第48話 借家祝いで酒場に行ったらなぜか見物人が集まっていた件
借家での準備が一通り終わった頃には、外はもう夕方だった。
窓から差し込む光は柔らかく、部屋の中を橙色に染めている。
最低限とはいえ、寝具もある。
鍋も食器もある。
テーブルと椅子もある。
宿屋の一室とは違う、ちゃんと暮らせる空間だった。
レイナが椅子に座ったまま、大きく息を吐く。
「やっぱり家があると落ち着きますね」
マリナも頷いた。
「ええ。宿屋よりずっといいわ」
ユウトは窓の外を見ながら言う。
「静かですね」
確かにそうだった。
宿屋は便利だが、人の出入りが多い。
夜中まで騒いでいる客もいるし、朝は朝で早くから動く旅人もいる。
その点、この家は落ち着いている。
隣にはガルドの家がある。
何かあればすぐに頼れるし、住宅区の中でも比較的静かな一角だ。
ダインが壁にもたれながら言った。
「拠点は必要だ」
ガルドも頷く。
「その通りだ」
「戻る場所があるだけで違う」
ユウトはその言葉に素直に頷いた。
冒険者という仕事は、外で過ごすことも多い。
森、街道、野営地。
だが、帰る場所があるというのは思っていた以上に安心できるものらしい。
しばらく静かな時間が流れたあと、ユウトが言った。
「じゃあ」
レイナが顔を上げる。
「?」
ユウトは少しだけ笑った。
「お祝いしましょう」
レイナがぱっと明るくなる。
「いいですね!」
マリナも小さく笑う。
「そうね」
ダインは腕を組んだまま言った。
「食事くらいならな」
ガルドも頷く。
「知り合いの店がある」
「そこに行くか」
ユウトは素直に立ち上がった。
「行きましょう」
その時、レイナとマリナ、それからダインとガルドが一瞬だけ顔を見合わせた。
ユウトだけが気づいていない。
⸻
夕暮れの街を歩く。
住宅区から少し外れた先に、その酒場はあった。
木造の二階建て。
表の看板は年季が入っているが、店の前はよく掃除されている。
ガルドが扉を開ける。
「邪魔する」
中はすでに賑わっていた。
酒を飲む冒険者。
食事をする商人。
奥では常連らしい男たちが笑っている。
カウンターの向こうにいた店主が、ガルドを見るなり片眉を上げた。
「ガルドか」
「ご無沙汰だな」
ガルド
「少し世話になる」
店主はユウトたちへ視線を移した。
そしてユウトの顔を見て、すぐに言った。
「今日は飲むのか?」
ユウト
「?」
その隣でレイナが即答した。
「飲みません」
店主は露骨に残念そうな顔をした。
「なんだ」
「残念だな」
ユウトは本気で意味が分からず、首を傾げる。
「何がです?」
ガルドが短く言う。
「気にするな」
だが、店の奥の席にいた常連たちはもうこちらに気付いていた。
「あ」
「来たぞ」
「ユウトだ」
「先生もいる」
ざわ、と空気が少し揺れる。
ユウトはますます分からない。
「……?」
レイナが小声で言った。
「もう完全に有名人ですね」
マリナは顔をしかめる。
「嬉しくないわ」
店主が空いている席を指した。
「そっち使え」
その席は、なぜか店の真ん中から少し外れた、壁際の一角だった。
妙に広めに空いている。
一行が近づくと、近くの席にいた常連の一人が言った。
「先生、そこ」
マリナ
「え?」
「隣、そこな」
「そこに座ってくれ」
マリナは露骨に嫌そうな顔をした。
「なんで私が」
別の常連が当然のように答える。
「先生が隣なら被害が少ない」
酒場のあちこちで笑いが起きる。
ユウト
「?」
「何の話です?」
レイナが平然と言った。
「はい先生」
「どうぞ」
「ちょっとレイナ!?」
ダインはすでに半分諦めた顔で椅子を引いている。
ガルドも特に止めなかった。
店主が腕を組みながら言う。
「その席が一番平和だ」
ユウトだけがまだ理解していなかった。
「?」
「だから何の話です?」
マリナは深く息を吐いてから、渋々その席に座った。
その隣にユウトが座る。
ユウトの反対側にはダイン。
向かいにレイナとガルド。
完璧に配置されていた。
ユウトは小声で言う。
「なんか、おかしくないですか?」
レイナがにっこり笑う。
「気のせいです」
⸻
料理はすぐに運ばれてきた。
焼いた肉。
豆と野菜の煮込み。
固めのパン。
香草の効いたスープ。
借家祝いとしては十分すぎる。
ユウトは素直に笑った。
「うまそうですね」
レイナ
「こういうの好きです」
ガルドが言う。
「この店は料理がまともだ」
店主が鼻を鳴らした。
「酒場でそこを褒められるのは悪くないな」
食事は普通に始まった。
最初のうちは本当に普通だった。
護衛依頼の話。
借家の話。
街道の話。
レイナがスープを飲みながら言う。
「でも、ガルドさんの隣で暮らせるのは安心ですね」
ガルド
「何かあれば隣だ」
マリナも頷く。
「助かるわ」
ユウトは肉を食べながら言った。
「娘さん元気そうでしたね」
ガルドの表情が少しだけ和らぐ。
「ああ」
「おかげでな」
その空気は悪くなかった。
本当に、ただの食事会になるはずだった。
はずだったのだが。
店主が当然のように、卓上へ酒瓶と杯を置いた。
「祝いならこれだ」
その瞬間、空気が変わる。
レイナの手が止まる。
マリナが店主を見る。
ダインが無言になる。
ガルドがゆっくりと酒瓶を見る。
ユウトだけが普通に言った。
「ありがとうございます」
レイナ
「ちょっと待ってください」
店主
「なんだ?」
レイナ
「なんだ、じゃないです」
ガルドが店主を見た。
「分かってて置いたな」
店主は悪びれずに笑う。
「祝いだろ」
「一杯くらい飲むかと思ってな」
常連たちも、さりげなくこちらを見ている。
見ているというより――
待っている。
ユウトは本当に何も分からない顔で酒瓶を見た。
「……?」
マリナが低い声で言う。
「黒崎くん」
「だめよ」
ユウト
「え?」
ダイン
「飲むな」
ガルド
「やめておけ」
レイナ
「本当にやめてください」
ユウト
「?」
「なんでです?」
全員が一瞬黙った。
店主がカウンターの向こうで笑う。
「やっぱ覚えてねえのか」
ユウト
「何をです?」
レイナがこめかみを押さえた。
マリナが言う。
「……一杯だけよ」
「ちょっと先生!?」
マリナは肩を落とした。
「どうせ誰かが飲ませるでしょ」
それは否定しにくかった。
常連の一人が言う。
「先生話が早い」
「うるさい」
マリナは即座に返した。
ユウトはまだよく分かっていないまま、杯に酒を注いだ。
とく、とく、と澄んだ音がする。
酒場のざわめきが少し静まる。
何人かが椅子を引いて、見やすい位置に座り直していた。
ユウトはそれを見て、ようやく少しだけ不安になった。
「……なんですか?」
レイナがにこりと笑う。
「なんでもないです」
ユウトは疑わしそうな顔をしながらも、とりあえず一口飲んだ。
「……」
二口目を飲んだ。
数秒。
それからユウトは、ゆっくりとマリナの方を向いた。
目が座っているわけではない。
むしろ妙に真剣だった。
マリナが身構える。
「……なに?」
ユウトはじっと見つめた。
それから、真顔で言った。
「先生」
「はい?」
「先生、愛してます」
酒場が一瞬、完全に静まり返った。
マリナの顔が一気に赤くなる。
「なっ……」
「な、な、な、なに言ってるのよ!?」
レイナが口を押さえ、肩を震わせている。
常連の一人が小声で言った。
「始まった」
別の常連が頷く。
「今日は早いな」
ユウトは真剣なままだった。
酔っているというより、本気で告白している顔だった。
「俺の愛は決して傷付く事も失われることもありません」
酒場の空気がさらにざわつく。
「おお……」
「来たぞ」
ユウトは胸を張った。
「増える一方です!」
次の瞬間、酒場中が大爆笑した。
店主は腹を抱えて笑っている。
常連たちは机を叩いている。
レイナはもう笑いを隠せていない。
ダインは片手で顔を覆った。
ガルドは腕を組んだまま、深くため息をつく。
マリナだけが真っ赤だった。
「ちょっと!」
「なんでそんなこと大声で言うのよ!」
ユウトはそのまま、がっちりとマリナに抱きついた。
マリナ
「ちょ、ちょっと!」
ユウト
「先生」
「落ち着きます」
常連たちが頷く。
「出た」
「抱きつき」
「先生席、正解だな」
マリナは本気で困っていたが、もう引き剥がす気力はないらしい。
「……はいはい」
「分かったから」
その言葉にユウトは満足そうに頷いた。
「先生、優しいです」
レイナが横で言う。
「先生、もう完全に慣れましたね」
「慣れてないわよ!」
「でも受け入れてますよね」
「受け入れてない!」
説得力はなかった。
ユウトはさらに顔を寄せて言った。
「先生」
「いい匂いします」
「やめなさい!」
酒場、再び爆笑。
店主がカウンター越しに言う。
「やっぱり面白いなあ」
ガルドが睨む。
「見せ物じゃない」
店主は笑う。
「半分そうなってるだろ」
ダインがぼそっと言った。
「否定しにくいな」
ユウトは抱きついたまま、ふとガルドの方を見る。
「ガルドさん」
「なんだ」
「奥さんとラブラブでとってもグッドです」
常連たちがまた笑う。
「また言った!」
「定番だな!」
ガルドは眉間を押さえた。
「うるさい。黙れ」
それでも酒場の笑いは止まらない。
ユウトは続ける。
「娘さんも大事にしてて」
「いい家族です」
「とてもグッドです」
店主が言う。
「ガルド、お前愛されてるな」
「黙れ」
ガルドの顔は少しだけ赤かった。
ダインが低く言う。
「事実ではある」
「お前まで言うな」
ユウトは満足したように頷き、それからまたマリナを見る。
「先生」
「はい……」
「愛は増えるんですよ」
「もう分かったから黙りなさい!」
マリナは顔を真っ赤にしながら怒鳴ったが、ユウトは全く気にしていなかった。
むしろ少し嬉しそうだった。
レイナが常連たちに向かって言う。
「見たでしょう?」
「先生が隣なら平和なんです」
常連の一人が真顔で頷く。
「確かに被害は最小限だな」
店主
「先生すげぇな」
別の常連
「あの人すげぇ」
マリナ
「聞こえてるわよ!」
ユウトはその言葉にも反応せず、マリナの肩に頭を預けたまま言った。
「先生」
「好きです」
今度は小さな声だった。
けれど、その方が余計に効いた。
マリナは完全に言葉を失う。
レイナがにやにやしている。
ダインは目を逸らした。
ガルドだけが真面目に言った。
「……帰るか」
「そうですね」
レイナも頷く。
「これ以上飲ませると本当に危険です」
店主が笑う。
「もう十分だろ」
「今日は当たりだった」
ガルドは立ち上がる。
「勘弁しろ」
会計を済ませ、店を出る。
ユウトは当然のようにマリナに抱きついたままだった。
「黒崎くん、離れなさい」
「先生」
「落ち着きます」
「それしか言えないの!?」
レイナは隣で笑っている。
「先生、諦めてください」
「簡単に言うわね!」
夜の街を歩く。
すでに何人かがこちらを見ていた。
「あれ、またか」
「先生連れなら大丈夫だ」
「今日は飲んだんだな」
一部住人にもすっかり認識されているらしい。
ユウトはそれにも気づかず、ひたすら満足そうだった。
「先生」
「愛は増えるんですよ」
「もういいから黙って歩きなさい!」
借家に戻る頃には、マリナは心底疲れた顔をしていた。
ユウトはようやく寝台に転がされ、そのまま数秒で寝息を立てた。
レイナが言う。
「すごいですね」
ダイン
「切り替わりが早い」
ガルドは肩をすくめた。
「だから危険なんだ」
マリナは顔を押さえたまま椅子に座り込む。
「……もう、ほんとに」
レイナが覗き込む。
「先生」
「はい」
「愛は増えるらしいですよ」
「うるさい」
それでも、どこか少しだけ困ったように笑っていた。
⸻
翌朝。
ユウトはすっきりした顔で目を覚ました。
「……よく寝ました」
マリナ、レイナ、ダイン、ガルドが揃って無言で見ている。
ユウトはきょとんとした。
「?」
「どうしたんですか」
レイナが言う。
「覚えてないんですね」
ユウト
「?」
「何をです?」
マリナは深くため息をついた。
ダインは黙って水を飲んでいる。
ガルドは窓の外を見た。
ユウトだけが、本気で分かっていなかった。
そして、しばらくしてから、何も知らない顔で言った。
「昨日のお酒、美味しかったですね」
全員が同時に顔をしかめた。
新しい借家での最初の夜は、こうして予想通り大騒ぎになったのだった。




