?」
ユウトは真面目に言った。
「先生、相談受けるの上手いですね」
酒場が一瞬静まる。
マリナ
「え?」
ユウトは続けた。
「さっき横で聞いてくれてたじゃないですか」
「やっぱり先生はすごいなって」
それは、酒も入っていない、しらふの言葉だった。
だからこそ余計に効いた。
マリナの耳がじわりと赤くなる。
レイナが小さく言う。
「先生」
「今のは普通に嬉しいやつですよ」
マリナ
「うるさい」
店主がぽつりと言った。
「……これはこれで売れるな」
レイナ
「商売にするな」
結局、その日はユウトは一滴も酒を飲まなかった。
なのに酒場は妙に盛り上がり、常連たちは帰る頃には口々に言っていた。
「今日はしらふ回だったな」
「でも面白かった」
「次は飲んだ版も見たい」
レイナがため息をつく。
「完全にシリーズ化してる」
店主は黒板を抱えながら言った。
「次は看板を二枚にするか」
常連が頷く。
「ナイスアイデア」
ガルドは何も言わなかった。
ダインも何も言わなかった。
ただ、二人とも、これはもう止まらないかもしれないと思っていた。
そしてユウトだけが、最後まで本気で分かっていなかった。
「……俺、なんでこんなに声かけられるんだろう」
レイナが答える。
「自覚してませんね」
それだけは、誰も否定できなかった。




