第52話 仲間内の隠語を決めておいた件
翌朝。
ユウトはいつも通り、妙にすっきりした顔で目を覚ました。
窓から差し込む朝の光は明るく、借家の中には朝食の匂いが広がっている。寝台から起き上がり、軽く首を回してから、ユウトは何の疑いもなく部屋を出た。
「おはようございます」
居間では、マリナが皿を並べていた。レイナはすでに席についていて、ダインは湯気の立つ杯を手にしている。
レイナが言う。
「おはようございます、ユウトくん」
マリナも振り向く。
「おはよう、黒崎くん」
ダインは短く頷いた。
「起きたか」
ユウトは普通に椅子へ座った。
「よく寝ました」
その一言で、居間に短い沈黙が落ちた。
レイナが言う。
「覚えてませんね」
ユウトは首を傾げる。
「?」
「何をです?」
マリナは何でもない顔で椀を置いた。
「別に」
ユウトは一瞬だけ不思議そうな顔をしたが、すぐに朝食へ意識を向ける。
「いい匂いですね」
レイナが肩をすくめた。
「幸せそうで何よりです」
朝食は普通だった。
焼いたパン。薄く塩を振った卵。残り物の煮込みを温め直したもの。派手ではないが、きちんとした朝食だ。食べながら昨日の討伐の話が少しだけ出たが、酒場の後半については誰も詳しく触れなかった。触れても意味がないと全員知っているからだ。
ユウトはパンをちぎりながら言う。
「昨日はいい仕事でしたね」
ダインが頷く。
「上々だ」
レイナも笑う。
「実入りもよかったですしね」
マリナが言う。
「無駄遣いしないでよ、黒崎くん」
「しませんよ」
ユウトは即答した。
そこへ、扉を叩く音がした。
こん、こん。
ダインが椅子を引く。
「ガルドだな」
扉を開けると、予想通りガルドが立っていた。朝食の時間を外して来ているあたりが、いかにもガルドらしい。
「入るぞ」
「どうぞ」
ガルドは中に入り、居間を見回した。
「食い終わったか」
マリナが頷く。
「ええ、ちょうど今」
ガルドはそのまま壁際に立った。
「ギルド行くぞ」
ユウトが聞く。
「依頼ですか?」
「まずは掲示板だな」
ダインが言う。
「見てから決める」
ガルドは短く続けた。
「今日は軽く流す」
「昨日の今日だ」
その言い方にレイナが少し笑う。
「たしかに軽めがいいですね」
ユウトだけが、やや不思議そうだった。
「昨日そんなに何かありました?」
レイナが答える。
「いろいろありました」
「?」
それ以上は誰も説明しなかった。
⸻
共和国の冒険者ギルドは、朝からすでに人が多かった。
討伐帰りの者、これから依頼を探す者、護衛の打ち合わせをしている商人。相変わらず雑多で、騒がしく、仕事の匂いがする場所だ。
五人は掲示板の前に立つ。
紙の束を見上げながら、ユウトは言った。
「昨日ので少し分かりましたけど、やっぱり討伐依頼って結構多いですね」
ダインが言う。
「討伐は絶えない」
ガルドも頷く。
「畑荒らしもな」
マリナが依頼書を目で追いながら言う。
「今日も似たようなのが多いわね」
レイナがある紙を見つける。
「これ、街道沿いの護衛ですね」
ガルドが横から覗き込んだ。
「距離のわりに安いな」
ダインも言う。
「五人向きじゃない」
別の紙へ目を移す。
採取依頼。近場。報酬は悪くないが、量が多い。
その時、背後で別の冒険者が仲間に話しているのが聞こえた。
「荷車一台分だぞ」
「運び手がいないと無理だろ」
その言葉に、ガルドが何気なく言った。
「ユウトは手がデカいからな」
ユウトは反射的に振り向いた。
「手?」
ガルドはそれ以上何も言わず、依頼書を見たままだった。ただ、一瞬だけこちらを見た視線に何か含みがある。
……手。
ユウトは少し考える。
収納スキルのことか?
たしかに運搬の話ならそうなる。そう思ったが、はっきりとは分からない。今この場で詳しく聞くのも少し憚られた。
掲示板の周りには人が多い。ギルドの中で、スキルの話を大っぴらにするのは避けた方がいい。それくらいはユウトにも分かる。
ダインが別の依頼書を見ながら言った。
「今日は見送りでいい」
ガルドも異論はなかった。
「昨日の分もある」
「無理に詰める必要はない」
レイナが言う。
「じゃあ今日は軽く見て終わりですか」
マリナが頷く。
「そうね」
ユウトは一度だけもう掲示板を見た。
それから、さっきの「手」という言葉が妙に頭に残った。
⸻
借家へ戻る頃には、日も少し高くなっていた。
朝ほどではないが、住宅区の通りはまだ静かだ。借家に入ると、ようやく人目を気にせず話せる空気になる。
ユウトは扉が閉まるのを待ってから口を開いた。
「ガルドさん」
ガルドが振り向く。
「なんだ」
「さっきの“手がデカい”って、収納スキルのことですよね」
ガルドは短く頷いた。
「ああ」
「いきなりですまなかったな」
「人がいたんでな」
ダインが腕を組む。
「仲間や自分のスキルは、あまり知られたくない」
「そういう時のために仲間内では符牒というか、隠語を決めておくことが多い」
少し間を置いて続ける。
「もっとも」
「さっきのは急だったからな」
「俺も最初は何のことか分からなかった」
ユウトは少しだけ肩の力を抜いた。
「俺だけじゃなかったんですね」
ガルドが言う。
「普通は初めて聞けば分からん」
それから居間の椅子に腰を下ろし、淡々と続けた。
「本当はもっと早く決めるもんなんだが」
ダインも頷く。
「そろそろ決めようとは思ってたんだが」
「何故か忘れるんだ」
ガルドとダインが同時にユウトを見る。
ユウトは首を傾げる。
「?」
レイナがため息をついた。
「ユウトくん」
「自覚してませんね」
「え?」
レイナは指を折りながら説明し始めた。
「依頼が終わる」
「そのあと飲みに行く」
「そこで“まあそのうち決めるか”くらいにはなる」
マリナが続ける。
「黒崎くんが飲む」
ダインが言う。
「始まる」
ガルドが締めた。
「翌朝、全部忘れてる」
少し沈黙。
ユウトは本気で考え込んだ。
「……ん?」
レイナが言う。
「その“ん?”を何回か見ました」
マリナは椅子へ座り直しながら言った。
「だから今日やるのが一番いいのよ」
ユウトは小さく咳払いした。
「……えっと、よろしくお願いします」
⸻
話はガルドが主導し、ダインが補足する形で進んだ。
「まずユウトだ」
ガルドが言う。
「収納は“手”でいいだろ」
「手がデカい、手が広い、その辺りで通じる」
ユウトは頷く。
「分かりやすいですね」
レイナが笑う。
「からかう時は“ユウトくんは手が早いから”とかですね」
ユウトがすぐに言う。
「それ絶対違う意味になりますよね」
「なりますね」
レイナは即答した。
ダインが次を言う。
「鑑定は“目”だな」
「目がいい、目を凝らしてる」
ユウトが少し考える。
「それだと、あまり目立たないですね」
ガルドが頷いた。
「それがいい」
「分かりやすすぎても意味がない」
ダインも続ける。
「だが分かりにくすぎても意味がない」
マリナが言う。
「そのくらいがちょうどいいのね」
「そうだ」
次はマリナだった。
ガルドが言う。
「先生のは、そのままでいい」
「指導は“教え”」
「戦術は“指示”」
ダインが補足する。
「先生、教えてくれ」
「先生、指示を出してくれ」
マリナは少しだけ考えてから頷いた。
「それなら不自然じゃないわね」
レイナも言う。
「先生っぽいです」
マリナがレイナを見る。
「どういう意味?」
「そのままの意味です」
レイナは笑った。
次はレイナ。
ここで少しだけ間が空く。
ダインが言う。
「レイナは、水は水でいい」
「それで充分通る」
ガルドも頷いた。
「回復は“診る”でいいだろ」
「レイナ、診られるか、で通じる」
レイナは素直に頷いた。
「それなら分かりやすいですね」
ユウトが言う。
「たしかに」
ダインはそこで一度全員を見渡した。
「全部を無理に隠語にする必要はない」
「周りに人がいる時だけ使えばいい」
ガルドも言う。
「普段は普通に話せ」
「隠語まみれだと、自分たちが困る」
マリナが頷いた。
「その方が自然ね」
ユウトも納得した。
「たしかに、普段まで変にすると分かりにくいです」
レイナが言う。
「必要な時だけってことですね」
「そうだ」
ダインの答えは短かった。
⸻
少しだけ、その場で試すことになった。
ガルドがユウトを見る。
「ユウト、手はどれくらい空いてる」
ユウトはすぐに意味を理解した。
「まだ大丈夫です」
ダインが続ける。
「目はどうだ」
「外なら百くらいまではすぐ見えます」
レイナが楽しそうに言う。
「先生、指示どうします?」
マリナも少しだけ笑った。
「そうね。まず黒崎くんの目で確認して、必要ならレイナが水。そんな感じかしら」
ガルドが頷く。
「悪くない」
ダインも短く言った。
「通じるな」
ユウトは少しだけ感心した。
確かにこれは便利だ。
周囲に人がいる場所で、収納だの鑑定だのをそのまま口にするのは避けたい。だが、あまりにも分かりにくい符牒では、自分たちの方が使いにくい。そのちょうど中間くらいに、今の言葉は収まっていた。
レイナが椅子にもたれながら言う。
「なんか、ちょっと冒険者っぽいですね」
ダインが即座に返す。
「ちょっとじゃない」
「冒険者だ」
レイナは一瞬だけ目を丸くし、すぐに笑った。
「あっ、そっか」
ガルドも短く笑う。
「まあ、そういうことだ」
⸻
話が一段落すると、借家の空気も少しだけ緩んだ。
ユウトは何となく手元の杯を見た。
昨日のことはやはりほとんど覚えていない。だが、今こうして話していると、パーティとして一歩進んだような感覚はあった。
冒険者の仕事は、魔物を倒すことだけではない。
荷物を運ぶこと。依頼を選ぶこと。金を分けること。危険を隠すこと。余計な情報を漏らさないこと。そういう細かい知恵の積み重ねで、生き残る確率が少しずつ上がっていくのだろう。
ガルドが立ち上がる。
「じゃあ俺は戻る」
ダインも言う。
「俺は少し盾を見る」
マリナは銀貨の入った袋を手元に寄せた。
「パーティ資金、ちゃんと分けておくわ」
レイナが言う。
「お願いします、先生」
ユウトも頷く。
「お願いします」
ガルドは扉のところで振り返った。
「周りに人がいる時は使え」
「それ以外は普通でいい」
「はい」
四人の返事が重なった。
ガルドはそのまま外へ出て行く。
扉が閉まる。
しばらくして、レイナが小さく笑った。
「でも、昨日よりはだいぶ冒険者っぽいですよ」
ユウトが聞き返す。
「昨日より?」
レイナはにっこり笑う。
「なんでもないです」
マリナが銀貨を袋へ分けながら言った。
「黒崎くん」
「はい?」
「今日は飲まないでよ」
ユウトは真面目な顔で頷いた。
「もちろんです」
レイナとダインが同時にユウトを見た。
ユウトは少しだけ首を傾げる。
「……なんです?」
レイナが言う。
「自覚してませんね」
ダインは何も言わなかったが、その沈黙が一番答えに近かった。
それでも、借家の中には少しだけ穏やかな空気が流れていた。
昨日の騒ぎも、今日決めた隠語も、全部ひっくるめて、これが今の自分たちの生活なのだ。
ユウトはそう思いながら、何となく自分の右手を見た。
手。
目。
教え。
指示。
言葉ひとつ増えただけなのに、少しだけ世界が広がった気がした。
冒険者の暮らしは、思っていたよりずっと地味で、思っていたよりずっと面白い。




